九州の地震,怖いですね。テレビの前に座り込んで映像と解説を見ていました。
強い揺れがいつまでも続き、住んでいる人たちにとってはどんなに怖いことか。
「中央構造線」という言葉も有名(?)になりそうです。
日本の高度成長期は地震活動が穏やかな時期でした。もしもっと地震活動が活発だったら,あの日本経済の急成長はなかっただろうと言う人もいます。
私の父は2度、大きな地震に遭っています。最初は1931年の西埼玉地震。寄居付近が震源で、M6.9 、死者11名。近くの畑の地面に数cmの段差ができたと父は言っていました。その段差の延長線上にわが家があるのではと,少々心配。関東平野北西縁断層帯という地域になるのでしょう。
小学生で当時校庭にいたおばさんは「自動車が100台も来るような音がすると思ったら、奉安殿の前から水が吹き上がった」と。お墓の墓石が回転していたり,土蔵の壁が落ちたりなど、聞きました。(奉安殿という言葉から,時代がわかります)
次は、1943年の鳥取地震です。M7.2 ,死者1083名。知っていた方で亡くなった人もいたそうです。柱の下敷きになって。情報も伝わらず、群馬の実家では,もうダメかもしれないと思ったと聞きました。
1943年~1946年の敗戦前後には大きな被害の地震が4つもあり、3つは戦争中でもあって,ほとんど状況を知らされなかった・・・情報伝達手段が少なかったとはいえ,不安をあおるからと、意識的にも伝えなかった。
なお、群馬は活断層の比較的少ない地域ですが、群馬東部・赤城山山麓の大間々付近では、遺跡発掘で地震の痕跡がたくさん見つかっています。地割れ、噴砂、山崩れ、岩屑なだれなど。おそらく818年の地震であろうとのことです。
父は第2次大戦では男子同級生の半分が亡くなったという世代で、私の世代から見ると,自然といい、人間社会といい、ずいぶん大変な目にあったものだと思わずにいられません。
こういった話を聞かせてくれた人たちも,もうみんな鬼籍に入っています。「災害は忘れた頃にやってくる」と言いますが、実際に経験して知っている人たちがいなくなったらもう忘れてしまうなんてことのないよう、私たちも、ちゃんと賢こくあらねば。
梨の花の咲く所 かつての利根川の流れた場所
前橋市下大島町付近には梨畑が広がっています。ここでは大島梨という名前で知られる梨ができます。
前橋市の中心からそれほど離れていない所、両毛線の電車が走り、梨畑の真ん中にはたくさんの車が通る駒形バイパスがあるという、けっこうにぎやかな場所です。
梨畑の花を見てきました。
道路沿いに広がる梨畑 |
白い梨の花の美しさ
いつか満開の梨畑を
ごらんになりませんか
こちらは桃の木 |
道端での直売でおおかた売ってしまうようです |
収穫の季節には道路端にある直売所がオープンします。たくさんあります。
右写真では,道の向こう側も直売用の建物です。ほぼ直売で完売するようです。
この場所からもう少し南東、わが家に近いところでは,ブドウがたくさん栽培されています。種類は、ほとんどが巨峰です。
ブドウ畑 |
これらのくだものが育つのはどんなところ?
下図の赤いアンダーラインの”厩橋城”というところが前橋の県庁です。
(漢字、間違っていなかったよね,とネットで調べたら、”うまやばし” と読むと思っていたのに”まやばし”と読み仮名が振ってあるのです・・・中世にはマヤバシでそれ以前はウマヤバシ?だった、とか・・はて、何と読んでいるのやら)
県庁(厩橋)から南東に流れ下った広瀬川はやがて桃の木川と合流します.
その付近の広瀬川に沿うような地域に梨畑が見られます。
ここは広瀬川低地帯とよばれ、この図の右斜め方向(南東方向)にずっと伸びています。
なお、写真にのせたブドウ畑は、地図で黄色に囲った"広瀬川低地帯”と書かれた付近です。
これらの川の流れるのは幅3kmほどの低地帯です。
梨畑の下大島付近は「石っ川原」とよばれる農業に不向きな地域でした。砂地で石がゴロゴロ。きっと貧しい地域だったことでしょう。1830年、そこに梨を植え始めた人がいました。これがこの土地に合い、それ以後も苦労を重ねて,特産の梨となっていったわけです。
石ころゴロゴロの理由は、ここに昔、川が流れていたから。
今、近くを流れている川は広瀬川です。仙台市を流れる広瀬川と名前が同じ。
♪~ 広瀬川 流れる水に ♪~ なんて さとう宗幸の歌を思い出してしまいそうですが,関係ありません。
前橋の広瀬川は、前橋市内商店街の近くを流れ、ほとりには前橋文学館などもあって、なかなか良い雰囲気です。「水と緑と詩の町」は前橋市のキャッチフレーズだったのでは。
前橋市出身の詩人、萩原朔太郎の詩にもあります。
広瀬川白く流れたり 時さればみな幻想は消えゆかん ・・・略・・
それにしても実際の川を見てみると,町中を流れるちょっと大きめ程度の幅の川で、こんな小さな川で、こんなに広い低地帯をつくり、石ころゴロゴロの土地を作れるのかと、思ってしまいます。・・・…その通りで、あの小さな広瀬川が広い低地帯を作ったわけではありません。じつは、今の広瀬川の流れている所には、昔、もっと大きな川の利根川が流れていました。
下図は利根川と烏川の合流点付近の流れの変遷の図で、上図の下半分にあたります。
歴史をひもといてみようというわけです。
下図の上部には、「廣瀬川」の文字が見え、「天文八年~十二年以前の利根川」との解説がついています。これは1540年頃より以前です。
これ、昔はこの川が利根川だったと言っている!
玉村に住む私の母がこう言っていました。
「利根川は昔、狭くって,両側にはえる竹がかぶさるとくっついてしまうくらいだったんだよ。」
幼い頃こんなことを聞いて 「エーッ,うそだい。」などと思ったものです。そんな小川じゃ、今のあの大量の川の水の行き場所がないじゃないかと。変な話だなあ,と思ったものです。
後になって,これが本当の話と知りました。
利根川は昔、玉村(上図の左部分)を流れてはいませんでした。
流れていたのは今の広瀬川の流路に沿った地域。広瀬川低地帯とよばれます。大島梨で有名な地域は昔の利根川の川原で土地は砂質、1mも掘ると川原の石が出てくると聞きました。こんな水はけのよい土地が果樹にむいていて、梨作りが盛んになったわけです。
玉村は前橋台地とよばれる"台地”の上にあります。でも、低地から台地に川が流れるなんて、どう考えても変です。
わかっているのは、1540年頃かそれより前、利根川の流路が変わったということ。
用水路に洪水が流れ込んだといわれたりするようですが,正確な記録はなく,よくわかっていません。1470年(室町時代)の大洪水が有力視されているようです。
江戸時代より前の記憶が語り継がれていることに感心しました。前橋の商店街アーケード街中央通りに,流路変更前の船着き場後の石碑があります(と書きながら,昔ながめたことがあるだけで,本当にそんな碑だったっけ、などと今思っているところです)。
前橋台地に流れ込んだ水は台地をえぐり川岸に崖をつくり、利根川は新しい流路を流れるようになったのです。
その前橋台地の,多分最後の小さな崖が私の住んでいた所にありました。小さな崖にはぽたぽたと水がしたたり、白い粘土質の部分には小さな穴があき、サワガニがいました。
ここで大きくカーブを切った利根川は、,とたんに川幅を広げ,大河の趣を見せています。広々とした川原、いくつもの中州、烏川との合流点では2つの川の広がりを合わせ、さえぎるもののない広がりを感じさせます。
今でこそ,川は川筋を流れて当たり前のように感じていますが、つい最近まで川は気ままに流れを変え,人を苦しめてもきました。この合流点付近では,利根川は乱流を繰り返し1783年(天明3年)の浅間の噴火時には、七分川がうまってしまったそうです。そんなわけで、土地が島になってしまったりという,川の暴れの様子がしのばれます。そこで地名には,「島」のつくものがあったりします。そういえば絹遺産になった養蚕農家のある場所も「島村」でしたね。
八斗島(やったじま)は、洪水時、ここで測った水量の高さを利根川の洪水の規模を測る目安にしていると聞いたことがあります。治水の重要なかなめの場所です。
その時、利根川にかかる橋の長さを使って説明しました。今持ち出してみると、その後,ずいぶんたくさんの橋ができていることにあらためて気づきました。その橋の長さを入れてみようと思ったのですが、パソコンの前に座っていたのでは、ほとんどわかりませんでした。自分の住む玉村周辺に多いのにね。
今回は,そのデータ抜きで,以下にのせさせていただきます。
前橋の生まれではないですが、今は利根川のすぐ東側、南町に住んで居る者です。市内を北に向かって行くと、本町を過ぎた辺りで急に下り坂になっているのが気になっていて、旧利根川の河床に違い無いと思っていました。お陰様で、よーく理解出来ました、ありがとう。
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