2017年3月30日木曜日

桜ほころぶ 新学期のころ

桜・菜の花 春の定番です。 

寒くて春の便りを探しに行く気も起らなかった・・
山では山岳訓練の高校生と先生8名が雪崩に飲み込まれて命を落とすという、痛ましい事故も起こっている。自然のこわさ・・・あの若さが痛々しい。ご冥福をと祈るしかないのが、ますます痛ましい。


木いっぱいのハクモクレンの花が散り始めました。バトンタッチするように、ピンクの桜がほころび始めています
農家の庭先のハクモクレン
こうしてのびのび育つと、すてきですね
桜のころ、この付近、平地のカタクリも咲くはず。見に行きたいな。
川べりや堤防は、菜の花がいっぱいでした。

 最近の川辺には、ムラサキハナナもたくさん咲きます。(ハナダイコン・ショカッサイ・オオアラセイトウとか、いろいろな名で呼ばれます)。もう「春」でした。
ムラサキハナナ
サイカチの木
げとげいっぱいのサイカチの木も見られます。宮沢賢治の風の又三郎のなかに、川辺のサイカチの木が出てきて、名前を覚えました。このトゲトゲで、いっぺんで覚えられます。この木、じつは群馬県の絶滅危惧種のリストに載っているのです。とげを嫌わず、大事にしましょうね。

春・春・新学期。植物の若々しさと一緒に、子供たちも新入学、新学期。
いい出会いを!よい学びを!
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よい出会いを

奇跡のレッスン”というテレビ番組があります。毎回、世界の一流の人がやってきて、日本の子供たちに、何回かのレッスンを行うという番組です。この番組、ほとんど見たことはないのですが、いつだったか見たレッスンに、「すてき!!」と。つい、メモを取りました。

シェイリーン・ボーン、フィギアスケートの指導者、羽生結弦その他日本の著名選手の振り付けも行っている人だそうです。まだ若い女性で、アイスダンスでオリンピック金メダリストという方。
    そのレッスンには、人の心を動かす力がありました。
    子供たちは、「背中を押してあげれば飛躍できる」と。

まず、子供たちに語りかけるのです。
「氷の上は自由。何にでもなれる。心を開放しなさい。」
そんな語りかけに、硬い表情の子供たちも、ありのままでいられることに安心感を抱き、秘められた感情を引き出していきます。子供たちには夢を見ることの大切さを気づいてほしい、と。

  こんな言葉を語っていました。
「氷を大切にすれば氷は友達、友達を大事にすれば、自分も大事にしてもらえる」
・ 誰かのために力を発揮しようと思えば、自分も観客も輝くのです
・ こんな課題も出していました。
   必ず氷を見て、感謝の気持ちを伝えるのよ。
子供たちには、毎日ノートに感謝の気持ちを書いてほしい、と課題を出していました。


 明るく笑顔で接する姿は輝いて見えました。氷の上の全身での表現力の豊かさは、
 氷にも感謝の気持ちを忘れない、この豊かな心から来ているのでしょう。

硬い表情だった子供たちが、明るく楽しそうな表情になっていくのは、気持ちのいいものでした。 どうぞ、たくさんの子供たちが、こんなふうに明るい表情で、楽しい気持ちを持てますように。
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 テレビには、地中海を渡る難民の姿が映し出されていました。木っ端のような船に、人また人のぎっしりの難民が乗り込んでいる・・・転覆してすでに何千人もが亡くなっているというのがよくわかります。あまりの人数に、圧死する人も出るのだとか。金を巻き上げて、後は野となれ山となれの悪質闇業者がたくさんいるのでしょう。必死で訴える目は、痛ましさそのものです。表情とは、こんなにもものをいうものなのか。
 シリアの戦火を命からがら逃れようとしてる少女は、震え、目は恐怖にゆがんでいました。国境なき医師団に加わっている日本人の助産婦女性は、難民のお産を助けたりしながら、しかし一番多い訴えは、中絶だと語ります。レイプを受けての結果だというのです。
 同じこの時に、人権のかけらもない日々を過ごす人たち、子供たち・・・
少し前ですが、ハイチの兄弟の番組を見たことがありました。小学生くらいの年齢のころ、ストリートチルドレンのような生活をしながらも、とてもまともなことを語っていた・・それから何年たったでしょうか、追跡調査でその同じ子供が家族をもって子供が生まれて大喜びしている姿と、しかし食べるにも事欠く様子も放送していました。ずいぶん理不尽なことをする父親も…みんな貧しさから・・あんなにちゃんと世の中のことを見ている賢い子なのに、と思ったことを思い出します。しかも兄弟の一人は事故で体が不自由になった・・そしてそれからしばらく後、ハイチで大地震があった・・あの子たち、いったい生きているのだろうか・・・
 
 新学期が始まる今、世界中の子供たちが、ちゃんと学校に通えて、能力を伸ばせるようになれることを願わずにいられません。そして、よい指導者にも出会えることも。
40年近く前、文字の読めない親に出会ったことがあります。びっくりしました。日本でそんなことがあるなんて・・
でも、世界では、文字どころか、食べ物も足りない人も、億の単位でいる・・
 どうか、子供たちが、ちゃんと食べられて、ちゃんと初等教育くらいは受けられる世界になるようにと願わずにおれません。   日本の新学期を前に。



2017年3月19日日曜日

早春の花が咲きだします

 春が来た!! 
いくつもの暗くなるような大ニュースが目に飛び込んでくる毎日です。
でも、春、うれしいですね。spring という言葉も、わくわく飛び跳ねるようです。

 毎年お正月ころに1,2輪はほころぶ庭のピンクの椿が、今年はいつまでも咲きませんでした。
それも今はいっぱいの花です。
先日、「たわわに咲く赤いつばきの木」の姿が、ふっと脳裏に浮かびました。

 少し前に戻りますが、2月の新聞紙面に3名の方の訃報が大きく並んで載りました。
一人は船村徹。私には名前を見てもどなたかわからなかったのですが、作曲家「王将・矢切の渡し」といった曲名を聞けば、ああそうか、と。(ちなみに「宗谷岬」も作曲とのことで、曲のイメージが違って感じられて、ちょっとびっくり)。
 もう一人はディック・ブルーナ。絵本の作者です。シンプルな線で描かれたウサギ、いつも正面を向いて、×印の口がトレードマークというウサギ。小さな子供を持つ親なら大抵知っているのでは。私は「うさこちゃん」の名前で覚えているのですが、最近は「ミッフィー」と呼ばれることが多いような。

 上記のお二人より少し小さい記事でしたが、同じ紙面に「佐藤さとる」の名前がありました。この名前は、私に、花いっぱいのツバキの木を思い起こさせました。
ヤブツバキの木
佐藤さとるは「誰も知らない小さな国」という本を書いた方です。この本、私は小学生のころ読みました。5年生か6年生でしょう。ずいぶん昔のことなのによく覚えているといわれそうですが、大人になってこの本を手に取った時、いつ読んだのだっけ、と思いおこしていたことがあったので、間違いないと思います。忘れられない本になりました。その本に大きなツバキの木がイメージとしてありました。
調べてみたら(今は便利ですね、ネットで調べれば、すぐに出てきます)、初期の本の表紙がそれでした。最近のものは違った絵になっています。
 ちいさな小人(コロボックル、もともとは、アイヌの伝説にある小さな人「フキの下の人」)が登場する物語です。主人公の「私」が見つけた、自分だけの秘密の場所で、林の中の草に囲まれた泉、流れる小川、そこに暮らす小人に出会う「私」(少し違っているかもしれませんが)。これがコロボックル。やがて、その場所が道路工事でつぶされそうになり、知恵をこらしてそれを阻止する・・その後の高度成長の中で、各地で開発で失われていった自然も思い浮かびます。1959年出版といいますから、私が読んだのは、かなり早い時期。小さな田舎の学校でしたが、そんな本をそろえてくれていた先生たちに感謝です。
 ツバキの木は、大人になった「私」が、ある日、ツバキの木の上に座っていた乙女に出会う場面で出てきます。澄んだ水の手触り、空気や風、身のまわりにある自然へのいとおしさ、そこに生きる者たちとその知恵、そんなものも感じたのではないかなあ・・・
 コロボックルの物語はシリーズとなって何冊も書かれています。それを図書館で見つけて、大人になっていた私は、せっせと読んだものです。でも、最初の本ほどには心に残りませんでした。子供のころに出会うということも、大きな意味をもつのかもしれません。

 「木陰にこんこんと湧く泉、流れる小川」、そのイメージから、ケニアのマータイさんのことが心に浮かびました。「もったいない」という言葉を世界に紹介した方、木を植える活動をすすめ、ノーベル平和賞を受賞した女性です。
 彼女が子供のころ、きれいな小川があり、そこには大きなイチジクの木があました。アフリカでは水汲み、薪集めは女性の仕事でした。そんな中で、おばあちゃんがそのイチジクの木を「神様の木だから、あの前では薪は取らないように」と教えたそうです。ある日、その小川に透明な丸い粒があり、ビーズと思って、首飾りをつくろうと、手ですくおうとしたら、手の隙間からぬけ落ちてしまいました。それからあと、ビーズは消え、そこには小さなオタマジャクシがいました。
 そのころ女の子は学校には行かせてもらえないのが普通でしたが、兄(弟?)の「どうして学校にいかないの」の言葉で、親が学校に通わせてくれました。学校では、書いた文字が消えるということにびっくりし(消しゴムをはじめてみた時)、何にでも目を丸くして夢中に。やがて優秀な成績を得て、アメリカへ留学。生物学を学んで故郷に帰ってくると、そこで見たものは・・イチジクの木は切り倒され、小川の水は枯れ果てていた・・・
 開発がすすめられ、森の木はどんどん切られてコーヒーなどの換金作物の畑に代わり、水は枯れ、薪を集めに女たちはますます遠くまで歩かねばならなくなり、さらには薪も手に入りにくくなり、調理もままならなくなる・・・国土の砂漠化もすすむ・・・
そんな中で木を植える運動を始めたマータイさんは何度も投獄されたりと過酷な状況にも負けずに頑張りぬいた・・

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先月紹介したカエルの卵が登場するのも、なんだかうれしいですね。
その卵から、こんなにも多くのものを受け取れる人もいるのです。外に出て、生の自然に触れることの大切さを、あらためて思います。

 春が始まっています。種まきも始まります。新学期もはじまります。
おたおたしているうちに芽吹きも花も過ぎていってしまいます。
何とかできるだけたくさんのものに出会いたいですね。・・などと、毎年思っているのですが、あっという間に春は過ぎてしまいます。ぼんやりしてないで、春を楽しもう、と。
 
以下の写真は一昨年3月31日の下仁田付近の様子です。もうこんなに花が咲いていたんだ。
ダンコウバイ
キブシ

アズマイチゲ
ミヤマキケマン

   次は 昨年3月30日 埼玉美里町の円良田湖付近。
カタクリ
ウグイスカグラ


クサイチゴ

ヤマブキ


センボンヤリ
ヤマツツジ

                           ヒトリシズカ 
                                  人が植えたものかもしれません


ちなみに、昨年は吉井町小串のカタクリは 3月25日には咲いていました。
もうお彼岸、うっかりしていると、こんな花たちを見ないままに終わってしまう・・・
有名どころでなくていいので、ぜひ、近所に小山や雑木林があったら、のぞいてみませんか。
山なんかない?いいえ、どんな場所でも。庭や公園でも、ふっと気づくと、その一角が白くふんわりと輝いている・・ユキヤナギの小枝の束です。桜ばかりでなく、楽しみは様々です。
   
どうぞ、よい春の日を。

2017年3月9日木曜日

中小坂鉄山・近代的製鉄所があった場所

いろんな大地の姿が見られるね 下仁田町

   昔の鉱山跡を訪ねました。中小坂鉄山です。

 ずっと以前に一度行ったことはありましたが、今回は解説してくださる方の案内で見ることができました。案内してくださったのは、地元の人たちが中心になって頑張っている「中小坂鉄山研究会」です。
あまり知られてはいませんが、明治の早い時期に、優秀な技術による近代的製鉄所が造られた場所です。

 この製鉄所は日本の産業を支えた釜石の製鉄所より早く造られています。近代的な製鉄施設としては日本最初、と言いたいところで案内板にもそう書かれていますが、”最初”というには諸説あるような。間違いなしに「日本最初」は、「蒸気機関による近代的な熱風送風施設」です。
ここは近代化の早い時期に建設されていながら注目されることなく埋もれ、名前もほとんど聞くこともありませんでした。

 日本の製鉄所というと、私たちのような戦後世代では海外から鉄鉱石を輸入するイメージが強く、海岸沿いが思い浮かびますが、中小坂の場所は内陸の群馬県の下仁田町。
鉄鉱石の産地に作られた製鉄所です。




下仁田から長野へ向かう谷沿いの道・国道245号線から山腹へ、徒歩で歩いていきます。楽に歩ける距離に、いくつかの穴、かつて鉄鉱石を掘った場所が見えてきます。

坑道が見えてきました

危ないですから、立ち入り禁止
 

研究会が書いた説明板もあります


右のドーナツ 型のものは何でしょう?
左の穴の中は広く、人のヘルメットが白く見えています
左下の写真が、穴の中のようすです

鉄を含んだ鉱脈も見えます。
ところで、鉱脈は何からできている?

上写真のドーナツ型のものは磁石。
鉄山研究会が見学者のためにあちこちに置いてくれています。
磁石が壁にペタンとくっついている!
普通、磁石は石にはくっつかないですよね。
磁石のくっつくこの場所は、特別の場所とわかります。

磁石にくっつくものには何があるか? もちろん「鉄」。クギだって鉄でできています。
他には?・・・・磁鉄鉱という鉱物もくっつきます。
そしてこの鉱山の鉱石は磁鉄鉱です。丸いドーナツ型の磁石がくっついていたら、そこは磁鉄鉱の鉱脈なのです。
 中小坂は不純物の少ない良質の鉱石を産しました。鉄の含有量が重量の70~80%といいますから、すごい。黒っぽい色の鉱石のかけらを手に持つと、ズッシリと重い。(同じように重く感じても、磁石にくっつかないものもあるので、ちょっと要注意)
 調査に慣れた方はライトを持ってきていました。真っ暗な坑道内では必需品でした。

            他にも、いくつか坑口が見られます。


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 ところで日本古来の製鉄法「たたら」では、原料は砂鉄。砂鉄はほとんどが磁鉄鉱の細かな結晶です。砂鉄も磁石にくっつきますよね。
鉄山研究会では、一昨年から、たたら製法で砂鉄から鉄を取り出す試みを行っています。
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  鉄山の坑道は山の尾根付近にあります。少し高い所です。そこで、掘り出した鉱石は尾根から下に落としました。
 そんな山の一角には、祠が祭られていました。聞けば、本物は下仁田町歴史館に保管し、ここには同じ形に作ったものがおかれているそうです。赤い鳥居と祠の柱は鉄製。もともとは鉄山で作られた鉄を使用していたとのこと。なるほど。でも、鉄ですから、やっぱりボロボロとなってきたでしょう。

 危険も伴う鉱山の仕事、人々は神様に祈りをささげながら仕事を続けていたのでしょうか。というより、以前はそれぞれの家にも氏神様を祭っていたわけで、八百万の神様は身近で、常日頃、周囲の自然に祈りを込めていたのかもしれません。
 ところで、坑道陥没の事故もあり、死者もでたそうです。その折の、わずかに窪んだ地形を教えてもらいました。

 下っていった人家近くには、右のような碑石もありました。文字が刻んであります。”越中鍋屋彦・・”だったかな?ちゃんと説明していただいたのに、メモしておかなかった・・お恥ずかしい・・・でも、「鍋」という文字が面白いと感じました。鍋??現代人なら、なんでそんな雑貨が?生活用品が?と思うかも。でも、当時お鍋といえばステンレスやアルミではなく、「鉄鍋」。とても大切なものだったのだろうなと感じました。
 戦争中、鉄の供出を強要され、多くの貴重な鉄製品が失われたと思います。下仁田には、中小坂鉄山製の大きな火鉢が残されていますが、よくぞ残してくれたと思います。今回案内をしてくださった鉄山研究会の会員のお宅にも、鉄製火鉢がありました。強制供出の時に隠し通し、今に残ったものを見つけ出されたのだそうです。
  (なんと・・・火鉢の写真撮ってこなかった。今度またお邪魔して、写真撮らせてもらおう。自家製野菜ふんだんの、おいしい手作り食事もいただきました。ありがとうございました。)

 尾根から落とされた鉱石は、トロッコに載せて運ばれました。今はその跡が遊歩道になっていて、皆さん、「トロッコ道」と呼んでいました。鉄山研究会の方々が降り積もった落ち葉を掃いて、きれいにしてくださっています。
 道はわずかな傾斜の下り坂。この傾斜で、動力を使うことなく、手動のブレーキのみでコントロールして、重い鉱石を運んだとのことです。エンジン付きの動力の無い時代、自然の重力を生かして、無理なく物を動かしていく、よく考えた設計です。
エネルギーを大量投入して、強引に物事を進める現代社会のやりかたに、少し反省を促したくなります




 トロッコ道の少し下に、製鉄所跡があります。石垣が残されていますが、当時の姿は、パンフレットに残されている写真で見るしかありません。
もう少し何か残っていたらなあ・・とは、みんなが思うところです。




製鉄所跡は、現在民家が立つ山すそです。見下ろすと、ゆるやかな坂がよくわかります。
 (鉄山研究会ではおそろいの”はっぴ”を作って、案内の時にも身に着けていました。鉄の昔の字が書かれ、なかなか素敵。右写真の方がまとっていますが、ちょうど文字が見えない角度でしたね。)
鉱石と木炭を投入して過熱しました。
こうして鉱石を細かく砕く
ことができました。



 石垣の上の方、山の木々との境あたりに、左写真のようなカーブしたレンガ積みが残っていました。山から落とされ、トロッコ道を下ってきた鉄鉱石は、このレンガの入れ物の中に木炭と一緒に投入され、加熱されたといいます。
ここで鉄を取り出した??いいえ、違います。
   では何のため?
磁鉄鉱は簡単には溶けたり変化したりしない鉱石です。とくに、山から運んできた大きな塊では。製鉄のためとけにはもっと細かく砕かねばならない。でも、この石、とても固い。少々たたいたって砕けない。どうしよう・・・砕く簡単な方法が、「加熱」なのだそうです。ここで加熱して、割れやすくして小さく砕いていったのだそうです。
このさらに下に、溶鉱炉の施設がありました。

  製鉄には大量の水が必要なのだそうです。その水も、山から流れ落ちてくるものを利用。ポンプアップなんてない時代とはいえ、実にうまく考えています。水をためる大きな水槽の跡も、下にありました。
 もう一つ必要なものがあります。石灰です。下仁田には石灰の鉱山もあります。すべてを自前で手に入れられた場所、それがこの鉱山だったのです。

製鉄に必要なもの
①良質の鉄鉱石(鉄含有量70~80%) ②燃料の木炭、 ③炉に投入する石灰、
          これらすべてが調達できる好条件があった

 合理的なシステムを作り出し、製造コストを低く抑えることのできた鉱山だったのですが、世界の金融恐慌など様々な条件にさらされ、利益を上げることは難しかったとのことです。
優秀な技術・優れたシステムであっても、それを生かすことの難しい世の中の厳しさを感じながら、忘れ去られてしまうのは惜しいと思わずにはいられない思いでした。

こういった様々なことは、案内の方に説明してもらわないと、なかなか理解できません。ありがとうございました。
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 世界の鉄の大きな鉱山の鉱石は、「磁鉄鉱」ではなく「赤鉄鉱」です。鉱物ブームの最近では赤鉄鉱というより「ヘマタイト」といった方が通りがいいかもしれません。
 製鉄の主力鉱石は赤鉄鉱です。海外には露天掘りの大鉱床があります。はるか昔、20億年とか30億年とかいった時代の海に堆積した酸化鉄、というから驚きます。縞状鉄鉱床と呼ばれています。
中小坂の磁鉄鉱は、南蛇井層というジュラ紀の(1億年より少し前、2億年にも近い昔、かな・・)泥岩などの地層に、花崗岩が割り込んできたときにできました。6500万年ほど昔の話。花崗岩は平滑(なめ)花崗岩よばれ、地元の方ならご存知のハイキングコースの神成山はこの岩石からできています。
 製鉄やその歴史には、ネットで見てもじつにたくさんの資料が出てきて、なかなか理解も難しいものです。それでも、この小さな鉄山についてさえ、まだまだ調べたいことがたくさんあるといいます。自然の仕組みから、人間社会の経済にまでわたる話、深く難しい世界だと思いました。
 以前に、中小坂鉄山について紹介したことがありました。同じような内容とはなりますが、以下になります。