たたら製鉄 はじめて5年 5回目です
下仁田町には良質な磁鉄鉱の産出があり、明治時代には近代的な精錬所までありました。
鉱山は小栗上野介が開発計画し、明治10年には操業開始したといいます。
今は、地元の方中心に、鉄山研究会が結成され、活動しています。
「よし、自分たちで鉄をつくろう」と、下仁田自然史館の前庭でたたら製鉄を始めました。5年前のことです。
この炉の底に鉄ができています |
今回私がいただいた ”鉄” です ↓
鉄のかけらを最後にいただきました 1目盛りは1mmです |
あるとき、元先生をされていた方がこんなことを言いました。
「何か人の役に立つことをしたい。昔、製鉄をやっていた地域だし、たたら製鉄をやりたいのだが」
相談されたグループは、やったこともないし、それだけのことをやる人手もないし・・・と・・
鉄山研究会というグループがあるから、そこに相談してみたら、と。
いろいろ相談されたのでしょう、とにかく今、こうしてたたら製鉄が行われています。
たたらは西日本で盛んだったと思います。アニメ「もののけ姫」に出てきますね。
最近、たたらを楽しむ人たちが増えているとききました。
最近、たたらを楽しむ人たちが増えているとききました。
自分でいじれる、参加できる、鉄づくりのすべてが見える、多くの人との出会いがある。
いま、便利な機器の仕組みはみんなブラックボックス、さらに、ちょっとクリックすれば何でも望みがかなうような気分になる昨今、モノづくりそのものの経験、汗水たらす姿は、ステキです。
鉄の科学を熱く語る永田さん |
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中小坂鉄山の守り神 この石宮の柱を鉄山の鉄で柱をつくりたい、と |
じつはここで作った鉄を使って、中小坂鉄山山頂の石宮の柱を復元しようと計画しているのだそうです。危険も伴う鉱山の仕事です、神様への祈りも欠かせなかったでしょう。もともとの鉄製の柱は、さびてボロボロになってしまうので屋内に保管、模造品に取り換えられています。完成すれば140年ぶりの新品になるはず。
そこで、中小坂鉄山の鉄鉱石から鉄をつくって、その鉄で作ろうという夢が生まれたわけです。
昨年、成功。今年も挑戦です。
全国の数あるたたら製鉄の中で,
磁鉄鉱から鉄をつくったのは、ここだけとうかがいました。
鉄山の鉄鉱石は、今は採集禁止です。
でもそこは地元の強み。40年近く前に拾っておいたものを使っての挑戦です。
たたらは普通、砂鉄を使います。中小坂は山から掘り出す鉄鉱石。砂鉄のように、まずは細かくしなければなりません。
磁鉄鉱塊→くだけたもの→粉 |
磁鉄鉱といって、磁石がくっつ石、硬い石です。
これをたたいて粉にするのは、ちょっと・・・無理。まずは真っ赤に焼いて(焙焼)、水の中に投入。もろくなって小片になります(左写真)。
そのあと、石臼に入れついて粉に。
フルイでふるいます。 |
石臼は、下仁田名産コンニャクを粉にするときに使った臼にも使用した椚石の臼。隣の南牧村の青木石材さんから頂いたとのこと。杵も知り合いの方の制作したもの。
粉はふるいの上に落とし、さらにフルイでふるって、小さい粒だけにします。
完成した炉 ブロアーで空気を送り込みながら加熱 たたらとは、空気を送り込むふいごを 意味する言葉だそうです |
間隔をあけながら 磁鉄鉱の粉と 木炭を投入 投入しているのは地元の里見さん |
投入記録です |
炉の中で、いったい鉄ができているのかどうか・・・これを炉から上がる炎の色や小さな音を聞いて判断します。小さな窓から、中の灼熱の様子もうかがえるようにしていました。
かつてこうした鉄を扱う職人たちは、いつもこの強烈な光を見ていて仕事をし、白内障で目が見えなくなってしまった。そのため細い隙間から見るようにして 目を保護しながら、片目で見て作業をすすめたといいますが、…それが一つ目小僧の起源だったという説もあるという・・こんな話もうかがいました。
鉄を取り出すには、炉を壊さねばなりません。この作業、みなさん実にきびきび無駄がなく、見ていて気持がいい。
炉の解体中の写真です
熱でレンガがくっついていた |
このあと、ケラと呼ばれる塊を 水にいれます |
できたケラは6・4㎏
投入した磁鉄鉱21.5㎏ これ、大成功!!
(砂鉄20㎏に対し 木炭は70㎏といった割合で使うそうです)
ケラです これを”練って”使える鉄に仕上げます |
炉の底にできたものは、 ゴツゴツボロボロ・・これだけでは使い物にならない。これを練り上げるのが「鍛錬」。そうか、鍛錬とはここからきた言葉なのか。 真っ赤に熱した塊をたたき、伸びたところをたたみ、またたたき、これを繰り返すうち、粘りのある強い鉄になります。何だか、粉からうどんをつくった子どものころを思い出しました。二毛作の北関東では、自家製の小麦粉に少量の水を加え、ボロボロした塊の上にむしろのようなものを置いて、その上に乗って足で踏み、伸びるとぱたんと半分に折ってまた足で踏む・・これを繰り返すと、うどん生地ができました。踏むのがもっぱら子供の仕事。
こうしてできた鉄・和鉄はさびにくいのだそうです。包丁も、日本刀も、さびにくい…たたらで作った鉄には酸素がたくさん含まれていて・・・などなど、さびにくいメカニズム、鉄原子がくついていく仕組み、炉の温度の微妙・・映像を交え、こうした説明も永田氏からお聞きしました。酸素が多くてさびない?どういうこと?? などなど、驚くようなお話満載で、理解もしきれませんが、でも楽しい。今ここに書くと間違いだらけになりそうで、今回、書くのはちょっと失礼しますが。
お聞きすると、新しい発見として何十本も論文を書き、とにかくまだまだやることいっぱい・・・4千年も昔から人がつくり始め、武器としてつかわれ、農具は生産力を飛躍的に高め、近代・現代の文明の基礎となった、そんな鉄、人類の歴史ともに調べに調べられてきた鉄ですが、まだまだ未知のことがある。
そんな魅力を,自ら出向いて語り続ける人たちがいるのです。
こうした活動、町の歴史・特色とかかわることもできるわけで、自治体でもぜひ援助してほしいですね。
以前、たまたま運転中に聞いたラジオの朗読で聞いた短編がふと頭に浮かびました。
伊集院静の短編で、アナウンサーの朗読のすばらしさも加わり、心に残りました。
内容を書いてみたのですが、ネットで調べると、見つかるものですね・・・こちらの方がずっとくわしい・・転載させていただきます。「私の読書日記」 というブログです。 http://blog.livedoor.jp/midori_nozawa/archives/52237811.html
短編は「親方と神様」 「少年譜」 という題の、短編を集めた本に載っているそうです。
原作、読んでみようかな。
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昭和23年の夏、12歳の吉川浩太少年は鍛冶職人の六郎の仕事場を訪れます。
授業で、鍛冶屋という仕事は人間の仕事としてごく初期のころからあった大切な職業だと
先生から教わったからです。親方は独身で50年もこの道で生きてきました。
親方自身13歳の頃に、素晴らしい鍛冶職人から大切なことを教えてもらったのです。
夏休みの間、六郎の下で、鍛冶屋のイロハを教えてもらった浩太少年でした。
が母親は少年が本気で弟子入りを考えていることに反対でした。それで担任に話して、
担任が六郎を訪ねてきました。
担任は六郎に直に話してもらう方法しか浩太を説得できる人はいないと
考えたのです。
六郎は浩太をつれて山に登りました。そこは自分が少年の頃に親方に連れられて登った山でした。滝の落ちるあたりで膝まで水に浸かり、川底の砂を手ですくってみせました。手の中には
きらきら小さなものがありました。砂鉄が集まって、刀を作ること。小さな真砂砂鉄を神様が備えてくださったこと。浩太の中には玉鋼を作る真砂砂鉄と同じようなものが詰まっている。「かなやごさん」(鉄の神様)が守ってくれると。ひとつひとつ丁寧に集めていくとできるようになること。山も滝もずっと待っていることを。
浩太は親方に抱きついて嗚咽しました。自分は親方に弟子入りはできないことを最初から分かって
山についてきたようでした。
六郎は昭和30年に誰もいないところで倒れていて、静かな死でした。
さて吉川浩太は今ではN製鉄の顧問となっていました。浩太は鉄鋼業界の重鎮となっていました。今回会社役員の法事に出席のため新潟に到着しました。新入社員佐藤は秘書部で代理として同行しました。弥彦山に登り、日本海を眺めていた時、飛行機が飛んでいました。新入社員に尋ねると、新潟からの飛行ルートが分かりました。
吉川浩太は急に飛行機で九州に行こうと思い立ちました。新入社員が飛行機の中で、顧問にジュースをもって近づくと、浩太の目は涙でぬれていました。浩太は新入社員を隣の座席に招き、昔大切なことを教えてくれた親方と一緒に登った山を眺めてみたかったと話します。
ーーーーーーーーー伊集院静氏はご自身が子供のころ鍛冶屋になりたいと思っていたそうです。小学生の時、鍛冶屋の仕事をずっと見ていて学校に行かないこともあったのだそうです。
心を込めて文をつづったのではないでしょうか。
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