2019年9月28日土曜日

マンガンの鉱石

身近にありました 
   マンガンを掘った跡

部屋の整理をしていて、黒い石を手に取りました。

これ、昔、下仁田町で掘られた鉱石のかけら。
マンガンの鉱石
下仁田町で採集

ところでこの石、磁石を狂わせるのです。
それと知らずに写真を撮っていたら、GPSがちゃんと働かず、位置情報がとれなかった・・と。

「 それじゃ、磁鉄鉱だろうさ、
 下仁田町では、昔、近代的製鉄所まで
  造られたのだから 」
と、誰でも思うことでしょう。 
でも、違うのです。
 採掘目的は、鉄ではなくて、マンガン

この鉱石は磁鉄鉱ではない!!
 



写真がマンガンを掘った跡です。黒い部分が目的の鉱石  


黒い部分が帯のようにみえます   
小規模ですが 


まわりの岩石は、層状チャート 
薄い層がたくさん見えています。
                             


昔、こうした採掘跡で遊んだという、この山の持ち主に、この場所を教わりました。
磁石が狂う、という話も、もちろんご存知。

ところでマンガンって何?

 「マンガン乾電池」 とあります。
 最近はいろいろな電池がありますが、いちばん古くからあるタイプの乾電池、この中に入っている黒い粉が二酸化マンガン。
 ここで、「どこかで聞いたような・・?」と思った方もいるかも?
小学校や中学校の理科の実験で酸素をつくるとき、過酸化水素水に入れた黒っぽい小さなかけらが二酸化マンガン、きっと「触媒」なんていう言葉がテストに出たはず。

鉄とマンガンの合金は硬く、鉄道のレールや橋などに使われ、ビール瓶のあの茶色っぽい色もマンガンだとか。鋼の強度・硬度に重要なもので、実は産業界にはとても大切なものとか。 

磁性を持つ理由を、鉱物に詳しい方にうかがいました。この鉱石にありそうなマンガンをふくむものいくつかを教えていただきました。

 ★軟マンガン鉱(パイロルース鉱) MnO2 が主成分   黒い
           これはまさに 二酸化マンガン。
   マンガン鉱物が風化などで酸化してできたりするとか。他の成因もあるようです。

 ★ヤコブス鉱  MnFeO  黒くて磁性を持っている  
     磁鉄鉱のFe2+  をMn2+で置き換えたもの。  磁鉄鉱はFe3O4
        (磁鉄鉱とは固溶体をつくる)

  そうか、これが入っているのか

★鉱石に何やら白っぽい
     ものが    
 菱マンガン鉱(ロードクロサイト) 
   MnCO3
  
これをピンク色と説明されて、ピンク? と聞き返してしまいました。
ま、いいか。「赤土」も、赤というより茶色だものね。
バラ色から赤の美しいものもあるのだとか。

他にもマンガンを含んだ鉱物としていろいろな名前が本に載っていますが、まずは満足。

こうした小規模な採掘は、戦後、海外からの安価な輸入品に押されて、皆、廃業となっていきました。多分、あまり利益にはならなかったのでは。
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 阿寒・摩周湖を訪れたブラタモリ 
「マンガン鉱物が水の流れる陸で作られている貴重な場所」
   
オンネトーの滝の水の流れる岩に、黒っぽいものが張り付いている。
 ノリ?コケ?・・もうちょっと自然のことを知っている人なら、ランソウ?  というかもしれないような見た目。
 マンガン鉱物って、どこで生まれる?

 深海の底にマンガン団塊というジャガイモかお団子のようなものが転がっているそうです。マンガンのたくさん入ったものが、どうやら海の中でできるらしい。軟マンガン鉱でできているとか・・・いろいろ複雑で難しそう・・・
 とにかく、私たちの目の前でマンガン鉱物のできるのが見えるのは、とても珍しいことなのでしょう。

深海に放散虫というプランクトンが降り積もってできた岩石がチャート。
ここで見たマンガン鉱石は、見事な層状チャートの間に挟まっていました。
中古生層のチャートにはさまれた小規模な層は日本全国に見られるそうです。
チャートの生まれる深海底にマンガン団塊が転がっていて、それが今、脈状のマンガンの鉱石になっている・・・なんだか、つじつまの合う話に思えるのですが、どうなのでしょう。海底火山噴出に伴う海底熱水活動に関わるなどと説明しているものもありましたので、なかなか複雑なのでしょうか。
マンガン鉱床は他にもいろいろな成因があるようです。

ちょっとした山あいの岩からも、過去の自然の営みの神秘が感じられました。
こんな場所を教えていただいて、ありがとうございました。








2019年9月26日木曜日

北海道の”香り””

 北海道から
        マツタケ   が届きました

毎年、今頃、トドマツの葉に包まれて、マツタケが届きます。
 北海道で大停電のあった地震の震源近く、鵡川町穂別に住む方が山で採ったものです。


北海道で?? 
そう、採れるんです。
アカマツの林でなく、どうやら北海道に育つトドマツの林の中のようです。探すの大変だろうな。

松茸ご飯、茶わん蒸し、吸い物・・・まだあります。感謝。





思い出を共有するって、なんだかうれしいですね

NHK朝ドラ、アニメ界草分けの女性が主人公。
 この中に十勝の風景が出てきます。

 バターを使ったお菓子屋さんのモデルは十勝が本拠地の六花亭、そのお菓子の包装紙に描かれた素敵な絵を描いたのは酪農家、実在の人物は坂本直之さん。こんなことがすぐに頭に浮かぶのも、なんだか楽しい。
 北海道に住んでいた時、本州に帰るときのお土産には、この包み紙の六花亭のお菓子を買ったものです。ホワイトチョコレートを日本で初めて作ったのがこの六花亭とのこと。「お土産はホワイトチョコレートお願いね」といわれて知りました。六花亭は千秋庵という大きな菓子屋から袂を分かって頑張っていると聞いたこともあります。

 札幌で私が住んでいた場所には、道路を隔ててすぐに、「雪印乳業発祥の地」(雪印バターだったかな?)という、公園のように出入り自由で美しく整備された場所がありました。雪印乳業はバター・チーズの乳製品の歴史あるブランドメーカー、かつて若者たちが寝泊まりしながらバターづくりに挑戦したりといった質実剛健の建物が記念館として保存され、周囲はバラ園などに整備、美しく落ち着いた雰囲気でした。雪印種苗園芸センターもあり、まさにプロの技で手入れされていたわけです。当時雪印乳業はアイスホッケーチームを持ち、その本拠地のスケートリンクがそこあり、一般開放の時間も設けられていました。
歴史ある宇都宮牧場という広々とした場所がすぐ近くにあり、冬になるとそこには明るい雪原が広がりました。人の足跡ひとつない雪の原を歩くと、小さな足跡が点々と続いたり、時折小さな穴がポツンとあったり・・野ネズミだったのでしょうか。当時そこは宅地開発されつつある時でした。
 ところが、雪印乳業は大規模な食中毒事件を起こし、会社存続もできない事態に。現在はメグミルクという社名になっています。あれだけの歴史とブランドを誇っていたものが・・・スケートリンクも廃止、バラ園もなくなりました。花木センターは今でもあるようですから、花壇等は今でもそれなりあるのかもしれません。

 私はその土地を離れていましたが、のちに行ってみると、その一角に、透明ガラスの大きな花瓶に花を飾り、センスのいい雰囲気の六花亭のお店が出来ていました。そのお店は今は、もっと条件の良い、野幌森林公園入口付近に移っているようですが。
 こうして、テレビドラマからいろいろな記憶が湧き出してきました。
たくさんの思い出、経験を積み重ねながら、人は生きている。それを共有する人がいる…これって、財産だよね、などと思ったり。
  そんなどうでもいい他人の経験、聞いたってしょうがない、といわれそうですが。
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 朝ドラに出てくるアニメ「大草原の少女ソラ」からは、すぐに「「大草原の小さな家」が頭に浮かびます。ローラ・インガルス・ワイルダーの本で、アメリカでドラマとして作成され、日本でも何度も再放送され、私も楽しみました。今また、吹替も新たに、放送されています。ローラの本はシリーズがあり、図書館にあるものはすべて読みました。
私のような人は、きっとたくさんいると思います。
 アニメの雰囲気は、かつて放送されたアニメ「アルプスの少女ハイジ」をも思い起こさせます。
「魔法使いサリーかな」というアニメもちらっとあったり、アクション系のアニメは何かな、あまりそういうのは見なかったし…などと。はて、こんな記憶を共有できる人は、どれくらいいるのかな、何歳以上なのかな・・

 主人公のモデルとなった方は、結婚退職や出産退職が当たり前の時代、会社で初めて子供を産み子育てしながら仕事をつづけた人とのこと。高畑勲さんや宮崎駿さんと同じ時代を過ごし、労働条件改善のためにも努力してきた人でもあったようです。
このドラマも、最終回を迎えますね。

 ドラマと自分の人生が重なる所があったりもするのも、同じ歴史を経験したのだと思い、面白いです。年取った証拠でもありますが。でも、そういった記憶の財産って、楽しいですね。
 ほんのちょっとした個人的なことだけれど、でも、そんなことも大切なものだと感じたこの頃です。
  皆さん、身近な場所、身近な人々、個人の体験・経験も、大切にしましょうね。
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ドラマのモデルについては、あちこちに情報があるでしょう。少しは目に留まっていましたが、ふと思いついて、あらためて探してみました。

 時代考証はアニメーターの小田部洋一氏。東映動画(現・東映アニメーション)に入社、主人公なつのモデルは、当時机を並べていて職場結婚した奥山玲子さん。
その後職場を移って作成したアニメ「アルプスの少女ハイジ」「母を訪ねて三千里」のキャラクターデザイン・作画監督。どおりで、”ハイジ”が思い浮かんだわけ。
 十勝の大地も描かれているわけですが、ドラマにでていた菓子箱の絵は、ゆるやかにうねる草原(牧場)、そこに小さく、赤い服の一人の女の子。美瑛の丘・富良野の写真を撮り続けた前田真三さんを思い起こさせました。
あらためて写真集を見てみようか、などと思いました。

日本のアニメが世界で認められてきて、こうしたドラマの構想が生まれたでしょうね。

 

2019年9月16日月曜日

催し物の紹介が、いつも終了の頃になっていて、お恥ずかしい限りですが

中之条ビエンナーレ  町全体が 芸術の町 になる日々・・・1か月の間
                       8月24日から9月23日  もうすぐ終了ですね

  旧太子おおし駅   
終戦末期の1944年、群馬鉄山からの鉄鉱石を運ぶために作られ、
  索道で運ばれた鉱石を、ここから鉄路で運び出しました。1970年、太子線廃線。
 ビエンナーレの作品のキラキラしたリボンが、かつての積み出しの施設を飾ります。











現代アートは私にはなかなかわかりませんが、雷雨の大雨の中若い人たちがカメラを向けていました。




この先に、鉄鉱石を採掘した群馬鉄山がありました。
閉山した今、強酸性の水の中に育つチャツボミゴケの緑一面の広がりが見られる場所として知られています(国指定の天然記念物)。


養蚕の里 赤岩集落

この家の中に アート作品が





1806年建てられたといいます。
蘭学者・高野長英をかくまったとされる部屋があるとか。







旧五反田学校

明治42年(1909年)建築。その後ほとんど改造されずに残されているという。
立派な建物ですね。 この中にアート作品があるというわけ。
 主要道からもはずれ、普通、外部の人は訪れないと思うが、この日、平日の水曜日にもかかわらず、若者、中年と、何組もの人の姿が見られました。
こうしたら、片すみにある宝物にも光が当たるなあ。


ミュゼ  ミュゼって何??
 普通なら、「中之条町民俗資料館」とか名付けそうなのに、
 何やらおしゃれなネーミング。
(観光総合案内所のようなところは、「つむじ」と名付けていました)

蚕農家の道具、その他農具などもたくさんあって、私には何だか懐かしい物でした。




何に使ったか、わかりますか?

母や祖父がこういったものを使っていたのを見ています。

お米、豆・・食べられるようにするには、こういったものを使った作業が必要でした。
本当に手間暇かかったのです。考えてみたら、ほんの少し前の話なんですね。
人の歴史から見たら。

お蚕の道具もあります。さすがに、糸取りや機織はしていませんでしたが、隣の家では
おばさんが機織りもしていました。


 アートからちょっと外れましたね。
中之条町一帯に、こうして47カ所がプロットされていて、土日にはパフォーマンスや参加型のワークショップや様々な体験もあるとのこと。2年に一度開催で7回目といいますから、エネルギーありますね。

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 一昨日、原発ゼロを求めて活動を続ける城南信用金庫(顧問)の吉原毅氏の講演を聞く機会がありました。福島の事故以来、店舗で使う電気を東京電力から買うことをやめ、自然エネルギーの電力会社に切り替えてきた推進を進めてきた信用金庫だ。気骨あるなあ。
その中心を担った人。
 元気の湧く話。「電力切り替えと言っても、どこで買ったらいいか判断がつかないんですが」との質問に、「どこでもいいんですよ。原発推進の東京電力を先ずやめればいいんです。簡単ですよ。紙1枚ですよ」と。
中之条電力の話が出てきて、そういえば、と頭の片隅にあったことを思い出しました。私も質問者と同じことを思っていた・・・
 中之条電力を立ち上げた人は、中之条のエネルギーいっぱいの人の一人なのでしょう。
頑張れ、という気持ちになりますね。




2019年9月15日日曜日

あらためて、日本は自然災害の多い国

ふっと気づくと9月も半ば・・・
 月日の過行くのは・・と、嘆くようになってきたのは、年を取ったということか・・
 昔の人も、光陰矢の如し と言っていましたが、そんな高級な感じではなく、
 日常のあわただしさに追われているだけなのが悲しいですね。
 
台風被害、大変ですね
 成田空港で一夜を明かした人が一万三千人!
 この中に、シンガポールからたまたま日本に来ていた夫の親戚関係の人がいた・・
   情報もわからず、何とかならないのかと電話が来たり・・・
 
停電の続く千葉、大変ですね。
 南房総市に住んでいた同級生だった人がいます。焼き物をやっていて家があったのですが、つい最近引っ越していて・・・あの家、どうなったか・・・聞いたら、まだ見に行ってないとか。でも、その地域では家の壊れた人もいるようです。
 
 昨年の北海道での地震でも、何人もの知人があれこれ大変な思いをしていました。
東北の地震でも、すぐ近くまで津波が来ていたという知人の話。
神戸の地震でも、家が壊れるかと思ったという、お世話になった方の体験・・
 話は古くなるが、私の父は終戦に近い1943年に多くの死者をだした鳥取地震にあったし、群馬では1931年の西埼玉地震での揺れも経験している。戦後のカスリン台風による利根川堤防決壊による水害も経験。
それほど多くの人を知っているわけでもない私でも、こんなにも多くの災害経験者がいるーー日本は自然災害の多い国という人がいましたが、本当に実感します。
  温暖化により気候は苛烈になり、台風も勢力を増している。地震は活動期に・・・
  ひしひしと感じるこの頃です。

ところで、日本の機能をマヒさせるのは簡単なんだ、と思った次第。
電気をとめてしまえばいい。
それには送電網を壊すだけで十分。張り巡らされた送電網はそれほど守りが固いわけでもないでしょうから、簡単に壊せるのでは。
 そういえば、福島原発が津波で壊れた後発表された小説「原発ホワイトアウト」では、吹雪く雪の中、高圧送電線の鉄塔をテロリストが破壊、原発は電源を失い、メルトダウン…といった設定がされていました。作者は霞が関の現職キャリア官僚、もちろん実名は伏せて。
 警備の薄い送電網で電気をダウンさせ、原発の1つでも攻撃されれば、日本は立ち行かなくなるのでは。威勢のいいことを言って日本を守れと言っている方々には、少し頭を冷やしていただきたいものです。

 私が幼いころは、こんなにも電気に頼ってはいない生活でした。
ご飯はかまどで、養蚕に使った桑の枝があるので、それが燃料。ですから薪割はしないですみました。お風呂は麦を刈り取った後に残った麦わらでたきました。風呂焚きは子供の仕事。水は井戸から。携帯やスマホどころか、電話なんて無し。ラジオはあったけれど、テレビは無し。クーラーも。それどころか、洗濯機も、冷蔵庫も。コンビニなんて、あるわけない。車もなし。
 若者からは、どうやって生活していたの、と言われそう。でも、戦中を生きた人たちは、間違いなく、こうした中で生活していました。私が幼いころから、こうしたものが次々と家の中に取り込まれてきました。
 炊飯器の出現は、誰よりも早く起きて働いていた主婦の負担を大きく減らしてくれました。洗濯機はたらいに座り込んでの重労働をなくしてくれ、清潔さを保つことに大きく貢献しました。冷蔵庫は食生活を飛躍的に変え、向上してくれました。
そしてどれも、電気がなければ動いてくれないものなのです。

 オール電化が宣伝されたとき、私にはこれはどうしてもいやでした。生活のすべてが電気に頼りすぎる、何かあった時、何もできなくなる、と。一つのものに頼りすぎるのは危険だと。今、その感覚が正しかったと思う。
 昨年の北海道の地震の時、震源の近くに住んでいる知人が言っていました。
「食料は農家だから何とかなる。燃料は木で間に合う。水は沢からとれる。あとは電気だけだな。自分の所で発電できれば、全部自前で生活できるさ。」

 今便利な生活を送れるのは、誰かがそのために働いてくれているから。そのシステムが壊れたら、あっという間に困ってしまう。ずいぶんもろい基盤の上にいることを、自覚せねばいけませんね。

千葉の方々、暑さ・雨と、本当に大変かと思います。
つくづく「命の綱」と思える電気、早く皆の所に届きますように・・