霜枯れの景色が広がってきました。
自然もちょっと一休み?
私もこのブログを,春までお休みしようかと。
ですが、冬なのに今を選んで開く花もあるのですね。
ビワの花は今満開。ほのかな香りも漂います。
目をとめてみませんか。
絵手紙 小林生子さん
サザンカ、水仙、ロウバイと、寒い外にも、
なじみの花が姿を見せます。
パンジーはすっかり「冬に咲く花」になりました
が、もともとは春の花。種苗会社の努力で、
冬にもにぎやかに咲くように品種改良されたと
いうことです。
年の瀬・・なんとなく、いろいろ振り返る気分になる季節。
今年前半のNHK朝ドラの「ひよっこ」は、庶民や若者たちの高度成長時代を描いていました。どこかで見た光景、触れた感触があちこちあって、時代の空気を伝えていました。
冒頭主題歌の場面で出てくる炊飯器の花柄模様、我が家にもあったなあ・・・工場の食堂や裏庭の、塗料が少しはがれたような細い柱・・この柱と雰囲気,記憶の奥にある・・などなど・・・よく再現しているなあ。もっとも、個人の感傷なんて聞きたくもないですよね。でも、下の新聞記事には考えさせられました。
かつて大規模開発された町の今の姿・・・かつての「ニュータウン」の今を10ケ所取り上げています。今となっては高齢者ばかりが多くなった町・・時代の変化とはいえ、何という様変わり。多摩ニュータウンのことを「使い捨ての時代は、町まで使い捨てしてる」などと話していたことあったのですが・・・
私は、この10カ所のうちの2か所を実際に知っているのです。
下の新聞記事の一番右側にある札幌市のもみじ台団地、この場所がまだできたばかりの時、まだ造成中の場所もあった頃をよく知っています。
高齢化率42.7%で、10カ所中のトップ。
場所は北海道開拓記念館・野幌森林公園のある地域といえば、思い浮かぶ方もいるかもしれません。この近くでは新札幌という駅が作られ、地域開発を盛んにしていたころです。
農地を開発して大きな住宅街を建設。若い世代急増で、中学校は1学年11クラス。1クラス45人学級の時代です。1クラス42~43名は普通、教室は机を置くと、ろくに隙間もないほど。昼休みに体育館で遊ぶにも、曜日で交代制。とにかく、子供であふれていました。
それまで、複式学級かといったような小さな学校で過ごしていた地元の子のなかには、戸惑った子もいたことでしょう。中学生時代は誰にとっても3年間。その3年間を少しでも豊かに過ごすにはどうしたらよいのか・・・なかなか難しいこともあったはずです。
沢の残った斜面にはリュウキンカやエンレイソウが咲いていましたが、それも住宅地に変わっていきました。
もう一つは明石舞子団地。日本の標準時の明石天文台のある明石の付近。舞子とは、何ともすてきな名前です。これも地名で、駅もあります。東へ行けば須磨の海岸へも続きます。なんだか源氏物語に出て来るような由緒ある名前がならんでいます。
垂水の駅から明石駅に、しばらく通ったことがありました。電車の窓から見える緩やかな斜面には隙間なく家が立ち並んでいました。この団地のさらに西の丘陵を開発して学園都市とか工場地帯とかにするというわけで、里山の丘陵地帯が一面はがされるようにして、削られていた頃です。こちらは西神ニュータウンといいました。「西神戸」です。神戸から地下鉄がつくられています。
ここは春には一面にツツジに覆われるような明るい雑木林の丘陵でした。
予測できたかもしれない変化にも、その時になっても手をこまねくばかり、という姿がしばしば見られます。なんだか賢くないなあ・・・かつてあこがれだった不動産は、今では「負動産」などと呼ばれたりして、あちこちで空き家が問題になっています。今人気のタワーマンションも、やがてどうなるか・・。
世の中そんなに思い通りにはいかないわけです。
この団地の造成のころからリゾートに狂奔していたころまで、日本中で自然破壊が叫ばれていました。実は今でも生き物の絶滅危惧種は増えるばかり。
こうしてちょっと振り返るだけでも、それなりの歴史が垣間見られるわけです。
あるとき、アンネ・フランクの生年月日を見て、目が釘づけになりました。
アンネの日記を書いたあのアンネです。1929年・・・・私の母の生まれたのが1924年。
母より年下・・まだ生きていて当然だったんだ・・・心に強く感じることでした。
それから、母の世代は女性が20歳で選挙権を持てた初めての世代だった・・今の若者には、歴史の教科書の世界の話としか感じられないのでは。
そんなことから、幾人かの人の生年月日を調べたことがありました。
ローラ・インガルス・ワイルダー、「大草原の小さな家」などの児童文学を書いた人。テレビ番組でも人気を博しました。あちこち開拓地とも言えそうなところに移り住みながら生活していく様子を描きました。このシリーズは大好きで、せっせと読んだものです。彼女の生きたのが1867年~1957年。ここでびっくりしたのは、ずっと以前に生きた人と思っていたのに、私と同じ空気を吸った時間があること。
こうして比べてみるだけでも、見えてくるものがたくさんあります。
はて、来年はどんな年となるのでしょうか。
不安ばかりつのりそう。
いえ、よい年をと願って、そのために少しでも寄与できることを願って。
わたしも、いろいろ学んでみたいものです。
少し早いですが、皆様どうぞよいお年を。
2017年12月11日月曜日
カモシカが目の前に
山すその民家のわきの道を歩いていたら、目の前を横切るものが・・
立ち止まってこちらを見て |
スタスタと道を横切り |
民家の裏の林に入っていきました
|
立ち止まってしばらくこちらを見ている カモシカって、こういう行動するのですよね |
毛皮の利用で、かつては幻の生き物になっていたカモシカ。昔、まだテレビが白黒放送だったころ、NHKの「自然のアルバム」?という番組で、”カモシカを撮影!!”と放送したのをなぜか覚えていました。ずっとあと、カモシカ特集の番組でその映像が出てきて、「ワー、私これ見てる!」とちょっと感激したものでした。
昔は人を見ると逃げたとききました。特別天然記念物になって、「人は怖くない」となってから こうして人のすぐ近くにもやってくるようになったとか。それにしてもこんなに近くで見たのは初めてでした。 また姿見せてね。 |
この日、初冬の里山で、1年分の薪集めと薪割、薪運びを手伝ってきました。
薪割りの機械があるのですね。ぐいぐい力づくで割っていく。この薪を薪ストーブで燃やします。
灯油・電気・ガス等で暖房する前まで、斧とのこぎりだけで冬支度の薪を準備していたわけで、、ずいぶん大変な大仕事だったろうとつくづく思いました。
ちなみに私の子供のころの暖房は、台所で燃やした桑の枝が燃えたあとの”おき”(この言葉、きっと子供には通じない)。稲を脱穀した後のもみ殻を蒸し焼きにしたものを一緒に入れておくと、ちょうど炭のような役割になって、コタツの中は長い時間温かい。
燃料はすべて自給自足でした。というわけで、桑の枝があるので、薪割りは無し。
みなかみ町、赤谷プロジェクトにて
左手から丈夫な刃先で押してくると、 木の目に沿って割れます。 |
「道草をして、何かに偶然出会う。そんな体験の蓄積が科学者を育むのに、意外さや想定外を受容する場が減っている」
これは、朝日新聞に載っていた生物学者の福岡伸一さんの言葉。どんな文脈で語られたかというと、ノーベル賞受賞とネット社会とのかかわりで。
インターネットの急速な普及で、社会が劇的に変わってきています。本当に便利になりました。世界の僻地と言われる場所の子供だって、ネットで多くを学習できるかもしれない。実際にそういう子供の話もあります。写真だって、誰でも簡単に撮れ、それを発信するのも自由。意見交換もできる。調べものだって、検索機能のすばらしさを満喫。本づくりなんて限られた特別な人しかできなかったのに、今ではお金もかけずに発信できる…。自分で作る楽しさをみんなが知って、やるようになっています。
お年寄はなかなか使えないといいますが、外に出るのが難しくなってきた人など、ボタン一つで情報が手にはいったり、誰かと交流できるわけで、とても役に立つのでは。特に、今の若い世代が老人になった時は、ごく普通に使うわけでしょう。
そこで、ふと立ち止まっての話です。ちょっと一部を抜き出して引用させてもらいます。そうだなと思う言葉を、太字にしてみました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「ネット社会の出現で、物事を調べるあらゆるプロセスが漂白されている。効率よく知識に到達できるので、学びのリアルさが失われてしまった。」
「イモを採ろうとツルを引っ張たら、探していたのとは違うイモが出てきたというような、偶然の副産物が生まれにくい。」 なるほど。ハッとしますね。
「自然は古代ギリシャで”physis”(ピュシス)という。それは混沌としていてとらえどころがない。チョウのさなぎを育てていたら、中から、寄生バチが飛び出してくることだってある。その驚嘆に意味がある。
ピュシスをロゴス(理性)であえて整理し、近似しようとするのが科学だ。だからおのずと限界があり、予期せぬ展開がある。」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
いろいろ経験したはずの大人で、この驚嘆の心と好奇心を忘れない人はきっと素敵な人。
あちこち道草して、たくさん楽しみたいですね。
sense of wonder (不思議さに驚嘆する感性)
「沈黙の春」を書いたレイチェル・カーソンの この言葉こそが大切。
戦争が終わり、子供たちは「好きなものを好きでいられる自由さ」の中で育つことができたと述べられていました。多くの子供が、好きなことを広く浅くやっていて、それが伏流水になっていると。
翻って今、政府は研究開発の戦略的重点化と称して、いくつかの分野に重点的に国費を投じ、競争させ、世界で競争できる若い人材を増やそうとした・・・・
馬の鼻先に人参ぶら下げて競争させているようにしか見えないけど・・・成果ばかり強調されて。
このところたくさん生まれたノーベル賞受者は、「好きなものを好きに」で育った世代ということは、今、競争させられている世代は、どうなるのでしょうか。
科学研究の世界ではしばしば「現場は疲弊」と言われていますよね。
未来のある子どもではないけれど、年取った世代も、せっせと「散歩」して、楽しいことを見つけて楽しんで、素敵な感性をもてるようにしたいですね。ネットの世界の素晴らしい所も、利用できたら、また世界も広がるし。
1か月前の朝、西の空にきれいな形の虹がかかりました。
色はちょっと薄いのですが。空も灰色なのですが、何といってもこの季節に虹というのが意外。虹といえば、夏の夕立後の東の空にかかるもの、という印象なので、なんだか意外でした。ちょっと玄関を出るだけでも、こんなものに出会えるわけです。
スマホの画面ばかりでなく、ちょっと実物の世界に目を向けてみようよ。
こう言うと、若者に嫌われるかな。
2017年11月30日木曜日
古くから利用した石・椚石
明日から12月。時のたつのを早く感じるのは、年をとった証拠?・・
すぐ近くの畑でイチョウが色づいています。あふれるほどたくさんの葉が日差しに輝きます。
この季節になるといつも思い出すのが、次の詩
金色のちひさき鳥のかたちして
銀杏ちるなり
夕日の岡に
与謝野晶子
このイチョウはギンナン出荷のために植えられています。
普通より粒が大きい。
大粒のギンナン |
柚子も
黄色く
たわわに
実る頃。
1週間以上も前になってしまいましたが、南牧村の石材・椚石を切り出している場所に行って、お話をうかがってきました。江戸時代から150年にわたり石を切り出しているといいます。
今頃になってしまいましたが、すこし報告を。
白い崖があります。石材産地です。
石工の碑は今のご主人の還暦の記念に作成したもので、文字は奥様が書かれたとのこと。
5代にわたる石工の青木石材。ここの歴史が感じられて、いいですね。
石切り場には碑が立てられていました |
5代 150年にわたる名前が書かれています |
この石は著名な場所にも使われて来ました。
財務省の玄関にも使われていて、その石を切り出したのは、左写真の奥。昭和8年~12年のことです。切って運び出して…大型の機械のないころ、これらの仕事は大変な作業だったでしょう。
原三角測点 |
青木さんの家にあった原三角測点の解説図 |
馬つなぎ石 |
解説も掲げてありました |
5角の柱状節理を使っています。 炭を入れて暖を取りました |
5角なので、合格祈願!? |
椚石の石垣 |
これも石垣です |
右の写真、親が赤ちゃんを抱いているように見える模様
があると言って、安山岩を「安産岩」。
椚石は以前は墓石に多用されたり、コンニャクの石臼に利用されたりと、身近な利用がありました。輸入石材が多く用いられるようになり、椚石の利用も減少しているとのことです。
江戸時代から続く歴史を残していきたいと語り、子供たちに語り、コンサートを開いて人をこの場所に招いたりと、様々なことを実践している青木石材店の青木さんでした。
長い歴史があるだけに、石工の世界のお話も聞かせていただきました。石工仲間だけに通じる秘密の言葉「符丁」があった、など。
私は以前、盃を頭に載せた?徳利を持った?だったか、そんな椚石の墓石を見たことがあります。なんだか楽しいですね。
この訪問の様子は、以下の本多優二さんのブログに載せられています。
http://geogunma.blogspot.jp/2017/11/blog-post_23.html
h
http://geogunma.blogspot.jp/2017/11/blog-post_22.html
2017年11月17日金曜日
ウナギよ 利根川に帰ってきて・・・
カムバック・ウナギ
表題のようなテーマで、利根川中流域の堰を見る企画がありました。一般の人たちで作る団体ですが、水管理の担当の方たちから、お話をうかがうことができました。
利根川は流域の人達に大切な水を供給してきました。以前は利水と洪水対策だけを考えていたと言えるかと思いますが、今、生き物との共存もテーマとなってきています。
ところで利根川をサケが上っていること、ご存知だったでしょうか。
利根川はサケ遡上の南限の川と聞きます。この川べりで育ち生活した私の母は、
時たまサケを見たと言っていました。きっと誰かが捕まえたのでしょう。
そういえば、サケの稚魚を育てて放流しませんかと誘われたこと、あったなあ・・
ちゃんと育てられそうもないので、参加しませんでしたが。
ある時(20年近くも前だったかな)、利根川のかわべりで、見かけない小さな魚を
見つけました。「流したサケの稚魚」と言われたこともあったなあ。
黄色で囲った3か所の場所を見学しました。マイクロバスで回りましたが、10時から4時近くまでの一日仕事になりました。
①坂東大堰 前橋や高崎の農業用水の供給などに貢献してきました
群馬県水産係の職員の方にお話をうかがいました。
ここから取水された水は、川の左岸では前橋市を流れて広瀬川・桃ノ木川となり、
伊勢崎のはずれで、再び利根川に合流します。
さらに、左岸にある取水口から取水した水を、暗渠で利根川を横断して右岸に持っていき、その水は天狗岩用水に入り、”やがて滝川に入る”と聞いて、え~・・・知らなかった。我が家の近くにある農業用水路といった感じの滝川は、烏川に注ぎ、すぐに利根川と合流します。縦横に走る農業用水路と川は、どうつながっているのか、見ただけではわからない・・・
いずれにしても農業用水として利用するために、大変な努力がはらわれてきたわけです。
海から川をさかのぼってくる魚には、サケ・アユ・サクラマスがいると聞きました。海と川を行き来する魚たち。まだ他にもそんな生き物はいるかも。
魚道整備を行っているが、うまく機能していないものも多いと、管理にあたっている県職員の方が説明の中で話されていました。
昭和22年のカスリーン台風で、天狗岩用水の取水口施設はすべて破壊されました。そこで写真にある取水口を建設することになったそうですが、当時の金額で事業費2億1900億円を費やしました。農林省で働いていた父はこの施設に思い入れがあったのでしょうか、この橋を一緒に通ったとき、あそこが取水口と説明してくれた記憶があります。さして興味もなかった私は「ふーん」と聞いていただけ。今となれば、もっといろいろ聞いておくのだったと悔やまれます。
②八斗島(やったじま) 利根川の治水基準点
「ここがあの八斗島なのか。一度は来てみたかった」と、ちょっと感激していた人もいました。 河口からの距離181.5㎞。
何の変哲もないだだっ広い川原ですが、2つの大きな川の合流点の下流です。
前橋市を流れ下る利根川と、
高崎市を流れる烏川の2つの川。
そしてここの川の中にかすかに見えるのが水位計かな?
ところで洪水時には人手を使って流量測定をするのだそうです。橋から浮子(ふし)を流して、一定区間を流れる時間を計測して流速を求め、その速度と河川の断面積から流量を測定する・・・台風が来た時、わざわざ川に近づいて、人が測る・・・危ないなあ、そんな「命がけ」のことやってるの?・・・ありがとうございます。このテクノロジーの時代、もう少し何とかならないのかなあ・・と、みんな思ったものです。
ところでここの橋、坂東大橋といいます。①で紹介した「坂東橋」とまぎらわしい・・・ここに橋を架けるのはいろいろ大変だったそうで、昔の橋の工事では死者も出たと聞きました。これも父が話していたのを思い出しました。橋は2004年に作り変えられ、今は新しい橋となっています。
③利根大堰
都市用水を東京や埼玉に供給するための取水を行っています。もちろん農業用水もあります。河口より154㎞、ちょうど川の中間点とききました。1968年完成。
大堰のすぐわきには水資源機構利根導水総合事務所があり、今回、職員の方にていねいに説明をしていただきました。
埼玉の学校の見学が年間3万人ほどあるとのこと。この日も小学生たちの姿が
ありました。
かつては田んぼの水を求めて水争いがあったわけです。
今、どれだけ取水するか、渇水時に取水制限をする場合はどうするのか等、治水は昔から難しい問題でしょう。
左図は、大堰と、その水を分配する水路の写真です。こうして 利根川の水を利用しつくしているのだなあと、あらためて感じたものです。
縄文時代、人々は水のあるところに集落をつくって生活しました。
今は「ここに住みたいから水を持ってきて」と当然のように要求し、ちょっと蛇口に手を触れれば、いくらでも清潔な水がでてくる・・・考えたら、すごく贅沢なこと。私でさえ子供のころ、井戸水を汲んで、お風呂に入るには、せっせと井戸の手動ポンプを押した記憶があります。
武蔵水路は利根川と荒川をつなぐものとか。この2つの川の取水量は、東京の都市用水の30~40%とか。もしこのシステムが破壊されたら、都市生活は成り立たない、まさにライフライン。でも、そんなこと、みんな知らない。
世界では今でも清潔な水を手に入れられない人たちがたくさんいることも、しっかり心に刻むべきと思います。
管理された水を手に入れられない人が世界に21億人もいるそうです。こうした水は病気も招き、多くの子供の命も奪っている・・・・
ちょっと想像すればわかる通り、この堰を魚が超えるのは難しい。それまで海と川を行き来していた生き物にとっては、生死にかかわる話でしょう。紹介したサケ・アユ・サクラマスだけではないはず。八斗島の上流の私の住む場所でも、例えば、モクズガニなどというカニがみられます。これは海から遡てくるカニです。昔はたくさん見たと、母が言っていたのを思い出します。
ここにはコの字型にマスをつくった魚道があります。改良型なのでしょう。この時期、サケが上っていました。サケの稚魚の放流を行っていますが、自然産卵も見られるようになってきたとか。
途中に柵をおろして、上に行けないようにしていました。サケが飛び上がっていましたが、越えられません。イベント用にとのこと…魚が見られるのはうれしいものの、なんだか、かわいそう。「とんでもない、不愉快だ」とおっしゃる方もいて、サケを見て喜んでいたのがちょっと恥ずかしい・・・
「夜には柵はとりますから大丈夫ですよ」とは言われましたが。
「ところでウナギは見かけますか」と職員の方に聞いてみました。「うーん・・うなぎは夜行性ですから」たしかにそうですね。うなぎは調査対象ではないわけです。それに、ウナギはたくさん群れているわけじゃないでしょうから、簡単に見ることはできないでしょう。
かつて札幌を流れる豊平川にサケを呼び戻そうという「カムバックサーモン」運動がありました。昭和40年代、川が汚れ、サケの遡上が見られなくなっていた・・・川をきれいにしてふたたびサケの姿を、と。放流事業をしてきましたが、今では自然産卵が増えているそうです。うれしい話です。
ところで今、魚たちを苦しめているのは、超えることのできない堰など。
うなぎの漁獲高グラフをご覧ください。利根川側河口堰(河口近くにある)運用開始以後、急激に減少が続いています。かつて利根川・霞ヶ浦でのウナギのシラス捕獲量は日本1だったそうです。利根川はウナギたちにとって、大好きな場所だったわけです。
うなぎに発信機を付けて放流したところ、利根大堰より上流で放流したものは堰より下流には下っていなかったとか。あの堰を超えるのは難しいのでしょうか。
一層の調査研究も必要でしょう。
ごく最近、二ホンウナギたちの産卵場所が見つかりました。西マリアナ海海嶺・・なるか遠くから日本にまでやって来るウナギたち、彼らをもっと暖かく迎えられないものでしょうか。さらに人が食べつくしてしまうことのないように。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
かつて、河川管理の会議で、ダムの下流で水がなくなっていることを問題にしたら(本当に、まったくなくなっている)、「なぜ水がなければいけないんですか」と言われて、何度説明をしても理解してもらうことができなかったという話を読んだことがあります。もちろん、生き物のことなんて、頭にない・・・自分の都合にしか目が向いていない・・・そんな時代から、すこしは変わってきたのでしょうか。
平野は、もともと、川が好き勝手に流れを変えて、小石や砂・泥を置いていってできたものです。広い関東平野だって同じ。その流れを、ひとところに閉じ込めて流れてもらおうというのが、今の河川です。力ずくで抑えようというのは、自然を見くびっていることになるでしょう。自然はそんなにヤワじゃない。また、もともとそこに住んでいた生き物たちも、私たちよりずっと以前からの住人です。人の都合だけを考えるのでなく、川や生き物とも少しでも仲良くやっていけるように知恵を絞ることは、とても大切なことと思うのですが、いかがでしょう。
カムバック・ウナギには、そんな願いも込められているように思えました。
桜井善雄さんの「水辺の環境学 生き物との共存」という本が手元にあります。何冊もの続編もあります。発行年を見たら、1991年。 遅々としたあゆみ・・・でも、公の機関が生き物との共存といい始めたのですから、変わってはきているのでしょう。
表題のようなテーマで、利根川中流域の堰を見る企画がありました。一般の人たちで作る団体ですが、水管理の担当の方たちから、お話をうかがうことができました。
利根川は流域の人達に大切な水を供給してきました。以前は利水と洪水対策だけを考えていたと言えるかと思いますが、今、生き物との共存もテーマとなってきています。
ところで利根川をサケが上っていること、ご存知だったでしょうか。
利根川はサケ遡上の南限の川と聞きます。この川べりで育ち生活した私の母は、
時たまサケを見たと言っていました。きっと誰かが捕まえたのでしょう。
そういえば、サケの稚魚を育てて放流しませんかと誘われたこと、あったなあ・・
ちゃんと育てられそうもないので、参加しませんでしたが。
ある時(20年近くも前だったかな)、利根川のかわべりで、見かけない小さな魚を
見つけました。「流したサケの稚魚」と言われたこともあったなあ。
利根大堰の魚道を上るサケ 今年の11月9日 |
小さな魚、これはオイカワでしょうか |
黄色で囲った3か所の場所を見学しました。マイクロバスで回りましたが、10時から4時近くまでの一日仕事になりました。
①坂東大堰 前橋や高崎の農業用水の供給などに貢献してきました
群馬県水産係の職員の方にお話をうかがいました。
ここから取水された水は、川の左岸では前橋市を流れて広瀬川・桃ノ木川となり、
伊勢崎のはずれで、再び利根川に合流します。
さらに、左岸にある取水口から取水した水を、暗渠で利根川を横断して右岸に持っていき、その水は天狗岩用水に入り、”やがて滝川に入る”と聞いて、え~・・・知らなかった。我が家の近くにある農業用水路といった感じの滝川は、烏川に注ぎ、すぐに利根川と合流します。縦横に走る農業用水路と川は、どうつながっているのか、見ただけではわからない・・・
いずれにしても農業用水として利用するために、大変な努力がはらわれてきたわけです。
坂東大堰 橋は坂東橋 |
橋の欄干の隙間から見えるコンクリートの 四角いところが取水口・坂東大堰合口。 |
橋から下を見ました。この日は水量が多く、 吸い込まれるような迫力でした。 |
魚道。古いタイプのもので、 果たしてどれだけ魚が上がれるか・・・ |
海から川をさかのぼってくる魚には、サケ・アユ・サクラマスがいると聞きました。海と川を行き来する魚たち。まだ他にもそんな生き物はいるかも。
魚道整備を行っているが、うまく機能していないものも多いと、管理にあたっている県職員の方が説明の中で話されていました。
昭和22年のカスリーン台風で、天狗岩用水の取水口施設はすべて破壊されました。そこで写真にある取水口を建設することになったそうですが、当時の金額で事業費2億1900億円を費やしました。農林省で働いていた父はこの施設に思い入れがあったのでしょうか、この橋を一緒に通ったとき、あそこが取水口と説明してくれた記憶があります。さして興味もなかった私は「ふーん」と聞いていただけ。今となれば、もっといろいろ聞いておくのだったと悔やまれます。
②八斗島(やったじま) 利根川の治水基準点
「ここがあの八斗島なのか。一度は来てみたかった」と、ちょっと感激していた人もいました。 河口からの距離181.5㎞。
何の変哲もないだだっ広い川原ですが、2つの大きな川の合流点の下流です。
前橋市を流れ下る利根川と、
高崎市を流れる烏川の2つの川。
そしてここの川の中にかすかに見えるのが水位計かな?
ところで洪水時には人手を使って流量測定をするのだそうです。橋から浮子(ふし)を流して、一定区間を流れる時間を計測して流速を求め、その速度と河川の断面積から流量を測定する・・・台風が来た時、わざわざ川に近づいて、人が測る・・・危ないなあ、そんな「命がけ」のことやってるの?・・・ありがとうございます。このテクノロジーの時代、もう少し何とかならないのかなあ・・と、みんな思ったものです。
ところでここの橋、坂東大橋といいます。①で紹介した「坂東橋」とまぎらわしい・・・ここに橋を架けるのはいろいろ大変だったそうで、昔の橋の工事では死者も出たと聞きました。これも父が話していたのを思い出しました。橋は2004年に作り変えられ、今は新しい橋となっています。
③利根大堰
都市用水を東京や埼玉に供給するための取水を行っています。もちろん農業用水もあります。河口より154㎞、ちょうど川の中間点とききました。1968年完成。
利根大堰 |
大堰のすぐわきには水資源機構利根導水総合事務所があり、今回、職員の方にていねいに説明をしていただきました。
埼玉の学校の見学が年間3万人ほどあるとのこと。この日も小学生たちの姿が
ありました。
かつては田んぼの水を求めて水争いがあったわけです。
今、どれだけ取水するか、渇水時に取水制限をする場合はどうするのか等、治水は昔から難しい問題でしょう。
左図は、大堰と、その水を分配する水路の写真です。こうして 利根川の水を利用しつくしているのだなあと、あらためて感じたものです。
縄文時代、人々は水のあるところに集落をつくって生活しました。
左から邑楽用水路・埼玉用水路・武蔵用水路・見沼用水路 それぞれに水をわけています |
武蔵水路は利根川と荒川をつなぐものとか。この2つの川の取水量は、東京の都市用水の30~40%とか。もしこのシステムが破壊されたら、都市生活は成り立たない、まさにライフライン。でも、そんなこと、みんな知らない。
魚が登りやすいタイプという魚道 |
管理された水を手に入れられない人が世界に21億人もいるそうです。こうした水は病気も招き、多くの子供の命も奪っている・・・・
ちょっと想像すればわかる通り、この堰を魚が超えるのは難しい。それまで海と川を行き来していた生き物にとっては、生死にかかわる話でしょう。紹介したサケ・アユ・サクラマスだけではないはず。八斗島の上流の私の住む場所でも、例えば、モクズガニなどというカニがみられます。これは海から遡てくるカニです。昔はたくさん見たと、母が言っていたのを思い出します。
ここにはコの字型にマスをつくった魚道があります。改良型なのでしょう。この時期、サケが上っていました。サケの稚魚の放流を行っていますが、自然産卵も見られるようになってきたとか。
途中に柵をおろして、上に行けないようにしていました。サケが飛び上がっていましたが、越えられません。イベント用にとのこと…魚が見られるのはうれしいものの、なんだか、かわいそう。「とんでもない、不愉快だ」とおっしゃる方もいて、サケを見て喜んでいたのがちょっと恥ずかしい・・・
「夜には柵はとりますから大丈夫ですよ」とは言われましたが。
「ところでウナギは見かけますか」と職員の方に聞いてみました。「うーん・・うなぎは夜行性ですから」たしかにそうですね。うなぎは調査対象ではないわけです。それに、ウナギはたくさん群れているわけじゃないでしょうから、簡単に見ることはできないでしょう。
かつて札幌を流れる豊平川にサケを呼び戻そうという「カムバックサーモン」運動がありました。昭和40年代、川が汚れ、サケの遡上が見られなくなっていた・・・川をきれいにしてふたたびサケの姿を、と。放流事業をしてきましたが、今では自然産卵が増えているそうです。うれしい話です。
柵で上にいけないようにしているので、たくさんのサケが見られました |
うなぎの漁獲高グラフをご覧ください。利根川側河口堰(河口近くにある)運用開始以後、急激に減少が続いています。かつて利根川・霞ヶ浦でのウナギのシラス捕獲量は日本1だったそうです。利根川はウナギたちにとって、大好きな場所だったわけです。
小さな超音波発信機をウナギに取り付けて行動を調べます。 |
一層の調査研究も必要でしょう。
ごく最近、二ホンウナギたちの産卵場所が見つかりました。西マリアナ海海嶺・・なるか遠くから日本にまでやって来るウナギたち、彼らをもっと暖かく迎えられないものでしょうか。さらに人が食べつくしてしまうことのないように。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
かつて、河川管理の会議で、ダムの下流で水がなくなっていることを問題にしたら(本当に、まったくなくなっている)、「なぜ水がなければいけないんですか」と言われて、何度説明をしても理解してもらうことができなかったという話を読んだことがあります。もちろん、生き物のことなんて、頭にない・・・自分の都合にしか目が向いていない・・・そんな時代から、すこしは変わってきたのでしょうか。
平野は、もともと、川が好き勝手に流れを変えて、小石や砂・泥を置いていってできたものです。広い関東平野だって同じ。その流れを、ひとところに閉じ込めて流れてもらおうというのが、今の河川です。力ずくで抑えようというのは、自然を見くびっていることになるでしょう。自然はそんなにヤワじゃない。また、もともとそこに住んでいた生き物たちも、私たちよりずっと以前からの住人です。人の都合だけを考えるのでなく、川や生き物とも少しでも仲良くやっていけるように知恵を絞ることは、とても大切なことと思うのですが、いかがでしょう。
カムバック・ウナギには、そんな願いも込められているように思えました。
桜井善雄さんの「水辺の環境学 生き物との共存」という本が手元にあります。何冊もの続編もあります。発行年を見たら、1991年。 遅々としたあゆみ・・・でも、公の機関が生き物との共存といい始めたのですから、変わってはきているのでしょう。
2017年11月1日水曜日
川の水の中和 品木ダム見学してきました
品木ダム見学
紅葉いっぱいの日・・・雨模様の天気が恨めしい。 ところで、この湖の色 ちょっと変わっていますね。
品木ダム |
草津温泉は、流れ出る湯が強酸性(pH2.31 )。この水を中和させて中性にするという事業があり、1964年(昭和39年)から運転開始しています。
そこで思い浮かぶのが畑にまく石灰。土の酸性を緩和するために細粒にした石灰をまきます。でも、ここは規模がちがう。
1日50~60t!
年間約1万8千tの石灰投入!
ダムから流れ落ちる水 |
そんな場所なので水にいろいろ混じりこんで、こんな色に見えるのかな。
品木ダム水質管理所では、申し込めば解説をしてくれます。中和事業は理科の教科書に載っており、学生などの学習も多いようです。年間2万人ほどの来訪があると聞きました。解説にも力を入れているようです。。案内・解説お願いしました。
この石灰、下仁田から運んでくるのだそうです。とはいえ、もともとの石灰岩は下仁田産のものではなく、神流町の叶山のものとのこと。
到着したタンクローリー |
どうして中和をするの?
★魚の住めない「死の川」だった
★農作物への酸性による被害
★そして、酸性の水はコンク
リートを溶かし、橋の橋脚
などにも被害が。
釘も溶かす・・ この写真、科書にのっていたなあ |
こんな話は理科の教科書にも載っています。
下の写真は、草津温泉から流れてくる湯川の水に、石灰の混じった水を注いでいるところ。24時間体制。停電時の自家発電設備も持っているとのこと。
一時もやめるわけにはいないのです
下流側では石灰で水が白く濁って見えています。 |
これで中和して万々歳と言えなところが辛いわけです。
この中和事業の年間予算は10億円。
内訳は
石灰の運搬費用:約2億円
品木ダムの浚渫費用:約3億円
その他:電気系統管理・施設メンテナンス・品木ダムに流入する川へ貯砂ダム設置費用など
浚渫?・・・
品木ダムに流れ込む湯川にある貯砂ダム |
まわりからダム湖に流れ込む土砂を減らすための貯砂ダムもありますが、結構土砂でいっぱいになっている・・・今のところ問題はないのでそのままとのことですが。
ダムと周囲の位置関係をご覧ください。
ダム湖にたまったものはどこへ
中和作用では、何か「できるもの」があります。草津の湯は硫酸系の水だそうで、そこに石灰を投入したら、硫酸カルシウムができてくるはず。これって、石膏の主成分ですよね。石膏って、石膏ボードとかギプスとかその他、あれこれ利用する白い粉のイメージ。・・というわけで、1日に50~60tも石灰を投入して石膏成分ができたら、なんだかすぐ埋まってしまいそう・・・
今の処分場 |
というわけで、沈殿するものは白い石灰や石膏のようなものかと思っていたら、ちょっと違いそう。色も黒っぽいようです。
すでに満杯の処分場 |
堆積物をリサイクルできないか・・・お金がかかってしまって、コスト面で現実的でない・・こんな山の中に工場もないし・・捨てるのが一番安価。
それに、この堆積物にはヒ素が混じっているため、さらに処分に気を遣うことになります。2004年の資料で、ヒ素の量は1キロ当たり最大5.6gで、農地での土壌環境基準の370倍超(やんばあしたの会の資料から)。
左の写真の中ほど遠くに、湯けむりが見えます。これは万代鉱という、草津温泉の泉源の一つです。ここの湯は中心街の湯畑のまわりではあまり使いませんが、周辺の温泉では多く使っていて、この2つで源泉の多くを占めているとのことです。湯畑は少なくとも1,000年の歴史のある源泉ですが、万代は1970年に硫黄鉱山掘削中に湧出した新しい源泉。万代鉱などにはヒ素が含まれていて、品木ダムにたまる・・・
ヒ素と聞いただけで、いやだな、と思いますが、自然由来でヒ素はあります。火山地帯などでは、ヒ素が見られたりします。たとえば、ヒ素を含む鉱石があったら、温泉に溶けだすこともあるわけです・・・解説の方は堆積物のリサイクルをするとしたら、ヒ素があっても、物によっては利用できますと説明していました。
ここの堆積物は産業廃棄物、法律では管理型なので下に遮水シートを敷かなければならないのですが、処分場は品木ダム周辺で、しみ込んだヒ素等は品木ダムにもどるため、群馬県との協定で、シートをしかなくてもよいことになっているとか。ということは、ダム周辺以外には簡単に捨てられない・・いやあ、想像しただけで、あれこれ大変。
今のところ、中和する方法としては、この石灰投入の方法が一番安上がりとのこと。それでも、大変。投入量を細かく調整したり、努力はしていると・・
「もっといい方法ありませんか。募集中」
とは、水質管理事務所の職員の方の弁。
ところで実は、この品木ダムの完成が、一度消えかけた八ッ場ダム計画を復活させたのです。コンクリートのダムは、酸性の水で溶けてしまいます。中和事業のおかげで、コンクリートの構造物建設が可能になりました。目的の1つでもあったのかな?
そうして、再びダム建設へ走り出したという歴史があります。
自然界も、人間界も、複雑に入り組んでつながっていると、つくづくと思います。
それを見通せるように賢くならねばとは思うのですが・・
ところで、草津白根周辺の中和事業は、実施されているのは4割です。
まだまだ酸性河川はたくさんあります。下図です。
万座温泉付近が目立ちます。
実は以前、「吾妻川上流総合開発事業」というものがありました。平成23年国土交通省関東整備局の報告書がHPに載っていると、専門家の方から教わりました。
ですが、この事業、ダムを試みるとしたら、お金がかかりすぎる、技術的面でも難しい…ということで中止と提案しています。水質改善として、プラント方式に触れていますが、ちょっとやってみて、それだけで中止されていて、今は何もやっていません。
この広大な自然、そんなに人間の思うようにはいかないと、つくづく思います。
川全体を中和しようなんて、世界でも他にない、と解説の方が言っていました。
小規模には秋田県の田沢湖で実施しているそうです。
かつて高い透明度を誇っていた田沢湖、クニマスなどが生息していて漁業も成り立っていたといいますが、ここに玉川温泉の水を引き入れ、クニマスは絶滅、それが2010年西湖で発見されたのは、さかなクンの活躍もあって、知る人も多いかもしれません。
どうしてそんなことをしたか・・食糧増産と発電といいますが・・玉川温泉はpH1.05 で日本で一番の強酸性の温泉。こちらは塩酸系の温泉。温泉としては大人気ですが、農作物等にとっては川に入った温泉水は農作物の生育を阻害し、「毒水」と恐れられていました。その水を田沢湖に入れたわけです。薄めるつもりだったのでしょうか。1940年のこと。結果は、惨憺たるもの・・・。その後石灰石に酸性水をまいて中和を進めたり、1991年には中和施設も運用開始したり。でもまだ田沢湖は改善への努力中といいます。
クニマスがまた田沢湖に住める日の来るのを待ち望みます。
人の知恵も、なかなか総合的には働かないのですね・・・
自然の力、自然のバランスを侮ってはいけない…そう思えてきます。
鉱山の排水などでも、酸性水の処理には四苦八苦しているものかと思います。
一方、草津に行くと、「チャツボミゴケ」への案内板も見えます。群馬鉄山の酸性の跡地に育つコケが観光資源になっているわけです。行ったことないから、いつか行ってみようかな。
ちなみに、下仁田の鉱山跡の排水(pH4.5程度のようです)に育つコケも、ちょっと魅力的です。
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上野三碑が「世界の記憶」(旧・記憶遺産)に登録決定!!
おめでとうございます。
文化をきちんと評価し、大切にすることは、人類の豊かさをうむと思います。
「アンネの日記」や「ベートーベンの第九の楽譜」が登録されているとしばしば紹介されますが、日本で最初に登録されたのは、筑豊炭田の炭鉱夫だった山本作兵衛さんが描いた筑豊の生活の絵と文。申請は参加できるおそらくたった1回のチャンスだったといいます。まだ他の申請者たちの準備が整わなかったので、リストに滑り込ませてもらえた・・そのあとからは、国宝級の文書等が目白押し。リストに加えてもらうのはまず無理。
ですが、作兵衛さんの作品を見た審査員たちは、激賞したと聞きます。
ネットで作品、見られるはず。
碑のある山名丘陵は、春先の新緑と桜が魅力、しかも昔から道がきれいに整備されています。手入れしてくれる方々がいるわけです。春にはしばしば散策したものです。以前にこのブログでも紹介しました。夏は暑苦しくてダメですが、春や秋、散策はいかがでしょう。
以下で紹介しました。
上信電鉄に沿って・天井川
http://geoharumi.blogspot.jp/2014/10/blog-post_11.html