2017年7月30日日曜日

大きな石も運ぶんだね 川の流れ

    川の水の大きな力

豪雨にさらされ、大きな水害のニュース映像が届きました。

濁流いっぱいの川を見たことありますか。 
もしご覧になったとしたら、そこは大きな川?もともとは小川のような川?

 私の家は、すぐ近くが利根川。「水害、心配かな・・」と言ったら、「利根川じゃなくて、中小河川が心配なんだよ」と言われました。たしかにそうですね。豪雨であふれ、決壊するのは、普段は小さな小川のような流れの川、だったりですから。利根川は、むしろ洪水対策の進んでいる川になるのでしょう。
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 下仁田町は鏑川という川に沿った町です。
川にある青岩公園は、西牧川(鏑川)と南牧川の合流地点。地質の全く異なる地域を流れてくる2つの川は、違った種類の石を運んできます。そこで、多くの種類の石が転がっていることになり、川原の石の観察会がしばしば開かれます。
場所は下仁田駅のすぐ近くです。

(ついでに書けば、この付近には大きな断層の中央構造線が通っています。断層は岩石がグズグズに壊され、周りから見れば柔らかくなっているわけで、それも、ここに川が流れていることに関係しているのでしょう)

青岩公園  かつては富岡市の小学生の遠足の
定番の場所だったそうです。青緑のこの岩は「青岩」と呼ばれています。

 
川原の石の種類の学習ばかりでなく、ちょっと違った視点でこの場所を見てみましょう。

上の青岩公園の写真で、木の下にある大きな石の拡大です。
川底からずいぶん上の方にあります。誰が運び上げた?

 川の中には青緑色の岩が露出しています。青岩と呼びます。
 左写真にある丸っこい大きな石、青岩の上に乗っています。でも2007年(平成19年)より前にはこの大きな石は、ここにはなかったのでは・・
  突然現れた・・・!!

 運んだのは・・と聞くと
「洪水!!」と答えが返ってきます。でも、頭の中では知っていても、実際に目の前にみると、実感がこもります。
他にも岩塊が転がっています。
洪水の時、水が青岩の上に運び上げた石を、いくつか紹介します。

細長い棒のような石が引っかかっています。
これ、岩石の柱状節理、です。
左写真のものを横から見ると、こんな感じ
これ、確実に2007年より前には、ここになかった




これも結構大きな石です。

もちろん、川原にも巨石がゴロゴロ












岩の位置を右写真に見えているものを、黄色矢印で示しました。

黄色の中は人です。














         
   次はこの川の2016年8月30日の大雨の後の写真です。この時、上の写真の石ころは、水面のずっと上に見えていますから、もっと水の多い洪水があったこともわかります。

上流側を見ると、こんな光景です。


これらの写真は
川にかかる橋から撮りました。

膨れ上がった濁流は大きな力を持っているはずで洪水の時は、石がぶつかるゴロゴロという音も聞こえたそうです。
この橋から写真を撮りました。
濁流は流れていますが、橋げたの下には
ずいぶん余裕があります。ですが、この橋がもう少しで水没しそうなこともあったそうです。その時は
この近くで浸水被害もありました。
いつもの川のようす


左は普段の川の様子です。
穏やかなものです。

 2007年の豪雨災害では、上流の南牧村が土砂崩れなど大きな被害を被り、ニュース映像にもなっていました。
 下仁田でも、この公園の上にある駐車場は水をかぶり、車が流されたとか。その折、この場所の橋は水をかぶりませんでしたが、そのわきにあった縫製会社は浸水し、反物が水をかぶってしまったといいます。今その場所の建物は取り壊されています。
ここの橋は水をかぶりませんでしたが、他の橋では、水没した橋もあったということです。
 青岩公園の近くには、下仁田の小学校中学校があります。子供たちは、ぜひこんな場所に来て、自然の力を学んでほしいものです。

 一方、昔ここには、こんなに砂利はなかった、という声もききました。
もっと水が深く、きれいだったとも。

  青岩公園入口付近に見られる小石の川原。
 小石が昔よりたくさんたまるようです。

右写真には草のはえた部分が見られますが、かつてはそんな部分はなかったと。
川の流れの様子も変わっていくようです。
 このすぐ下流で、用水の取水口ができてから、砂利が多くたまるようになったような気がする、という人もいました。 削ったり、運んだり、堆積させたり、「流れ」というのは、実に複雑なものです。ちょっとしたことが大きな影響を与えるのですから。

 最近は、防災教育というのが言われ、NHKの学校教育番組には、[学ぼうBOSAI]というものまであります。
川の石という、こんな身近なもので、防災の知識や科学的な感覚を磨くことができます。

 かつては、人は自然の大きな力を感じて畏れ神に祈ったわけですが、今、大きな力を持った人間は、自然をねじ伏せるだけでなく、自然の声に耳を傾ける姿勢を身につける必要が、以前にも増して必要なのかも。傲慢になりますから。
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 子供の頃、台風の後の利根川の増水した様を、見に行ったものです。怖いもの見たさですね。最近ニュースで「大雨の時、川の様子を見に行ったり、田んぼの様子を見に行ったりしないでください。危険です」などとしばしば言っています。その通りでしょう。でも、子供が利根川を見に行ったのは、台風が通りすぎて、青空が見えてきてからでしたから、見に行ってもOKだったかな・・。
 当時は戦時中の木の乱伐で、森の木の水を貯える働きが弱まり、洪水が起きやすくなっていたといいます。大変な「大水」という感じは、子供だったからだけではないのでしょう。
 今は「線状降水帯」などという言葉も出てきて、雨の降り方が苛烈になっているように思えます。自然を侮ってはいけないと、心底思います。
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 ~~~ ちょっとおまけの解説 ~~~~~
流水が物を運ぶ力は、流速のおよそ6乗に比例するということなので、流速が2倍になると運搬力は2×2×2×2×2×264倍、
流速が3倍になると3×3×3×3×3×3729倍!
さらに水が泥を含めば浮力が増して、ますます軽々と石を運べるというわけです。
石流のようになれば、それこそ、軽々でしょう。

 数字だけで見ていても、実際の大きさ・重さが感覚的にわからないのが、残念。
でも、6乗というのはびっくりです。1kgのものを運んできた水が、流れのスピードが3倍になると、729㎏のものを運べるということ? でも物の大きさ・形でも違ってきますよね。水の量はたっぷりとして,丸いのと平べったいのは、水の抵抗も違うでしょう。浮力も働くから、大きさ(体積)との関連も考慮せねば、・・・とか考え始めたら、えーい、面倒くさい・・誰かに教わった方がいい・・などと、すっかりナマケモノになりました。
    鏑川のあの大きな石を運んだ流れは、どんな流れだったのかな?
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発掘現場

 八ッ場ダム工事に伴う発掘現場の見学をさせていただきました。ちょっと前の、7月初めのことでしたが。
 大変ていねいな説明をしていただきましたが、まだ調査結果発表前ということで、内容や写真は、あまりお伝えできません。林地区の発掘現場で、天明噴火の時に埋まった畑あとで、畦が残っていました。中世の掘っ立て柱跡もありました。災害の後、すぐに復旧に取り組んだ場所と、そうでない場所といった違いなども、現場で説明していただきました。
中棚Ⅱ遺跡

実はこの地域は縄文時代の遺跡がとても多く、平成2年、3年の長野原町の遺跡分布調査で、180数か所もの遺跡記録が書かれたうち、半数は縄文、半数は平安といった感じだったとか。この縄文遺跡数はとても多いといえ、大規模集落がいくつもあったのだそうです。ここも掘り進めれば、きっと縄文遺跡も出てくるのでしょう。







 
 


 
 ところで、この見学、群馬県の機関に問い合わせて実現したのですが、実は別の場所をお願いしていたと聞きました。県からはOKが出ていたのですが、工事担当の国交省がダメ、と。住民がすでに全戸立ち退いていて、立ち入り禁止区域になっており、工事中で車両も動くから、と。再度問い合わせても、ダメと。
 これだけ聞けば、「危ないから」と理屈にあう話なのですが、でも、今、ダム工事見学を大々的に売り出していて、現場まぢかに立ち入る場合もあるような。先日は、NHKの探検バクモンでも、大々的にダム工事を賛美して放送してましたし。それと比べると・・・・よっぽど、発掘現場は見せてくないんだろう、関心を持ってほしくないのだろうと、思わずにはいられません。こうした文化遺産は、多くの人に見てもらうべきものなのでは。
 すべて破壊されて、以後、決して見ることのできない発掘現場。
発掘では、たいてい、見学会が企画され、新聞等で宣伝され、多くの人が見に行くもののような気がするのですが。我が家の近くでも、そういう企画は行われていました。
 多くの場所で、今は天明の噴火の遺跡から下に掘り進んでいて、縄文遺跡などが出ているのでは・・・ここは多くの縄文遺跡もある場所なのですがね。

 
 
 ところで、群馬県埋蔵文化財調査事業団のHPによれば、6月の発掘記録は、この八ッ場ダム関連が圧倒的に多いです。いかに大規模におこなわれているか、と思えてしまします。
 以下に、発掘最新情報を転載します。石畑岩陰石は、以前のブログで、貴重な遺跡なのにまだ取り組まれていないようだが、いったい発掘が間にあうのだろうかと書いた遺跡。始まったということですが、工事現場の駐車場の発掘とのこと。天明の畑跡などが出てきたといったものだそうです。核心部は、まだまだこれからでしょう。
下のリストでは石畑Ⅰ岩陰遺跡から下は、すべて八ッ場ダム関連です。


埋蔵文化財調査団のHPは以下です
http://www.gunmaibun.org/remain/iseki/hakkutu-iseki_list.html


2017年7月25日火曜日

尾瀬を訪ねました

暑さの日は山へ  空気さわやか

尾瀬ヶ原に行ってきました。月並みな写真ですが ちょっと紹介。
至仏山が間近に。 蛇紋岩の山で、独特の植物が育ちます。
登山道が踏みつけで荒れ、対策に苦慮しています。


7月22日、晴れてさわやかな日でした。暑いくらい。
周囲の山々もクッキリと。

夏の午後は定番の夕立。雨の前に、まさに滑り込みセーフで車に乗り込みました。運がよかった。

燧ケ岳 池塘に映る姿も見えました。
たまにはきれいな自然の中に出かけると、日々を心穏やかに過ごせると思いませんか。

黄色のニッコウキスゲ目当ての方も多いのでしょうが・・ですが、写真で見るように、目に入らないほど、わずか。周年変化で咲かなかったか、はたまた、シカの食害か。とはいえ、美しい自然が広がります。
。。。。。。。。

「優れた自然」という言葉があります。人が手をつけずに守るべき自然、そう、尾瀬に代表される自然。

 「夏が来れば思い出す
  はるかな尾瀬 遠い空
  ・・・」
 
ニッコウキスゲ
 幼いころ”夏の思い出”というこの歌を覚えて以来、尾瀬はあこがれの場所になりました。でもそれは「はるかな」場所でした。
 高校生の時、学校主催で、夏休みに希望者を尾瀬に連れて行くという話を聞き、夢かと喜びました。まだ、親が子供を連れてあちこち連れていくなんていうことなんて、ほとんどない時代でした。
トキソウ 小さなラン

 

 ニッコウキスゲ満開の時、それは本当に素晴らしい経験でした。
サワラン これも小さなラン
アサヒランともいい、  
高校生の時、この名前で教わった
 大清水から尾瀬沼への道、周囲の針葉樹から垂れ下がるサルオガセの姿も珍しく、たどり着いた湿原の美しさは、尾瀬沼のある大江湿原も、さらに尾瀬ヶ原も、こういうのを「優れた自然」というのだと誰もが認めるレベルのもの。さらに尾瀬の調査に参加している先生などから、そこに育つ植物について、また湿原の作り、でき方について、科学の目で見ることを教わったのです。

 生物の先生が「実物を見なければいけない」と主張され、実現した企画だったと聞きました。前年に赴任された先生で、この年が第1回目の見学会だったと、後で知りました。大型バス何台かで行ったと思います。

ワタスゲ
サギスゲというのもあるんだよというと、へえーと。
ちっとも気づかなかった、と、皆さん喜んでいました。
サギスゲ
 尾瀬は日本の自然保護運動発祥の地ともいわれます。
当時も尾瀬はその保護が問題になっていました。そのころの尾瀬では、踏みつけで傷んでしまった湿原を回復できないかと、スゲを植えている場所もあり、木道からそんな場所も眺めました。尾瀬沼では、走らせていた船を、油が流れたりすることなどから廃止したという話を聞きました。ここよりもっと美しかったというアヤメ平が、踏みつけで今では行っても仕方がないような場所となってしまったというのにびっくり。尾瀬入り口の大清水では、道路建設工事で木がずいぶん切られてしまったと聞きました。
ハッチョウトンボ
10円玉くらいの小さなトンボ
アブと間違いそう!しかも、気づかない。
群馬で見られる場所はわずか

ナガバノモウセンゴケ 
尾瀬と北海道サロベツ原野にしか自生しません
普通のモウセンゴケの葉は丸いですね。
モウセンゴケの花って、知ってました?
教えたら、一緒に行った人たち、大喜びしてました。
スーッと長く伸びた茎の先に咲くと、
モウセンゴケとはわからないのです













               大江湿原には長蔵小屋を開いた平野家のお墓があります。
こんなところにお墓があるなあなんて見ていたら、ヤナギランのお墓に眠る長蔵さんのことなども聞かせてもらいました。
ヒツジグサ
11時ころには咲いていたかな

 一緒に行った人で、おばあちゃんが長蔵小屋の奥さん、平野靖子さんと女学校が一緒だったという人がいて、お土産を持たせられていました。一人で届けるのは嫌だからついてきてと言われて、一緒に靖子さんのところに行きました。「雪があんなところまで積もるんですよ」などと話されたのが記憶にあります。お土産までもらっちゃいました。水芭蕉のデザインの針刺し。
 長蔵小屋では、先生方と小屋の方々とが挨拶しているのに出会いました。小屋の主人らしい人が、ちょっと後ろに立っている人を紹介していました。今思えば多分それが平野長英さんと息子の長靖さん。それから2年もたたない冬の日、平野長靖さんは、尾瀬への車道建設反対運動の中で亡くなりました。無理を重ねての過労の中での遭難死でした。
キンコウカとヒツジグサ

 今では誰もが認めるようになった「優れた自然」の尾瀬。手つかずの自然として残すべき財産として認められた尾瀬。でもそれがみんなの合意となるまでに、なんと多くの努力と犠牲のあったことか。
 尾瀬への車道建設に反対するということは、地元への裏切りと取られたことでしょう。もっと前、電源開発に尾瀬を利用しようというときは、反対すれば、「コケと人とどっちが大切か」などと言われたわけです。

 尾瀬の美しい自然を見ながら、長蔵小屋の人達を思い浮かべます。戦中、栄養失調で亡くなった子もいたそうです。小屋を継ぐつもりだった弟が大学時代に事故死し、長蔵小屋を継ぐことになった長靖さんは、北海道で新聞記者をしていて、小屋を継ぐことには大きな葛藤があったといいます。
 こうして、懸命に生きてきた何人もの方々を思わずにはいられません。こんなにも大きな犠牲をはらわなければならなかったなんて・・・
ミズチドリ

 生徒を尾瀬に連れ出してくださった先生は、その後、尾瀬の調査に出かけた折、道路から車が転落、命は助かったものの、その後、心のバランスを崩され、利根川に入水してしまったと聞きました。

 朝早く長蔵小屋をそっと抜け出して行った霧の大江湿原、そこではしっとりとぬれたニッコウキスゲが、今、花を開こうとしていました。
優れた自然は一瞬のうちに自然の価値を伝えてくれます。10代のころ、この自然に出会ったことを、幸せに思います。
ワタスゲとニッコウキスゲ


         
よく見ると、小さな花々があちこちで咲いています。ツルコケモモ、タテヤマリンドウ、スゲの仲間・・・食虫植物のタヌキモの仲間も見られます。
 子供は動くものが大好き。
イモリもたくさん泳いでいて、大喜び。 
 木道でちょこっと説明をすると、通りがかりの人もこちらに顔を向けてくれます。
ちょっとしたことでも、新しく知るって、うれしいものです。

ヒオウギアヤメ



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伊勢崎市の赤堀町に、ハスの花を育てたところがあると聞きました。ちょっと立ち寄ってみました。聞きましたら、5年ほど前からの公開のようです。ちょっと聞いた話では、もともとあったわけではなくて、新たにハスを植えて育てたようです。
左が林で小高い場所・戦国時代のお城の跡です

小高い場所にこんもりと森があり、その下が堀のようになっていました。そこにハスが咲いている。

戦国時代のお城・天幕(てんばく)城址とありました。ということは、ここはお城の堀?
近くに大き目の古墳もあり、それも堀があったようです。うーん、どういう関係かな?  








 手入れが大変だろうなあ、とか、蚊が発生することないのかな、とか、とにかく余分な雑念がうかんでくる・・・素直に楽しめばいいのに・・・ふと見ると、水の中を小魚がすいーっと泳いでいた・・・これなら蚊は大丈夫かな。考えてみたら、田んぼと同じだよね。
地元の方らしい人、「委託に出しているんだよ。去年はダメだったけど、今年はいいねえ」と言っていました。

すぐ隣には、用水堀があります。
大正用水と書いてあったかな?
この地域でも水を利用するために多くの努力を積み重ねていたのではと思えます。


 今の時期、暑いので、なかなか出ていかないですが、時にはどこかに立ち寄るのもいいかもしれません。
 赤堀は昔から花しょうぶが有名。女堀という、もとは水路のためだった所に植えています。さらに、すぐ近くには小菊の里という場所があり、秋には小菊がたくさん咲き誇ります。
   皆さん、地域を盛り立てようと頑張っているのではないでしょうか。




2017年7月17日月曜日

高低差をうまく利用 石灰工場の立地と乾燥施設

石灰岩の山、知恵を絞ってうまく利用しました
下仁田青倉の石灰岩の崖
以前は採掘していました

下仁田町の自然史館を少し南に行くと、石灰岩の白い岩山が見えてきます。

 石灰岩は利用価値が高く、ここの石灰岩についても、1659年の記録があるそうです。江戸時代から掘られてきたわけです。

青倉の鍾乳石
このあたりにお住まいの方に、石灰岩から生まれる鍾乳石を見せていただきました。
 石灰岩はゆっくりと水に溶かされ、その水がぽたぽた滴るとき、ふたたび石灰分が沈着し、つららのような「石」ができます。ですから、石灰岩の中にできた空洞、鍾乳洞に見つかり、大規模なところは観光地になっていますね。
 ここ青倉にも、鍾乳石が育っていたわけで、採掘の折、見つかることもあったわけでしょう。こんなのがぶら下がっていたと思うと、わくわくします。

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 ところで、この場所・青倉には、石灰に関係した工場があります。白石工業白艶華工場という1932年(昭和7年)第1期工事竣工という長い歴史を持つ会社で、自力で開発した技術で石灰石から細粒の炭酸カルシウムを製造しています。青倉の石灰石は、良質でした。今は原料の石灰石の採掘はやめたので、秩父から運んでいるとのことです。

白石工業 右端に石灰の崖、昔の乾燥施設が見られる 

 左写真の山の斜面の上から下へ造られている施設が工場。
何の変哲も無いのですが、実はここに知恵を凝らした工夫があるのを知りました。
 ちょっと紹介。

石灰石を採掘した場所は工場の上の山にありました。 
材料は、上から下へおろす。
自然の重力を利用・・合理的。

写真右端に白い崖・・これも石灰岩の崖です。写真に写る右端の場所で掘ったものは、ワイヤーを張って、かごに入れ、運んでいたとか。施設跡が少し残っています。


  • 山頂で原料を集める → 山腹で製品化 → 山麓から搬出  
      でもこれだけではありません。
  • 土地の高低差を利用しての水力発電。動力として、自力での発電を行っていました。
     下仁田は水車の力を使ってこんにゃく製粉を行っていましたが、
     同じ水力をこうして利用してもいたわけです。
  • この地域の気候を利用して製品の乾燥
     
    その乾燥施設とは、木で組んだ風の吹き抜ける棚。かつてはたくさんありました
     が、今では上の写真の右端に、わずかですが残されています。
下仁田が選ばれた理由は、ここの乾燥した気候にもあったわけです。
材料の木も、近くで調達できます。

広島で誕生した白石工業が下仁田に着目して工場を建設したのには、こうした条件に着目したとのことです。100年ほども前、情報を得るのも今のようにたやすくない時代、原料もエネルギーも地元で調達し、合理的な考えをもって始めたことは、なかなかのものだと思います。

人気の番組ブラタモリでは、高低差や崖、”きわ”の大好きなタモリさんが、ぶらぶら歩きながらあちこち紹介しています。「こういう高低差を利用した施設なんて言ったら、タモリさん、大喜びするんじゃないかな。」などと言っていた人がいました。本当に、そうかもしれない。

 下仁田にある中小坂鉄山でも、上から鉄鉱石を落とし、緩やかなトロッコに載せて自然の力で製鉄施設まで運び、流れてくる水をうまく利用し・・と、高低差をうまく利用していたなあ。知恵を絞って、努力していた優秀な人たちがいたといえます。

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「棚に、石灰の塊を人力で運び上げ、乾燥」。簡単に言っていますが、体力の必要な、大変な仕事だったわけです。その施設は、最盛期には100棟を超えていたといいます。下仁田町の方々がたくさん働いていました。
 今回たまたま、下仁田自然学校の関係者の方が、ここで働いていたことを知り、また当時の写真をお持ちだったことから、少々紹介してみます。白石工業ではもちろん写真を持っていますが、これと同じ写真は、ないとのこと。まだまだ、地元の方々などの手元には、いろいろな知られていない情報があるのではないでしょうか。


手前に林立するのが、石灰乾燥施設。
敷地のほとんどが埋め尽くされている姿に、圧倒されます。

下の写真はかつての工場全景。
後ろの山を崩し加工し、最後に下方にある乾燥施設で仕上げている様子がわかります。さらに手前に民家が立ち並びます。
  写真提供 堀越明子さん






















現在のこの付近の姿です
写真には感激しました。
堀越さんは、他にも当時の写真をお持ちです。記録として、こうした記録をまとめて残したら、いいだろうなあ。

なお、乾燥施設の記録保存調査冊子が下仁田町教育委員会により作成されています。平成25年のものです。当時働いていた方からの聞きとりも載っています。国の事業として、各県の産業遺産調査が実施されたようで、その時のものになるのでしょうか。

なお、白石工業と石灰・中小坂鉄山についてはこのブログでも、以前取り上げたことがありました。


 石灰
http://geoharumi.blogspot.jp/2014/06/blog-post.html

中小坂鉄山
http://geoharumi.blogspot.jp/2014/06/2.html

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ついでに近く(?)の石灰岩の鉱山を紹介。

  • 石灰岩採掘は、関東なら秩父の武甲山が有名。

石灰採掘で、山が半分削りとられています。
秩父武甲山 削られる石灰岩

武甲山
 左側が削られています。
いや、ちょっとわかりにくいか・・



叶山 写真提供 秩父太平洋セメント

  • 名前としては武甲山のように有名ではありませんが、神流町には大規模に採掘していて、山頂がすっかり削り取られた山があります。叶山です。そのうち、山がなくなる?


石灰岩採掘開始前の叶山  写真提供 細谷尚さん

これも叶山 平らになったところが削られた山頂
西御荷鉾の山から見た姿


 ここに見学に行ったとき、事務所の方が、八ッ場ダムの建設にはセメント材料として、この叶山の石灰が使われると話していました。ダムは、今、建設中です。
石灰岩の用途の最大のものは、この、セメントです。この石、東京のビルにも、高速道路にもなっているのでしょうね。

白石石灰のものは、セメントには使わず、もっと多種多様な用途に利用されています。




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全国では、今までにない豪雨に見舞われている人たちもたくさんいるのに、ここでは梅雨と言っても雨は降らず。
庭の花も枯れそう・・

いつもなら、梅雨に入るとネムの花が優しく咲きはじめ、花が終わるころから真夏・・でも今年はもうすっかり酷暑。
ねむの花も 今は写真のごとく,終わりの姿です。優しい花を、紹介しなかったのが悔やまれます。
「あとでいいや」はダメですね。
暑さに注意して、夏をのりきろう  です。