2015年2月22日日曜日

 春のきざし


春よこい
 

みなかみ町猿ヶ京に出かけた人から、便りが届きました。
マンサクが咲いていたよ」と。
深い雪の中で、もう花が開き始めているんだ!

まず咲くまんずさく」 から マンサクと名付けられたとも言われる花。春の兆しを伝える花です。たわわに咲く花を、豊年満作の願いをこめてマンサクとよんだとも。

我が家の部屋では、つぼみの枝を切り取って花瓶にさしておいた園芸種のマンサクが、ずいぶん前から満開。ほんのりと香りも漂います。今では花びらが散り始めていますが、どこかのお宅のお庭でも、これから咲くのではないでしょうか。

野生のマンサクは下仁田の山では、ほとんど見かけないのではないかなあ・・・あとで詳しい人に聞いてみよう。

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庭では黄梅(オウバイ)が黄色い花をのぞかせています。子供の頃、近所の家でこの花に彩られた小さな垣根があり、寒い中でも咲いているその花をとてもすてきと思っていました。


中国北部・中部原産で、江戸時代に日本にやってきたそうです。梅と同じころ咲くのですけど、あまり知られてないかな。花に彩られて垂れ下がる枝は、地面につけば根を出し、簡単に増やすこともできます。 

中国名は「迎春花」
中国の春節の頃咲き出す花春一番に咲く花
  すてきな名前をもらっています。

 
春節を大々的に祝う中国では、みんなに愛されているかも、などと想像しているのですがどうでしょうか。
 我が家の庭では、1月25日に早々と黄色の花が1輪、顔を見せていました。

ところで春節はいつでしょうか。日本でいう旧正月です。
   2014年・・・1月31日
   2015年・・・2月19日
   2016年・・・2月8日   
 毎年違う・・・・?正月なのに・・  理由は「旧暦だから」。
春節は1月21日頃~2月20頃までを、毎年移動しているとのこと。

旧暦は月の動きが元になっているので(1か月の日数が太陽暦より少し短い)、季節とだんだんずれが生じて、調節のために時々「うるう月」が必要だったりしたのです。「13月」があるの??と聞かれそうですが、さすがに「13月」ではなくて、「うるうなんとか月」とよぶようで、「うるう7月」というのがありました。いつも7月なのかどうか、よく知りませんけど。

春節日本でいえば旧正月ベトナムではテト。互いの文化がつながっているのを感じます。
私くらいの年齢になると、ベトナム戦争当時の「テト攻勢」という言葉が浮かぶので、テトという言葉になじみがあったりします。

 
今、中国は春節の頃。政治の世界のギクシャクなんてまるで関係なく、たくさんの中国の人が日本観光に訪れていると、報道されています。中国でも大金持ちのいる格差社会がひろがっているのかもと思ったりもしますが、でも、人々の交流がたくさんできたらうれしいですね。
 ギクシャクした世界情勢・・・知人に、娘がエジプトの人と結婚して、エジプトに住んでいる人がいます。今、どんなにか心配でしょう。
 札幌の北星学園大学では、従軍慰安婦の記事を書いた元朝日新聞記者が講師をつとめる事に対して、卑劣な脅迫が続いています。テレビでの会見場で緊張した表情の、個人的に知っている大学関係者の姿を見ました。
  他国と仲良くできる世界をみんなが願っているのに・・・・

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朝起きると、窓から東の空が見えます。明け方の空は、何ともいえずいいものです。
下は2月16日の空で、東寄りの空の少し高いところには 細い月も見えていました。
午前の3時47分に地平から東の空へとのぼりはじめた月です。
 
 
                        2月16日朝
 
1年でいちばん昼間の短いという冬至はとっくに過ぎ、夕方の頃がずいぶん明るくなってきました。でも、朝は何だかいつまでも暗かった・・・・日の出の時間は、なかなか早くならないのです。
それどころか、じつは冬至を過ぎても、日の出の時刻は遅くなり続けていたって、ご存知だったでしょうか。
最近は、やっと、日の出が早くなってきたのを実感できますが。
 
 グラフにしてみました。
赤い点が冬至の日です。
日の出のグラフ曲線を見ると、冬至を過ぎても、いつまでも明け方が暗かったのが、何だか納得できます。

それにしても、こんな微妙でこまかいことを、昔から世界各地でそれぞれに、そこに暮らす人たちが調べ、それぞれに暦をつくり、社会をつくって来たのに、あらためて感心します。

今のような精密な観測機械があるわけでもなく、時計だってなく、簡単な道具で正確な天体観測をおこない、この複雑なうごきを記録してきた・・・・私など、こまごまとした数字を見るだけで目が回りそう。

時間を計る・カレンダーをつくるというのは、人類にとって、農業のためだったり、災害を防ぐためだったりと、実用的意味も深い重要な最先端の科学だったはずです。

                                                2月21日夕方

2月20日の夕方には、今度は西の空に細い月が見えていました。思いついて次の日、21日に写真を撮ったのですが、曇りがちでもあって、やっと見えるだけのぼやけた写真になっていますが。
16日には東の空に細い月が見えていましたが、よく見ると、右の写真・22日とは向きが違っています。
 

16日の月 月の出:午前3時49分 月の入り:14時22分
    (朝には見えるけれど、当然、夕方の西の空には月は
     見えませんでした)
21日の月 月の出:午前7時39分 月の入り:20時14分
  (朝には見えないけれど、夕方には西の空に見えます)

夜の明かりの乏しい時代、人々は夜空をよく眺めただろうなあ。動きの変化のよく見える月は、みんなが親しんだのでしょう。
小学校の理科で月のことなど学ぶと思いますが、月の形の変化の表だけ見ていたら、わけのわからない話でしょう。
それにしても、日の出日の入りの時刻等、キーを押すだけで簡単に知ることのできる時代になって、つくづく便利だなと思っているところです。
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もう少しするとジンチョウゲが香りはじめます。みんなが知っている春のかおり。
この香を「北斗の香(ほくとのか」ともよぶのを聞いたことがあります。
ジンチョウゲが香る庭先で、夕刻、ふと空を見上げると、北天には北斗七星が、空高く美しく見えている・・
美しい言葉だと思いました。
身近な場所にも、たくさんの美しい自然があります。なんだかうれしくなります 。
 
 
 

2015年2月15日日曜日

地質案内その13 下仁田の段丘で・石器探し

下仁田の「遺跡街道」

下仁田にはいつから人が住んでいたのか・・・
           ご先祖様のことって、何となく知りたくなりませんか。

過去のことは人が昔使ったものなどが出てきて、その証拠からわかってくることです。石器、土器、建物や道路のあと・・  証拠は、開発に伴って見つかることが多いでしょう。

下仁田では、畑のまわりを歩いているだけで、そんな証拠が見つかります。びっくりです。
いつの時代のもの?・・・江戸や明治の頃のお茶碗?  それもあるけど、もっと古いものも・・・・。古墳があった頃の土器など?  もっと古い・・・。
縄文時代?・・・・この時代のもの、たくさんありました!! ずいぶん古い時代、と思うけど、なんとこれが畑に転がっている!!
じつは、さらに古い旧石器時代の石器も、下仁田ではみつかっていますが、さすがにこれは、そこらの畑に転がっていたりはしません。

下の図で場所の確認をしてみます。



「上位段丘面」と書かれた地域に、米山(べいさん)という場所があります。ここは、国道354号線から斜面を登った高台になっていて、たどりついた見晴らしのよい平坦地は畑に利用されています。遺跡が多くみられるので「馬山(まやま)遺跡街道」などともよばれたり。(馬山という地名があります)
                                                                                      遺跡の解説パネルもあります。
春先、この畑が耕され、この頃付近を歩くと、畑の土の上に、古代の人たちの石器やら土器やらのかけらが見つかるのです。石器・土器探しの、ベストシーズンというわけです。写真のように、眺めているだけでちゃんと石器や土器のかけらが見つかるのです。
というわけで、2月7日、ジオツアーとしてこの地域の見学会が開かれました。

上の写真だけでは、ただ平らな畑があるだけの場所にしか見えませんので、家並みの見える写真を加えます。家は下の方、「下位段丘面」にたくさんあります。「上位段丘」の遺跡街道には、ネギやコンニャクの畑がみえています。
ネギやコンニャクの植えられた上位段丘。遠く低い位置に見えている家のたくさんある場所が下位段丘

下写真は、この日見つけた遺物。下仁田自然学校の名誉顧問の里見さんはこのあと、手のひらサイズに近い大きさのものを見つけていました。他にも形のいいのを見つけていらした・・きっと目が慣れていらっしゃる・・
小さくても、ほんの2cm、3cmの小さな石器のかけらに刻まれた模様などからも、時代がわかるというのです。
ちなみにこの遺跡は、縄文時代・5,000年ほど前のものになります。
 見つけた石器は、「どこで見つけたか、その場所はどんな場所だったか(畑とか)」、記録しておくことが大切になります。
 みなさんがもし見つけたら、そんなことに気をつかっていただけたら、と思います。

黒曜石の小さなかけらを見つけた人もいました。写真でポリ袋の上に置いてある小さな石がそれです。黒曜石は石器の材料としては最高ですが、この付近では産出しません。信州方面から持ち込まれたものです貴重だったのでしょうね。

ここは「上位段丘面」という地形面になります。この高台の畑ではネギやらコンニャクやらも栽培されています。ところでここには15,000年前の浅間山からの火山灰が降り積もっています。火山灰は風化して「赤土」に。浅間山の火山灰は、畑の土になって下仁田ネギを育て、品質向上に関与しているかもしれません。

  
 というわけで、15,000年前の火山灰がつもっているのだから、この平坦面は、15,000年より前にできたことはまちがいありません。高いところがどうして平らになったのか・・・平らなのは、昔、川が運んだ砂や礫がつもった面だから。川がつくった??・・・・こんな高いところに川??今の川は、ずいぶん下を流れているのに・・・「ほんとう?!どうして?」といいたくなります。 こんな
ちょっと不思議なことを、先人が調べ解き明かしてきたわけです。ちょっとした地形にも、意味や秘密があるわけです。自然の歴史がかかわっています。

ところでこの付近にはたくさんの遺跡があります。左下の地図で、丸で囲われているのが遺跡。丸だらけ。米山は地図の左下にありますね。昔の人は、こんな高台に住んでいたのかなあ・・・

下仁田自然学校では、今年度、下仁田の遺跡に関する小冊子を出版しました。詳しい話を知りたい方は、よんでみてください。1冊250円です。道の駅や下仁田のコンビニに置いてあります。下仁田自然史館、ふるさとセンター、With書店(地元の方にはわかる店の名前)にも。
観察会が終わって、集合場の旧馬山小学校跡地に帰ってきたとき、
「あれ、、、、、、」。
小学校時代の”元花壇”に、こんなものが ・・(下写真)。
 いかにも「石器」!!棒にゆわえたら、漫画に出てくる、[原始人が持つオノ」という感じ・・(大きさがちょっと小さいけど)。花壇の土を運んだとき、一緒にまぎれて運ばれたのでは?どこのものかわからないのが残念ですが。
見つけたのは、今回の案内者のひとり、考古専門家の麻生さん。この石器、もしかして、ずっと以前からここにあったかもしれない・・・誰も気づかなかった?人の「見る目」との差かなあ・・。それぞれに、たくさん何かを見て、見る目を養っていきたいものです。

 

下位段丘をのんびりと  なんだか、のどかな気分でした

多くの家が建っている場所は、下位段丘といって、上位段丘より高さの低い、川に近い段丘面になります。最初にあげた地形区分図の赤丸のうち、「馬山小学校跡地」と書かれた地域です。これも川がつくった地形。「面」ですから、平らな部分があり、それで人が住みついたわけでしょう。この付近の、川に近い場所には畑が残っていて、段丘の地形の雰囲気を感じさせてくれます。畑の縁は石垣が組まれています。写真では充分に伝えられないのですが・・・
ここにはもう、15,000年前の浅間山の火山灰は見られません。昔はこの付近にもつもっていたとしても、みんな削られて川に流されてしまいました。ですから、この地形面は、15,000年よりあとにできたといえます

        少し高くなった部分からは集落がひろがります。
    集落の中には水神様も祭られています。崖から湧き出す水を人々が利用していたわけです。


本当に川がつくった地形??と、思いますよね・・・昔ここは川原だったということになりますから。
  証拠は?

そこで、さらに下におります。最後は鏑川に下りていくわけですが、その途中には、左写真のような丸っこい石ころがたくさんはいった崖が見られます。この「丸っこい」石は、川で運ばれて丸くなった礫、昔の川原の堆積物なのです。

大地が隆起したり、何かの都合で川の浸食が強くなったりして、川がもっと低い所を流れるようになり、川原がtとり残された、ということになります。

なお、鏑川の段丘については、2013年9月24日付け高橋武夫さんの解説でこのブログの
以下のページでも解説しています。


石器等については 少しですが2014年9月4日の以下のページで、解説しています。
https://www.blogger.com/blogger.g?blogID=481530670025045050#editor/target=post;postID=1200071403339782153;onPublishedMenu=allposts;onClosedMenu=allposts;postNum=25;src=link



 

2015年2月8日日曜日

地質案内その12 内山峠の近くの地層

内山層 化石を含んだ地層 
          信州方面へ出かけたときに、ちょっと思い出してみたら・・

下仁田から長野県へ、信州へ向かうとき、今は高速道路をつかったりもしますが、国道254号線を走り内山峠(うちやまとうげ)を越えるのも、よく利用される道です。
  多くの人に馴染みのこの道周辺の地質を少し紹介してみます。
    なお、使用した図表類は、「下仁田町と周辺の地質」および下仁田自然学校作成の観察会案内プリントからです。

この道路沿いでは、周囲の山々が、紅葉のころは特に素敵。
高速道路ではよそ見できませんが、ここなら停車して眺めることもできます。
荒船山がきれいに見える場所では、この山の地質案内板もあります。以前、下仁田自然学校と下仁田町で設置しました。

周囲の山々は、妙義山と同じような岩からできています。ずいぶん昔の火山の噴出物で、火山灰と溶岩などのかけらの混じったような凝灰角礫岩や溶岩貫入してきた岩石などがみられます。古いので、変質して緑色がかったものもあります。


右の地質図で、若草色の部分がそれらの岩石の分布する地域です。地質的には本宿(もとじゅく)陥没地域となっています。
妙義山は右上、中ほどを横切る赤い線が国道254号線です。その道路の左下には荒船山、上には「屋敷の風穴」。今では、「世界遺産・荒船風穴」と呼ばれているのがこれです。

 この若草色部分は丸い感じで分布していて、かつての激しい火山噴火のあとになります。カルデラのような陥没した凹地を、火山噴出物が埋めつくしたものです。

国道254号線はクネクネとくねり、さらに進むと内山峠の内山トンネルが見えてきます。


よく見ると国道254の通る部分の左のほう、若草色の中に、 違う色の四角い部分が見えます。
下の図で、拡大してみて、その部分の話をしてみます。
ここには、道路のすぐわきで貝化石の産出する場所もあります。
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図には等高線がはいっています。でも、こういう図を見ても、立体的なイメージはなかなか浮かびませんよね。等高線を見ただけで、地形が思い浮かぶ方もいるそうです。練習するのだそうですが、すごいなあ・・以前、こういった地形図から、空をバックに見える山のスカイラインを見事に描く人をテレビで見て、本当にびっくりしました。
最近は、立体地図が開発されていて、パソコン上で立体図が見られるのだとか。だんだん一般公開もされ始めているそうです。それなら、誰でも立体図があたまに浮かびそうです。利用価値が広くて、期待されているようです。最近のこういう技術の進歩って、すごいですね。
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解説文を、観察会の案内プリントから転載します。

小屋場付近の地質

 西牧川上流域は、本宿層の凝灰角礫岩が広く分布していますが、小屋場付近には海の中の小島のように内山層や大月中生層が分布しています。
 内山層大月中生層の分布域は東西・南北とも約1.6kmで、台形をした地域です。内山層と大月中生層は断層(中央構造線にあたるようです)、内山層と本宿層は不整合の関係です。
 内山層は泥岩・砂岩からなり、塊状で層理はあまり発達していません。化石は二枚貝、巻貝、破片状の植物化石を産しますが、保存状態はよくありません。
 大月中生層は、砂岩、泥岩からなりますが、もまれていて構造はよくわかりません。

内山層と本宿層

内山層は産出する化石から下仁田層(1800万年前)と同時代の地層と考えられています。これに対して本宿層は900万年前後の堆積物です。断層でもないのに堆積時代の異なる地層がどうしてとなりあわせになるのでしょう。
 
約950万年前、本宿層の分布している地域が、小屋場付近の内山層を残して大きく陥没しました。その凹地に火山活動による火山灰や火山角礫が堆積し、凹地を埋めて行きました。この堆積物が本宿層です。
 残った内山層の周囲は高い崖となり、崖下には内山層の礫などが崩れ落ち堆積していきました。
その礫が本宿層の泥岩の礫になったのです。こうして約1800万年前の地層と900万年前の地層が隣り合うことになったのです

  (1)  1800万年前の海の中。砂や泥が堆積    (2)海底は隆起して陸になり、、陸の一部が
                           大きく陥没しました。約950万年前のことです

1                    2
                           










3)その後 、激しい火山活動が起こり、凹地はそのとき吹き出したもので埋めつくされました。900万年ほど前の話です。上の大きな地質図の若草色の部分(もう少し新しいものもあります)。 その凹地の中に、たまたま山のようになって 残っていたのが「内山層・大月層」という、古い時代の地層。内山峠近くで見えているというわけです。土台の地層が顔を出しているわけです。  
3                                                                           










こんな化石が見つかるかも。
 
 
いまは雪に閉ざされている時期、春になったら、たまには 
緑の中に出かけてみたいものです。









2015年2月1日日曜日

地質案内その11 下仁田の鍾乳洞

下仁田に鍾乳洞があるってご存知でしたか?

・・・鍾乳洞・・・・

石灰岩が水に溶かされて洞窟ができ、そこでは、ぽたぽたと滴った水で、鍾乳石や石筍などが育っている・・・そんな場所・・
山を越えて南に、上野村まで行けば、上野村には観光客に公開している鍾乳洞があります。
石灰岩体は秩父帯の地層中にポツポツとみられ、神流町の叶山は、山全体が石灰岩で、秩父セメントがこの山を採掘しています。そのうち、山が一つなくなるかも・・・
  石灰岩のある所、鍾乳洞がうまれる可能性があります。

下仁田では石灰岩はどこにある?
大規模な岩体はありませんが、
青倉石灰などの名前があがります。図の「石灰岩採石場」の所です。

石灰岩は、サンゴ礁が元になっていることが多いとか。古生代のサンゴ礁だったりで、ずいぶん古い時代のものが多いはずです。というわけで、日本列島に連なる秩父中古生層(秩父帯)には、石灰岩があちこちでみられます。

下仁田でいちばん大きい鍾乳洞は下郷(しもごう)鍾乳洞といいます。場所を見ると、
「あれ・・秩父中古生層地域でなくて、クリッペ地域にある!?」
クリッペ(根なし山)をつくる地層で思い浮かぶのは、中生代の地層、約8000万年前の跡倉層。でも、じつは他の時代の岩石もあります。クリッペの四ツ又山は分布する岩石が複雑で、跡倉層・マグマからできた約1億年前の石英閃緑岩、さらに石灰岩も見られるそうですから、この付近に石灰岩があっても、不思議はないわけです。

ここに行ったのはずいぶん前のこと。少し長めに歩いて、ちょっとした崖の上の方にある鍾乳洞の入り口までのぼり、ぞいてみました。この鍾乳洞の入り口までは斜面になっていて、そこに張られたロープにつかまったまま怖がってワイワイ大泣きしていた女の子がいたなあ。すっかり大人になっているはず。たくましくなったかな。   
                                下仁田自然学校作成の冊子より          

                     黄色く塗った部分は跡倉層、石灰岩はその上流にあります。
 

自分でとった写真がないので、堀越さんのアルバムから転載させていただきます。

壁に沿って石灰分が成長しているようですが、上から垂れ下がる鍾乳石と、下から育っていく石筍がくっついているのかもしれません。

人は、きれいな鍾乳石などみると、折り取りたくなるようです。多くの鍾乳洞で、折り取られたりしている・・・下仁田でも。
岩手県の龍泉洞に行ったとき、新しく見つかって公開し始めたという場所があって、そこでは繊細なつくりの様々な鍾乳洞生成物が見られました。きれいでした。壊されないように管理には気をつかっているのでしょう。写真撮影もダメでした。
下仁田の小さな鍾乳洞でも、かつては、きれいな鍾乳洞の生成物がもっとあったかもしれません。

南牧村のかつての砥石産地近くにも鍾乳洞があるそうです。広さ8畳ほど、高さ4~5m、いえ、もっと高いかも・・・洞窟って、ちょっと行ってみたくなりませんか。
石灰岩には、石灰岩を好む植物が育っていたりします。下仁田自然学校名誉顧問の里見哲夫さんは、何種類もの好石灰岩植物を観察しています。最近も、かなり希少なものを見つけていらっしゃいます。また、石灰岩は、古くから産業に利用されてきました。古文書にも記録がありますが、下仁田のかつての小坂鉄山の製鉄にも(日本最初の近代的製鉄所だったそうです)、富岡製糸場の漆喰にも、下仁田の石灰岩が使われています。採掘した場所が、「このあたり」としかわからなくなっているようです。
フズリナ化石の見つかるところもあります(化石はあまりたくさんはありませんが)。
里見さんは、下仁田の石灰岩の分布をちゃんと調べて、人との関わりの歴史も調べて、植物も加えて、冊子を作れないかなあ、などとおっしゃっていました。地域の自然と歴史の記録・・・・調べるの、宝探しみたいで、おもしろいかも。