⑦から⑩の観察です。
クリッペを形成する跡倉層が見られます。
跡倉層は礫岩部分と砂岩泥岩互層部分が見られます。
一部に断層があり、クリッペの下にある結晶片岩が、断層にはさまれて顔をのぞかせています。
ポイント⑦
左下の写真のような場所です。右の写真がこの場所の跡倉層上部層の砂岩泥岩互層。道路から眺めたのですが、ちょとわかりにくいですね・・・。 橋を渡ってすぐの場所です。
砂岩泥岩互層 |
←
結晶片岩は高角断層に取り込まれているというのですから、縦方向にできた断層があるはず・・
道の山側の斜面をみたら、少しつるつるした感じの面がありました。ここが断層かな・・・断層面についた筋が見えていました。↓
断層の面の一部。ひっかき傷・条線が現れている
← →
⑨ 道端の礫岩層
草や苔、落ち葉に覆われて、何だかよく見えませんが ・・・
調査の時は、こんな場所はしっかりハンマーでたたいて、調べねば・・・
道端の石を調べるときは、風化していることが多い・・・たたいて割って、新鮮な面を出さねば、きちんとした観察は難しいです。
調査の時、水で削られた川に沿った部分に目を向ける理由がわかります。上流の川なら、地層・岩石がたくさん見えやすいし、岩石は削られていて、新鮮な面が見られますから。
⑩跡倉層上部層 道沿いの沢のむこうに ”地層”という感じの層が見えています。砂岩泥岩互層です。
このあと少し上流へ歩いて行くと、道端に鏡のような平らな面が出ていました。地層の面がちょうど現れていたというわけです。傾斜した面は、ツヤツヤ光るような輝きを見せていました。
断層面にも「鏡肌」などとよばれる平らな面があらわれることもありますが、写真は地層が堆積したときの「層理面」。
断層ならまわりが圧力で破砕されていたり、平らな面にひっかき傷のような条線が見えたりします。それよりなにより、地層の重なり方と面との関係が違ってきます。・・・と書いて、ちゃんと見てこなかったことに気づきました。どうだったかなあ・・・
断層面ではないよね。
ここの道をもう少し上っていくと、小さな集落があります。高倉の集落です。
さらに先には、茂垣の集落もあります。
沢に沿って、山中の小さな集落が点々とみられるのも下仁田の一つの姿になります。市街地からひどく遠いというほどでもないのですが、深い奥山の村の雰囲気の場所になっています。
・・・集落の写真、撮ってくるんだった・・・
このコース、なかなかわかりにくいかもしれませんが、小さな崖もていねいに見ながら、大地の生い立ち・歴史を解き明かしていく過程の複雑さを、少し感じていただけるかもしれません。
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最後に、跡倉くリッペの全体的な解説を。詳しい解説が書かれてあります。運営顧問の細矢さんの書かれたものです。クリッペの解説は、あちこちで何度もありましたが、あらためて参考にしていただけましたら。
跡倉クリッペ (下仁田の自然地質編 解説編 )
下仁田町の地質で広く親しまれている跡倉クリッペは、日本の地質100選にも選ばれ、ネギ・コンニャクにならぶ名物になっています。
跡倉クリッペの形態
大北野ー岩山断層の南に、東西約8km、南北約4kmの範囲に跡倉クリッペ群が分布しています。西は本宿(もとじゅく)陥没で、南は断層で区切られますが、青倉川より東ではクリッペのすべり面である底角断層で三波川系の上に載っているのが見られます。東部では岩山クリッペ、鎌抜山クリッペ、御岳クリッペ、大山クリッペ、奥栗山クリッペに分けられます。すべり面は大崩山(おおぐいやま)周辺では標高300~350 m 、青倉川のフェンスターでは標高260mですが、御岳山のほたる山公園では公園より高い約400mと、大きく変動があります。全体としては西ほど高く、南北では南ほど高くなっています。
跡倉クリッペの岩石
跡倉クリッペを作っている岩石・地層は、跡倉礫岩層、跡倉砂岩層、跡倉砂岩泥岩互層、川井山石英閃緑岩とそれに伴うホルンフェルス、四ッ又山石英閃緑岩などです。
川井山石英閃緑岩は川井山山頂、大北野から小北野、ふじ山から蒔田不動(まいたふどう)の滝で見られます。全体的に破砕され塊状になったり、砂岩様になった部分があります。破砕の少ない部分でも、多くは風化して有色鉱物が緑色に変質しています。放射年代は2億7000万年(古生代ペルム紀)です。構成鉱物は斜長石、石英を主とし、黒雲母、角閃石です。埼玉県小川町にもクリッペがあり、そこで見られる金勝山石英閃緑岩は、放射年代、構成鉱物などが川井山石英閃緑岩と一致するので、同一のものと考えられています。
ホルンフェルスは川井山石英閃緑岩のマグマの熱により周りの砂岩、泥岩が熱変性をしたものですが、そのときの変化とその後の変動で、源岩の構造はほとんど残っていません。砂岩の砂と思われるところはチャートのように見えます。顕微鏡で見ると、石英、炭質物、黒雲母、ザクロ石(ガーネット)、緑泥石などです。
跡倉礫岩層は長源寺橋上流が観察の適地です。礫の大きさは直径10~20cmのものが多く、直径数十cmから細礫まであってふぞろいです。礫の形は円礫ないし亜円礫で、変形したり切断したのが見られます。礫の種類は花崗岩、閃緑岩、ホルンフェルスがほとんどですが、砂岩、泥岩、チャート、石灰岩、玄武岩質凝灰岩、はんれい岩なども含まれます。特に閃緑岩は川井山石英閃緑岩と同じであり、ホルンフェルスはザクロ石を含むので、川井山石英閃緑岩やホルンフェルスが浸食され、それがその上に堆積した不整合の関係であると考えられています。礫の間を埋めている砂も、石英や長石の岩片などです。跡倉礫岩層は、大北野西部から跡倉、大崩山、御岳、大山と、ほぼ東西方向に続いています。
跡倉砂岩層は跡倉礫岩層といれかわる部分があり、一括して跡倉層下部層とよぶこともあります。層理面はあまり見られず、黒っぽい泥岩が多く含まれる部分もあります。
跡倉層砂岩泥岩互層は、クリッペの南部に広く分布します。灰色の砂岩と黒灰色の泥岩の10~30cmの互層で、級化構造が見られます。一見おとなしそうな外観にもかかわらず、この地層はしばしば数m~数十mごとのブロックに分かれ、地層の走向傾斜が変わり、時には逆転している部分もあります。宮室(みやむろ)の下郷の沢では、沢に沿って広い範囲で逆転層が見られます。四ッ又山の南面でこの層からアンモナイト、二枚貝の化石がみつかっています。 (ここに紹介されている宮室の部分は、次回コース図で解説します)
クリッペの地質構造
クリッペの地質構造をしらべてみると、川井山石英閃緑岩・ホルンフェルスと跡倉礫岩層は不整合と考えられます。不整合面と考えられる境界は、長源寺橋上流部から小北野入り口、大北野川に連続しています。また、岩山のふじ山でも、川井山石英閃緑岩に跡倉礫岩層が接しています。これらの露頭観察から不整合と考えていますが、不整合面がわかりにくく、小断層でずれているところ多く、判定しにくくなっています。
大北野川の入り口の橋から300mのところで、河床近くにほぼ水平な断層が、道路からも見えます。上盤はホルンフェルス、下盤は跡倉砂岩泥岩互層です。この断層は水平のまま河床近くを下流まで続き、下流では上盤は跡倉礫岩層となり、下盤の跡倉砂岩泥岩互層は南牧川(なんもくがわ)に広く分布し、、宮室の万年橋下で詳しく観察できます。
このことから、跡倉クリッペは二重構造になっていて、三波川系の上に跡倉砂岩泥岩互層がクリッペとして乗り、その上に重ねて他の岩石が乗っていると考えられています。
クリッペがいつどこから移動したのかということは、多くの研究がなされています。移動の方向については、中央構造線より北、つまり北から南という考えがありました。岩石の様子などを総合してこう考えたわけです。しかし、断層面に見られる移動したときの傷跡(条線)の解析から、西北西、次いで北へ移動したとする考えも出されています。
移動した時代については、跡倉層の中に中生代白亜紀の化石が発見されているので、白亜紀よりは後、新生代第三紀の5500万年~1600万年の間と考えられています。
跡倉クリッペと同じような構造は、下久保ダムのすぐ南の神山から東の岳山にかけて、埼玉県小川町でも見られます。
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構造については、ここでは図の解説もありませんので、わかりにくいかとも思います。にかく、複雑・・・
二重構造の話などは、話がこまかく難しくなってしまい、また、調べた人により見解の相違なども出てくるので、これらについてはのせるにしても、後から紹介ということにしたいと思います。
たまには地図を片手に、あるいは案内の方と一緒に、歩いて自然を見るのも、いいものですよ。
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