2014年2月2日日曜日

地層に見られる模様 その3 リップルマーク、足痕化石

地層に見られる模様 その3


③ 漣(   れん)(こん) (リップルマーク)・ 足痕化石

漣・・・「さざなみ」と読みますね。さざなみのあと・・文字どおりの模様が,地層の表面に見つかることがあります。下仁田町ではないけれど,近くに有名な場所があります。

下の写真は,神流町にある漣痕、というより、一緒についている恐竜の足跡で有名な場所です。日本で最初に見つかった恐竜の足跡と言うことで、とても有名ですから,ご覧になった方も多いかも。
でも、最初は「きれいな漣痕の見える場所」として、地質研究者・愛好者に知られた場所だったのです。

 
   

















 


上部のぽつぽつとした穴や右側で下から上に向かうでこぼこが足跡ですが、そのほかの部分も、一面にでこぼこしています。これがさざなみのあと、漣痕(リップルマーク)です。砂の層などに水(風のこともある)が流れたりすると、模様ができ、その模様が地層に残ったものです。
何か生き物のはい跡のようなものも見えます。

恐竜はこの垂直の崖を登ったのでしょうか??
まさか・・
もちろん,登っていません。この面は昔は水平でした。平らな面についた波や足跡が、やがて地下に埋もれ、その地層は後に地殻変動で傾き、ほぼ垂直になったのです。

この面は1953年、道路拡張工事の時に出てきました。その後はきれいなリップルマークの見える場所として有名になり、地質に興味を持つ人や学生の実習として見学者が訪れていました。じつは私もその一人。「あの穴は何だろう。恐竜の足跡?」などと、冗談を言っていたものです。

漣痕の見つかった当時、下仁田自然学校の運営顧問の細矢さんたちはこの大きな穴を、「何だかわからないから、とにかくきちんと記載しておこう」と、はしごをかけ、記録をとったそうです。
1985年、これが恐竜の足跡と国内ではじめて認定され、日本中に知れ渡りました。
 工事の折には、リップルマークの見える地層面が, すぐ近くにまだいくつかあったそうです。道路工事現場でもあり、また当時からボロボロ崩れたりして、残念ながら今はなくなっています。
あとから、近くにもっとこんな地層がないかと調べてほしいと、頼まれたりもしたそうです。



1981年には近くから恐竜の骨が見つかっています。それで、「恐竜の足跡かも」と、真剣に取り組んだのでしょうか・・・




                                                             
リップルマーク発見当時の写真。はしごに登っているのは調査中の細矢尚さん











写真を入れていた封筒に,解説文がはってありました。


このとがった波の形は地層の上面に見つかります。一緒に見つかった足跡も、地層の表面についたものです。
これは浅い水底にたまったものでしょうね。なにしろ、恐竜が歩いたのですから。
 砂の表面に波の跡がつき、その上をちょっと泥質の堆積物が覆ったりすれば、のちにそこから剥がれやすくなるでしょう。前回紹介した砂泥互層は少し深い海の中に堆積したものですが、それとは、少し違った堆積のようすを思い浮かべたほうがよいでしょう

  なお、「波の化石」と表現する人がいますが、正確には、これは間違い。「化石」という言葉は、
  正しくは、生き物に関係した時にだけ使うものなので。
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1967年発行の みやま文庫「自然の歴史」に自然学校運営顧問の細矢尚さんが、この漣痕について書いています。15ページにわたりますが、一部を転載してみます。当時の雰囲気を感じてみませんか。

<1億年前の波のあと>

   山中地溝帯の中生層より発見されたリップルマーク

リップルマークの発見
 三波石で有名な神流川を鬼石、万場とさかのぼって行くと、多野郡の中里村、上野村がある。この地方は「御荷鉾の三束雨」で知られた雷の多いところである。御荷鉾山に出た雲は、麦束三束たばねるうちに雨になるというのだが、山で突然襲われると山賊雨とよびたくなる。神流川ぞいのバスで中里村に入ると叶山(1106.3m)が天に向かって岩が突き出した形でそそり立って、川を見おろしているのに出会う。急な崖をめぐらした特異な形は石灰岩の山の特徴で、崖は白い岩はだを見せている。
 昭和32年(1957)の夏に、東京、埼玉、群馬の研究者、教師、学生をまじえたグループがこの叶山のふもとを中心に地質の調査に入った。むし暑い日が続き、そして午後四時になると決まって雨が降った。この十日ほど続いた調査の中頃であった。例によって朝から暑い日であったが、午後三時半頃から雨になった。この日は二班に分かれて、一班は叶山のふもと、もう一班は叶山の西隣の立処(たとろ)山(叶山と同じ石灰岩の山)の調査に当たっていた。
 立処山の班はいつもよりやや早い雨に山頂であい,雷鳴におどろきながら岩かげで少し雨やかどりして下山した。叶山の班の三人が雨にあったのは叶山の裏で、宿と山をへだててちょうど反対側であった。しかも道もはっきりしない草やぶの中で身を隠すところもなかった。そこで濡れるのを覚悟で思い切って雨の中を草をかき分けて三〇分ほど歩き、ずぶ濡れで瀬林という部落へたどりついた。雨は相変わらず降り続いていたが広い道へ出たのでほっとした。これからは間物沢川ぞいのゆるいくだり坂で、宿へ二〇分ほどである。歩き出して間もなく、「あっ」といって三人とも立ち止まってしまった。そしてしばらく雨に濡れた崖を見つめ「リップルだ」「すばらしい」と言い交わしていた。
 リップルマークとは古い地質時代の水底に印された波のあとが地層面にのこったもので「漣痕」とよばれている。志賀坂峠を越えて秩父にいたるこの道が拡張されたのはその数年前で、そのときの工事でこの崖が現れ、地元の人たちは「波の跡だ」と正しい判断を下していたそうであるが、地質研究者の目に触れたのはこのときが最初であった。この報告はその晩のグループの話題をにぎわし、翌日は地元の人たちも加わるので、予定を少し変えて全員でこの崖を見に行くことになった。翌朝、ほとんど垂直のその崖は朝日に照らされて、うろこ状の漣痕が美しく光っていた。
 こうして瀬林のリップルマークは発見され、続いた調査でこの奥の間物部落にも別の型のものが見つかり、研究者の関心を呼んだのである。

・・・・・中略・・・・・

リップルマークを求めて
 この解明には 現在リップルのできている海底をのぞかねばならないが、これはなかなか不可能に近い。ただ深海底の写真にはこの方のリップルはみられないし、化石も浅海性のものなので浅い海をねらえばよさそうである。それに波の向きがはっきりしているから水は往復運動ではなく、一定の方向が考えられる。そこで実験をしてみることになった。海のない群馬県での実験は用水堀を用いるより仕方がない。深さ、流速の変えられる掘を探し歩き、赤城の中腹でさがし当て実験にかかった。川底にもいろいろのリップルがみられるが、どうも瀬林のものと一致するものはみられない。いろいろと条件を変えて実験を重ねた結果、水深2~6cm、流速毎秒25~27cmのときもっともこれに似たものができることがわかった。砂の粒度は0.3mm前後がもっともできやすい。しかしリップルのできるようすをくわしく観察すると、浅い皿状をなした谷の部分では絶えず不規則な渦流が生じ、砂粒は躍動して次々に下流へ運び去られ、一方下流に凸所をむけた波頂にある砂粒は、比重の大きいものが一時的に定着しながらも波頂の位置はゆっくりと下流にむかって移動を続けている。波頂の移動速度はまちまちであるが、速いものは毎分25cm、遅いもので約3mmであった。このように流動を続けるリップルがなぜ定着し、保存されたのであろうか。

証拠さがし
生痕
再び瀬林のリップル面にもどって見よう。これをよく観察すると波形の凹所に小型動物による生痕が多数見られる。ほとんどのものが砂のもり上がったもので、長いものは50cm、20cmと続くものもあるが、多くは数糎で不規則に枝が出たり、表面に縄状のもようが見られたりして、多毛虫類のはいあるきあとを思わせる形をしている。これは或時間堆積の休止期があって、そこが海底であったとき、その海底面で虫が活動したことを示している。それでは堆積、休止、堆積、という変動がどのようにおこなわれたのであろうか。
ラミナのスケッチ
 それを解明する手がかりとしてもう一つラミナ(葉理)がある。流れによる砂岩中の縞もようであるが、波の面に近いところは乱れて不規則に波うったり、断絶したり、交叉したりしている。これは静かな堆積の後に水の動きがはげしくなり、海底の堆積物を再び乱して流動する中で堆積して行ったことを示している。、
 このように調査研究が進められていった中で、どうしても解明できない現象もあった。この崖の上部にある奇妙な二つの穴の成因、右上から下にかけての一筋の表面の乱れはどうしてできたのか等々。なおこれには恐竜のはいあとという夢もあるのだがどうだろうか
 

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いかに緻密に注意深く見ていらっしゃるかがよくわかります。恐竜についての夢を語っているのにも、うれしくなります。
当時、日本では「恐竜の化石はでない」と言われてきました。誰も恐竜化石を見つけようなどと思っていませんでした。日本の最初の恐竜化石発見は1978年。それ以後、発見が相次いだのです。足跡化石も同様です。人の目は、その気持ちで見ないと、あるものもみつけられない、見えてこないものなのだと、つくづく思います。

山中地溝帯(さんちゅうちこうたい)とよばれるこの地域の生い立ち・歴史については、現在では当時と違った見方がされてきています。ですから細矢さんが解説されたこの地域の歴史部分には、現在と違ったものもあります。科学の発達というものはそういったものです。それぞれが先人の努力を尊重しながら、さらに進めていく姿勢を持つことが大切でしょう。

 
 
<みやま文庫>について
  群馬県の企画で、昭和36年(1961)から年4冊発行している本。県立図書館に事務所をおいている。年会費を集め会員頒布だが、近年は一般むけ販売もある。自然、歴史、民俗、文学、産業・・・など、多彩な分野で県の記録となっていて、現在、200巻を超えている。
なお、 「みやま」とは「赤城山・榛名山・妙義山」の上毛三山を意味している。

刊行の言葉の一節を紹介してみます。志が高いですね。

  多年優れた研究、実践活動をつんでおられる人々に発表の機会を与え、「地元で、みんなの
  力で、よい本をだす」ことをきっかけとして、地元のよい仕事をより強く育て、希望と励みを高め
  るものであります。
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宮沢賢治も,地層の表面に動物の足跡を見つけて、大喜びしています。しかも、生徒と一緒にみつけ、一緒に掘り出しています。場所は花巻市の郊外、北上川の川辺で、賢治が「イギリス海岸」と名付け、暇を見つけては散策していた,賢治が大好きだった場所です
次のような詩や文を書いています。


    川上の
    煉瓦工場の煙突から
    けむりが雲につゞいてゐる
    あの脚もとにひろがった
    青白い頁岩の盤で
    尖って長いくるみの化石をさがしたり
    古いけものの足跡を
    うすら濁ってつぶやく水のなかからとったり
    二夏のあひだ
    実習のすんだ毎日の午后を
    生徒らと楽しくあそんで過したのに
    ・・・・

 その時、海岸のいちばん北のはじまで遡って行った一人が、まっすぐに私たちの方へ走って戻ってきました。
「先生、岩に何かの足痕あらんす。」
 私はすぐ壺穴の小さいのだらうと思ひました。第三紀の泥岩、どうせ昔の沼の岸ですから、何か哺乳類の足痕のあることもいかにもありさうなことだけれども、教室でだって手獣の足痕の図まで黒板に書いたのだし、どうせそれが頭にあるから壺穴までそんな工合に見えたんだと思ひながら、あんまり気乗りもせずにそっちへ行ってみました。ところが私はぎくりとして突っ立ってしまひました。みんなも顔色を変へて叫んだのです。
 白い火山灰層のひとところが、平らに水で剥がされて,浅い幅の広い谷のやうになってゐましたが、その底に二つづつの蹄の痕のある大きさ五寸ばかりの足あとが、幾つか続いたりぐるっとまはったり、大きいのや小さいのや、実にめちゃくちゃについてゐるではありませんか。
その中には薄く酸化鉄が沈殿してあたりの岩からは実にはっきりしてゐました。たしかに足痕が泥につくや否や、火山灰がやって来て,それをそのまま保存したのです。私ははじめは粘土でその型をとらうと思ひました。一人がその青い粘土も持って来たのでしたが、蹄の痕があんまり深すぎるので、どうもうまくいきませんでした。私は「あした石膏を用意して来やう」とも云いひました。けれどもそれよりいちばんいいことはやっぱりその足あとを切り取って、そのまま学校へ持って行って標本にすることでした。どうせ又水が出れば火山灰の層が剥げて、新しい足あとの出るのはたしかでしたし、今のは構はないでおいてもすぐ壊れることが明らかでしたから。
次の朝早く私は実習を掲示する黒板にこう書いておきました。
 八月八日
 農業実習 午前八時半より正午まで
  ・・・・ 略
 (午后イギリス海岸に於いて第三紀偶蹄類の足痕標本を採取すべきにより希望者は参加すべし)

  
足あとはもう四つまで完全にとられたのです。
 私たちはそれを汀まで持って行って洗ひそれからそっと新聞紙に包みました。大きなのは三貫目もあったでせう。
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この足痕化石、学校に少なくとも一年間は学校にあったようですが,その後どうなったかは今ではわからない話だそうです。
                                (壺穴・・・・ポットホールのこと)

大型の生き物の足あと化石って、魅力あるのですね。
足あとは下仁田ではみつかってはいませんが、地層に見られるいろいろなもように、ちょっと目をとめて見ませんか。

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 下の写真のもよう、何だと思いますか?下仁田のある場所で見つけました。
「リップルマーク!」と言う声が聞こえてきそう。
でも、この石、安山岩なのです。リップルマークは水の動きでできたものです。
ところがこれは、どろどろに溶けたマグマからできた安山岩の表面にできたもようなのです!。
地下の割れ目にマグマが板状に入り込んで固まった岩脈の表面です・・・・みんなで、「こんなの見たことない!」。   自然って、おもしろいですね。
   どうやってできたのか、どなたかわかりますか。





2 件のコメント:

  1. 細矢さんたちのおかげで、のちに恐竜の足跡だということがわかったわけですし、また、リップルマークに気づかず道路工事を行っていれば、これらが消えてなくなっていたわけで、公共事業を実施する際には、いろいろ気をつけてほしいものですね。

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  2. 多くの方々の努力を大切に受け継いでいきたいですね。

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