2014年5月25日日曜日

吾妻渓谷・"八ッ場ダム"を訪ねて

道沿いに白い花。何かと思えば、ヤマボウシでした。
枝をたわわにおおい、木は白い花に埋まっていました。
庭に植える園芸品種もありますが、山には野生のヤマボウシがみられます。
青葉の薫風の頃、木には白い花が目立つ頃です。


                                                                     



こちらはカラスビシャク。畑にいくらでもあった雑草ですが、我が家のまわりでは、最近みかけません。
里見哲夫さんのお宅の庭にはえていたので、いただいてきました。せっせとぬかねばならない雑草のようです。

コンニャクの仲間の植物として、前回名前をあげた植物です。

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緑滴る吾妻渓谷にいってきました。いただいた資料を基に、少し紹介してみます。

地質と人の活動が厳しく関わっている場所で、地質のことをお知らせしている場には、紹介する意味があるかと。

吾妻渓谷をせき止めてつくられようとしている「八ッ場ダム」・・一時期の中止宣言で無駄な公共事業として日本中に名を知られました。今ではマスコミに取り上げられることもまれになっています。今どうなっているか、ご存知の方もあまりいらっしゃらないかと思います。
八ッ場ダムに反対する活動を続けている市民団体による現地案内が、今まで何度もおこなわれていて、今回それに参加させていただきました。昼からの数時間、密度の濃い見学会となりました。
 ここに紹介しようかと急に思いつき、もっとそのつもりで写真をとってくるのだったと、今頃反省しているところです・・・

ちょっと歴史を

1952年 八ッ場ダム構想が持ち上がる・・・目的は洪水対策。戦後すぐのカスリン台風被害から出てきた話。
「私、まだうまれてないや」という方も多いでしょう・・・私もです。
地元は大反対!!草津の上がり湯として古くから親しまれた由緒ある温泉・川原湯温泉があり、温泉から歩いて行ける距離には名勝吾妻渓谷がある。これらが失われてしまう。
万病に効くとされたイオウのきつい草津温泉で病を癒やし、おだやかでまろやかな仕上げの湯とされたのが、川原湯温泉。ここにダムをつくるというのですから、地元の反対は当然です。

1965年ダム建設再浮上・・・今度の目的は首都圏の水がめ(水道用水、工業用水の需要増予測)
 地元の人たちは激しい反対運動を。建設省・群馬県からの執拗ともいえる攻撃の中で疲れ果て、運動を進めた方々が病に倒れ・・・・
1985年 ダム建設、生活再建案を受け入れ・・・・その後すでに30年近くがたっている・・・・
            親子ばかりか孫の代まで引きずることはできないという思いも・・・・・・・

ところで今、首都圏は水あまり。今のダムの目的は何?・・・
さらにもう一つ、地元がダム建設受け入れを決めたとき、その骨子は「現地再建ずり上がり方式」。ダム建設では住民は通常、他地域へ移り住みます。川原湯温泉はダム湖底に沈みますが、住民は移住せず、そのダム湖を望む位置に温泉もJRの駅も国道も新たにつくるというものです。「それなら・・」となったわけでしょうが、これがまた、数々の問題をうみ、「ブラックホールのごとくに資金を吸い込んでいる」・・

 それでは今、住民はどうなっているのでしょうか。

「地元がダム計画を受け入れる前は、川原湯地区は約200世帯あったが、ダム事業受け入れ後、四分の三は地区外に転出し、地区内に残っているのは四分の一」です。四分の一の中には、代替地へ移転した世帯が含まれます。」
替地とは、ダムのまわりにつくっている居住地です。要するに、3/4の方々が、この地域に住むことをやめてしまったということです。地域を守るつもりだったはずが・・・立派な学校も建てられていますが、生徒数はわずかという有様です。

川原湯温泉の共同浴場・王湯。6月で閉鎖予定。このわきに泉源があり、熱い湯がわきだしています。手を入れることもできないほど熱い湯です。(右の写真、わかりにくくてゴメンナサイ)
ここから自然流下して多くの宿が利用していたとのことです.この泉源も水没予定。
温泉は1193年源頼朝が狩りの時に見つけたという伝説があり、そこで源氏の家紋ササリンドウが使われているとか。のれんにあるマークです。
この場所で”湯かけまつり”がおこなわれてきました。毎年必ずテレビニュースに取り上げられた神事で、厳寒の頃、裸の男たちが湯をかけ合いました。

この施設に泉源が

周囲には取り壊された建物の跡が見られます。
(下の写真)
狭い谷間をうまく利用して、沢山の旅館が営業していました。20軒とかあったようですが、今は1軒残すのみです。



新駅工事中

温泉街から上に登っていくと、JR駅建設現場と代替地があらわれます(左写真)。下の写真が現在の川原湯温泉駅。水没予定地にあります。かさ上げして高いところ・代替地に新駅を作っているわけです。まだ完成していません。
橋が見えますが、これはダム湖を横断することになるという橋。現在は川の右岸と左岸を結んでいます。高さの違いで、代替地の高さの感覚がつかめるかと思います。
ところで、この2つ橋、違うものなのですが・・・
  遠くに見えるのは草津白根山。                           現在のJR駅




湖面を横断する橋は4本あります。上写真のものが、かつて建設中に十字架のような姿で、広く知られた橋です。
橋、駅、道路、トンネル、造成地・・・巨大なコンクリート構造物と切り取った斜面部分をおおうコンクリートの壁が、山の中に次々にあらわれるのが、この地域の今の姿ともいえます。

代替地



左写真が代替地。川の右岸と左岸の両側につくられています。写真手前が左岸の代替地、中央部分は橋で、下は吾妻川。やがてダム湖になる予定。橋の向こう側、三角に切り取られた斜面の下部分が温泉地を建設する場所で、営業を始めた宿もあります。でもほんのわずかです。
温泉水は、元の泉源近くで掘削したものをポンプアップして運びます・・・この費用は地元もち・・・・今までは自然流下の温泉水を使っていたのに・・・維持管理費は相当重い負担になりそう・・

代替地にたてられた新しい王湯
山の途中を削り、沢を埋め立ててつくったこの平坦・・・埋め立ての厚さは、専門家も、過去経験のないものだと言います・・・30m以上の高盛り土など・・・地滑り、大丈夫なのでしょうか・・もともとこの地区、地滑りがある場所なのです。特に、ダムに水をためはじめたら・・・・・過去には水を入れ始めた途端に地滑りが始ったダムの例もあります。特に、沢を埋めた場所の不安さは多くの例で知られています。お住まいになっていらっしゃる方がいるのに、軽々しいことは言えませんが・・・

現在、地質調査を実施中だそうですが、まだ地質調査?・・「地滑り、代替地の安全対策はこれから??」といいたくもなります。なお、この地域で地滑りの可能性のある地区は、もともと、22ヶ所あげられています。
 
温泉地だけあって、岩石が熱水変質した場所があり、そこは岩石がもろくなっているはずです。国道わきのたくさんのアンカーを打ち込んだコンクリート部分も茶色く変質していました。
地滑り対策費用を延々と投入し続けなければならない、負の遺産となることはないでしょうか・・・

あたらしい温泉地域としては、ダム湖を観光資源とする話もありますが、今どき、ダム湖が観光資源になるでしょうか。それより何より、ダムにたまる水がどんなものか・・・上流には草津温泉があり、簡単にコンクリートを溶かす強酸性の水はそのままではもちろん魚も住めず、石灰を投入し続けて、中和しています。また、上流には高原野菜の大産地があり、この土・肥料・農薬が流れこんだダムの水は富栄養化し、プランクトンの格好の増殖場所になりかねないでしょう・・・緑によどんだ水になってしまったら、魅力はありません。
地域振興施設がいくつもつくられています。道の駅、温泉、クラインガルテン(住居付農園)・・・これらの維持管理費は地元負担・・・・・・・・心配事ばかりわいてきます。

現在の駅から少し下流に下ると、深い谷を刻んだ吾妻渓谷が見えてきます。一部は国指定の名勝。


ここは中新世から第四紀まで、安山岩質の火山活動が複雑に繰り返され、凝灰角礫岩や貫入岩の見られる地域です。(下仁田の人で、地質の勉強をした人なら、石の名前を聞くと、なんだか本宿地域を思い出しませんか)

火山噴出物からなる大地を、川が深く刻んでできた渓谷は
古来多くの人に愛されてきました。かつては転落死亡事故も起こるような、難所でもありました。

こんな地質、すき間が多くて水漏れが起こるなんてことないの?とか、ダムサイトとしては岩盤が弱くないの?とか、いろいろ言われました。もちろん、吾妻峡が台無しにならないの?とも。
一度決めたダムの位置を600m上流に変更して、これで、吾妻渓谷の3/4は保存されると言うようですが・・・その位置が、以前、岩質が弱いので、やめた、といわれた場所だったとか言う話も聞いたこともあります。
群馬ではかつて、名勝三波石峡が、ダム建設により流れる水が減少、岩肌を洗ってくれた流れがなくなり、草と薮の川原になって、誰も行かない場所になってしまったという経験があります。
お金に絡んだ利害関係も、科学的であるべき理学工学の世界でも、「にわかには」、いえ、「相当考えて」もわからないようなことが、まかり通っている世界に思えてきます。

地域全体、山も川も「いじくりまわした」といった感の風景ですが、これら工事は、ダム事業費でまかなわれており、ダム本体工事予算は、じつはダム事業費4600億円の1割以下。ただし、代替地の整備費用はダム事業からは支出されず、販売によってまかなうため、代替地の地価はこの地域としてはきわめて高価になっています。

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現在、本体準備工事がおこなわれていて、仮締め切り工事中です。水を川から迂回させるという工事のことで、川の一部は水がなくなっています。

川を締めきっています


ここで川をせき止めています。水はトンネルを掘って迂回。締め切り部分の下流、写真の左側は水がありません。


下の写真でも、まったく水はなく、川底が露出しています。

右岸にある散策路は一部閉鎖されています。
代替地からの散策路入り口付近は、樹木の伐採等で工事中でした。








締め切りで、川底の見える吾妻川

川左岸の川原畑地区は 
川底から40~50mも上にできている河岸段丘に集落がひろがっています(ずいぶん高いところに河岸段丘があるのですね)。
天明3年の浅間大噴火では、ここも泥流に埋もれました。写真は発掘で出てきた江戸時代の畝です。 すじ模様が畝です。畝の幅から、麻がつくられていたことがわかります。
天明災害の遺跡は他にも多数、また、縄文遺跡も水没予定地に散在。豊富な資料のある遺跡群があるといいます。

だいぶ以前、八ッ場ダムについての話の中で、「浅間山が噴火すれば・・・」と話した方に、「そんなこと言ってたら、何にもできない」、「あの人、何を馬鹿なこと言ってるのさ、ばかばかしい」という空気が流れたのを覚えています。
東北の津波の後、浅間山の噴火も、ダムについての項目に、当然のように入るようになりました。1000年に一度のことも、起こることは起こる、無視はできない、と。
2万4千年ほど前には、かつての浅間山が大崩壊し、崩壊跡は今の黒斑山、現在の浅間山はその後噴火してできたもの、といった歴史もあります。流れ下った土石は現在の前橋の地面の下にも厚く積もり、前橋の大地を形作っているほどです。これが八ッ場の周辺にも積もっているというところが、地質の脆弱さを増している、地滑りの危険を増している・・・自然はあなどれない・・・


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1918年(大正7年)、若山牧水は松本市での歌会に行くため、先を急いでいました。しかしこの渓谷を見て、予定を変えて川原湯温泉に投宿しました。吾妻渓谷に立ち、その自然に浸ったのです。その後もここの自然に親しんだといいます。
 




私はどうかこの渓間の林がいつまでもいつまでも  
    この寂びと深みを湛へて
永久に茂つてゐて呉れることを心から祈るものである。              
    ・・・・・中略・・・・

どうか私と同じ心でこのさう広大でもない森林のために
  永久の愛護者となつてほしいものである。
若しこの流を挟んだ森林が無くなるやうなことでもあれば、
   諸君が自慢して居るこの渓谷は 
水が涸れたより悲惨なものになるに決まってゐるのだ。
   

     「静かなる旅をゆきつつ」   若山牧水       



(写真は、八ッ場ダムに関心を持つ方が撮られて自作の絵葉書にされているものです)

以下のページに10月に再び訪れたときの報告をのせました。道路際の地滑りの恐れや、フッ素や六価クロムの含まれた鉄鋼スラグの使用など、今になって表面化したことなど、問題山積なのですが・・・
  

            
八ッ場ダムについての詳細は以下のHPでご覧いただけます。https://www.blogger.com/blogger.g?blogID=481530670025045050#editor/target=post;postID=657504610377043974;onPublishedMenu=allposts;onClosedMenu=allposts;postNum=13;src=link
                八ッ場あしたの会    
 http://yamba-net.org/

2014年5月18日日曜日

下仁田の化石その6 放散虫 、 生きている化石


初夏の野道   話しかけてくるものが いっぱい たくさんあります





  花はハルジオン   明治の頃、北米からやってきた外来種ですが、すっかり日本の道端・空き地になじんでいます                                                         絵手紙 小林生子さん

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下仁田町のほたるやま公園では、オキナグサがつやつや光る綿毛を、5月の風に揺らしていました。

今にも飛んでいきそうな銀白色の綿毛も。釣り鐘のような形にうつむいた濃い赤紫色の花も見えています。
下仁田のすぐ近く、富岡の神成山(かんなりやま)付近ではオキナグサがたくさん植えられているそうです。
昔、この地域には野生のオキナグサがあったと聞きますが、今ではほとんど見られない・・・環境省レッドデータの絶滅危惧Ⅱ類に指定され、都道府県単位の指定では、45都道府県で絶滅危惧種指定されています。
要するに、日本中ですっかり見られなくなった植物なのです。
草原に育つ植物のため、農家が草刈りをおこなわなくなり草原が減り生息場所がなくなり、またきれいな花なので掘り取られてしまい、どんどん減ったのです。  






宮沢賢治もこの花のことを書いています。賢治のふるさとでは「うずのしゅげ」とよぶそうです。
この綿毛が飛ぶ瞬間を描いた部分を下に紹介します。
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宮沢賢治  「うずのしゅげ」より
奇麗きれいなすきとおった風がやってまいりました。まずこうのポプラをひるがえし、青の燕麦オートなみをたてそれからおかにのぼって来ました。
 うずのしゅげは光ってまるでおどるようにふらふらしてさけびました。
「さよなら、ひばりさん、さよなら、みなさん。お日さん、ありがとうございました」
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下仁田でも、ねぎ畑にねぎ坊主がならんでいます。

馬山(まやま)丘陵にはネギ畑がひろがります。
写真遠方のに見える2つこぶの山は鹿岳(かなだけ、右側の平ら部分は荒船山


ここでは種子を取るための栽培はあまりないでしょう。下仁田ネギの栽培される畑には ねぎの
小さな苗がたくさんうえられていました。






二毛作地域の群馬県平野部では、今の時期、田んぼには麦畑がひろがります。
下仁田にはこうした田んぼはありませんが、少し東の地域では、麦畑の光景が広がります。
5月の風が、ここでは麦の穂を揺らしています。
  このあと、梅雨の雨と競争するように麦刈りが始まり、あとに田植えがおこなわれます。
ですからここの田植えは、日本全国でもいちばん遅い時期になるのではないでしょうか。

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下仁田の化石  放散虫

放散虫の化石・・・・化石採集にいっても、聞いたことない名前なのではないでしょうか。
なぜかというと
  • 小さい・・・肉眼ではほとんど見えない。顕微鏡がないと見えない。
                     だから化石採集会の対象にならない。
  • どれくらい小さいか・・・ふつう1mmより小さい。今生きている放散虫を研究している人が,ご自身の調査のものを0.04mm~0.40mmと書いていました。
    下仁田の化石で紹介されているのは、どれも0.1mm以下
  • どんな生き物の化石?・・・・アメーバのような単細胞の生物。ただしアメーバと違い、ガラス質の骨格、殻を持っている。これがまるでガラス細工のような繊細なつくりで、多種多様な形がある。・・・・骨格??・・・何だかよくわからないけど・・この生き物、私の感覚では、「虫」ではないなあ。   
  • 今でもいるの?・・・・います。私は実物をみたことないですけど。見たことある人、あまりいないかも
  • いつからいるの?・・・・カンブリア時代には確実にいたそうですから、古生代のはじめにはいたという生物。
  • どうやって生活している?・・・・・海に浮いて漂って生活。ネット情報では、ケイソウや原生動物をたべていると書いている人もいたけれど・・・
  • 死ぬと海底に降り積ります。骨格は珪酸・石英成分SiO2でできており、ガラスと同じように、なかなか溶けたりしません。 ・・化石になりやすい・・・
  • 魅力は・・・・美しい!!電子顕微鏡写真をみると、その繊細さ、形の多様さに見とれます。


岩石のチャートは放散虫が積もってできた、といいます。チャート中の化石はそのまま顕微鏡でのぞいてもほとんど見えず、見るには、処理・工夫が必要です。今では、放散虫を粒として取り出すことができ、そのおかげで美しい繊細な形が見えてくるのです。

チャートは下仁田では南の地域たくさん見られます。地質では秩父帯です。このチャートから下仁田の放散虫がみつかったと思われそうですが、じつは違います。南蛇井層という地層の泥岩の中からみつかりました。
  泥岩??・・・放散虫は泥岩からもみつかります。
 下仁田のチャートの中からはみつからないの?  聞いていませんが・・・どうなのでしょうか・・・・チャートがあっても、いつもそこから化石がみつかるわけではないようです。
(同じように、生き物からできたという石灰岩があっても、化石がみつかるのは、その一部から   ですよね)

下仁田自然学校では、地学講座という勉強会を開いていますが、その中で、放散虫をさがしたことがありました。


岩石のなかから化石をバラバラに取り出す処理がしてあって、砂粒のような中から化石をさがすのですが、はいっているといわれてもなかなかみつからない・・・大人が必死で顕微鏡をのぞいていました。

左はそのときの放散虫のひとつ。とんがりコーンのような白いのが放散虫。双眼実体顕微鏡の接眼レンズに直接カメラを近づけて撮りました。
  秩父地域の研究グループの松岡さんが準備  してくれたものです。 写真は本多優二さん

 
放散虫がよく見つかる岩石は泥岩とチャート。みつかる放散虫は、化石を含んでいる地層の堆積した時代を決めるために利用できます。(示準化石)。すごく重宝しています。

1970年代あたりから放散虫をチャートから見つけられるようになり、「秩父古生層」といっていた部分が古生層でなくなったり・・・・。日本列島の歴史がずいぶん書きかえられた・・・
小さいのに、すごいね。
        地学図表 浜島書店より
(右の表でペルム紀の時代は古生代、トリアス期・
ジュラ紀は中生代です)


生物は長い間には進化して変化します。
放散虫も時代によって変化します。しかもこの生き物の進化スピードは速い。
そこで放散虫を区別すると、生きていた時代を決めることができ、それを含む地層の時代がわかるという仕組みです。小さいけれど数はたくさんいたわけで、化石も各地からみつかります。大きな貝などよりもみつかる可能性は高いので、利用価値もあるわけです。事実、今まで化石がみつかっていなかった地域から放散虫がみつかり、いままで年代のわからなかった地層が、いつの時代のものか判明したりしています。
前回紹介の微化石、・有孔虫も、同じように、時代決定に使われます。

  それにしても、この小さな化石を見つけ、数限りない種類の中から同定し、種類構成から時代を決めていくというのは、根気が必要でしょうね・・・

下仁田からみつかった放散虫は中生代ジュラ紀のものです。種類は
     ゴンギロトラクス   スティコカプサ  ディクティオミトラ    
 和名(日本の名前)はなく、みんな学名なので、何だかわからないような、舌をかみそうな名前になってしまいます。
これら化石から、南蛇井層はジュラ紀後期と考えられました。
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生きている化石

イチョウの花が咲いています。 どれが花でしょうか。  
   花粉を運ぶのは風。ですから、きれいに着飾って花粉を運ぶ昆虫を呼ぶ必要はないので、
    花びらはありません。
 
イチョウの雌花
                                                                                                    
誰もが知っているイチョウ。神社、お寺、公園、並木道・・
日本人なら 知らない人はないというおなじみのこの木。
しかしヨーロッパの人にとっては驚きの的の木でした。 1690年、鎖国中の日本にやってきたドイツ人ケンペルは長崎のお寺の境内のイチョウを見てびっくり。それを伝えられたヨーロッパの学者もびっくり!なぜって
イチョウの仲間は化石ではたくさんみつかるけど、もうとっくに死に絶えたと考えられていたからです。今でも生き残っていたなんて!
    「生きている化石」 これがイチョウに与えられる言葉

 イチョウの仲間はジュラ紀という時代などに全盛を誇っていました。映画のジュラシックパークの時代、ということはまさに恐竜たちと一緒に生きていたということになります。 2億年よりもう少し前にあらわれて、その後たいへんに栄え、世界中にひろがっていたのです。それが中国で生きのび、たぶん仏教伝来の頃、日本に伝えられました。日本に自生していたわけではないのです。そういえば、自然の森の中では見かけない木です。
今では親戚にあたる木は一つもなく、分類上では1属1種、それでもたった1種で頑張っています。そして、こんな古いタイプの生き物たちを守ってきたのが中国や日本の地域だったわけです。
                                   ・・・・・・・・・・・・・・・・
                              下仁田にある「ほたるやま公園」には、左のような看板が置かれた場所があります。

よくみると、看板の近くには、絵に描かれた植物のいくつかが植えられています。
下仁田自然学校がつくられたころ、「公園に、化石でみつかる木、生きている化石を植えよう」と、看板をつくり、苗木を植えました。
看板も古び、木にも枯れてしまったものもありますが、元気に大きく育っているのもあります。
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ところで、中生代の恐竜の絵を見ると、恐竜の尾が地面に垂れ下がっていて、今の復元
図とは違っているのがあります。
恐竜がしっぽを横にぴんと伸ばして走り回っていたというのが確立されたのが、けっこう最近のことだという、そんな歴史も感じさせます。
ちなみに、手元にあった高校地学の教科書の図を見てみると・・・

 1993年文部省検定済・2000年発行の教科書では、 ティラノサウルスはしっぽを引きずるゴジラ型、ちょうど左の看板タイプ。大型恐竜ブラキオサウルスは体を水の中に浸していた!・・かつては、こんなに重い体を支えるためには水の中にいただろうと考えられた(ずいぶん昔の説の気がするので、ちょっとびっくり)。 
1997年検定済では、ティラノサウルスのしっぽは地面を引きずらず、少し上になっているけれど、まだ今のように、水平にはほど遠い・・・・
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生きている化石といえる植物を、もう一つ紹介します。メタセコイアです。

学校や公園などによく植えられていました。かなり大きな木になっていると思います。
下仁田にもあると思います。
右下写真のような葉っぱの木です。
新生代の最後の看板に描かれています。

  「生きている化石」 この木ほどこの言葉にふさわしい植物はありません。

現在、新生代は260万年前~と変更されています
1941年三木茂博士は岐阜・和歌山などで、地層の中から見つけた植物の化石に「メタセコイア」という名前をつけました。セコイアという木に似ているけれど、少し違うので、こう名付けたのです。セコイアは高さ100mにもなる木で樹齢も4000年にもなるものがあるとして知られています。現在は北アメリカ西海岸にしか自生していません。そのセコイアの親戚で、もう絶滅してしまった木、それがメタセコイアと考えられたのです。
 1945年中国四川省で新しい種類の大木が発見されました。調べてみるとなんとこれがあの化石で見つかり、絶滅したと思われていたメタセコイアだったのです。

新生代第三紀という時代に栄え、200万年ほど前には絶滅したと考えられていた木が、今でも生き残っていたのです。
その後、メタセコイアは増やされ、あちこちに植えられました。丈夫で成長が早く、挿し木でも簡単に増える木。いわくのある木だと聞きながら、父が挿し木をしているのを、かたわらにしゃがみ込んで見ていたというかすかな記憶があります。
そんなわけで、日本には樹齢70年を超えるものはないはずですが、でも、どこでも大きな木になっています。
ほたるやま公園には、他にも古い時代に出現した木が植えられています。

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「ねぎとこんやく下仁田名産」 といいます。
そこで、仁田自然学校では、コンニャクについての冊子も作成しました。著者は里見哲夫さん。                

コンニャクの花、ご存知でしょうか。 今、山裾に入って歩いてみると、コンニャクに似た花が見られます。
ちょっと「不気味な」感じの花なので、印象に残ります。

こんな感じの花はみんな「マムシグサ」と呼んでしまいますが、もっとたくさんの種類があるようです。下仁田に見られるコンニャクの仲間は以下です。
  



下仁田自然学校・下仁田の植物より

ヒロハテンナンショウ・ヒトツバテンナンショウ・クロハシテンナンショウ・ミクニテンナンショウ・           マムシグサ・オオマムシグサ・
カルイザワテンナンショウ・
ウラシマソウ・ミミガタテンナンショウ・カラスビシャク・
ザゼンソウ

これらはサトイモの仲間です。
コンニャクはサトイモ科コンニャク属
マムシグサはサトイモ科テンナンショウ属
  「サトイモの仲間」と言うことにびっくりします。

マムシグサ : 目立つのは「ほう」といい、ミズバショウの白い部分と同じ。本当の花は、中にある棒のようなところにたくさん付く、小さいものです。


他のテンナンショウの仲間
ウラシマソウは、場所は下仁田から少し東の地域で見ました。5月2日のものです。
浦島太郎が釣り糸を垂れていると見立てたとかで、長く糸のように伸びた部分があります。これなら区別できます。
ウラシマソウ
コンニャクの親戚は、どれもおもしろい形をしていますね。
コンニャクは日本の自生ではなく、中国からもたらされたようなのですが、詳細は不明とのことです。

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町のまわりに咲いていた野の花たち

下仁田の町周辺の山すそも、緑がだんだん濃くなってきました。林に咲く花は白い色がめだち、少し地味な感じになってきています。5月15日ころの下仁田で見た花です。マムシ草は先にのせました。
    
   キリの花 昔は女の子が生まれると植えて          ヤブデマリ 沢沿いなどで花をたわわに
     嫁入りのタンスを作ったとか。人が植えた木です




   カジノキ  クワの仲間             ヒメコウゾ  これとカジノキの雑種が和紙の原料のコウゾ。 
                                     道端や荒れ地 にはえている。枝は少しつる状。
                                     雄花と雌花が見える。                                                                   




                       ウツギ
                 
ミツバウツギ 
                          



左写真の大きい木はミズキでしょうか。道端には
コゴメウツギの小さな花が咲き出しています(右)。

木々の梢には、目立たない花・実もついてます。


左下:アカシデの実



     
               
                   シナノキ
真ん中あたりに花が付いている。熟すと、へらのようにみえている部分で風に乗って飛ぶ
写真がわかりにくかったですね

草花も、春早くより少し地味になっています。

  道端や荒れ地の花: クサノオウ                  山すその道端:ウマノアシガタ
                               日に当たってキラキラ輝く、キンポウゲと呼んであげたい!

      ミヤマハコベ  沢沿い近くに                             ホウチャクソウ


ラショウモンカズラ                               ?


ウワバミソウ  ミズナという名で呼ばれる山菜                                                     カテンソウ
似たのがあるので、違っていたらごめんなさい                

















水上にお住まいの写真家埴沙萌さんが、カテンソウの花粉の飛ぶ様子をテレビで紹介してくれました。この地味な植物が、急に魅力的に見えました。


     この時期は、花はちょっと地味ですが、風も緑も本当に気持ちがいいです。
    外に出てみませんか。