ろう石:白く軟らかい石。
ある年代以上の人は、この石でコンクリートなどの上に絵を描いたことがあるのでは。
もしかしたら、そんな石を長瀞あたりのお土産でもらったりしたかも。
今でも,長瀞にいくと、ロウセキでつくったお土産物が店先に並んでいます。
秋畑のようす、ずいぶん高いところまで家があります |
途中の家並み |
サクラの咲くころの武者行列で知られるようになった小幡の家並みを、そのまま南に進み山の地域に入っていくと、秋畑にたどりつきます。
小幡は織田家ゆかりの地とのことで、最近再現された庭園・楽山園や、見学できるコンニャク工場もあり、観光バスもやってきますが、そこから先へはなかなか行かないものです。
写真にみるように、秋畑は平地には恵まれない山あいの集落です。秋畑では土日祝祭日に農村レストランのソバのお店が開かれ、それを目当てのお客さんも来るようです。
うかがった田村さんのお宅は、道からほんの少しわきに入ったところにありました。古くからの農家のつくりで、玄関を入ると広い土間になっていて、私としては「なつかしい~」。その土間に置かれたテーブルと椅子で,お話しをうかがいました。
田村さんのお宅、蚕を飼っていたご様子 |
「ろうせき」とよんでいますが、秋畑のものは正式には滑石(タルク)。モース硬度計で1の、軟らかい鉱物の代表です。
蛇紋岩から変化して(交代作用で)できたりするのだそうで、日本では変成岩の中に小規模に見られる・・・というわけで、三波川結晶片岩地域に小規模に点々と見つかるのです。石綿の出ることもあったそうです。
堀越さんがあらかじめ電話で話を聞いておられ、詳しいメモを作ってくださっていました。それをもとに、概略を書きます。
ろうせきでつくった表札、 当時のもので残っているのはこれだけとのこと |
採掘時期 :昭和25年~昭和40年
最盛期 : 昭和33年~昭和35年
滑石の採掘地 :甘楽町大字秋畑
河振(かわふり)
小倉(こぐら)
芳ノ元(よしのもと)
いちばん質の良いものを産したのは河振の近く
滑石採掘の規模 :地元の人が数人程度で採掘したものが多いようで、一人か二人ではじめ,うまくいけば4人、5人とかで掘ったそうです。坑道を掘る先山(さきやま)とズリを運び出す「ズリだし」がいて、先山の方が取り分は多かった。最盛期には13~14軒(グループ)が掘っていたようです。多くの業者が出入りした時期もあり、鉱山師が採掘権を取得して採掘を進めたりすることも。そんな人には秋田鉱専を出た人もいたり、北海道から来た人もいたようです。鉱区を取るための代書屋までいたといいます。
利用: 質の悪いもの 農薬の増量剤
質の良いもの 化粧品、ゴム、食品など
粉にして利用したことがわかります。
そんなわけで近所には製粉業者が5つありました。現在はなくなっていますが、この頃創業したもののひとつが、現在、小幡の浅田製粉につながります。ここは有名な化粧品会社も取引先にあるようです。
地質 :蛇紋岩と”普通の石”の境目に”ロウセキ”の層があり、この層を「ひ」と呼びました。この地域の鉱山は露天ではなく、坑道をほっていったものとのことで、横方向に広がる「よこっぴ」と縦方向の「たてっぴ」があり、「たてっぴ」が掘りやすかったそうです。
掘っていると,急に目の前が白くなることがあり、「ロウセキだ」と。うれしい瞬間だったことでしょう。
掘った場所が軟らかいところもあり、それは白土と呼んでいました。これは主に農薬につかったとのこと。白土の中にロウセキの塊が混じっていたそうです。
沓脱ぎ石には立派な結晶片岩 畑から出たものとのこと |
ツルハシひとつで掘り進む・・・ウーン大変だなあ。真っ暗な坑道・・・当然電気で照明して、と思ってしまいそうですが、いえいえ、電気なんてきていません。ではヘッドランプ?電池を使ったような、そんなハイカラなものはもちろんありません。照明はカーバイドだったと聞きました。カーバイド・・・ご存知でしょうか・・・
たしか、アセチレンランプに使ったものだよなあ・・と。もっとも私でも、アセチレンランプって、見たことあったかどうか・・?
縦坑は水の出たこともあり、また、酸欠で亡くなった方もいたそうです。
坑道は木枠で周囲や天井をかためながら掘り進みました。ツルハシでほり、一人で毎日1m程度しか掘れない・・・田村さんは、奥さんの実家の畑に坑道を掘ったとのことで、坑道の長さは30mほど。もっと長く掘った人もいたとのことです。坑道を掘るから、畑の名前に「トンネル」とついていた場所もあったとか。
採掘跡は現在はすっかり荒れていて、今は見ることはできません。
庭に置かれた蛇紋の石 |
平地に恵まれないこの地域では、石垣を組んで畑にし、農業を行いました。コンニャク栽培、養蚕などもおこなわれ、豆類はよくとれたとの話。かつてコンニャクは急斜面の水はけの良い場所でしか栽培できなかったといいますから、この地域は栽培に向いていたのかもしれません。
近くに 赤谷(あかや) 赤谷平(あけびら)という地名の場所があり、そこでも
ろう石を掘ったようです。
飛び石もきれいな結晶片岩、ご自分で取っていらしたもの |
とったろう石(滑石)を粉にする製粉工場でも地元の人は働いたわけです。ところが思いもかけないことが・・・けい肺になって亡くなる人が増えたのです。
工場では真っ白な粉がいっぱいに舞っていました。
「からだじゅう真っ白。頭から足まで。
昔だから、そこで口に手ぬぐいまいたくらいで働いていたんだよ」
こんななかで,肺に入り込んだ鉱物の粒子は重大な健康被害をひきおこしていったわけです。
石綿のでることもあったという話も,重い言葉となって響きます。とはいえ、タルク(滑石)そのものには発がん性はなく、化粧品やベビーパウダーの材用にもなっているようです。
ここではたくさんの人が鉱山で働き、収入を得たわけですが、それもわずかの期間で終わったわけです。
「鉱山でたくさん働いていたのに、今,それを話せるのは俺しかいなくなってしまったなあ。ここ数年で、バタバタと急に亡くなったしなあ」
少し寂しそうにつぶやいておられました。
当時のことをじつにこまかく覚えておられ、たくさんの人の名前も覚えておられるご様子。、青焼きの地図も保管され、鮮明に話してくださいました。
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ろう石、滑石・・・・
この2つ、同じものじゃなかったの?? という程度の認識でした。ろうそくのような質感をもち、軟らかくて字を書けるようなのは、みんな「ろう石」だと思っていました。
でも本当は違うものらしい・・・そこで少し調べてみました。
ろう石は軟らかい数種類の粘土鉱物からできています。特に葉ろう石という粘土鉱物が多くふくまれます。
滑石は,滑石という鉱物です。
でき方も違う!!
ろう石は「石英や長石の多い火山灰や岩石(白っぽい石)が熱水の作用を受けてできた」
滑石(タルク)は結晶片岩のような高圧変成作用を受けたりしてでき、蛇紋岩からできたりするといいますから、むしろ黒っぽい石からできる、といえそう。なんだか、正反対。
昔、東日本で「石筆」として駄菓子屋で売られていたのは秩父周辺で採取されたタルクだと言いますから、私が遊んだのは、滑石なんだなあ。
どちらも似て見えるので、ちょっと見ても区別できないかも・・・例えば篆刻(書道で使う雅号を彫ったはんこ)など、どちらも使っているようです。石筆もどちらもつかったようです。
ろう石は秩父での採掘が以前からあり、戦前にも掘っていました。はるか昔なら,古墳時代の勾玉にも使われたと言いますが、明治のころから本格的に使われはじめています。
学校教育がはじまると、石板(ノートのように使う小さな黒板、もともとは粘板岩でつくった)に石筆(鉛筆状に切ったろう石や滑石)が使われました。
明治後半に北九州の八幡製鉄所がつくられる時に、溶鉱炉の耐火煉瓦の材料としてろう石が使用され、以後、重工業を支える基幹物質のひとつに。戦後の復興期には鉄鉱石や石灰石とともに、ろう石も全国の資源調査がおこなわれたといいます。顔つきも、用途も似た滑石も、同時に掘られていったわけでしょう。
「そうか、それで,戦後、あちこちで小さな鉱山を掘っていたのか」と、納得。
下仁田にも馬山鉱山があって、ここは蛇紋岩があり,滑石を掘っていました。農薬の増量剤、ゴムなどに使ったと聞きました。戦後、農薬が大量に使われるようになって、滑石やろう石の需要も増えた時期に一致するなあ、などと思います。
2008年の産総研地質ニュースの文章で「ロウ石が現在もっとも多量に利用されているのは、ガラス繊維の材料でしょう」と。織物をつくるわけではなく、新幹線・自動車などの車体、小型漁船などの船舶、断熱材などの建材・・・いやはや、驚いてしまいます。
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戦場の集落だったと思うけど・・ |
「せんば」 だそうです。
それにしても、何で、こんな字を当てたんだろう・・
道を先にたどると、「会場」という場所も。読み方、わからない。どなたか教えてください。
さらに東のほうに行けば、
「名無村」もあります。
何だか変わった地名がたくさんあって、楽しくなります。
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