水こそ命・・ 大切な灌漑施設
高崎の発展はこの用水なくしてあり得なかった
昔、四分一(しぶいち)さんという人と知り合いました。「珍しい名前ですね」 「三分一というのもあるよ」。水を均等に分ける仕組みがあって、それを三分一とよび、見にいったこともあるような・・とか聞いたかすかな記憶があります。コップの水を分けるのではなく、水田に引く水を分ける話です。 ネットに解説がありました。
「三分一湧水」・・・ 水争いの三つの村に等配分するために築かれた仕組み。
戦国時代武田信玄が築いたという伝説がある。
少し前、丸い施設の写った写真と、「水を分けるかんがい施設です」と説明の載った新聞記事がありました。場所が高崎ということもあり、見てみようかな・・・先日、その灌漑施設の紹介・説明会の案内記事を見て、我が家から近い場所だ、と出かけてきました。高崎市倉賀野町のたかさき人権プラザという、2階建ての少し古い建物でした。入り口を入ると、玄関に職員がいて、「どうぞ2階です。説明おねがいしま~す」。
私の予備知識は「分水の施設」だけ。
会場では解説者が何人か、来場者に
解説していました。
今回、かんがい施設遺産に認定されました |
手作りのジオラマがいくつか置かれ、川や水路・施設を書き込んだ地図も張り出されています。何枚もの大きな地図を張り合わせたものでした。その他にも古い地図の資料など、たぶんコツコツ調べたのだろうな。
説明された方が語っていました。
「私らこれを10年やってきましたけどね。
この用水の水で産湯をつかって、この水のおかげで生活してきたんですから。そこには先人の苦労があったわけですよ。でも、そんなことみんな知らない。私も知らなかった。そのまま忘れられてしまったら、申し訳ないじゃないですか」
なるほど、パンフの表紙にはこんな言葉が。
”先人へ感謝” ”次世代へ継承!”
きっとこの言葉を合言葉にして活動されてきたんだろうな。
高崎・前橋の市街地は、よく見ると、それぞれ台地になっています。昔の浅間山が大噴火で山体崩壊し、それが流れ下ってたまり、台地となったものです(崩壊した山の跡が、今の黒斑山。2万4千年とかいった昔の話。今の浅間山はそのあとできた山です)。前橋泥流というのが 堆積物の名称です。これ、厚く積もっているのですよね。高崎台地で厚さ15ⅿ~25ⅿ。その上に井野川泥流もたまっていたりします。
図を見てください。赤い線が主要河川の烏川と井野川。青い線が、そこにそそぐ小さな河川。確かに、高崎の人の多く住む地域には、水の流れが無い。平らで地面も固くはないから作物を育てられそうだけれど、肝心の水がない・・・不毛の大地・・
下図の断面図では・・・一番左が烏川、一番右が井野川。
烏川はずいぶん低い所を流れてるなあ・・井野川も・・これでは台地に水は流れてこないはず・・・
さてどうするか。
どこからか水を引いてくるしかない…どこから?
水は自然に流れ下ってくれなければ困ります。それには、取水口は少し標高が高くなくてはだめ。さらに水量がたっぷりなくてはだめ。それには、烏川がいい!
では、どこがいいか・・・それが下図の左端の①長野堰。
この図では藍色のラインは、すべて人が掘った水路です。これで、カラカラの大地に水がもたらされたわけ。長野は長野県ではなくて、この水路にかかわった人の名前、箕輪城主の長野さんです。
ところでこの水路、いったいいつのものなんだろう…そんな基礎知識もないので、聞きました。1500年代…えーっ、古いんだ。江戸時代かと思っていた・・
古い確かな記録は1645年で、正保国絵図に現在のルートと同じ用水の図があります。パンフレットには図が載っていなかったので、ここには紹介できませんが、昔の絵図が展示されていました。この図の存在が世界かんがい施設遺産決定の要にもなったのでは、と。
1645年以前の図にも、堰らしいものが見られ、それらも展示されていました。1000年も前
に長野堰の元はスタートしていたのではとも言われています。
貼り合わせた大きな地形図には、いろいろ書き込まれていました。
長野堰の所には「サイホン」。烏川の水を榛名白河を横切って運ばねばならないので。
そんな昔に、サイホンの工事なんて、できたんだろうか?。川を横切る時、サイホンの原理を使っているらしいのですけど・・また、質問してみました。
「あの~、そんな昔に、サイホンなんて工事できなかったんじゃないですか・・・?」
「昔は、板で樋(とい)をつくって流していたりしたと思う。でも、大水で流されたり、とにかく大変なので、、サイホンで流すようにしたのでは。」なるほど・・川の下に、別の水の道を通すということですよね? いつ頃の話かなあ・・・「1866年に埋樋(サイホン原理の水の通路)の記録がある。でも、それより相当前から埋樋はあったのでは」と。大変な仕事だったのでは・・・もうちょっとよく聞いておくのだった・・
私が知っていた円筒分水、作成年代が、昭和37年と書いてある・・・これ作ったの、最近だったんだ。ここの展示は、これがメインの話でなかった。
地図を見ていると、円筒分水の近くに「地獄堰」と書かれていました。「何ですか、この名前。どうしてこんな名前つけたの?」
「本当のことはわかりませんけどね、でも、水争いで人の命にかかわることがあったとか、そんな想像ができますよね」 なるほど、そんな気がする。他の堰の名前は、矢中堰、佐野堰、倉賀野堰で、普通の地名なんだから。
隣には「地図の中に、水田跡の見つかった場所をプロットしたものがありました。ジオラマもつくってあったかな。下の写真です。
パッと見て、「どうして水田跡の図をつくったの?」と聞きました。
「よく見てください、平安時代から、高崎台地の中にも水田跡があるんですよ。ということは、平安時代にはこの水路があったということになりませんか」 ああ、そうか。なるほど。
長野堰用水を取り囲むように水田跡が見られるのです。
「だったら、高崎の古墳はどこにあったっけ。古墳時代には水田って、ほとんどないですよね」
見ると、ちゃんと、川に近い場所に、いくつか古墳が書き入れてありました。でも、台地の真ん中には、確かに古墳は無し。群馬の南部には、古墳なんてどこにでもあるような気がしていたのですが、そうではなかったようです。やっぱり、人が住めるような場所じゃなくちゃ。
あれこれ質問に付き合っていただいて、ありとうございました。後でいただいた資料を見たところ、質問したことは、みんな書かれてありました。
見ながらあれこれの疑問に答えていただいて、とても楽しい時を過ごさせていただきました。
他にも、高崎市の町の様子など、紹介されていました。
資料にのせられていた関連年表を、書き写します。
900年頃 : 長野堰のはじめ。この頃開削始めた証の水田遺跡多数あり
1550年頃 : 長野業政 長野堰の大規模改修を行う
1590年 : 井伊直政 箕輪12万石の城主になる
1596年頃 : 徳川家康 中山道沿いへの城づくりを命ずる
1598年 : 井伊直政 長野堰を活用し高崎をつくり、移る
1802年 : 太田南畝 高崎の賑わいを江戸に伝える日記を残す
1962年 : 円筒分水堰 公平な分水で水争いをなくした
2016年 : 世界かんがい施設遺産に登録される
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世界かんがい施設遺産って、どんなものか、調べてみました。
2014年からはじまった登録制度。灌漑の歴史・発展を明らかにし、理解をはかり、また灌漑施設の適切な保全に資するための認定制度。
建設から100年以上経過し、灌漑農業の発展に貢献したもの、卓越した技術により建設されたもの、歴史的・技術的・社会的価値のある灌漑施設を登録・表彰するもの。
もちろん、これにより活用・保全・教育・維持管理への意識向上を目指しています。
ちょっとお役所文書的になってしまいました。
甘楽町の雄川堰(おがわぜき)が登録されていたのを聞いたことがありました。小幡の武者行列の行われる桜並木のあの所、通路わきにある水路です。
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日本では今年、27施設が登録されています。世界でいくつの登録施設が登録されているのか、かわからないのですが、名前のあげられていたのは中国、タイ、スリランカといった、アジアの国々でした。
かつて私の世代が教わった世界四大文明とよばれていた場所は、みな大河のほとりでした。エジプト・メソポタミア・インダス・黄河・・・古代エジプトのシンボル、ピラミッドが水のない砂漠のなかに うずもれているのはなぜ?水なしでは生きていけない人間が、砂漠の中に高い文明を築けるの?? 高校のころ、世界史の授業をぼんやり聞きながら、合点がゆかない、と思ったのを覚えています。
メソポタミアでは、農耕の開始とともに、灌漑をして麦を育てました。強い太陽に照らされた土地は、水の蒸発が多く、それに伴って土中の塩分が上昇してきて、やがて作物の育たぬ不毛の土地となっていった…塩類集積・・こんなことを知ったのは、ずっとあとでした。メソポタミアでは、次第に塩分に強い小麦が栽培されるようになり、しかしそれでも間に合わなくなって、やがて文明は崩壊していった・・・鉄づくりのために森林を切り倒して、荒れ地となった地域も見られます。
「人類は地表を渡って進み、その足跡に荒野を残した」
灌漑により成り立つ水田、ここでは1000年たっても塩類集積は起こらず、多量の水で塩類は洗い流されていく・・・1000年以上も同じ作物を作り続けられる奇跡の場所、水田・・・・こんな田んぼを持つ、アジアの地こそ、灌漑施設を懸賞する国際的な賞を創設するにぴったりの地域なのかも、と,ふっと思いました。
先人への敬意を持ちつつ調べてこられたことが認められて、良かったな、と思えました。
書き落としていましたが この活動を行っているのは 「長野堰を語り継ぐ会」の皆さんです。