最近、地図を見ましたか?
地図が主役の展示~~ 前橋・高崎地区をメインにして
以前にも、「地図見ましたか」と聞いたような気がする。
地図?スマホで見ているよーーー そうそう、スマートフォンが広まってから、きっと昔よりたくさんの人が地図を見ているのでは。手もとにあるスマホであれこれのお店情報を見たりしたり。
「宇宙から10mの大きさのものがわかるんだって」とすごいなあと思ったのはいったい、いつだっただろうか。技術の進歩は著しく、カーナビで迷うこともなく出かけられて家に帰れ、そのナビもスマホでまにあうと、変化もめまぐるしい。(老眼になると、スマホのあの小さい画面では、運転中見るのはちょっと無理と思ったり)
一方で、紙の地図を見ることは減っているでしょう。ましてや、国土地理院発行の地形図など、地図記号を学校で習ってから後、等高線の書いてある地図なんて見たこともない、読み方を知らないという感じでしょうか。
ですが、今ではちょっとクリックすれば得られる情報が、先人たちの大変な努力と苦労のおかげで獲得されてきた、そんな地図の歴史を、地図を作るのがどんなに大変なことだったか、そんな苦労しても作る価値のあるものだということを、知っていただきたいとも思うのです。
迅速って何かと言えば、三角点に基づかない測量で作成したというもの。まだ三角点がきちんと整備できていない時だったけれど、正確さを競うより、とにかく早く地図が欲しかった。明治政府(山形有朋ら)が西南戦争で地図の重要性を痛感したということから作成を急いだとのこと。
話が飛びますが、ここで思いだすのは、下仁田に残されている原三角点のこと。
じつは下仁田には、明治15年という、とても初期につくられた三角点の原形ともいえるものが残っているのです。
●下仁田の原三角点とは、明治15年(1882年)に作られているもの。内務省が全国各地に約50カ所設置したものの一つで、群馬では赤城山頂と下仁田白髪岩山頂に設置されたといわれる。多くはその後1等三角点となり、標識も変わったり動いたりしていて、残っていない。原三角点として発見されていたのは雲取山と米山で、下仁田のものは2000年に発見された。白髪岩は一等三角点には使用されず、忘れ去られていたため、元のままの姿で残っていたというわけ。
*下仁田の原三角点は明治15年(1882年)内務省の仕事でした
●明治16年(1883年)陸軍参謀本部により1等三角点の設置
●明治25年(1892年)東京都港区麻布台・当時の東京天文台の三角点を「三角点原点」と定める(明治16年と25年の方位角観測により原点方位角が決定され、これによって全国に整備された三角点の位置が順次決定されていった・・・原点方位角?なんだかわからないけれど、とにかく大変な努力が必要だったことはわかります)
ちなみに,経度の基準となっているグリニッジ子午線が経度0度と万国測地会議で認められたのが明治17年(1884年)とのこと。世界中で、地図を正確に作るのも、まだまだ曙の時代だったことを感じます。そんな中で日本では三角点(位置の基準)、水準点(標高の基準)といったものが、早くから整備されてきたと、当時こうして三角点や水準点の設置に努力された方々に、あらためて敬意の気持ちを感じます。
他にもいくつもの地図が。1894年、1907年など・・・。1916年(大正5年)のものは陸軍士官学校作成。
目立った市街地があるのが前橋と高崎。鉄道がいかに重要だったかも感じられます。 |
どんなものがあるのか、どうやって閲覧するのかも、定かでない有様。