2015年5月24日日曜日

シオジの育つ沢



シオジ・・・ご存知でしょうか   

シオジの育つ沢


 この名前、あまり知られていないかと思います。
山あいの渓流に育つ、すらりとした大木です。
澄んだ水の流れる渓流沿いの林・渓畔林(けいはんりん)を構成する木のひとつ。
・・・・そんなこと言われてもなにやらよくわかりませんよね。
 
新緑や夏のころ、この木の育つ場所に行くと、水の流れる風景と、高くまっすぐに伸びた姿が清々しく、気持ちが落ち着く、そんな木です。
やっぱり、山の中を歩いてみなくちゃ!!


水の流れる沢沿いに育っています
 



すらりと伸びるシオジの大きな木

シオジの葉
こんな場所では洪水で流されてしまうのではと思ってしまいますが、水分があることはメリット。光を得るためにずんずんまっすぐ伸びた木・・そんな生き残り戦略を感じさせる木です。背が高くて葉は見えないので、下に生えた小さな芽生えで葉の形をごらん下さい。

木目が美しく、建築用、家具などに利用される木とのこと。利用価値があるので、ずいぶん伐採されてきたはずです。
 

初めてみたとき、まっすぐに伸びてならぶ木を、サワグルミかと思ったのを思い出します。
 この木、足尾・桐生から西、そして南の地域に分布、つまり群馬県東部が分布の限界になっています。
日本列島の西の方、太平洋側に、中古生層分布地域に不連続に見られるとききます古い時代の地層が分布する地域に見られるということですから歴史がかかわるのかなあ・・・・

こんな層状チャートも見られます
というわけで、南牧村の中古生層の岩石の分布する、清冽な水の流れる沢沿いで見かけました。


 育っている植物が違う
   ・・南牧川を境にして・・・

南牧村から下仁田西部を西から東に流れる南牧川。ここでは南には古い時代の地層、秩父帯の岩石が分布しています。川の北側では、新しい時代の岩石がみられます。
ところで、ほぼこの川を境に、北側と南側で違った植物が見られたりするというのです。例えば、アセビは南側だけにみられます。

どうしてかなあ・・・・


ギンバイソウ
右写真のギンバイソウも、古い時代の地層の地域にみられます。葉っぱがちょっと変わった形をしているので、すぐわかります。もう少しすると、白いきれいな花が咲きますよ。

昨年、林野の方々が、「南牧川の北と南で、なんとなくはえているものが違うんだよなあ」ということで、下仁田自然史館にやってきて、勉強会をひらいていました。林業関係の方にとっては、スギ・ヒノキ以外は知らないから、「雑」と十把一絡げ、とおっしゃっていました。(でも、一般の人より,すっとご存知なんでしょう。シオジのような役に立つ木はもちろん「雑」ではないでしょう)。そういえば「雑木」という文字をは私は「ぞうき」と読みますが、林野の方は「ざつぼく」とよんでいました。・




南方向に山を越えて上野村に行けば、シオジのたくさん育つ場所があり、学術保存林として、保護されています。里見哲夫さんは最近も、この林の調査に出かけられています。テントに泊まりながら。けっこうなご高齢のはずですが、すごいなあ。あやかりたいけど、ちょっと無理か。
  そういえば、上野村には「シオジの湯」という、温泉施設があります。
  シオジの木にちなんだネーミングに違いなし。
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もう少しで咲きそうなオオバアサガラの花穂
大きなトチの木にいっぱいの花
 
 
こんな地域の沢筋で見かけた植物をいくつか紹介します。

このシーズンは、花は少し 地味な感じ。

(5月中頃から末に見られるもの。今年はもう花は終わっていますね・・・)



大木になるトチの木の花
 大木いっぱいに白い花穂をつけたトチは、すぐ目にとまります。蜜源になるので、虫たちが集まっているはず。でも、梢が高くて見えない・・・こんな時は落ちた花を見てみましょう。花にぽちりと赤い部分があるのは、もう蜜のない古い花です。まだ蜜がある、つまり受粉していない花は昆虫たちに「蜜があるよ、来てね」と呼びかけます。この時は赤くはなくてクリーム色。虫も花も、お互い無駄なことをしなくてすむように、サインを出しているというわけ。なかなか工夫してるね。

地面に落ちたトチの花
 
谷筋で目立つ白い花にはヤブデマリもあります。

 緑が日増しに濃くなり、梅雨が間近くなるころの山には、白い花が多いような感じがします。


     



ヤブデマリの花


ヤブデマリの花

林床にも草花が咲いています。ひっそりと、あるいは少し華やかに。
黄色いヤマブキソウは明るく軽やかです。


フタバアオイ 徳川家葵のご紋はこの葉がモデル
フタバアオイはあちこちで見かけます。



フタバアオイの花
ラショウモンカズラ



ヤマブキソウ
クワガタソウ
サツキヒナノウスツボ

左の写真の花、いままで見たことありませんでした。

ミヤマハコベ

関東西部から中部地方にポツポツと隔離分布しているということで、「ある所にはあるけれど、どこにでも見られるものでもない」、との解説がありました。なるほど、あまり見かけないわけです。サツキヒナノウスツボという名前も、聞いたこともありませんでした。
 
山地の谷沿い湿地にはミヤマハコベの小さな花もよくみかけます。道の脇にはウツギの白い花も。
 
オドリコソウ
 
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 自然の豊かな山の地域を歩けば、絶滅危惧種の植物も目にとまります。
でも、花がきれいだったりすると根こそぎ持って行かれてしまうことも多く、やたらと紹介するわけにはいかない、という現実があります。
 東京周辺に住む方から聞く話は「昨年はキンランが何十本も盗掘にあった」「100本以上のウバユリの実が業者の種子採集の目的できりとられていた」など・・道端のギンランを見て、「知られないようにとつぼみを切り取っておいたのに、今年、やっぱり堀りとられてしまった」という人も。他にもいくつもそんな例が・・・
 下仁田ではたくさんの絶滅危惧種も育っています。自然豊かな沢沿いにも、岩場にも、民家の近くの林にも。あちこちに。
 
 皆さん、取らずに、写真で撮るだけにしてくださいね。車で簡単に移動できるようになって、道路も良くなって、多くの人があちこちに簡単にいくことができるようになり、掘り取ったり、また業者が採取したりということが増え、最近の植物の減少は著しいものがあります。
 分布地を守っていきたい。心から思います。 
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麦秋の季節です。
 今年はカラカラに乾く日が続き、麦も干あがりそう。
小麦 この地域のものはうどんに向いています
六条小麦 麦茶や押し麦に使うそうです
 
竹の秋
 
  竹やぶが近くにあったら,ふっと気づいたことありませんか。何だか竹の葉が薄茶色っぽかったり、サラサラと散っていることがあるのを。5月末から6月にかけて、竹は葉をたくさん落とします。「竹の秋」とよびます。きれいな言葉だと思いませんか。
 群馬は養蚕の盛んだった県です。農家の家のまわりには竹林があり、その竹で養蚕道具をつくりました。桑摘みカゴ、蚕棚・・・もちろん、生活用具もたくさんつくりました。家の周囲には竹垣も。私の周囲の80歳代以上の方には,上手に竹細工をする方が何人もいました。

 この竹は食用に売られている孟宗竹ではなく、マダケです。マダケと孟宗竹と,葉を落とすのはいつだったかなあ・・・きにとめていなかったので、ちゃんとはわからない・・・
 マダケのタケノコはこれから頭を出し始めます。ちょっと苦みがある、独特の味です。最近は野菜の直売場があちこちにでき、農家の方がシーズンになると出荷しています。このタケノコが食べられることを知り、味わうようになってきた人もふえてきているようです。
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口之永良部島の噴火、テレビの映像をつくづくと見ていました。
自然のすごさと、自然を知ることの大切さを思いながら・・
  群馬県人としては、草津白根は、浅間山は・・・と思いつつ。
 

地質案内19 石材・椚石のふるさと

石材・椚石(くぬぎいし)の ふるさと


仁田の隣の南牧村、ここはかつて砥石で知られた場所ですが、他にも、古くから利用された石があります。

石材として、財務省(旧大蔵省)の入り口に使われたとか聞く椚石
近くまで行ったときに立ち寄ってみました。
南牧村野の道の駅、オアシス南牧から、それほど遠くない所です。                                                        

椚石は以前にこのブログでも、少し紹介したことがあります。

http://geoharumi.blogspot.jp/2014/07/6.html

務省(旧大蔵省)や日本銀行の建物に使われており、また県内では、富岡製糸場の基礎石、甘楽町の楽山園、太田金山城の復元工事など、利用には有名どころがならんでいます。
 

道沿いに、 石材を切り出した崖が見えてきます。
中年の男の方が働いていました。若い女性の姿もありました。

「すみませ~ん。写真撮らしてもらっていいですか
「ああ、いいよ」

入り口には、石材店の紹介が板に書かれ、石に彫ってあります。







山の神・・お酒も供えてあります

5代続く石工の家とのこと

150年間 営業しているのだそうです

「中も見させてもらっていいですか」
「見ていきな」











板になったり、くりぬいたり・・・
そういえば、この石、コンニャクを粉にするときの「石臼」に使ったと聞いていました。
三角の形に割った石が積んであります。
石垣用に割られた石
「あの~、これ、石垣にするんですか?」
「うん」 「この付近にたくさんある石垣、この石を使っているんですか?」「そうだよ」
 石垣が椚石を使っていると聞いたこともありましたが、”いや違う”といわれたこともあり、分からずにいました。
「古そうなのがあるんですけど、江戸時代とかの石垣なんですか?」
「違うよ、あの石垣は昭和30年代からだよ。中にコンクリート入れて。ここ来る途中、道を直してるところがあったろう。あそこに今使っているから、見ていきなよ」
えーっ、もっと古いのかと思っていた。そうなんだ。見ていきます。だだの四角いブロックより、趣があってずっといいですよね。」


左が積んでまもない石垣


椚石で石垣工事中

下仁田から富岡まで、このタイプの石垣はあちこちで見られ、
きれいな姿を見せてくれます。


ここの石工は、高遠から婿入りしてきたんだ。154年前にね。山を見て、この石を見つけて、ここにやってきたんだ。

少し古い石垣、コケやシダが生えている
農家の次男、三男は、土地がないから、石工の技術を身につけて、それで全国へ行って働いた。青森から山口まで行った。」
「へー、知らなかった。」
 あとで調べたら、高遠石工職人の仕事はあちこちに残され、そんな各地の石像物のリストをつくっている人までいました。私の住む玉村町でも、複数箇所リストアップされていました。びっくり。
有名な職人集団いたということなのでしょうか。

石を手に持ってきて、「これさ、石や地質を調べる人には宝物なんだよ。地下にある石をつかんであがってきたもので。椚石は1800万年前にできたんだけど、それが捕まえてきた石で地下のようすが分かるからね。」と。
地質図でみると、億年単位の古い時代の中古生層の分布域にありますから、古い石の分布域に貫入したものと推測できます。

黒っぽいのが椚石に
取り込まれている石


石屋さんには、邪魔なだけのものなんじゃないですか」
「まあ、そうさ」
そうは言いながら、ちっとも邪魔と思っていないふうで、大切なものを見るような雰囲気で、なにやらうれしそう。
「この道路の反対側は、もう、この石は無いんでしょう?」
「いやいや、まだまだある。みんなうちの土地さ」
(面積等もおっしゃっていたのですが、メモもとってなかったので・・・

これは「捕獲岩」で、たくさんはないようです。あとから石切場で探したけれど、見つけられませんでした。石材にするにはその方がありがたいでしょう。見せていただいた捕獲岩の写真を撮らなかったので、以前にも紹介した、下仁田自然史館のものを載せます。


石垣をつくる技術って、例えば、アンデスのマチュピチュなんて、栄えていたときは ピタッとすきまなくできているけど、国が衰えてくると、いい加減な石積みになってきたとか聞いたことあるんですけど」
「マチュピチュ、よく知ってるねえ。ところで石を組むのに、石を見ただけで、あそこに置くといい、とか、見ただけで分かる人なんかいたり。」
 話があれこれ飛んでいったのですが、仕事のお客さんが来たので、このあたりで終わりに。
「石切場も見ていきなよ」
「はい、ありがとうございます」

椚石の表面


石切場にて




表面は黒ずんでいますが、
割ると白い石が出てきます
解説には「石英安山岩」と書かれていますが、この用語は今は使わなくなってきていて、「デイサイト」とよんでいます。
安山岩よりもう少し流紋岩に成分が近くて、白っぽい岩石です。
椚石は安山岩が変質を受けて白っぽく軟らい加工しやすい石になった、との説明も聞いています
いろいろお話し聞かせていただいて、ありがとうございました。











2015年5月17日日曜日

この石から石器が・・象ヶ滝

 滝のある所・南牧村

下仁田町の西隣の南牧村、最近は高齢化率日本一としてとりあげられたりしますが、たくさんの滝があることでも紹介されることがあります。「滝巡り」として観光紹介もされています。町のホームページにも紹介があります。

線ヶ滝
http://www.nanmoku.ne.jp/modules/kanko/index.php?content_id=5

これからはじまる暑い夏の日、清冽な水の流れ落ちる滝の姿には魅力があります。
 三名瀑の1つ、線ヶ滝は、すぐ脇まで車で行けて駐車場も完備しているので、ごらんになった方も多いかもしれません。じつは私も、三名瀑のうち、この滝しかいったことがないのですけど。岩壁は固いチャートからできています。水が硬いチャートを削ったわけです。
もう一つの名瀑・三段の滝もチャートの岩壁で、赤いチャート。
最後に象ヶ滝、この滝の岩壁はチャートと頁岩(けつがん)だといいます。
 これらの滝の水は南牧川に流れこみ、南牧の谷を流れて下仁田にいたり、西牧川(さいもくがわ)と合流、鏑川となり流れ下っていきます。

新たに見つけたよ、
石器の石材になった石のふるさと

下仁田では、川原の石の観察会がしばしば行われています。鏑川の川原にはたくさんの種類の石が転がっているのです。
 南牧川の川原の石を見てまわった人がいます。でも、目的が違います。ある1種類の石をさがしながらの観察です。探した石の種類は頁岩(けつがん)。

 頁岩なんて、泥が強く固まってできた石ですから、どこにだってあるでしょうと言われそう。たしかに、あちこちにある石です。英語で言えばシェールですから、最近はシェールオイル、シェールガスを取り出す石として、名前も有名になりました。ですが、頁岩といっても、場所によって顔つきが違ってきます。
 ここで探したのは、石器に使われた石です。
見つかる石器
昔この地域に住んでいた人たちが、石器の材料として
役に立つ石としてみつけだし、使った石です。黒曜石のような非常に優れた石器の材料は、遠くまで運ばれ、使われていますが、ふだん使っていた石器で、大量に使われた石は、きっと地元の石でしょう
 下仁田周辺地域は昔から人がいた地域で、石器もたくさん見つかります。それらの石器の中で右写真のようなものがあります。よく見ると小さな化石が含まれていたこともあり、堆積岩だとわかります。この石は頁岩。頁岩というと、真っ黒の黒色頁岩が思い浮かびますが、こういったものもあるわけです。この石器の原産地を求めて、河原に転がる礫を見て回ったわけです。
 南牧川をさかのぼると、本流に沿って、ずっとこの石が見つかったといいます。そして、上流の象ケ滝までたどってついにこの石の産地を見つけたわけです。私はここには行っていないものですから、写真がありませんが・・・

  図の中の線は、すべて川をあらわしますです。左下に続くうねった線が南牧川です。
川沿いに石器の石材と同じ石が見つかっています(黄色丸 数字は見つかった礫の数)。支流では見つかっていません(白丸は、調べたけれど見つからなかったところ)。なお、三角は石器の見つかった所です。


原図は堀越武男さん 礫の調査をされました。石器も集めておられ、その比較をされました。
 
 この地域地質図を載せます。南牧川は古い時代の地層、秩父帯の中を流れ下っています
象ヶ滝は本宿層などのもっと新しい時代の地層との境目付近にありますから、見られる岩石も何種類かあるようです。
 八風山と荒船山は以前から知られていた石器石材原産地で、特に八風山は、盛んに利用されました。どちらもマグマが冷えて固まった石で、「黒色安山岩」などとよばれています。(図が鮮明でなくて、すみません)


下仁田自然学校作成の書籍「下仁田町と周辺の地質」より、紹介を載せてみます。 

象ヶ滝は、熊倉字日向の集落から歩いて30~40分のところにあります。林道もありますが狭い上、荒れているので歩くのが無難です。滝は高さ約30m、チャートや粘板岩(ここでは頁岩としています)の岩壁を数段になって流れ落ちています。滝の上流部や左右は内山層や本宿層です。象ヶ滝の名は、流れ落ちる滝を、象の鼻に見立てて漬けられたものといわれています。

 石器に使われたこの石は、肉眼で見ると鑑定が難しく、違った名前で報告されている場合もあるとのことです。粘板岩・頁岩はほぼ同じようなものですが、流紋岩(これはマグマが固まってできた石)というのもあったと聞いたような気がします。石を見極めるのは、なかなか難しいものです。

補足です
  2010年から2013年にかけての鏑川調査で、石器の80%~90%が象ヶ滝の頁岩だった
  そうです。

  この頁岩は内山層の頁岩の可能性が高いと見られます。安山岩などの貫入で、
  熱変成、珪化作 用を受けたと推定されます。

   
    内山層: 
下仁田と長野県との境、内山峠に近い地域にみられ、下仁田層(1800万年前)と同時代の地層と考えられる地層。砂岩、泥岩などの地層です。

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ネギぼうずの季節がやってきました



ゆずの花
ゆずはけっこう寒いところでも育ちます。 
 
下仁田でも、昔植えられてそのままになったようなゆずの木を見かけることがあります













我が家の近所では、最近ヤギを見かけます。そのうち太陽光発電パネルの敷地の退治部隊に、出動するのかな? 近所の草のはえた空き地で、草を食べている姿を見たこともあるし・・・
 ずっと昔ですが、我が家でもヤギを飼っていました。













その乳を搾るのが兄たちの役割で、みんなでそれを飲んでいました。大切な栄養補給源だったわけです。
何だか懐かしいヤギ。童謡やら児童文学、アニメで たくさん取り上げられるヤギ
歌ったり読んだり、子どもたちが大好きなヤギ
・ メエー、メエー 森の子ヤギ 森の子ヤギ 子ヤギ歩けば小石にあたる 
       あたりゃあんよがああ痛い ・・・
・ しろやぎさんから おてがみ ついた   くろやぎさんたら しらずにたべた ・・・
・ アルプスの少女 ハイジ   ヤギたちがたくさん出てくる・・

でも、本当のところ、ヤギって気が荒くて、足のける力なんて強かった。目も何だかかわいくなかった・・・牛の目は、大きく黒くしっとり潤んだようで好きでしたが、ヤギは薄茶色の細い瞳が寄りつきにくい雰囲気だった・・・などと思い出しつつ、でも、またこんな所でヤギに会えるのが、おもしろい。

 乾燥地帯での羊・ヤギの過放牧は砂漠化の最大要因になっていると伝えられています。彼らは草を根こそぎ食べる、根まで食べつくすので、自然の回復ができなくなると。日本では、過放牧にはならないし、根元まで食べてくれれば、除草にはむしろありがたい話になります。
これからの夏、元気に働いてくれるのかも。
 今年はまだ5月の前半なのに、もう30度を超える日が何日かあります。そんなわけで、もう夏のことが頭に浮かんで来たこの頃です。






2015年5月11日月曜日

渡良瀬遊水地と足尾

前回群馬県北部の湿地を紹介したので、今回は南部の湿地紹介。

前回紹介の場所は、まずは地質条件によって湿地ができ、さらに気候条件などが加わって生き物の生息条件が決まっている、大地は自然の姿を決める基本的な要素、「母なる大地」にはそんな意味もある。。。そんなことを書くつもりが、すっかりサンショウウオの話になってしまったなあ・・・
下仁田は湿地にはあまり縁がありませんが、湿地は大地と生き物・人とのつながりを思い描ける場所だと思っています。
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我が家から北へ70kmほど行くと、冷涼な地域に育つミズゴケの育つ泥炭湿地があるわけですが、南東へ60kmほど行けば、今度は夏には日本一暑そうな地域付近(館林、板倉)にある湿地、主にヨシの茂る湿地があります。渡良瀬遊水地・・・
ここは自然にできた湿地ではありません。国の政策でうまれた湿地です。

  泥炭・・寒冷地では寒さと水によりミズゴケやその他植物が腐らずに堆積してできピートモス(園芸用に売っていますね)ができる。以前はこれだけを泥炭と思っていたけれど、熱帯でもタイプの異なる泥炭がたくさんあるとわかってきた。雨期には大地が冠水してしまい、水と酸欠で植物が腐らずにつもるためできる泥炭。
 

渡良瀬遊水地のヨシ原
渡良瀬遊水地は
群馬県南東部、”鶴舞う形の群馬県”の鶴のくちばし部分が少しひっかかる場所、おおかたは栃木県にある広大な湿地です。
この湿地の名前が知られているのは広さが広いからではなく、田中正造の名前とともに思い浮かぶから・・と思っているのはほんの一部の人だけかな・・・・・ウィンドサーフィン、サイクリング、熱気球大会等アウトドアスポーツの場として思い浮かべる人が多いかも・・・
公害の原点ともいわれる足尾銅山の鉱毒被害に立ち向かい、美しい自然を残すことを訴えた田中正造は、忘れることなく何度でもふり返ってみるべき人であるでしょう。

この場所がどうやってうまれたか、パンフレットの一部から載せてみます。
 パンフ発行は「渡良瀬遊水池をラムサール条約登録地にする会」。ラムサール条約は湿地保全のための国際条約 で、渡良瀬遊水地は2012年に登録されました。  

図のように、明治時代には北部に大きな沼がありました。現在はヨシ原やゴルフ場、運動公園となっています。
現在の湖がハート型になっているのには意味があります。ハートのくぼみ部分には旧谷中村の役場跡などがあります。湖に飲み込まれそうになったこの場所は、保存運動で残されました。田中正造ともかかわる歴史の記憶遺産ともいうべき場所です。人は忘れっぽい生き物。忘れてはいけないものを忘れないための記念は、きちんと残すことの大切さも感じました
  (やたらに過去の記憶を消し去ろうとする動きがみられるのが、ふと頭をよぎりました。戦争やら戦争中の芳しくない日本人の行動のことなどを・・)



 


   渡良瀬遊水地の歴史
 
100年前、ここに谷中村や赤麻沼があった。
 渡良瀬遊水地は、もともと赤麻沼をはじめ、いくつもの大きな沼や湿地帯、それに農地や村落があったところです。1888年(明治21年)3つの村が合併して谷中村となり、約370戸、2,500余人の村民は、農業・漁業・スゲ笠つくりなどで暮らしていました。しかし、明治10年代から、渡良瀬川最上流の足尾銅山から鉱毒が流出して、流域一帯の産業・生活に甚大な被害をもたらし、足尾鉱毒事件として時代を揺るがす社会問題になりました。
 当初、衆議院議員でもあった田中正造は、流域被害民と共に必死に訴えましたが、明治政府は洪水防止という理由で谷中村周辺を遊水地にすることを決定。家屋を破壊してまで村民の立ち退きを強行し、1907年に谷中村は滅亡しました。さらに1910年代に、栃木・群馬県境を流れる渡良瀬川の河道が東に付け替えられ、赤麻沼一帯に直接流入した土砂で沼は消え、田畑や人家跡も一面のヨシ原になりました。
 
開発から、遺跡や自然の保全へ
 こうした歴史を持つ本州一広大な遊水地のヨシ原は、湿地性動植物の貴重な生息地となりましたが、一方では開発計画も考えられ、東京など首都圏に水を供給する平地ダムとして、1989年には渡良瀬貯水池(谷中湖)がつくられました。この湖の形は開発反対運動があった証です。旧村民は神社跡・役場跡を守るため「谷中村の遺跡を守る会」を結成して座り込みをおこない、その結果、計画は変更され、ハート型の湖になりました。
 谷中湖完成後も開発計画は次々と浮上し、遊水地の自然が大きく破壊される危険が
たかまりました。1990年に遊水地の歴史と自然を守るための利根川流域住民の会が結成され、その活動により自然破壊をともなう計画は消えました。さらに21世紀になって、遊水地を愛し利用する人々の取り組みや、ラムサール条約を目指した連合組織も結成され、それぞれ多彩な活動を展開してきました。そして2012年7月に渡良瀬遊水地は国際的に重要な湿地として認められ、新しいページが開かれたのです。
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  鉱毒除外を訴え足尾銅山の操業停止を訴え続けた田中正造にたいし、問題を遊水地をつくることによる洪水対策にすり替えたともいえるかもしれません。
今、遊水地は現在、たくさんの生き物たちが生きる場所になっています。絶滅危惧種の多さはきわだっており、またワシ・タカのような猛禽類の日本屈指の生息地です。
 

 湿地というと、蚊やブヨが飛び回り、泥のびちゃびちゃした底なし沼とか、暗く不気味なイメージを持たれたりしますが、本来はまったく違います。命のあふれた、いきものの豊かな場所なのです。 苦しい歴史の末つくられた湿地を、今後は生き物の住む場所として保存していく決意が、ラムサール条約締結でしょう。
 
  植物 約1,000種 絶滅危惧種59種  多い!!
  昆虫 約1,700種 絶滅危惧種23種
  野鳥 252種   絶滅危惧種44種

5月の第1週、湿地の観察会に参加してきました。 長年この地の植物の調査をされている大和田さんが、個人的に開いているものです。写真等のホームページがあります。
  「渡良瀬遊水地の植物」 http://cafegrancino.com/mo/

谷中村役場跡
谷中村役場跡にある説明板


チョウジソウ 山野草として人気があり、
 堀りとられることも多い 
見られた絶滅危惧種いくつか。  他にもたくさんありました。





絶滅危惧種を踏みつけなければ、歩けないほどはえていたり。でも、日本中見ても、他の場所にはほとんど見られないものもあるのです。トネハナヤスリなどその最たるもの。足の踏み場もなく、踏んづけて歩いて、でもこれ、利根川や淀川などの限られた水系にしか 見つかっていない。 

トネハナヤスリ
シダの仲間

ノウルシ











チョウジソウ以外は小さな花で、どれも地味なものです。ここに安住の地を求めて人知れず育つ植物たち。絶滅危惧種がこれほど集中する場は、めったにみられません。観察会に参加して教えてもらってはじめて、その価値を知ることができるものです
解説を聞き、今までだだっ広いだけのヨシの原だったものが、急に宝物のある場に変わってきます

初夏の風の吹き渡るなか、オオヨシキリ(夏鳥)のギョギョシ ギョギョシというにぎやかな声が聞こえていました。
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谷中村を消滅させたのは、足尾の銅山の鉱毒。その足尾では、今でもはげ山がひろがっています。生き物の住む場となった渡良瀬遊水地とはまったく違う顔を見せます。


鉱毒と、政府とたたかった田中正造はこう言っています。
真の文明は 山を荒らさす 川を荒らさず 
 村を破らず 人を殺ささるべし

北海道の佐呂間町へ集団移住した村人は、そこに「栃木」という地名をつけています。酷寒の地で、どんなにつらいおもいをしたことか。
足尾銅山は1973年閉山。富国強兵に、大きく役だった鉱山だったでしょう。
地質を学ぶとき、ここには行ってみるべきでしょう。一方、この鉱山で生活を支えてきた地元の方々には、複雑な思いがあることかと思います。

これらの関係は過去のものではなく、今でも同様に
引き起こされていると思いませんか。

足尾と渡良瀬の位置関係は地図でごらん下さい。


下は足尾のやまのようすです。木の枯れ果てた山に長年植林をしてきていますが、今でも、森に覆われた山は実現していません。早春の木の葉のない時期というのを差し引いても、荒涼とした光景が広がります。亡くなった作家の立松和平さんも、植林のため、ずいぶん通っていたはずです。




銅を含んだ廃液の青色
銅を含んだ青色
テレビドラマ「足尾から来た女」で、足尾で、家の脇に積まれた石くれが鮮やかな青にそまってえがかれているのを見て、「いくら何でも、ちょっと色がひどいんじゃない」と思ったのですが、実際、水の流れるところが色鮮やかな青色にそまっているのを見て、びっくりしました。












何だか、解説記事のようになってしまいましたが、「現地に行く」というのは 、いろいろなことがわかってくる基、とつくづく思うところです。



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