2016年8月21日日曜日

増額720億円・・再び八ッ場ダムについて

地質学はどうやって発展したか・・・そんなこと、地質を勉強する学生が授業で聞かされる話で、関係ない,と思われるでしょう。でも、なんだか、そんなことが、ふと思い浮かびました。

八ッ場ダム いったい いくらかかるのか

土木工事と地質には深い関係があります。お盆シーズンの8月12日、現在建設工事中の八ッ場ダムの事業費が720億円増額と報道されました(オリンピックとお盆で、ニュースが目立たない時期をねらったかな)。
最初は2110億円の予算ではじまったダムは,2004年に4600億円に増額されて非常に高価なダムとなり、更に今また増額です。5320億円となりました。
 増額分の半分は安全対策。もろに地質が関係した話です。

ここでなぜ地質学の歴史が頭に浮かんだか・・・
 近代地質学は産業革命とともにイギリスで発展しました。蒸気機関の発明で人力から機械による動力が開発されましたが、それを動かすエネルギー源は石炭。鉄の利用も増え,それらを手に入れる鉱山開発が求められたわけです。当てずっぽうに掘っても見つかるわけはないわけで、そこで地層についての考察が深まるわけです。18世紀後半から19世紀にかけての頃、地質学の基本中の基本、「地層累重の法則・示準化石による地層同定の法則」などが確立されました。これに大きく寄与したウイリアム・スミス(1769~1839)という人は、農民出身の土木技師で、測量技師として石炭を運ぶ運河の建設に携わったりしていたという人です。その中で、特定の化石が特定の地層から見つかることに気づきました。そこから示準化石というもの,この化石が見つかると化石を含んでいる地層の時代が決定できる、を確立しています。当時はまだ、化石は聖書にあるノアの箱船の洪水でおぼれ死んだものだと言われていた時代です。学会からは、彼の身分からして受け入れてもらえなかったという話もあるような時代でした。

 こんなふうに、地質学はもともと、人間の産業・技術と密接な関係を持って発展したわけです。産業の現場は地質学と手を携えているはずです。
でも八ッ場ダムは、建設をすすめたいばかりに、また現代の土木技術の進歩の名の下に,自然を甘く見てこなかったのか・・・そういえば、フクシマ原発の汚染水対策の凍土壁、1%ほどが凍っていない,そのために地下水流入は止まらず、延々と汲み上げ続けているという。汚染水が地下に流入しているという話も。先日報道されていました。凍土壁にはすでに350億円の国費が投入されているという。1%・・・でも,水は「水も漏らさぬ」状態でなければ,漏れてしまうのですよね・・・地下水関係の人が「そんなのできるわけない」といっていたなあ・・何度も「協力依頼・フクシマで働いてほしい」がきていたけれど、「よっぽどやる人がいないんだな」と。もちろん、行かない・・

ッ場ダムにもどります。
増額の720億円の内訳です。
  長年にわたり八ッ場ダムを報告し続けてきた八ッ場あしたの会では、以前から工事費増額を予想していましたが,その額は500億円。その予想さえ上回るとは・・・・
         ★マークが安全対策費です。

 ・ 埋蔵文化財対応等  88億円・・・・ここでは豊富な遺跡が見つかっているのです
 ★ 地滑り対策      141億
 ★ 地質条件の明確化   202億 ・・・はじめて入った項目。 何のこと?                 日経新聞は地質の見込み違いと表現しています
 ・ 公共工事関連単価の増額  233億 ・・フクシマや東京五輪で資材も人件費も高騰など。これを強調して、増額やむなしといった論調の新聞もあったようです。

はじめて入ったという「地質条件の明確化」、上毛新聞は「ダム本体建設場所の地質が明らかになり、基盤強化費用などとして202億円」と書いていました。日経新聞と赤旗が「計画がずさん」という表現を。他紙でも「岩盤の堅さや地盤のもろさが明らかに」など。
要するに、本体工事設計変更ということ?はじまったというダム本体工事がなかなか進んでいない様子は、これが原因なのでは。本体コンクリート打設は、はじまったと伝えられてはいますが、あまり進んでいる様子がないらしいので。

本体工事現場。岩盤が赤茶、灰色、黒と、さまざまな色あいに。もともとこの付近には,温泉熱水変質帯があり、国道に近い場所でも、切り取った岩盤がさまざまな色あいに変色していました。また岩盤に後からはいりこんだ岩脈が見られ,
それには節理((割れ目)も見えています。    写真は八ッ場あしたの会HPより
でもね、たしか、現在のダム本体工事現場は地質が悪いからと、もっと下流に変更したのに,またもとに戻したと聞いたことがあるのですけど。吾妻渓谷の見どころを多く残すため・・だったかな、ちょっと記憶があやふやですが。
       

工事費用の変遷を少し並べてみます。
        事業費  地滑り対策 
 当初     2110億円  49.17億円(3地区)
2004年    4600億        5.82億 (3地区)
2011年試算          109.7億  (11地区) 新たな項目・代替地安全対策約40億円
  (民主党政権)                       (5地区)             

2016 年    5320億    141億      新たな項目・地質の見込み違い202億円

加えて言えば、これだけで済む保証はどこにもない。
ダム湖に水が溜められたとき、ダム湖のまわりに作られた代替地に地滑りがおこらないかどうか、何の保証もない。何しろ、50m以上もの厚さの盛土もある代替地です(こんな厚い盛土、経験ないのでは)。湛水をはじめたとたんに周囲が地滑りを起こしたダムもあります。何が起こるかわからない。技術の力で何とかできるとおもっているのでしょうか。   いえ、技術と金の力で・・・。もちろん、何も起こらないことを祈っています。

ダム本体の費用の変遷も並べてみます。
 1986年  495億円
 2004年  613億   ・・・・・道路工事などに膨大な費用を使ってしまったので、
            コスト削減を
求められたような・・・2008年には減っています
 2008年  429億
 2016年の計画変更案  約200億円の増額ということか

 ダムの本体基礎掘削  深さは最初18m、2008年に約15mに 現在は3mとなっている
         基礎掘削量は   149万m3 が 60万m3
         コンクリート量は  160万m3 が 90万m3

実はダム本体の費用は全体の工事費の1割以下。 
ではいったい、多額の費用はどこに行ったのでしょうか。「生活再建関連工事」「補償事業」などの名称,あるいは「治水・利水の費用」ですが,何だかよくわからない。具体的に言えば
 水没予定地の道路、橋、鉄道付け替え工事など。ちょっと金額を書いてみます

国道付け替え工事(草津に行くとき通る,あの長いトンネルのある道路です。)
 691億9700万円  
    ただし八ッ場ダム事業からは408億円 
        水源地域整備事業から 283億9700万円
    お財布がひとつではなかったのですね。地滑りが起こっていますから,その工事に,
    これからもお金がかかり続けそうです。


付け替え県道工事 (国道の対岸にも,トンネルのある立派な道があります)
   468億7800万円   
        八ッ場ダム事業からは 363億円 
        水源地域整備事業から 105億7800万円
         (書き忘れてました。この道路もまだ完成していません。現在の川原湯温泉駅近くが
     いまだに工事中。ずっと前から、工事が続いています。どうやら崖が崩れやすいような・・・)


まだまだあれこれの工事があるわけです。
JR付け替え工事も延々とトンネル・・・いったい、いくらかかってる?

八ッ場ダム計画には3つの財布があるのだそうです
   建設事業         4600億円  これがいつもでてきた数字です
   水源地域整備事業   約1000億円
   利根川・荒川水源地域対策基金事業(事業費未定)
  
 あまりの桁数の大きさに、目が回ってしまいます。見慣れない数字なので、もしかして、書き間違っていないかと,心配になってきました。わが家の家計もどんぶり勘定でちゃんとできない人間にとっては、まったく異質の世界です。

でも,これ、打ち出の小槌に見える人たちもいるんだろうな。
ちなみに、地元の人で,今、代替地に住んでいる人は、あの土地を,あの地域としてはとんでもなく高い値段で買わされています。もともと土地を持っていて,その補償金のある人以外は、手を出す気がしないような・・しかも、有害な鉄鋼スラグが埋まっているのではなどと、心配の種も出てきている土地です。

現地再建ずり上がり方式で、集落ごとに代替地に移転する予定でしたが、今年3月末で、全水没予定290世帯のうち移転したのは56世帯。多くの人があの土地を離れました。

     → 八ッ場ダム増額に関する資料の載っているURLを教わりました。
    「関東地方整備局における公共事業の評価」の中の資料になります。以下です。
       工事内容が詳しく記されています
http://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000653410.pdf

  (この中では家屋移転が470世帯で468世帯が移転済、代替地には86世帯が移転となっています。
  移転にあたっての取り上げた範囲が 上に記載のものと少し異なるからと思います。
   いずれにしても、代替地移転は少ないですね・・・)

地質の悪さも、地滑りも、どれも何年も前から繰り返し繰り返し訴えられていたことです。裁判の場でも述べられていたことです。しかし、まったく意に介されずに来ています。地質学,土木地質からの言葉も,宙を舞っているだけなのでしょうか。金と権力で,いくらでも押さえることができるとたかをくくっているのでしょうか。
自然の声に耳を傾ける謙虚さなど考えもしないかもしれませんが、自然は人間の都合など,それこそ、意に介さないでしょう。

これらのデータは 八ッ場あしたの会のHPを見ながら書きました。マスコミの報道も丹念に集め、情報開示請求で公開される資料は手に入れ、とぎれることなく情報を発信しています。頭が下がります。

ネットでちょっと調べていたら、こんなページに出会いました。そう言えば以前、この方の解説図をブログで使わせてもらったことがあったなあ。
  岩松 暉  「地質リスクの軽減と地質地盤情報」
      不十分な事前の地質調査に起因して,工事期間の延長や余分な経費が
      かかったりした例が列挙・・・・丹那トンネルが取り上げられていました。
      地質のことなど考慮なく決めたルートですが・・温泉変質が激しい所・
      活断層帯を平気で横断するルート・地下水が豊富 というわけで、
      落盤や出水、工事中に地震により断層ができトンネル穴がずれたり,

      死者もかなりでる難工事に。
      

   いくら技術が発達しても、人はおごってはいけないでしょう。

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 頭の痛くなるような話になってきました。
8月、川沿いで見かけた花を紹介しましょう。
冷たい渓流のわきの道沿いに、イワタバコがたくさん見られました。

イワタバコ 湿った岩肌に


イワタバコです
白い花もありました


ボタンヅル 平地でも見かけます





コバギボウシ 山菜のウルイはオオバギボウシだそうです
 
白い花はシシウドと思って帰ってきたのですが、ちょっと待てよ・・・こういうセリ科の植物はたくさんある。オオバセンキュウ、シラネセンキュウ、アマニュウ・・・違いもあまりよく知らないまま。たくさんあるのに・・・
 
 
これ、何だか知っていますか?葉っぱの真ん中に,実がついている!!
葉っぱの真ん中に花が咲くのは・・・ハナイカダ。
ハナイカダの実です。見たのは下仁田ではなかったけれど、案外そこらにあるかも。
ちょっと楽しい実です。 名前もいいねえ。

 

2016年8月14日日曜日

御巣鷹の尾根にて

 

  鎮魂の8月

8月はお盆の季節。そして終戦の日のある月、原爆投下も含め、祈りを捧げる日が続く。
そして航空機の大事故の日も。
お盆帰省のシーズンで満席のジャンボ機が群馬の山奥に墜落したのは、もう31年も前,1985年の8月12日夕刻でした。
 
8月11日「山の日」が祝日として制定されました。最初は12日という案だったそうです。この案に強く反対したのが群馬県。ジャンボ機墜落の命日には,遺族ばかりでなく,多くの人が慰霊に訪れます。航空機事故をおこさぬようにとの誓いもあらたにします。その日に祝日をぶつけるのは、耐えがたい。
 
思いがけず誘われ、この慰霊登山に参加させていただきました。毎年慰霊に参加しているグループに混ぜてもらったのです。
  そこで、今回は鎮魂の8月を少し紹介させていただきます。
   もっとも、他人の思い出話を聞いても仕方ないかとも思いますが・・
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群馬から遠く離れて住んでいて,たまたま帰省していた折に,この事故がありました。終戦にちなんだ戦争ドキュメンタリーのような番組を見ていたとき、「航空機の機影が消えた」といったテロップが・・・番組は中断し、刻々と情報が流されていったのを覚えています。乗客の人数を聞くだけでも、驚きのニュース・・・このときのことが記憶にある方も多いと思います。
 
 この頃、中里村(現 神流町)のさざ波岩の穴が恐竜の足痕化石と判明したと、ニュースになっていました。それを見にいこうと計画していたのですが、上野村方面はお盆帰省の人など以外は立ち入り禁止。中里村も立ち入り禁止区域に入っていました。どうしようかな・・でも、この先、いついけるかわからないなあ・・・ご遺族や関係者の方からしたら、自分たちの気持ち、やっぱり他人にはわからないのだと思われたことでしょう。
 上野村には、中学校時代の恩師ともいえる人が、ずっと住み着いて、先生をしていました。亡くなるまで,そこで教育に携わっておられました。先生に会いに行くことにして,入らせてもらおうかな・・会えることもなかなかないし、・・会いたいなあ・・・連絡して,上野村を訪ねることに。
 上野村では校庭はヘリコプターが発着し、自衛隊などだったでしょうか、車も目立ち、落ち着かない雰囲気が続いていました。
 そんなわけで、忘れられないこととなりました。

 今回誘ってくれた人の一人は、事故当時遺体安置所で待機し、ドライアイスの交換などもしたそうです。遺体と言っても、きれいな姿ではないわけですし、だいいち、遺体はチョコレート色に変色したものだったと。8月の猛暑の中です・・・思い描くだけでも痛ましさが増します。
もう一人の人は山登りの好きな方で、一度御巣鷹に向かったことがあるそうですが、秋も遅く、登山道は閉鎖のひもがかかっていたとのことで、慰霊の場には行かず。もし事故を起こしたら,それこそ迷惑をかけてしまう。

 上野村はかつて群馬のチベットと呼ばれていました。神流川沿いのクネクネした細い道をたどり、やっと行き着くような感じ・・・自家用車がない頃は、簡単に行き着くこともできなかったでしょう。
標高が高いわけではないので、夏はそれなり暑いのに、冬は寒い。先生が、「万年筆のインクが凍った」といっていた記憶が・・雪も降らないから,スキー場もできない・・・スキーブームがはじまっていたころだったかなあ。林業が壊滅的になっていて、これから野村をどうしていくかは大きな課題だったのだと思います。今は,下仁田から上野村へのトンネルが掘られ、比較的気軽に行ける場所になりました。

 墜落現場の御巣鷹山は、その村から、さらに奥深く道をたどったところになります。わずかに明かりのともる、昔ながらの雰囲気の暗いトンネルをいくつもくぐり、ずいぶん車で走った気がします(距離を測っておくんだった・・)。道は整備されているとはいえ、個人で来る気はしないですね。

 もちろん、この日はたくさんの車が来ており、駐車場の順番待ち。そこから,登山口までは用意された車で向かいます。
 
登山口が標高1359m、御巣鷹の尾根が1539m、。ずいぶん高い・・。
ちなみに、赤城山の大沼の標高が1345m、榛名山の最高峰・掃部ヶ岳が1449m。


あちこちにスタッフが控えています。




 
 据え付けの杖を利用する人もたくさん見かけます。
標高差180m、行程800mという記述に、「軽いよね」と思ったのですが、「登山靴履いてきてよかった」に変わりました。高齢になった遺族が,墓標まで登れなくなる・・という話がよくわかりました。
足元の、ゴツゴツとした石のある道や、注意しながらの階段・・・よく整備されているとはいえ、もともとが古い時代の地層からなる、急峻な山なのです。


メディアの人たちもたくさんみかけました


すらりとしたシオジの木の育つ沢沿い


途中では水を渡すスタッフも


 途中には「クマよけの鐘、鳴らしてください」と、いくつも鳴り物があります。

墓標が見えてきました。その、ほぼ最初の場所が目的地でした。
 名前は 川上 英治・和子・咲子
この家族には慶子さんという女の子がいます。川上慶子・・・ヘリコプターにつり上げられ、救助された、あの女の子です。家族で生き残ったのは 慶子さんと、家に残っていた兄だけ。
当時、マスコミに追い回され、兄も精神的に参ってしまったという話も聞いたことがあります。飛行機が落ちた直後は,まだ妹の声も聞こえていた・・他の人の声もだんだん声が消えていき・・・どんなに辛かったろう。もっと早く,救助隊が行っていたら・・・誰もが思ったことです。
慶子さんもお兄さんも、到底この場に来られる状態にはなれない・・・そんなことから、ずっと川上さんの慰霊に訪れ、花を手向け,線香をあげてきたのがこのみなさんです。

写真の上に見えるピンクのものは かざぐるま。123個あります。墜落機123便からこの数になったと聞きました。。
かざぐるま設置を含め、地元の上野村の人でこの地の整備をされている方がいらっしゃり,親しく話をされていました。こういった方々のおかげで,こうしてきれいに整備されているわけでしょう。


この墓標のある場所は,スゲノ沢と書かれた場所のすぐわき。大水がでると、流されてしまう可能性があるから、移したらと、管理をになっている地元の方から言われているそうです。いい場所があるから、と。教えてもらいましたが、たしかに穏やかな場所です。墓標は最初は犠牲者の見つかった付近に立てていたのかもしれませんが、移したりもしているとのことです。
飛行機は御巣鷹の尾根の向かいの山に激突し、跳ね返るように仰向けに御巣鷹の尾根に散ったと聞きました。命の助かった慶子さんは、機体の飛び散ったその端のほうにいたわけでしょう。家族の墓標が一番端っこ付近にあるわけですから。

登るにつれ、墓標も増えていきます
 
急な斜面・・上から見おろすと,さらに急に見えます。
数日前、整備作業をされていた日航職員が、斜面で転落し,死亡しました。道沿いとはいえ、急な斜面は危険な場所なのです。

                    皆で転落現場にお線香を供えさせていただきました。

おもちゃも供えられています


おとうさんやすらかに・・・
登山道はていねいに整備されています。急な山道は,大雨などですぐに掘り込まれ、階段付近など歩きにくくなったりするものです。そんなことを気づかせないような道は、きっといつも見守って補修されている方がいるからだと思います。


123便の機長達の慰霊碑です
飛べるはずのない飛行機を必至で操縦した方々。この人達の墓標は慰霊の場の一番高いところにありました。
機長は歯しか見つからなかったと、聞きました。事故後は,家族も苦しんだでしょう。操縦士の責任は・・・と。
 
 山崎豊子の「沈まぬ太陽」を、読み出したらやめられなくなったことを思い出します。
お花を供える人のいない墓標もたくさんあります。高齢となった遺族は,あの場まで登ることも不可能になってきます。それでも,いつまでもこの場を忘れずに守り続けることの大切さを思う。
 当日の記録です。いろいろな本に載っているかとも思いますが。グループの人が準備してくれました。
 

 
 
先日、熊本地震で行方不明だった大学生らしい遺体が見つかったと報道されました。
警察・消防の捜索は,5月1日で中断していたといいます。ご両親はそれからも、勤めを休み川沿いをくまなく歩いたと言います。足場の悪いところは,命綱まで張って。先月末、息子の車をみつけました。11日、遺体が引き上げられました・・・
こんなにも 肉親の思いは深いものなのか。
亡くなった経緯は異なるものの、命の重さを思う8月です。
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当時、「ジャンボは落ちない」と言われていました。「どうしてそんなこと言えるんだろう」と、すごく疑問に思っていました。ですが、あまりに何度も自信を持ってあちこちで言われるので「そうかなあ」と、半ば認めるような気分もしてきはじめたのでした。そんな時、この事故です。間違ったことを信じ始めてきていたのを,恥じたことを覚えています。
その後1995年、阪神淡路の震災発生、高速道路がひっくりかえった映像が流されてきました。この少し前、1994年ロサンゼルスで大きな地震による高速道路の倒壊があったとき、「日本は地震対策の技術が優れているから,あんなことは起こらない」というようなことを専門家が言っていた・・・相も変わらぬ「安全神話」。「自分だけは大丈夫」と思える神経がわからない。まれにしか起こらないことは,自分には関わりないと思えるのか。
そして今、「原発再稼働」・・・ああ、イヤだ。どうしてこうも平気で安全神話を言える人たちなのだろう。しかも、地震は活動期に入っているのですよ。

・・・・・・・・・
地質のことも,少々ふれましょう。
こんな急峻な山はどんな地質でできているのでしょうか。
下仁田の南部や南牧村の古い時代の地層に続くものです。秩父帯とよばれる古い地層で、硬い泥岩やチャートなどが、よく見られます。道の周囲には、いかにも古そうな,角ばった硬い泥岩の仲間の岩肌が見えていました。かなり珪質に見え、これはチャートかなと思えるところも。
手軽にみられる国土地理院のシームレス地質図を開いてみたら、御巣鷹山の地名も載っていました。御巣鷹付近には,チャートの塊もあります。

 「前・後期付加コンプレックスの基質と、そこに取り込まれたチャートのブロック」がこの付近の解説でした。約2億年から1.4億年前に海のほうから海溝付近に押し寄せてきて、くっついたもの、複雑に変形し、また、そこには3億年といったもっと古い時代のものも,転がり込んでいる・・・ジュラ紀付加体。

 億の単位の時代の古い石で、硬くしまった石が見られるわけです。
またこの付近の古い地層にはシオジという木がたくさんあり、保護されている・・・・そういえば山を越えて(トンネルを越えて)南牧村にもシオジの木がたくさんはえているのを見たことがあります。
多くの人にとっては,上野村の温泉「シオジの湯」が思い浮かぶかもしれません。


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季節の風景を少し

 田んぼにサギがたくさん。写真撮ろうかなと思って,いつもついついそのまま。
イネが伸びてきて、白いサギの頭だけしか見えなくなってきた・・・さきほど,近くの田んぼにいたのを撮ってきました。
ここらにいるのはダイサギとコサギ。アオサギもけっこう見かけます。
間に合わせの写真ですが、今ごろの里の風景です。




朝のイネには水滴が輝きます


オモダカ すてきな水辺の花


クリのイガが,こんなに大きくなっています



暑い暑い日々、草も木も、すっかり伸びきっています。

2016年8月7日日曜日

段丘崖・地形の段差・・タモリさんのようにはいかないけれど

   観察力と博識に脱帽

町中のちょっとした段差にも斜面にも 「!」とひらめく ・・・・・
     そこから次々解き明かされる謎解き。
段差・斜面,そしてちょっとした道の曲がり等々、普通ならさして何も感じないことが、突然キラキラと輝き出す。それは自然のつくりだしたものだったり、人がつくったものだったり・・・知的好奇心を呼び起こしてくれる・・・地形や地質が大好きな人、そう、タモリさん(”さん”って、あんまりつけないかなが連れていってくれる世界。
 ブラタモリは人気のテレビ番組です。

このNHKの番組「ブラタモリ」のスタッフが、国土地理院から「測量の日の功労者」に選ばれました。この功労者の選定は1989年(平成元年)からはじまっていますが、テレビ番組がえらばれたのは異例だそうです。
地理学会賞も受賞しているのですね。2010年度のことで、新設された団体貢献部門での受賞で、研究者以外から選ばれたのは、はじめてだったそうです。

あんなちょっとした段差にまで目をとめ、その意味を考えていくなんて、「は~」と感嘆のため息が漏れてしまう。
そこで、段差の話を。
でも、私には小さな段差では目にとまりそうもなく、大きなものなら・・ちょっと見上げるような高さのもの、誰の目にもとまるような段差です。

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下仁田の段差

下仁田インターをでてすぐの所です
下仁田の道路脇に、段差の場所があるのですが、さて、どこのことでしょう。
  下仁田のみなさん、当ててみませんか。

今はたくさん花が植えられていて、数年前から公開しています。

アジサイ祭りの開かれる場所です。
 
高速道路下仁田インターを降りてすぐ、下仁田方面への道沿いの斜面には、たくさんのアジサイが植えられています。斜面なので花がよく見えるし、斜面を登れば、見おろす景色もなかなか良い感じです。

何の疑問もなくこの斜面を登りますが
この斜面って、何?どうやってできた?・・
 「何言ってんのよ。山がちの下仁田には、
  斜面なんてどこにでもある。斜面の何が
  不思議なの??山が削られれば斜面に
  なるに 決まってるじゃないか」     

こう言われそうです。

でもこの場所、上に登ると、あれっ?
今度こそ、タモリさんなら、目をとめるのでは。
そこはほぼ平らな土地が広がって、ネギやコンニャクが植えられているんですよね。登っていったら山じゃないわけ。
ゆるやかにうねってはいますが、とにかく平地なんです。畑が広がっているのです!!            

 アジサイの写真は 関谷友彦さん

斜面を登ると・・手前はコンニャク畑

右写真は下仁田市街を見おろす
風景です。

斜面を登って見た風景です。

この場所は高い位置にある段丘の平坦面で、アジサイの咲く斜面はその段丘の段丘崖です。
 昔、鏑川がつくった地形です。


 こんな高いところに川が??と
不思議な感じ、しませんか。

今、川は、写真の一番低い所を流れています。

平坦面と崖がどうやってできたかは、学校で勉強するような話になります。説明が面倒くさいので、教科書みてもらおうか。(以前にもこんなこと書いたかも・・・地面が持ち上がったりとか、そんなこともあったかも)




こちらは下仁田ネギの畑です
上の写真の、手前にボサボサと見えるのはコンニャク。下仁田ネギ畑もあります。
  写真は以前、9月に撮ったもの
  ですけど。

ところで、このあたりを春先に歩くと、
畑の土の上に、めずらしいものが・・・
 土器のかけら、石器、黒曜石のかけら
昔の人たち、ご先祖様がつかったものです。ご先祖様に出会える場所なのです。

馬山(まやま)丘陵「遺跡街道」と銘打って、看板も立てられています。下仁田ジオパークのジオサイトのひとつです。


下は、以前にみんなで拾ったときの、拾いものの写真です。
立派な石器を拾った人も、黒曜石の小さなかけらを拾ったた人もいたのですけど写っていませんね。「おーい」とみんなを呼んで、拾ったものの 鑑定をしていたときのものなので・・・・

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「 高い位置にある段丘面」があれば、もちろん「低い位置にある段丘面」もあります。
アジサイの写真の2枚目、遠くの方に、一直線に家がたくさん建っているのが、何となくみえませんか。これ、低いほうの平坦面に立っている家並みかな。
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下仁田の段差の続き 

これらの段丘、下仁田からずーっと東の方まで続いています。吉井の小串(おぐし)という場所の段丘崖を載せましょう。

右図で黄色のところが上位段丘の面です。
小串は道路<254>と書かれた場所の少し東(右)の道沿いです。
下仁田は・・・? この図よりずっと西(左)、甘楽町の隣に富岡市があり、そのさらに西が下仁田。
図を準備できなかったので、思い描いていただけましたら・・何kmあるかなあ・・・けっこうな距離ありますね。



 小串では 斜面にカタクリが咲いています。ここが段丘崖
カタクリは小学校をはじめとした地元の方々の保護活動で増え、きれいに整備されています。斜面の写真3を枚載せます。
この上には、もちろん平らな面が広がり、畑が広がっています。農家もあります。
 下仁田から続く、鏑川がつくった段丘がここまで広がるわけです。

夏にはキツネノカミソリも咲きます。





 
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大間々の段差

市役所の裏は段丘崖です
ふと思いつきました。他の場所の段丘崖も見てみようと。
写真の場所は大間々(おおまま)の町役場裏の斜面。段丘崖です。
 
なかなか立派な段差。
段差 15m    。

「ママ」というのは古語で 「崖」 のことをあらわしたとか。
海辺沿いや川辺でもないのに、「大きな崖」が「段差」があるわけです。「昔の川沿い」の崖です。
大間々町は合併してみどり市になりましたが、それでもこの崖は、この町のシンボルでしょう。




斜面には花壇 右上のフェンスは大間々高校

斜面の上から見下ろしました
段丘の崖って、人が手入れした場所は
写真映りもよいですが、それ以外は木が生い茂ってうっそうとして、写真だけでは何だかわかりません。
大間々でも、すぐわきは杉林に下草がうっそうとしています。でも、春先には、林の斜面には、希になった野の花も咲いています
    
おいなりさんも奉られていて、人の暮らしを感じさせてくれます。段丘は昔から人々の生活の場所でした。



左図は大間々扇状地の地形区分です。

5万年ほど前までにつくられた高い平坦面桐原面(深緑色)の東の端に、役場裏の段差がみられます。
左図の一番上のあたりですね。

黄色がかったところは、少し低い平坦面になります。薮塚面は5万~2・1万年前につくられたもの
段丘をつくったのは渡良瀬川です。
今、図の東の端を流れている渡良瀬川は、昔は西の桐原のあたりを流れていました。川はやがて東側に流路を変えてきた結果、こうした地形ができました。

日本ではじめて旧石器がみつかった岩宿遺跡は赤丸で示されています。





図は 岩宿博物館常設展示解説より

斜面の上は 桐原面(きりばらめん)とよばれる平坦面で、ここにはかつて、足尾銅山から銅を運ぶ道が通っていました。
                                  

 
 銅街道は「あかがねかいどう」と読みます。
桐原村は幕府天領だったとかかれてありますから、ここは重要な宿場だったわけです。
街道沿いには、銅を保管した銅倉や、食料を保管した施設も残されています。

 段丘については、以下にも載せました。やたら長ったらしいのは、最初のころでよくわからなくて、あれこれやっていたからでしょう。
  https://www.blogger.com/blogger.g?blogID=481530670025045050#editor/target=post;postID=5484042810556109332;onPublishedMenu=allposts;onClosedMenu=allposts;postNum=119;src=link

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大間々の博物館 コノドント館 
 
ところでこの崖を下ってすぐのところには、コノドント館という博物館があります。
「コノドント・・・・? 何それ??」と聞かれますよね。化石の名前です。長い間、正体のわからなかったものです。わかったのが1983年。初期の魚の歯ということです。
 
日本で最初にこの化石を見つけ出したのは崖の上にある大間々高校に長く勤められた先生の林信吾さんです。1958年のこと。そしてコノドント研究をすすめられました。
1mmほどの小さな化石・・・恐竜ならまだしも、そんなわけのわからない化石の名前をねえ・・・といわれそう。でも、実は地質の時代を決めるとき、おおきな役割を果たしました。古生代と思われていた地層から中生代のコノドントが発見されたのです。日本列島の歴史が変わるような話です。今では広く放散虫も果たしているような役割を担った化石でもあるわけです。
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前置きが長くなりましたが、コノドント館に立ち寄ってみました。地質やいきもの、歴史民俗資料などがあります。
学校が夏休みだからでしょうね、「緑色の鉱物」という企画展が開催されていました。大間々はみどり市ですから。
そこに行ったら、緑の鉱物ではなくて赤い鉱物なのですが、「群馬の石 鶏冠石」と、大きなケースに展示されていました。下仁田の鉱物です。うれしいですね。ありがとうございます!!
 

 左写真の大きなケースに置かれたのが
鶏冠石です。上がその 鉱物展示の部分。






鉱物展の案内チラシ・これが
紙の表面、裏に展示鉱物
二つ折りの表と裏になります 
鶏冠石を大きく取り上げてあります
























子供達が喜びそうな、お土産もたくさんありました。

写真のトレーの中はさまざまな鉱物のかけら。こんなトレーが3個くらいあったかな。
石英は当然として、その他さまざまな色のものがありますねえ・・
一人2個まで持ち帰りOKと。私もつい、もらってきました。ペリドットと猫目石なのですが、ラブラドライトもあったかなあ・・などと、今ごろ思っているところです(子供みたいですね)。
「これ 本物ですか?」などと、やってきた職員の方に聞いてしまいました。失礼しました。

他にも 「ガーネットを探そう」、とか「黄鉄鉱を探そう」とか。地味な石のかけらが置いてあるわけですが、黄鉄鉱は金みたいにキラキラしますから、探せたらうれしいでしょう。化石の入ったかけらもありました。

                                       


 こまめに館内に足を運んでいた女性職員の方に「クイズに答えると賞品がもらえますよ。大人の方もどうぞ」と二度も声をかけられたものですから、その気もなかったのですが、つい書いて窓口に提出しました。クイズ用紙は何種類かありました。一番端のを取って提出。ちょうど鶏冠石がのっている用紙でした。
 中にいた職員の方が、その場で赤鉛筆で丸つけをしてくれました。幸い、花まる、でした。賞品は、子供向けのおもちゃからアンモナイトやサメの歯などまで、いろいろ・・・私はテレビ石をもらってきました。隣にいた子どもは、アンモナイトだったかな。
 ちょっと話をしましたら、なんと、小石と混じったフズリナとウミユリ(栃木県葛生のもの)を下仁田自然史館に持ってきてくださったのが、この職員の方。知りませんでした。ありがとうございました。
今下仁田自然史館で、化石を探すコーナーにして
「一人化石1個持ち帰りOK」で平たい箱に入れて置いてあります。

 葛生の化石は、もうほとんど採集できないでしょうから、貴重なものです。土嚢袋に入れてたくさんいただいたものですから、一部を残して、来館者にお土産にしてもらっています。ちょっと惜しいような気もしながら、でも、お蔵入りでしまっておいても・・と。いつまで使えるかなあ・・・そのうち、他のものを考えねば・・・  展示を見て、参考になりました。これもありがとうございました。

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  大間々の近隣にある岩宿博物館 日本で初めて旧石器の発見された場所
それほど遠くない所には、岩宿博物館があります。ちょっと寄ってきました。久しぶり。

敷地内には、古代ハスが美しく花開いていました。こんなにすてきなピンク色で、こんなに大きい花だったんだ・・・。
 花はそろそろ終わりかけの頃でしょうか。

私が子供の頃、古代ハスの話はとても有名でした。2000年も前の遺跡から出土したハスの種が生きていた、芽を出した!と。大賀博士が成功させたので、大賀ハスといいました。


隣接する小山の北斜面はカタクリの咲くことで知られますがそこには今はキツネのカミソリが咲いていました。ここは段丘ではなくて、山の斜面ですけどね。


なお、下仁田の段丘については、以下に解説があります。遺跡街道や低位段丘の紹介です。
http://geoharumi.blogspot.jp/2015/02/13.html
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国土地理院と地理学会がブラタモリに寄せた言葉を載せます。

国土地理院

「普段は気に留めない街中の『高低差』やひっそりとたたずむ路地などに注目し、様々な地図を分かりやすく使いつつ、地理・地学・地形といった視点も含めた街の魅力が紹介される。その際、国土地理院(および、その前身機関)が作成した旧版地形図や基盤地図情報等もしばしば使われ、視聴者が地図や地理に興味を持つきっかけとなっている」


地理学会

「NHK総合テレビの番組「ブラタモリ」(2009年10月から2010年3月まで放送)は,タモリ氏が古地図を持って地域に刻まれた歴史の痕跡を追い、地域の変容ぶりを探求していくという番組であり、いくつかある街歩き番組の中で、地理学的にも最も優れた番組であり、大きな評判も呼んだ。
 2010年10月からはシリーズ第二弾が放送されており、好評を得ている。本番組の内容は、一般視聴者に地理学的視点を広める役割を果たしているとみられ、広い意味での地理教育の場としても非常に高く評価されよう。他方、「ブラタモリ」でのテーマへの切り込み方は、会員に対して地理教育へのヒントを与えるものになるであろう。」