枝をたわわにおおい、木は白い花に埋まっていました。
庭に植える園芸品種もありますが、山には野生のヤマボウシがみられます。
青葉の薫風の頃、木には白い花が目立つ頃です。
こちらはカラスビシャク。畑にいくらでもあった雑草ですが、我が家のまわりでは、最近みかけません。
里見哲夫さんのお宅の庭にはえていたので、いただいてきました。せっせとぬかねばならない雑草のようです。
コンニャクの仲間の植物として、前回名前をあげた植物です。
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緑滴る吾妻渓谷にいってきました。いただいた資料を基に、少し紹介してみます。
地質と人の活動が厳しく関わっている場所で、地質のことをお知らせしている場には、紹介する意味があるかと。
吾妻渓谷をせき止めてつくられようとしている「八ッ場ダム」・・一時期の中止宣言で無駄な公共事業として日本中に名を知られました。今ではマスコミに取り上げられることもまれになっています。今どうなっているか、ご存知の方もあまりいらっしゃらないかと思います。
八ッ場ダムに反対する活動を続けている市民団体による現地案内が、今まで何度もおこなわれていて、今回それに参加させていただきました。昼からの数時間、密度の濃い見学会となりました。
ここに紹介しようかと急に思いつき、もっとそのつもりで写真をとってくるのだったと、今頃反省しているところです・・・・
ちょっと歴史を
1952年 八ッ場ダム構想が持ち上がる・・・目的は洪水対策。戦後すぐのカスリン台風被害から出てきた話。
「私、まだうまれてないや」という方も多いでしょう・・・私もです。
地元は大反対!!草津の上がり湯として古くから親しまれた由緒ある温泉・川原湯温泉があり、温泉から歩いて行ける距離には名勝吾妻渓谷がある。これらが失われてしまう。
万病に効くとされたイオウのきつい草津温泉で病を癒やし、おだやかでまろやかな仕上げの湯とされたのが、川原湯温泉。ここにダムをつくるというのですから、地元の反対は当然です。
1965年ダム建設再浮上・・・今度の目的は首都圏の水がめ(水道用水、工業用水の需要増予測)
地元の人たちは激しい反対運動を。建設省・群馬県からの執拗ともいえる攻撃の中で疲れ果て、運動を進めた方々が病に倒れ・・・・
1985年 ダム建設、生活再建案を受け入れ・・・・その後すでに30年近くがたっている・・・・
親子ばかりか孫の代まで引きずることはできないという思いも・・・・・・・
ところで今、首都圏は水あまり。今のダムの目的は何?・・・
さらにもう一つ、地元がダム建設受け入れを決めたとき、その骨子は「現地再建ずり上がり方式」。ダム建設では住民は通常、他地域へ移り住みます。川原湯温泉はダム湖底に沈みますが、住民は移住せず、そのダム湖を望む位置に温泉もJRの駅も国道も新たにつくるというものです。「それなら・・」となったわけでしょうが、これがまた、数々の問題をうみ、「ブラックホールのごとくに資金を吸い込んでいる」・・
それでは今、住民はどうなっているのでしょうか。
「地元がダム計画を受け入れる前は、川原湯地区は約200世帯あったが、ダム事業受け入れ後、四分の三は地区外に転出し、地区内に残っているのは四分の一」です。四分の一の中には、代替地へ移転した世帯が含まれます。」
代替地とは、ダムのまわりにつくっている居住地です。要するに、3/4の方々が、この地域に住むことをやめてしまったということです。地域を守るつもりだったはずが・・・立派な学校も建てられていますが、生徒数はわずかという有様です。
川原湯温泉の共同浴場・王湯。6月で閉鎖予定。このわきに泉源があり、熱い湯がわきだしています。手を入れることもできないほど熱い湯です。(右の写真、わかりにくくてゴメンナサイ)
ここから自然流下して多くの宿が利用していたとのことです.この泉源も水没予定。
温泉は1193年源頼朝が狩りの時に見つけたという伝説があり、そこで源氏の家紋ササリンドウが使われているとか。のれんにあるマークです。
ここから自然流下して多くの宿が利用していたとのことです.この泉源も水没予定。
温泉は1193年源頼朝が狩りの時に見つけたという伝説があり、そこで源氏の家紋ササリンドウが使われているとか。のれんにあるマークです。
この場所で”湯かけまつり”がおこなわれてきました。毎年必ずテレビニュースに取り上げられた神事で、厳寒の頃、裸の男たちが湯をかけ合いました。
この施設に泉源が |
周囲には取り壊された建物の跡が見られます。
(下の写真)
狭い谷間をうまく利用して、沢山の旅館が営業していました。20軒とかあったようですが、今は1軒残すのみです。
新駅工事中 |
温泉街から上に登っていくと、JR駅建設現場と代替地があらわれます(左写真)。下の写真が現在の川原湯温泉駅。水没予定地にあります。かさ上げして高いところ・代替地に新駅を作っているわけです。まだ完成していません。
橋が見えますが、これはダム湖を横断することになるという橋。現在は川の右岸と左岸を結んでいます。高さの違いで、代替地の高さの感覚がつかめるかと思います。
ところで、この2つ橋、違うものなのですが・・・
遠くに見えるのは草津白根山。 現在のJR駅
湖面を横断する橋は4本あります。上写真のものが、かつて建設中に十字架のような姿で、広く知られた橋です。
橋、駅、道路、トンネル、造成地・・・巨大なコンクリート構造物と切り取った斜面部分をおおうコンクリートの壁が、山の中に次々にあらわれるのが、この地域の今の姿ともいえます。
代替地 |
左写真が代替地。川の右岸と左岸の両側につくられています。写真手前が左岸の代替地、中央部分は橋で、下は吾妻川。やがてダム湖になる予定。橋の向こう側、三角に切り取られた斜面の下部分が温泉地を建設する場所で、営業を始めた宿もあります。でもほんのわずかです。
温泉水は、元の泉源近くで掘削したものをポンプアップして運びます・・・この費用は地元もち・・・・今までは自然流下の温泉水を使っていたのに・・・維持管理費は相当重い負担になりそう・・
代替地にたてられた新しい王湯 |
現在、地質調査を実施中だそうですが、まだ地質調査?・・「地滑り、代替地の安全対策はこれから??」といいたくもなります。なお、この地域で地滑りの可能性のある地区は、もともと、22ヶ所あげられています。
温泉地だけあって、岩石が熱水変質した場所があり、そこは岩石がもろくなっているはずです。国道わきのたくさんのアンカーを打ち込んだコンクリート部分も茶色く変質していました。
地滑り対策費用を延々と投入し続けなければならない、負の遺産となることはないでしょうか・・・
あたらしい温泉地域としては、ダム湖を観光資源とする話もありますが、今どき、ダム湖が観光資源になるでしょうか。それより何より、ダムにたまる水がどんなものか・・・上流には草津温泉があり、簡単にコンクリートを溶かす強酸性の水はそのままではもちろん魚も住めず、石灰を投入し続けて、中和しています。また、上流には高原野菜の大産地があり、この土・肥料・農薬が流れこんだダムの水は富栄養化し、プランクトンの格好の増殖場所になりかねないでしょう・・・緑によどんだ水になってしまったら、魅力はありません。
地域振興施設がいくつもつくられています。道の駅、温泉、クラインガルテン(住居付農園)・・・これらの維持管理費は地元負担・・・・・・・・心配事ばかりわいてきます。
現在の駅から少し下流に下ると、深い谷を刻んだ吾妻渓谷が見えてきます。一部は国指定の名勝。
ここは中新世から第四紀まで、安山岩質の火山活動が複雑に繰り返され、凝灰角礫岩や貫入岩の見られる地域です。(下仁田の人で、地質の勉強をした人なら、石の名前を聞くと、なんだか本宿地域を思い出しませんか)
火山噴出物からなる大地を、川が深く刻んでできた渓谷は
古来多くの人に愛されてきました。かつては転落死亡事故も起こるような、難所でもありました。
こんな地質、すき間が多くて水漏れが起こるなんてことないの?とか、ダムサイトとしては岩盤が弱くないの?とか、いろいろ言われました。もちろん、吾妻峡が台無しにならないの?とも。
一度決めたダムの位置を600m上流に変更して、これで、吾妻渓谷の3/4は保存されると言うようですが・・・その位置が、以前、岩質が弱いので、やめた、といわれた場所だったとか言う話も聞いたこともあります。
群馬ではかつて、名勝三波石峡が、ダム建設により流れる水が減少、岩肌を洗ってくれた流れがなくなり、草と薮の川原になって、誰も行かない場所になってしまったという経験があります。
お金に絡んだ利害関係も、科学的であるべき理学工学の世界でも、「にわかには」、いえ、「相当考えて」もわからないようなことが、まかり通っている世界に思えてきます。
地域全体、山も川も「いじくりまわした」といった感の風景ですが、これら工事は、ダム事業費でまかなわれており、ダム本体工事予算は、じつはダム事業費4600億円の1割以下。ただし、代替地の整備費用はダム事業からは支出されず、販売によってまかなうため、代替地の地価はこの地域としてはきわめて高価になっています。
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現在、本体準備工事がおこなわれていて、仮締め切り工事中です。水を川から迂回させるという工事のことで、川の一部は水がなくなっています。
川を締めきっています |
ここで川をせき止めています。水はトンネルを掘って迂回。締め切り部分の下流、写真の左側は水がありません。
下の写真でも、まったく水はなく、川底が露出しています。
右岸にある散策路は一部閉鎖されています。
代替地からの散策路入り口付近は、樹木の伐採等で工事中でした。
締め切りで、川底の見える吾妻川 |
川底から40~50mも上にできている河岸段丘に集落がひろがっています(ずいぶん高いところに河岸段丘があるのですね)。
天明3年の浅間大噴火では、ここも泥流に埋もれました。写真は発掘で出てきた江戸時代の畝です。 すじ模様が畝です。畝の幅から、麻がつくられていたことがわかります。
天明災害の遺跡は他にも多数、また、縄文遺跡も水没予定地に散在。豊富な資料のある遺跡群があるといいます。
だいぶ以前、八ッ場ダムについての話の中で、「浅間山が噴火すれば・・・」と話した方に、「そんなこと言ってたら、何にもできない」、「あの人、何を馬鹿なこと言ってるのさ、ばかばかしい」という空気が流れたのを覚えています。
東北の津波の後、浅間山の噴火も、ダムについての項目に、当然のように入るようになりました。1000年に一度のことも、起こることは起こる、無視はできない、と。
2万4千年ほど前には、かつての浅間山が大崩壊し、崩壊跡は今の黒斑山、現在の浅間山はその後噴火してできたもの、といった歴史もあります。流れ下った土石は現在の前橋の地面の下にも厚く積もり、前橋の大地を形作っているほどです。これが八ッ場の周辺にも積もっているというところが、地質の脆弱さを増している、地滑りの危険を増している・・・自然はあなどれない・・・
1918年(大正7年)、若山牧水は松本市での歌会に行くため、先を急いでいました。しかしこの渓谷を見て、予定を変えて川原湯温泉に投宿しました。吾妻渓谷に立ち、その自然に浸ったのです。その後もここの自然に親しんだといいます。
私はどうかこの渓間の林がいつまでもいつまでも
この寂びと深みを湛へて
永久に茂つてゐて呉れることを心から祈るものである。
・・・・・中略・・・・
どうか私と同じ心でこのさう広大でもない森林のために
永久の愛護者となつてほしいものである。
若しこの流を挟んだ森林が無くなるやうなことでもあれば、
諸君が自慢して居るこの渓谷は
水が涸れたより悲惨なものになるに決まってゐるのだ。
「静かなる旅をゆきつつ」 若山牧水
(写真は、八ッ場ダムに関心を持つ方が撮られて自作の絵葉書にされているものです)
以下のページに10月に再び訪れたときの報告をのせました。道路際の地滑りの恐れや、フッ素や六価クロムの含まれた鉄鋼スラグの使用など、今になって表面化したことなど、問題山積なのですが・・・