2019年8月31日土曜日

枕状溶岩・ここで簡単に見られます

枕状溶岩って、見たことありますか
下仁田町・南牧村周辺では、簡単に見られます。

この名前、岩石名ではなくて、岩石の産状についていう言葉です。
枕状溶岩を形づくる岩石は多くはもともと玄武岩質の溶岩でした。水の中に流れ出たため急に冷やされ、ソーセージのような形になって積み重なっていきます。

下仁田では茂垣の枕状溶岩というのが有名ですが、そこまで行くのは結構大変だし、ハンマーで割ってしまう不心得者もいて、行くのはあまりお勧めできません。

南牧村なんもくむらの枕状溶岩
 
下仁田から西へ南牧村へ向かってのメイン道路を行くと、道路右側に医療診療所の建物があります。
南牧村枕状溶岩の紹介と解説
場所は南牧村磐戸だったと思います。
駐車場の奥の角には看板がありました。枕状溶岩はずいぶん以前に町指定の天然記念物に指定されていたようです。

看板に従い道路を下って川まで行けば、
川にかかる橋から枕状溶岩を見下ろせます。川にも降りられます。

長野には南牧村と書いて,「みなみまきむら」と読む場所があります。うっかりすると、そこと間違えることがありますので、ご注意を。





 「なんだかわかりにくいなあ」と思いながら見ていたのですが、写真で見ると,枕というか、ソーセージのような形が、肉眼の時よりはっきり見えてきました。ちょっと、見る目がなかったなあ。




下は、断面のようすですね。

              




ほぼ道端ですから、南牧村を通りかかることがあったら、ちょっと立ち寄ってみませんか。











下仁田青岩公園の枕状溶岩

川原の転石に枕状溶岩が見えるよ、と紹介したことがあります。場所を書きませんでしたので、今回、紹介しましょう。
   以前紹介した写真は、こんなものです。
  

場所は、下仁田駅からすぐ近く。
 

赤丸の所が青岩公園です。



 アクセスマップ①にある小公園の写真と、そこから見た枕状溶岩の写真が下にあります。

あずまやの右、写真中央に看板
橋のわきから,あずまや、トイレのある小さな公園が見える


   


   看板付近から見下ろして  →
   赤の矢印のように見える岩に
   枕状溶岩が見える
   岩は川原に転がってきたものです。
   ずいぶん大きいものです。
                       


少し場所をずらしてみると、もっと見やすくなります。
公園から河原へ下る階段があり、岩まで行けます。
今年の夏は,刈っても刈っても、草があっという間に育ってしまったかもしれません。どこでも草退治で大変でしたから。

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岩石に詳しい人が、下仁田の別の場所で、「あっ、枕状溶岩がある」と。
道から見えたようで、それ程行きにくい場所でもなさそうな。
あとで場所を聞いてみよう。
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この付近の枕状溶岩は古い時代のもので、岩石は緑色がかった石になっていました。変成作用を受けて、緑色の鉱物・緑泥石などができているからです。玄武岩質ですから、もとは黒っぽい石だったはずですよね。

見る目があれば、いろいろ見えてくるものです。たくさんの人が見ていたはずの青岩公園でも、今まで気づかずにいたわけです。
  まだまだいろいろ発見できるかもしれません。



2019年8月27日火曜日

沖縄戦・震える少女は私です

 あらためて、沖縄戦の記憶

 8月ももうすぐ終わり、マスコミでの戦争特集も少なくなってきます。
そんな中、第二次大戦の沖縄戦映像の中でしばしば目にする少女、恐怖に震える少女が誰であったか判明したとのニュースがありました。
あらためて紹介しようかと、思い立ちました。

 きっかけは、歴史関連の雑誌を編集している方にお会いする機会があり、そこで、記録することの意味を語られるのをお聞きしたので。

  記録に残さねば忘れ去られてしまう・・庶民の記録などはなくなってしまう。
    さらに言えば、過ちを忘れれば、人はまた同じ過ちを繰り返す。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・
ふと、沖縄戦についての新しい発見のニュースが頭に浮かびました。

沖縄戦で思い浮かぶ3人の子供の姿、
 ☆ 白旗を持つ少女
 ☆ 焼き場に立つ少年 原爆の落とされた長崎で、息絶えた弟を背負い、血が出るまで
    唇をかみしめ 直立の姿勢で立ち、火葬を待つ少年。
 ☆ 恐怖に震える幼い少女

白旗の少女は、どなたかが判明していて、本にもなりテレビドラマも作られています。
 名乗り出るには長い時間と夫の支えが必要だったといいます。
焼き場に立つ少年は、アメリカから派遣されたカメラマンが自分のカメラで撮影した
 写真を長い間・43年間封印していて、その後公開したもの。
 核兵器反対の思いを込めて。
 ローマ法王がこの写真をカードにし、「戦争が生み出したもの」と書き添えて 
 配布しているという。 少年本人を見つけることはできていません。
震える少女はまだ誰だかわかっていなかったのですが、今年2019年6月23日の琉球新報に
 本人の証言が載ったといいます。生きていらしたのだ。よかった。
 当時7歳。8人の家族で生き残ったのは4人だったといいます。
 8月18日付けのしんぶん赤旗にも載っていましたので、それを紹介します。




2019年8月19日月曜日

博物館も夏にはいろいろな企画 

鳥の埴輪
写真がよくないですが、
実物はキリリとして素敵でした
夏休みも終わりに近づきました
今頃そんなこと言って、何やってるのといわれそうですが、夏休みには博物館も美術館も、その他の場所も、いろいろ企画を立てます。展示も特別展等、あれこれあるのです。
近所にあるものでも、案外知らなかったりしますよね。

私の家は、群馬の森(高崎市綿貫町)からそれほど遠くない場所。そこには県立歴史博物館と県立近代美術館があります。とはいえ、それほどでかけてはいないのですが。
 歴史博物館は、少し前、すっかり模様替えして、今は古墳や埴輪が大きく扱われています。群馬県としても、最近、古墳などを大きく宣伝しています。

今月で終わりになりますが、歴史博物館では
「集まれ!ぐんまのはにわたち 日本一の埴輪県」  
という展示を行っています。
そういえば,はにわの人気投票も行っていたなあ。
        
 

      右下の笑う表情の埴輪が、人気投票第1位。笑顔はみんな大好きなんですね。
                           




「群馬 」というのは、昔、馬がたくさんいたから??  誰もが思う疑問ですが、埴輪にも馬がたくさんいます。
かわいい表情のものも。下のように、破片から再現したものは、「よくまあ」、と思ってしまいます。恐竜など,歯1つからも復元するのですから、それを思えば、できるものなのですね。











ちなみに、上は私の住む町玉村町から出土の馬の埴輪。大きいことで知られています。

県内各市町村別に埴輪が紹介されているコーナーもあります。
自分の住む場所の近くに、こんなのがあったのかななどと知ると、なんだかうれしくなるものです。
東日本初公開、というものもありました。



常設展にも多くの埴輪が展示されています。
どんな人たちが住んでいて、どんな生活を送って、どんなことを考えていたのかと、ふっと思ってしまいます。
常設展示 埴輪がいっぱい

子どものころ、古墳は普通にどこにでもあるものと思っていました。
じつは古墳は近畿圏と北関東に多く、2つの大きな文化圏なのだと聞いて、びっくりしたものです。
耕地整理の折、撤去前に古墳を発掘していた時、三角縁神獣鏡が見つかり、大変貴重な鏡ということで、発掘現場も鏡も見に行ったこともありました。
小学校をあたらしく建てる時、予定地から大きな古墳がでてきて、朝鮮半島とのつながりをしめす刀の柄やら冠が出土したりと、考えててみれば、こうしたものが身近にありました。近畿圏と結ぶ、まるで現在の主要道のような広くまっすぐな道、東山道が出てきたり。浅間山方向に向けて、まっすぐ伸びていました。
 「東国文化」という言葉を、最近あちこちで目にするようになり、群馬の昔にもちょっと心を寄せたくなります。何しろ私たちのご先祖様の話ですから。

個人の思い出を書かれても、迷惑かもしれませんね。でも、地元のことを知るって、結構楽しいものです。
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富岡にある県立自然史博物館では、「同居いきもの図鑑」という企画展をやっています。
何のことかわかりますか?
私が子供のころ、養蚕農家だった藁ぶきの家の天井裏では、ネズミがゴソゴソしていて、時たま猫がとってきて、見せびらかしに来ました。
当時はまだほんの時折ですが時折ノミがでてきて、捕まえてつぶして退治したものです。年末の大掃除の折には、畳の下にDDTをまいたり。これは人にも良くない薬剤とわかって世界中で使用禁止に。その後も同じようなことが繰り返されています。農薬等の薬剤の使用で問題になるとき、DDTを思い出したりしています。
ハエもたくさんいました。今なら、ゴキブリが思い浮かぶでしょうか。
こんな身近なものも展示になるんですね。「へえ~」かもしれませんよ。

 チョウやカブトムシでも触れない子供がいるという昨今、子どもたちがどう思って見るのか、ちょっと想像がつきません。ペットのネコ・犬以外、他の生きものがいなくなった空間が心地よいとしか思わないのも問題でしょう。
  
  
こんなふうに、各場所で、様々な努力の結晶が見られるわけで、たまには訪ねてみるのもいいものと思います。
今回紹介したものは、既に終了間近なのですが。




2019年8月18日日曜日

伊勢崎空襲を語り継ぐ

戦争を戦争を語り継ぐ
 

猛暑の中、8月はテレビで戦争を伝える番組が放送されたり、新聞紙上に取り上げられたり、記録を語る催しが開かれたりもしています。何かご覧になられたでしょうか。

8月になると、思い出したりしたように取り上げる、と揶揄する人もいたりしますが、「忘れてはいけない・戦争はいけない」と、努力されている方々のことを忘れていると思います。
記憶の風化との戦い、とまで言われるのですから。何しろ、日本がアメリカと戦争していたことを知らない若者や、武力で領土を取りもどせなどという国会議員がいたりするのですから。

最後の本土空襲といわれるのが熊谷や伊勢崎などの空襲です。8月14日夜なのですから。一日早く終わっていたら、と語る人がいるのも無理のないわけです。
 伊勢崎の隣町・玉村町もこの日空襲を受け、死者も出ています。20名と聞いています。私の実家の隣家では玄関に焼夷弾が落ちたものの、不発弾で事なきを得たとのこと。
母はよく言っていたものです。「利根川・烏川沿いの町だから、もう戦争は終わる、と、川沿いに爆弾を捨てていったのだろう」。
 玉村での記録を丹念に記録を集めた人もいて、記録冊子を作り、またお墓を調べて、戦死者のリストを作成したりもしました。この方も、つい先日亡くなりました。
 黙っていたら、何もしなかったら、忘れ去られていくだけです。

伊勢崎で8月15日・16日に、戦争を伝える展示が行われていました。11回目。


伊勢崎の死者29名、1350発の焼夷弾が落とされ、火災が広がったといいます。
伊勢崎女子高(現在は男女共学になり、伊勢崎清明高校)の燃え上がる様子を絵に描いたものです。


↑ 大事な書類などの入った金庫を背負い、赤ちゃんを腕に抱いて逃げていた母親。金庫に焼夷弾にが当たり、背負っていた母親は死に、抱いていた赤ちゃんは生き延びました。
金庫はひしゃげているのがよくわかります。

こうした体験者の聞き取りを行い、その体験を紙芝居にして語ってくれます。
左写真は「星になった母」という聞き取りのお話です。
金庫を背負たお母さんのお話です。

この聞き取りをしたかたも、会場にいらしていました。


焼夷弾の実物


   



伊勢崎福祉プラザ1階の近くで、
気軽に立ち寄る雰囲気でした






こうした資料や写真を保存していた方がいて、こうしてそれを広めてくれる人たちがいるわけです。

B29が投下したビラ
















新聞にも体験や催しなどの紹介があります。
その中に伊勢崎にある素敵な形の塔の説明があり、
戦災で焼け焦げた跡がレンガに残っていると始めて知りました。立ち寄ってみました。伊勢崎駅にも近い場所です。
朝日新聞より

 素敵なデザインだな、といつも思っていました。用事のある場所が近くにあったので、何度も前の道を通ったものです。
 1915年に建てられ、レンガ造りに見えるけれど、実は群馬県最古の鉄筋コックリートづくり、レンガ張り。時報鐘楼塔。まだ時計もあまりない頃、皆に時刻を知らせていたのかもしれません。
レンガは確かに黒ずんでいます。これが戦火にさらされた傷跡。当然、上にある木造の部 分は消失。だいぶ後に再建され、取り壊しも言われていたものも、今は永久保存となっています。よかったな、と、つくづく思います。
 建物の後ろは小学校。
小学生たちに、この歴史を、末永く語り教えてほしいものです。

他にも2015年にできた「伊勢崎空襲を語り継ぐ会」主催の平和記念講演会の記事なども掲載されていました。「戦争の記憶、朽ちさせない」、と。市内の景観観光資源を調べてこられた方が、空襲が何らかのかかわりを持っているのを知り、立ち上げたといいます。

皆さんも、こうしたものに参加したり、調べてみたりしてみませんか。
暑い夏、さらに熱い火に焼かれた人々に思いを寄せて。









2019年8月12日月曜日

那須野が原博物館 昆虫化石の特別展

博物館見学はいかが

暑くて暑くて・・・38.9℃などという日が続くと、もう、何もやりたくない・・
一方で台風で大雨の場所も。
  最近は自然災害がクローズアップされてきているが、感覚的にも無理もない。
  地球温暖化の言葉が頭に浮かぶ・・・

暑い日、博物館に行ってきました。
那須野が原博物館

下仁田自然史博物館所蔵の昆虫化石が、今,那須にある博物館に貸し出されています。
 
  特別展「昆虫創世紀」

群馬野南牧村から長野の佐久市にかけて分布する兜岩層から産した昆虫化石は、とても保存が良いものです。それがこの昆虫展で紹介されています。

日本の昆虫化石産地3か所の化石を展示してあります





体がたやすくバラバラになってしまう昆虫・・だから化石として残りにくい。
産地も限られています。

兜岩の昆虫化石は
日本での
「保存の良い
  昆虫化石」
として選ばれて、展示されています。

触角から羽についている脈まで残っていたり。
小さな昆虫たちですから、拡大してみると、その見事さがよくわかります。


説明を追加


写真が悪くてすみません



 これらの昆虫化石は、下仁田町在住で教師をされていた
茂木伊一さんが集められたものです。 
同じ教師仲間三人組で、何度も何年も化石採集に通い、集め保管されたものでした。
兜岩からはかつて大量の植物化石が産出しました。茂木さんは特に昆虫に興味を持たれて集めたとのことです。

 化石産地を含む地域は国定公園に指定され、今では特別の許可がなければ、採集はできません。
かつての化石産地とみられる場所を調査しましたが、土砂に埋もれたためでしょうか、かつての産地と思われる場所もはっきりせず、化石も見つかりませんでした。

4年ほど前から昆虫化石の同定をされる方が、横浜から下仁田に通って、茂木さんの化石を調べて下さっています。おかげで、こうして発表することもできるようになりました。
茂木伊一さんはすでに亡くなられていますが、奥さんや子供さんたちも,とても喜んでおられます。
こんなパネルもたくさんあって、
昆虫進化を語ってくれます。

巨大トンボメガネウラの模型


今回の展示では海外の標本に加え、多くの博物館から貸し出された日本では名だたる昆虫化石が展示されているとのことです。
昆虫好きの人、化石好きの人にはうれしいものではないでしょうか。



この博物館は 那須の大地の生い立ちから自然、そこに住んだ人たちの歴史を展示してました。近隣の塩原には木の葉石と呼ばれる、多くの葉の化石の産出で知られる場所もあります。昆虫化石も見つかり、今回展示されています。 
開拓の歴史も語ります。開拓当時の住居

 開拓というと遠い昔のことのように思ってしまいますが、終戦後、海外からの引揚者が開拓に入り、苦闘した歴史もあります。
やせた荒れ地で作物は育たず、やがて酪農を始めた話をドラマでも見たことがあります。

今ではセレブの避暑地と皇室の那須御用邸のイメージの那須ですが、まるで違う顔見がえてきます。

那須野が原は扇状地  水を求めた戦い、それ以外にも風や石・・・
川が運んだ砂礫が作った扇状地。砂礫の大地は、水を地下に潜らせてしまいます。
水を求めて奮闘した地元の人の紹介もありました。
地元の高校の先生が電気探査で
水を探し当てていったそうです
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夏休み、あちこちで行事などあります。
博物館も候補のひとつに加えるというのはいかがでしょう。

そういえば上野の博物館の恐竜博は盛況だとか。夏休みが終わって、学校が始まったらいってみようかな・・・
 展示では北海道で発見されたむかわ竜が脚光を浴びているのでは。テレビでもずいぶん紹介されていましたし。
あの化石は町村合併の前の旧町名”穂別町””で発見されていて、合併で町名が鵡川(ムカワ)町になったものです。
穂別町のころ、魚竜化石の発見から「穂別博物館」という町の博物館もつくられていました。建物自体もアンモナイトをかたどった形をしているのでは。でも、行ったことなかった。
「穂別町」には夫の知人がいて、札幌にあった我が家にもきたこともあるし、クマやらシカの肉やらマツタケやらと、いろいろ頂きました。合併が無かったら、「ほべつ竜」になれるところだったのになあ・・・
   たかが名前、されど名前です。