2016年6月9日木曜日

麦刈りが終わって 天明泥流など

あれこれ紹介を・・・

麦刈りが終わろうとしています。暑さのなかの、チクチクとホコリにまみれた麦刈り。
きつい仕事です。   今年はカラカラ天気続きで、畑の野菜も庭の花も、青息吐息。
関東は梅雨に入ったと言います。麦刈りは梅雨の雨との競争です。
 麦が刈り終わったら、もう雨、降っていいよ。

道路端にカルガモの死体が・・・交通事故に間違いなし。今年はこれを見るの、2度目なのです。こんな姿、ときおり見かけます。
道路をよたよた歩いている姿を見ると、あれでは無理もないか・・と思ってしまう。
写真を撮りましたが、なんだか載せたくない気分です。
 みなさん、カルガモには注意してください。スズメと違って、車がきたからと、機敏に飛び上がる鳥ではないのです。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

ちょっと遅くなってしまいましたが、きれいなバラガーデンを紹介。
館林茂林寺の隣にあります。






何だ、草だらけじゃないかと思ったら、それは見る目がないかも。
バラの株のまわりには、さまざまな草花が咲き乱れているのです。これが何とも言えない良さなのです。
みたこともない、多分宿根草が、これもたくさんの種類植えられています。手作業の手入れでしょう。大変そう。
バラも種類豊富で、平均、1種につき2株しかないようです。

夏の暑さのきびしいこの場所で、こういった植物を育てるのは、本当に大変でしょう・・特に宿根草類は。

すぐ近くが茂林寺の湿地で、水があることが生育にプラスになるのでしょうか。バラとクレマチスが混じり合って咲いているのもなかなかの風景です。クレマチスは日本原産のカザグルマという花を、シーボルトが母国に持ち帰り、園芸家により改良、中国のテツセンとともに、現在のクレマチスのもととなったものです。
日本のアジサイもツバキも、みんなヨーロッパに持ち込まれ、たくさんの園芸品種をうみだしたおおもとの植物なのです。
カザグルマは、園芸品種のクレマチスに負けず劣らずの見事な花を咲かせる植物です。今は日本で絶滅寸前になっています。大切にせねば。


入園料の高さにちょっとひるみますが、それだけの手間暇がかかっているでしょう。
バラの季節に訪れるのが良いですね。

 比較的最近造られた庭らしいので、この場所は以前何だったか聞きました。ゴルフ場だったそうです。世の中の動きを察知する、先を見る目のある経営者だったのかな。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

前回、浅間の泥流の話を書いたので、天明噴火の泥流に埋まった遺跡の話を書こうかと思ったのですが・・・・

 人口が増え、高崎からの広い道路がつくられ、橋ができと、あれこれ工事の行われてきた玉村町なので、近所でも何度も発掘風景が見られました。
 ずっと以前、私が子供の頃は、塚状に点々とたくさんみられた古墳が発掘されました。小さな古墳から三角縁神獣鏡が出土し、学校では普段の授業をやめ、一日かけて発掘中の古墳巡りをしました。柔軟に対応し、こんなことをしてくれた先生方に感謝です。
 
今は畑や田んぼをひっくり返しての発掘です。もちろん、天明の泥流に埋まった物ばかりではありません。いろいろな原因で、埋もれているわけです。
ここではバブルの頃から、すいぶんたくさんの発掘がありました。高速道路や学校建設工事では大きな古墳も見つかっています。その頃は遠くに住んでいたので、その発掘風景は見られなかったのですが。


次は天明泥流に埋まったものの紹介です。

左写真は、近所の発掘のようす。利根川べりで、農家の跡です。裕福にしっかりした農家だったろうとのこと。泥流到達までに少し時間があったようで、家財道具は運び出されたと思われ、ほとんど残っていなかったとのことです。
 玄関やいろいろな部屋まで、家の見取り図がしっかりわかるとのことです。


神棚や仏壇のあと
以前は発掘現場で「すみませ~ん、ちょと見学させてもらっていいですかあ~」なんて、図々しくお願いしたりしたのですが、最近は車で通り過ぎるだけだなあ・・・。反省。もっとも、立ち入り禁止になっているでしょうから、迷惑だったかもしれませんが。
田園地帯だったこの町、もうそろそろ開発も少なくなり、発掘も見られないなるでしょうから、貴重なチャンスのはずなのですけど。
 ところで、あまり写真がない・・・
手元に見つかったもので、紹介です。

畑の畝のあと、最初火山灰が降ってきて
畝を埋めました。
畝跡はあちこちに見られます。
 




ご先祖様を偲ぶ気持ちが湧いてきたりします。
どんな人たちだったのだろう、どんな苦労をして生きていたのだろう・・・


台所あと、洗ったり調理した、流しがわかります




 
昔発掘された古墳は、もちろん今はありません。このあと耕地整理が行われ、直線で区画された効率的な田んぼができました。機械化がすすんだころ、この耕地整理で農家は楽になるはずでした。
 ところがこの頃から、米あまりがいわれはじめ、やがてイネの植えられていない休耕田もひろがりました。
 耕地整理には農家の人たちがお金を出資しています。その分担金は負担になりました。
「あのお金がなければ、すいぶん楽だったんだけど・・」専業農家の方が言っていました。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

 もっと上流、八ッ場ダムの発掘場所でも、この泥流に埋まった遺跡がたくさん発掘されています。日本のポンペイなどと呼びたいほど。
ところで、一般的には江戸時代の遺跡はあまり重視しないのだそうですが、群馬では火山噴火に埋まった物もあり、考古学に携わる人たちの考えで、ていねいに発掘をしているとのことです。
鎌原の観音堂での、年老いた女性を背負った若い女性の遺体の話は有名です。あとちょっとで助かったのに・・階段の途中で泥流に埋もれてしまった・・・


不動大橋から見た遺跡発掘現場
上に骨材を運ぶベルトコンベヤーが見える
八ッ場でもさまざまなドラマがあったのでしょう。
現地に行くと、川底の深さを感じます。こんな上まで泥流が到達したんだ・・(以前、水面までの高さを調べたのですけど、忘れてしまって・・・)

こんな山の中・・と思うかもしれませんが、ここには縄文中期後半の大集落もあるのです。平地の玉村町には縄文なんていう古い遺跡はない。大きな川が自由に流れる場所は、水を制することができるまで、人には住める場所ではなかったということです。山と小さな川のある、つまり燃料と水のある場所が住みやすかったのでしょう。縄文人の人骨も見つかっています。4500年から5000年前の人骨で、県内最古。

遺跡拡大写真です。
畑の畝らしきものが見えます



こんな古くから人々が住んでいたんだ。
話を江戸に戻して・・・八ッ場ダム地域では地域が広く天明の泥流に覆われていて、あちこちから人の生活の跡が出てくる・・まさに遺跡だらけ。


 発掘はずっと続けられてます。まだまだ
作業は必要。

畑の畝も見えます。

堀をめぐらした地方豪族の館らしいものがあったり、かなり大きかったと思われるお寺が見つかったり。池や築山があったと良いますから。建物がながされ、住職は命からがらに山の斜面を登って助かったと。
下流(伊勢崎だったかな)での記録に残っているのだとか。


人のつながり、自然とのつながり、
川を通して感じることができます。


それにしても、ダムに沈む集落は、あとに何か残るのでしょうか・・いえ、残さねば



















 
今でも湯煙が上がる


川原湯温泉共同浴場、王湯。もうじき解体される






 
 
 
 
 





 











1 件のコメント: