2016年12月25日日曜日

高崎の用水・世界かんがい施設遺産に認定 



水こそ命・・ 大切な灌漑施設

     高崎の発展はこの用水なくしてあり得なかった


 昔、四分一(しぶいち)さんという人と知り合いました。「珍しい名前ですね」 「三分一というのもあるよ」。水を均等に分ける仕組みがあって、それを三分一とよび、見にいったこともあるような・・とか聞いたかすかな記憶があります。コップの水を分けるのではなく、水田に引く水を分ける話です。 ネットに解説がありました。
  「三分一湧水」・・・ 水争いの三つの村に等配分するために築かれた仕組み。
               戦国時代武田信玄が築いたという伝説がある。


 
 少し前、丸い施設の写った写真と、「水を分けるかんがい施設です」と説明の載った新聞記事がありました。場所が高崎ということもあり、見てみようかな・・・先日、その灌漑施設の紹介・説明会の案内記事を見て、我が家から近い場所だ、と出かけてきました。高崎市倉賀野町のたかさき人権プラザという、2階建ての少し古い建物でした。入り口を入ると、玄関に職員がいて、「どうぞ2階です。説明おねがいしま~す」。

私の予備知識は「分水の施設」だけ。
会場では解説者が何人か、来場者に
解説していました。
今回、かんがい施設遺産に認定されました
カメラをもっていかなかったので、いただいた資料図をお借りして、少し解説。

 手作りのジオラマがいくつか置かれ、川や水路・施設を書き込んだ地図も張り出されています。何枚もの大きな地図を張り合わせたものでした。その他にも古い地図の資料など、たぶんコツコツ調べたのだろうな。

 説明された方が語っていました。
「私らこれを10年やってきましたけどね。
この用水の水で産湯をつかって、この水のおかげで生活してきたんですから。そこには先人の苦労があったわけですよ。でも、そんなことみんな知らない。私も知らなかった。そのまま忘れられてしまったら、申し訳ないじゃないですか」
 なるほど、パンフの表紙にはこんな言葉が。
”先人へ感謝”  ”次世代へ継承!”
きっとこの言葉を合言葉にして活動されてきたんだろうな。

 高崎・前橋の市街地は、よく見ると、それぞれ台地になっています。昔の浅間山が大噴火で山体崩壊し、それが流れ下ってたまり、台地となったものです(崩壊した山の跡が、今の黒斑山。2万4千年とかいった昔の話。今の浅間山はそのあとできた山です)。前橋泥流というのが 堆積物の名称です。これ、厚く積もっているのですよね。高崎台地で厚さ15ⅿ~25ⅿ。その上に井野川泥流もたまっていたりします。

 図を見てください。赤い線が主要河川の烏川と井野川。青い線が、そこにそそぐ小さな河川。確かに、高崎の人の多く住む地域には、水の流れが無い。平らで地面も固くはないから作物を育てられそうだけれど、肝心の水がない・・・不毛の大地・・

下図の断面図では・・・一番左が烏川、一番右が井野川。
烏川はずいぶん低い所を流れてるなあ・・井野川も・・これでは台地に水は流れてこないはず・・・






















さてどうするか。
どこからか水を引いてくるしかない…どこから?

 水は自然に流れ下ってくれなければ困ります。それには、取水口は少し標高が高くなくてはだめさらに水量がたっぷりなくてはだめ。それには、烏川がいい! 
では、どこがいいか・・・それが下図の左端の①長野堰

この図では藍色のラインは、すべて人が掘った水路です。これで、カラカラの大地に水がもたらされたわけ。長野は長野県ではなくて、この水路にかかわった人の名前、箕輪城主の長野さんです。

 

ところでこの水路、いったいいつのものなんだろう…そんな基礎知識もないので、聞きました。1500年代…えーっ、古いんだ。江戸時代かと思っていた・・
古い確かな記録は1645年で、正保国絵図に現在のルートと同じ用水の図があります。パンフレットには図が載っていなかったので、ここには紹介できませんが、昔の絵図が展示されていました。この図の存在が世界かんがい施設遺産決定の要にもなったのでは、と。
1645年以前の図にも、堰らしいものが見られ、それらも展示されていました。1000年も前
に長野堰の元はスタートしていたのではとも言われています。
 
 貼り合わせた大きな地形図には、いろいろ書き込まれていました。
長野堰の所には「サイホン」。烏川の水を榛名白河を横切って運ばねばならないので。
そんな昔に、サイホンの工事なんて、できたんだろうか?。川を横切る時、サイホンの原理を使っているらしいのですけど・・また、質問してみました。
「あの~、そんな昔に、サイホンなんて工事できなかったんじゃないですか・・・?」
「昔は、板で樋(とい)をつくって流していたりしたと思う。でも、大水で流されたり、とにかく大変なので、、サイホンで流すようにしたのでは。」なるほど・・川の下に、別の水の道を通すということですよね?  いつ頃の話かなあ・・「1866年に埋樋(サイホン原理の水の通路)の記録がある。でも、それより相当前から埋樋はあったのでは」と。大変な仕事だったのでは・・・もうちょっとよく聞いておくのだった・・
 

 私が知っていた円筒分水、作成年代が、昭和37年と書いてある・・・これ作ったの、最近だったんだ。ここの展示は、これがメインの話でなかった。
地図を見ていると、円筒分水の近くに「地獄堰」と書かれていました。「何ですか、この名前。どうしてこんな名前つけたの?」 
 「本当のことはわかりませんけどね、でも、水争いで人の命にかかわることがあったとか、そんな想像ができますよね」  なるほど、そんな気がする。他の堰の名前は、矢中堰、佐野堰、倉賀野堰で、普通の地名なんだから。


 隣には「地図の中に、水田跡の見つかった場所をプロットしたものがありました。ジオラマもつくってあったかな。下の写真です。
パッと見て、「どうして水田跡の図をつくったの?」と聞きました。
 「よく見てください、平安時代から、高崎台地の中にも水田跡があるんですよ。ということは、平安時代にはこの水路があったということになりませんか」   ああ、そうか。なるほど。
長野堰用水を取り囲むように水田跡が見られるのです。
「だったら、高崎の古墳はどこにあったっけ。古墳時代には水田って、ほとんどないですよね」
 見ると、ちゃんと、川に近い場所に、いくつか古墳が書き入れてありました。でも、台地の真ん中には、確かに古墳は無し。群馬の南部には、古墳なんてどこにでもあるような気がしていたのですが、そうではなかったようです。やっぱり、人が住めるような場所じゃなくちゃ。

あれこれ質問に付き合っていただいて、ありとうございました。後でいただいた資料を見たところ、質問したことは、みんな書かれてありました。
見ながらあれこれの疑問に答えていただいて、とても楽しい時を過ごさせていただきました。
他にも、高崎市の町の様子など、紹介されていました。
資料にのせられていた関連年表を、書き写します。

900年頃   : 長野堰のはじめ。この頃開削始めた証の水田遺跡多数あり
1550年頃 : 長野業政 長野堰の大規模改修を行う
1590年     : 井伊直政 箕輪12万石の城主になる
1596年頃 : 徳川家康 中山道沿いへの城づくりを命ずる
1598年  : 井伊直政  長野堰を活用し高崎をつくり、移る
1802年  : 太田南畝 高崎の賑わいを江戸に伝える日記を残す
1962年  : 円筒分水堰 公平な分水で水争いをなくした
2016年  : 世界かんがい施設遺産に登録される
 
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世界かんがい施設遺産って、どんなものか、調べてみました。

 2014年からはじまった登録制度。灌漑の歴史・発展を明らかにし、理解をはかり、また灌漑施設の適切な保全に資するための認定制度。
建設から100年以上経過し、灌漑農業の発展に貢献したもの、卓越した技術により建設されたもの、歴史的・技術的・社会的価値のある灌漑施設を登録・表彰するもの。
 もちろん、これにより活用・保全・教育・維持管理への意識向上を目指しています。
      ちょっとお役所文書的になってしまいました。
甘楽町の雄川堰(おがわぜき)が登録されていたのを聞いたことがありました。小幡の武者行列の行われる桜並木のあの所、通路わきにある水路です。
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 日本では今年、27施設が登録されています。世界でいくつの登録施設が登録されているのか、かわからないのですが、名前のあげられていたのは中国、タイ、スリランカといった、アジアの国々でした。
かつて私の世代が教わった世界四大文明とよばれていた場所は、みな大河のほとりでした。エジプト・メソポタミア・インダス・黄河・・・古代エジプトのシンボル、ピラミッドが水のない砂漠のなかに うずもれているのはなぜ?水なしでは生きていけない人間が、砂漠の中に高い文明を築けるの??   高校のころ、世界史の授業をぼんやり聞きながら、合点がゆかない、と思ったのを覚えています。

 メソポタミアでは、農耕の開始とともに、灌漑をして麦を育てました。強い太陽に照らされた土地は、水の蒸発が多く、それに伴って土中の塩分が上昇してきて、やがて作物の育たぬ不毛の土地となっていった…塩類集積・・こんなことを知ったのは、ずっとあとでした。メソポタミアでは、次第に塩分に強い小麦が栽培されるようになり、しかしそれでも間に合わなくなって、やがて文明は崩壊していった・・・鉄づくりのために森林を切り倒して、荒れ地となった地域も見られます。

 「人類は地表を渡って進み、その足跡に荒野を残した」

灌漑により成り立つ水田、ここでは1000年たっても塩類集積は起こらず、多量の水で塩類は洗い流されていく・・・1000年以上も同じ作物を作り続けられる奇跡の場所、水田・・・・こんな田んぼを持つ、アジアの地こそ、灌漑施設を懸賞する国際的な賞を創設するにぴったりの地域なのかも、と,ふっと思いました。
 先人への敬意を持ちつつ調べてこられたことが認められて、良かったな、と思えました。
       書き落としていましたが  この活動を行っているのは 「長野堰を語り継ぐ会」の皆さんです。




2016年12月17日土曜日

下仁田自然史館 小さな化石紹介



仁田自然史館に展示しているものをぽつぽつ紹介してきましたが、
今回は 小さな化石などの紹介を
 以前に解説したこともありますので、再登場もありますが、悪しからず。


化石整理をやっていたとき・・・
     
化石整理作業中
 

下仁田自然史館の校庭には、風にクルクルと落ち葉が舞っていました。
 そう、校庭・・・ここは以前は
      「青倉小学校」でした。
校庭に舞う「小さな小枝」、それと同じものが、整理中の化石の中にありました。

小さな小枝・じつはケヤキの実がついている 


ケヤキの実
兜岩層産出のケヤキ化石










 茂木伊一さん(故人)が集められ、寄贈してくださった兜岩化石コレクションは、昆虫も含め保存状態のよいものが多数あります。
今、頑張って、同定・リスト作成中です。


小さな化石 ・・・・自然史館にあるものの紹介

 顕微鏡を見た時、「面倒くさいなあ」と思いますか、「何が見えるか、ちょっとワクワク」と感じますか? 今年、ノーベル医学生理学賞を受賞した大隅良典さんは、「顕微鏡をのぞいていた時間の長さは誰にも負けない」と言っていたなあ。

 自然史館には「顕微鏡で見てね」というものがたくさんあります。顕微鏡の下にあるのは生き物ではありませんが、小さな化石、火山灰の中の鉱物などが見られます。

顕微鏡で小さな化石を見ます



火山灰に含まれる鉱物を見ます
透き通って宝石のようにきれいですよ
 
有孔虫・・・虫? どんな虫?
 

有孔虫  1650万年前
子供たちと化石採集に行ったとき見つけた有孔虫。割った石をながめていたら ゴマ粒のような小さな粒が目にとまった・・・
虫眼鏡で見たら、何やら模様が。 有孔虫でした。
小さいからってバカにしてはいけない。
有孔虫は、地層の時代を決めるのに とても役立ちます。
  写真の有孔虫について 詳しいことは私にはわかりませんが、海の地層からでています。写真もわかりにくくてすみません。
小さなカタツムリ風に見えました。

 フズリナ   

とても有名な化石です。これも有孔虫の一種。進化スピードが速く、時代を決めるのに本当によく利用されてきました。古生代という、はるか古い時代に生きていました。

フズリナ(みどり市 小平のものです)
米粒石ともいうだけあって、ちょうど米粒のような大きさ。
この仲間は下仁田町でも見つかりますが、数は少なく、きれいなものが手元にありませんので、今はみどり市大間々町小平のものを展示しています。
石(石灰岩)を切って、ガラスに張り付けて、薄くすり減らしたものです。米粒のような形のものの、内部の模様がよく見えます。
虫眼鏡でも結構よく見えます。
 ちょっと大きめなので、大型有孔虫 小さいけど、有孔虫にしては「大型」なので。
  

みどり市小平のものです
でも、これ、、虫?   

 有孔虫はアメーバが殻をかぶったようなもので、この殻の小さな穴から、アメーバ本体が手足を伸ばして生きていた・・などと説明しているのですけど。
ですから、虫ではなくて、原生動物になりますね。
有孔虫の仲間は5億年ほども昔から生息していて、今でもいる、という”つわもの”。石垣島のお土産で知られた「星砂」は今生きている有孔虫です。石灰質の(炭酸カルシウム)の殻をもっているので、なるほど、石灰岩のもとにもなったというわけ。
フズリナの説明で以前に書いたのは、以下です。
http://geoharumi.blogspot.jp/2014/05/blog-post_11.html

レピドシクリナ


これも大型有孔虫。これも、出てくると時代が決まり、当時暖かかったこともわかるので、とても有名。時代は新第三紀。 ここに展示してあるのは すべて下仁田産です。
       顕微鏡で見ると、右下写真のように見えます。大きさは、写真のはちょっと小さめかな。3㎜くらいの大きさのものも たくさんあります。


   
                  レピドシクリナ  下仁田町産出  
                          写真 中島啓治さん

黒いのがレピドシクリナ
肉眼で見ると、左写真のように見えます。
化石の入っている石を切って 磨いたものです。石は、石灰岩。
フズリナの入っていたのは古生代の石灰岩ですが、こちらは新第三紀の石灰岩。石灰岩といっても、砂っぽい石です。

レピドシクリナの解説は、以前、のせたことがあります。
http://geoharumi.blogspot.jp/2014/05/blog-post.html
 


沖縄のビーチの砂。矢じるしの所にあるのは・・・
現在の海の有孔虫の殻の写真も載せましょう 。沖縄のビーチには白い砂浜が広がっていま
す。関東周辺の海岸とは、ずいぶん違います。

顕微鏡でのぞくと・・・砂粒ではないものが・・
この「砂」に塩酸をかけると、泡を出しておおかた溶けてしまうのです。
さらに顕微鏡で見ると・・・とげとげの付いた粒や、アンパンみたいな形で表面に模様がついているのがあったり(写真の矢印など参照)
小さな巻貝のようなのもあり、これは本当に巻貝かもしれませんが、とげとげのものは、星砂のようだし、きっと有孔虫。”アンパン”も。
サンゴのかけらや貝殻のかけら、それに有孔虫などが混じって「砂」になっているようです。これを見ながら、太古の昔に思いをはせたら、ちょっと身近になるかも。


   沖縄の砂も、顕微鏡で見るようにしてあります。沖縄まで行かなくても、有孔虫はみられるかもとは思いますが、具体的には見たことはありません。なお、サンゴや有孔虫は波に洗われて砕けてしまい、小さな白いかけらだけで、元の形がわからない砂浜もあります。 
 
他には、放散虫という、これも小さなかけらのような、とても小さい化石もあります。これは塩酸では溶けず(ガラスのような成分)、時代決定では大活躍のものです。
 地球の歴史を解明する小さな化石たちの「実力」、すごいものですね。
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八ッ場ダムの見学に行ったときの話

前回、遺跡発掘の話を書きました。発掘事業団の人に丁寧に説明していただいて、貴重な経験をさせていただきました。
 この見学会は、群馬の県議会議員が出かけた時に、一緒に参加させてもらうという機会を得たものでした。午前は遺跡、午後は本体工事の始まったダム建設場所の視察でした。
国土交通省としてはあまり来てほしくないメンバーだったことでしょう、入れる場所については、最初からすったもんだの末の当日だったようです。案内は1時から30分間だけといわれていたとかで、ぴたり1時に国交省メンバーは待ち合わせ場所に到着。ぴったり1時半には終わりにしました。入れる場所は、ゲートの中ではありますが、現場を上から見下ろす場所で、普通の人でも入れてくれる場所のようでした。
 じつは、ネット上には、ダム工事中のまさにその現場に一般の人が入っていて、岩盤を磨いたりして、「誰でもいけるよ」などと、自称ダムライターが写真付きで楽しそうに紹介しているものが投稿されていました。議員が同じような場所に入ることを希望していたわけですが、「それは特別の時で、工事も中断している時だから入れた」と。
たしか、以前、ダム骨材の砕石を運ぶベルトコンベヤーが通るトンネルの中を視察したいと、これも別の県議だったと思うが、要望しても、あれやこれやで、結局は入れなかったことがあったと聞いた記憶があります。でも、先のダムライターは、そのトンネルにも入って、写真付きで紹介していた・・・露骨なもんですね・・・当然か・・・
 国交省の説明は、人当たりの良い陽気なキャラクターの人がにぎやかに説明していたのですが、他に何人か後ろに1列に並んで黙って無表情に控えていました。
  めったにない経験をしました・・・

地域の神社 

ダムの下流にある神社、松谷神社に立ち寄ったとき、灯篭に、張られた半紙に、墨で黒々と文字が書かれているのを見ました。それぞれ思いを込めて、地域の方々が書かれているのでしょう。
春、秋で貼り替えているのでしょうか。地域の方々の誠実な姿が見えるようでした。

この神社に伝わる踊りは、文化財として大切にまもられているらしく、解説が書かれてありました。
 松谷ささら獅子舞 です。

 「文化財 一に観賞 二に感動 三に進んで保護しよう」

と書き添えられていました。これを見ただけで、ここの氏子の皆さんのファンになりそう。息づいてきた文化の香り、日々の暮らしを大切にし、生きてきた方々なのでしょう。
灯篭には墨で黒々と書かれた句や言葉が貼られていました。 
いくつかを載せましょう
                                                         






春と秋には張り替えられるらしく、
季節の言葉が書かれてありました。
メモしてあったいくつかを紹介すると

陽春  柏餅  薫風  立夏
天地皆春

「農のうた 詠みつつこの地に老いゆかむ 
浅間隠しに日沈みゆく」

「山菜を届けてくるる友ありて
夕餉の卓にあふるる春の香」


 






 

八ッ場ダムのすぐ下流の地域にある神社・・・・
 貼られた中にある言葉・・・・  ここは残ると    安堵す ・・・こんな気持ちがわいてくる地元の方々、これからも地域の文化を守っていってください。




2016年12月6日火曜日

柚子の季節です・八ッ場の遺跡発掘



ユズの季節

庭先、道端、近所の畑に、黄色い柚子の姿、ありませんか。都会では無理?でも、スーパーマーケットの店先に並んでますね。季節を感じます。
ちなみに、下仁田では周辺の山道を歩くと、放置された柚子畑かな?と思うような柚子の木を見かけます。

  利用は?  


ちょっと絞って、香りを楽しむ、
千切りをちょこっと料理にのせる・・「大好き」という人もいますが、お風呂に入れる以外、使ったことのない人のほうが多いかも。

 一昨年「柚子とうがらしのつくりかた」という記事を見て、作ってみました。ビンに詰めてそのまま冷蔵庫の奥に・・・しばらくして取り出してみたものの、「ウーン・・」。
そのまま忘れてました。いいかげん後になってビンを開けてみたら 「これ、なかなかいける!」 ちなみに、販売されている柚子胡椒は、青ユズの皮と青唐辛子からつくるそうです。もともと九州で作られてきたもので、胡椒は、唐辛子の古語とか。

   柚子唐辛子  つくりかたは以下です。
 ① ゆずの皮をすりつぶす(刻んで、すりこ木でいい加減につぶしただけ)
 ② 皮の10%程度の重さの塩、 5~10%の唐辛子粉(一味とうがらし)を加える
 ③ 混ぜて、柚子果汁も少し混ぜる
 ④ ビンに詰めて、冷蔵庫の隅っこに・・・あとは時間がつくってくれます。
     昨年は大きなビンにいっぱい作りました。

これに麹を混ぜて作ってもおいしそう。調べたら、そんなレシピもありました。

ユズといえば、ポン酢。
写真は、サイズが小さめで、汁がたっぷり出る一才ユズという品種。加工用柚子です。
ポン酢の材料でした。
私の実家はこのユズを出荷していました。今頃は収穫が大仕事で、手伝ったものです。
今は加工工場が操業をやめてしまい、せいぜい、冬至のころに出荷する程度。
ユズは何十年か前、農協(JA)が率先して導入したものですが、いまではあちこちにあった柚子畑も処分されてしまったものが多いようです。
値段が安くて、でも、汁が多くて、気軽に使いやすい加工用柚子本ユズより香りが落ちるといわれますが、私などには違いが判らず、レモンのようにも使えるこのユズは重宝しまます。
けっこうな労力のわりに大したお金にならない農業・農産物は、作る人がどんどんいなくなっています。
我が家の周りも、時折トラクターで雑草退治をしているだけの畑が広がっています。

   ポン酢  作り方
① 柚子果汁を絞る  でも、ユズでなくても何でもいいとか。田舎では庭先に酸っぱい夏みかんとかミカンとかを、けっこう見かけます。これを利用すればOKらしい。酸っぱいものがいいとか。今の子供は店先に並んだ果物しか食べないけれど、昔はこうした庭先の果実を食べたものです。代表は柿ですけど、ビワ、イチジク、プラム、アンズ、ユスラウメ、モモ、グミ…いろいろ植わっていたなあ~
② 果汁の80%のしょうゆ、20%のみりん、 果汁100mlあたり2~3gのだし昆布、10gの削り節を加える。1日後に昆布を取り出し、削り節を濾す、とあったけれど、そのまま置きっぱなし・・・ペットボトルに詰めて冷蔵庫に入れておいた。
これだけで半年以上もつとか。  凍らせて、暑い夏にも長く使いました。

お金をかけずに、ちょっと手間をかけただけで、いいものができます。
昔は、とにかく、いろいろ身の周りのものを工夫して、利用してましたね。
簡単においしいものも手に入らないし、お金もないし。

ユズはたくさんあったので、砂糖菓子(ピール おいしいけどちょっと手間がかかる)、ジャム(中の白い袋にとろみの元・ペクチンがたくさんあるようで、簡単にできる)、化粧水(種でつくる)とか、いろいろ作ってみたものです。上品な和食をつくるのは敷居が高い・・もっと気楽に味わうのがいい。味噌汁に入れるという人もいました。ふわーっと香りが広がって、ステキ、と。

高価なもの、珍しいものを買うより、お金をかけずにこうしておいしいものを見つけたりするほうが、得した気がして、いい気分。お店もない田舎で育ったからか、一生懸命おいしいお店をさがすとかいったことは、あまりしたことがない・・・三つ子の魂100までなのかな。
でも最近は、面倒くさくなってきて、作るのは手間のかからないものばかりになってきた・・・

みなさん、身の回りのものを、もう一度みなおしてみませんか。
気楽でお金もかからず、楽しいものですよ。

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たくさんの遺跡が・・・八ッ場ダム建設地域 


土地を開発するときも、家を建てるときも、発掘が行われます。玉村の我が家を建てるときも、ちゃんと調べています。玉村は、必ず発掘しなければいけない地域なのじゃなかったかな?古墳時代の遺跡がたくさんある地域なので。
たしか 我が家の下には、平安時代の田んぼの跡があった。

八ッ場ダムに沈む地域には、江戸時代の浅間山天明の噴火の際に、吾妻川を流れ下った泥流にうまった家・寺・畑などが見つかっています。
さらに掘り進むと、平安時代と思われる遺跡も出ています。さらにその下には縄文時代の遺跡が見つかっています。
水田耕作の始まった弥生時代には、水田に不向きなこの地域からは人が立ち去っていたようで、弥生中期から後期からあと、9世紀・平安時代まで、人の生活跡は見つからないとのことです。

こうした遺跡を訪ねお話をうかがう機会がありました。
群馬県埋蔵文化財事業団の職員の方が、丁寧に熱心に案内説明してくださいました。


ここより下は水に沈む
遠く見えるのが不動大橋。右は発掘中の土地
右写真の遠くに見える横に走るラインは、ダム地域にかけられた橋。
満水になれば、橋げた近くまで水没する予定です。
空を横断して見える橋で、高さを想像してください。


有力者の家

天明の時代、ここに住んだ人たちの家が出てきます。左は大変立派な家です。有力者の家でしょう。

建物あと
 ここでは 同じ地域に、江戸・平安・縄文時代遺跡が出土したりします。
この地域からは庶民の家が何軒も掘り出されていましたが、右上写真の発掘あとは、平安時代の竪穴住居あとだったかな・・・以前に見た時は、天明の泥流に埋まった住居がいくつか見えていたと思うけれど。この平安の時代の遺跡からは、愛知や岐阜で生産されたうわぐすりのある焼き物・灰釉陶器が出土したそうです。通常の農業がおこわれたとはおもえなくて、ここで農耕で食料が得られたのかどうかは少し疑問のようです・・・他地域との交換が行われていたことも考えられそう。 

 ところで、どうやって時代がわかる?
出土物、土器の模様など   でも、そこにはさまれる火山灰も重要。
浅間山の火山灰の降り積もるこの場所は、土を掘りながら、火山灰を注意深く見るのです。 

 これは何でしょう。


白い筋は、浅間の火山灰です。畑の畝を埋めてたまったもの。この畑に植えられていたのは、麻。
時代は田沼意次の時代の末期。貨幣経済が発達し、麻は特産物として、流通にのったというわけです。
天明以前と以後の石垣が重なる
石垣の組み方が途中で変わる・・
古い時代の上に新しい石垣を積み重ねたようです。


平安時代の住居跡・かまどのあと
かまど跡は赤く焼けた土からもわかります。このかまど跡のある家は、竪穴住居とのこと。平安の時代で思い浮かぶのは、十二単や平等院鳳凰堂、紫式部。同じ時代に、庶民は竪穴住居かあ・・・この遺跡の時代は9世紀後半以降。

ここで遺跡の多いのは、泥流に埋まった天明の時代、それから縄文時代だとききました。

縄文時代 並んだ石・列石
 かまど跡のすぐ隣には、縄文の遺跡。
石が並んでいます。何のためか??
祭りの場?墓?

こうした遺構を列石とよんでいます。
円くならんだのを環状列石とよんで、それは見たこともありますが、そうか、まっすぐ並んでいる場合もあるですね。こっちのほうが単純そう。

土器の破片もたくさん見られました。
土器からここは縄文時代後期から晩期とわかります。

骨片 焼いたもの
白い骨片がたくさん散らばっています。焼けた骨のかけらだとか。大きなものが出れば、何の骨かわかるのですが、骨片ばかりらしい。

 縄文土器には、見事な模様がつけられています。とにかく、見事な模様が多い・・・でも、弥生時代になると、模様は減り、あってもせいぜい入れ物の口の部分くらい。なぜ?      それに縄文の土器は分厚いのに、どんどん薄い焼き物になっていく。これも、どうして?
            ・・・こんな説明をされました。

縄文時代 土器破片
「縄文の時代は、いつも食料が手に入るか、いつなくなるかの不安の中で生きていた。ですから、模様にも食べ物への祈りが込められていた。
水田がはじまり、祈りの気持ちがすくなくなっていったのでは。

だんだん、祈りというより、効率が大切になっていった。焼き物も、薄くすることで加熱の時の熱の伝わりを早くしていった。祈りをこめた飾りより、いかに使うかの効率の良さの追及が始まった」
 なるほど・・

そういえば、ラスコーの壁画などだって、獲物がたくさん捕れることを願い、描かれたといいますね。見事な絵が描かれていて、皆がびっくりした絵です。


土器につけられたあじろ模様、この時代の流行
林中原Ⅱ遺跡とよばれ、縄文中期から後期、120軒以上の住居がみつかり、大集落があったと考えられる場所もあったりするとか。

 上流には多数の焼かれた人骨の発見された場所もあります。。4500年~5000年前の人骨は県内最古。2015年発見。8月に見学会があったようです。
人が押しよせそうな発掘成果です。でも
なかなか報道してくれないという気がしてしまうのですが・・
おおきく報道されると工事に支障が出るから・・・?
2016年になって、本体工事にかかる時期になったから、「もう大丈夫」と、やっと報道したのかと・・そんなことを思ってしまうのです。


 発掘費用は事業者が負担します。日本の遺跡発掘は、大半が開発事業に伴う記録保存用の発掘でしょうから、文部科学省ではなく、国土交通省が担当しているようなものなのかも、などと思ってしまいます。

八ッ場ダム関連の遺跡発掘調査費は、当初66億円とされていました。
2008年に98億円に増額。
ことし、さらに88億円の増額が決まりました。98+88だから、186億円。165億円とメモしたことがあったのだけど、、あとで確認してみますけど。

 大量の遺跡の発掘で お金が足りないのですね。
 さらに、ダム本体のすぐ近くの岩陰遺跡はまだ手付かずとか。長期の発掘が必要とされそうな、貴重な遺跡らしい。この額は入っているのかな?

工事に伴い、立ち入り禁止区域が広がり、これらを見る機会もますます減ってきます。
埋蔵文化財事業団では、ご案内しますとの看板もたてています。皆さんに見ていただきたいという気持ちを強く持っているのでしょうが、なかなかそうはいかないのでしょう。
これから冬季にはいり、発掘は休止ですが、ダムができれば、見ることのできなくなるものです。春になったら機会を見つけて全地域遺跡とも言えるこの地の歴史に、思いをはせてみてはいかがでしょうか。



2016年11月30日水曜日

兜岩昆虫化石+ 八ッ場ダム本体工事の今

 
丹念に集められた昆虫化石  下仁田自然史館に展示してあります


虫化石って、めったに見つかりませんよね。全国でも、見つかる場所はそれほどたくさんは無いはず。すぐにバラバラになってしまう昆虫、しかも空を飛び回る昆虫が地層の中にうずもれるチャンスは少ないでしょう。
 下仁田地域では、繊細な昆虫化石が見つかっています。

下仁田の西部地域には、かつて湖が広がっていた時代があり、そこには植物の葉や昆虫が化石となって保存されました。

 「かつて」っていつ?  
800万年前ころと言われますが、350万年前という見解も出ています。なかなか難しい話なのですね。とにかく、人類がやっと地球上に姿を見せたか見せないか、人類?サル?などと迷ったりするような頃、地球の歴史からみたら「最近」ですが、人類の歴史から見たら、はるか昔の話です。

この化石は下仁田自然史館に展示してあります。小さな化石たちですが、こちらにいらしたときには、ぜひご覧ください。展示しきれない分は収蔵してあります。
詳しい分類、種名等は現在同定作業が進んでいて、かなりの部分、記録されてきています。
 写真で一部を紹介します。スケールが入っていませんが、どれも小さな昆虫たちです。
もっとちゃんとしたきれいな写真が撮られ記録保存に使用されています。その一部が展示されています。 
    なお、兜岩化石の詳細については以前にこのブログに載せました。
                http://geoharumi.blogspot.jp/2014/04/blog-post_20.html

                                                                                            
 
ガラスケースに並んでいます

 
小さな化石なので、これはと思うものを写真で拡大






クモ?






 どれもきれいにクリーニング・整形されています。この化石を採集し、クリーニングし、箱に収めたのは、茂木伊一 氏です。昆虫の名前等は、昨年からの同定作業で調べられていると思いますが、ここには載せていません。

これら化石のリストが完成したら、きちんと発表することになります。
これだけの化石が集まっているのは素晴らしいですね。
 

シダ
植物化石も収蔵されています。植物のほうがたくさん見つかります。
茂木さんは、特に昆虫を集めようとされたということです。
この地層はカエルの化石が見つかったことでも知られています。
 
植物についても、同定が進められています。下仁田自然学校の堀越武男さんの標本も多数あり、ご自身も同定を進められています。
こういったことに詳しい方、興味お持ちの方、いませんか。ご協力、歓迎です。


葉脈が繊細に残っています



ウリハダカエデ




カエデの実(翼果)
これもカエデの実です



右にのせたスイセイジュ(イベスイセイジュ)という植物、名前を聞いたこともありませんでした。
以前ブログにこの名前をのせたところ、2件ほど問い合わせがありました。関心を持つ方がいらっしゃるようです。残念ながら、この植物につての詳しい知見は、こちらでは持っていません。
 それぞれ情報を寄せ合いながら、あたらしいことがわかっていくとステキですね。

これから、もっと皆さんの目にふれることができるよう、工夫していきたいです。

現在、かつての化石産地は場所もはっきりわからないほどになっています。また、この場所は国定公園に指定され、動植物、岩石等の採集は禁止です。
下仁田自然学校では、これらの現地の再調査も始めています。もちろん、許可をとって。




本体工事の進む八ッ場ダム

ダム本体への作業にとりかかってすぐ、工事の進行が止まっていた八ッ場ダムですが、本体工事が本格化しています。岩盤が予想より悪かったと、予定通りに進まず設計変更、また地滑り対策、発掘費用の増加、資材人件費高騰などを理由に、720億円にものぼる増額要求が公表されたのが8月のお盆の時期でした。下流都県が分担してこのお金を払うわけですが、すべて議会で可決されて、現在、コンクリート打設の作業が進んでいます。

ダム軸のとおる付近
盛んに水をまいています




サイロのような入れ物に、原石山から延々10㎞をベルトコンベヤーで
砕石が運び込まれ、貯蔵されています。ここではコンクリート工場とも
いえそうなプラントが組まれ、ダムのコンクリートがつくられます。
左写真の遠方コンクリートの場所にダムができる。

ここは比較的里に近い場所ですが、谷の斜面が急で,杉などの植林がおこなわれませんでした。そこで、今では貴重ともいえる、もともとの広葉樹の森が残されてきました。良好な自然の残された場所といえます。

急流が崖をうがつ光景は若山牧水はじめ多くの人に愛され、さらに古い昔からこんこんとわく温泉も、そのほのかなイオウの香りと濁りのやさしい湯として愛されてきたのでした。

工事前には周辺を含めた自然の調査が行われます。環境アセスメントがらみです。国交省のHPには、重要な植物が70科275種が確認されたと載っています。そのうち、絶滅危惧種が植物で52種あります。
ずいぶん昔から計画された八ッ場ダムのアセスは、現在の基準から見たら、果して適合できるものだったのだろうか・・・

貴重なものは、掘り取って保護し、新たな街並みができたら、移植するとHPには書かれていますが、盗掘等の関係もありますが、具体的な内容は公表されることはなく、いったいどこまで何をやっているのか、知ることはできません。

水没するこの地域に、とても有名な野生植物がありました。大変美しい花で、とにかく、盗掘が心配され、場所等の情報はなるべく伏せられてきました。少なくとも、この植物だけは移植等の方策等が考えられているようです。気難しい野生の花たち、果して人間の思うようにふるまってくれるでしょうか。

かつて日本にやってきた海外のプラントハンターたち(園芸の盛んなヨーロッパでは、世界中に植物の原種を求めて旅したつわものたちがいた)の逸話で、この花を沢の向こう側に見た途端、藪も水も、ものともせず、まっすぐにその花を目指して駆け寄ったという話があります。この花は品種改良の原種とされ、生み出された花は今ではバラの庭園に、バラと一緒に植えられたりもし、愛されています。園芸品種の名はクレマチス(日本では,テツセンとよぶ人も多いかもしれません)。そして、日本で見つけられたものの名は、カザグルマ。素敵な名ですね・・そして,花も美しい。
 カザグルマの花をいくつかのせましょう。この花は各地で花が異なり、遺伝的意味でも、原産地の保護が大切とされています。八ッ場は多くの種類のカザグルマの花が咲くことで、知られてきました。人里近くののやや湿った斜面などに育ち、高温多湿が苦手という植物です。地元の方は「あんなの育てるの簡単だよ」というのですが、
そうではなく、吾妻渓谷の地が本当にこの植物に向いているのだと思います。





地元にもこの花を愛する方々がいらっしゃり、お庭に植えられていたりします。
「簡単だよ、植えておけば育つよ」などとおっしゃいますが、どこの土地でも育つというものではないでしょう・・・
カラマツの葉っぱをまくといいんだよ、とおっしゃる方も。
まだまだ分からないことだらけ。
カザグルカは、人里の林の縁などの日の当たるところに、何かに絡みついて育ったりする植物です。人目についてマニアに採られたり、草刈りで消えてしまったりと、受難続きです。全国で消えています。ですから絶滅危惧種に指定されています。群馬県では絶滅危惧Ⅰ類で、最も高いレベル。環境省では準絶滅危惧種に指定しています。

冬咲クレマチス シルホサ系
氷点下の戸外で育ちます。
 
八ッ場ダムの地域のカザグルマは、この花をとても愛したご家族の土地にありました。「私の秘密の花園」とよんでいたと聞いています。大切にしていたから大きな群落となったのではないでしょうか。今はそこは国交省の土地で、現在、工事により道路は閉鎖され、誰も近づくことはできません。もう自分のものではないから何もできないとおっしゃる様子は、少し寂しそうでした。橋の橋脚付近にもあったが,なくなってしまったとかもおっしゃっていました。
今は盗掘しようなどと思う人も、ここにはもちろん入れません。
プロの育種家(農家の方)も、とても気にされていました。園芸用の新しい品種をつくるには、野生種が宝物のように大切なのです。
その価値を熟知しているから、とても大切に思い、保護活動を願うのです。
これからさらに、DNA を調べたりと、やれることだってたくさんあるでしょう。

この植物が、いつまでも、日本の山野を彩ることができるよう、祈らずにいられません。

              夏には葉を落とすという冬咲クレマチス。
             白い花は清楚。雪の中でも咲いていると。
              ジングルベルと名付けられて売っていました。
                  戸外に植えておけば咲くと言います。
                  来年も咲くかなあ。挿し芽で増やしてみようかな。