2013年9月28日土曜日

岩石分類 


 岩石について 
  教科書みたいな内容ですみません。資料集のつもりで見ていただけたら・・
 

みんな「石」だけれど、でき方は千差万別 名前もいろいろ

下仁田では多種多様な岩石がみられます。川原の石の観察会も盛んにおこなわれています。

そこで少し理屈っぽくなりますが、岩石について、どうやってできたか・どのように分けるのかを述べてみます。

下仁田のどこにどんな石があるのかは、
下仁田自然学校作成の「かぶら川の石図鑑」を見ると、おおまかにわかります。

 
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宮沢賢治は子供の頃、家の人から“石っコ賢さん(石っコ賢コ)”などとよばれいたそうです。

中学1年の時の歌に,こんなのがあります。

 鬼越の山の麓の谷川に瑪瑙(めのう)のかけらひろひ来りぬ

鉱物採集や化石採集に夢中になっていたようです。休みの日ごとに気軽に山野に出かけたのでしょ 

 

中学の寄宿舎から校外のお寺に引っ越すときが大変だったとか。賢治の部屋は石だらけ。押し入れは石の標本でところ狭し。本棚の本の前も石が並ぶ。それを新聞紙に包み直したりで大変。それを一つ残らず運んだそうです。今,それらは残ってはいないそうですが。

 
そんな賢治の書く文には、だから,様々な石や鉱物の名前がちりばめられているのです。
 


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<1>岩石の大まかな分け方・・・ 大きく3グループ: 火成岩(かせいがん)堆積岩(たいせきがん)・変成岩

     火成岩 ・・・マグマが冷えて固まってできた石 
 
 
 
火成岩
 
黒っぽい    ←                     → 白っぽい
火山岩
地表や地下の浅いところで、急速に冷え固まった
玄武(げんぶ)
安山(あんざん)
(りゅう)(もん)
半深成岩
マグマが上昇途中、やや深いところで固まった
ドレライト(粗粒玄武岩)
ひん岩
石英はん岩
深成岩
地下深部でゆっくり冷えて固まった
ハンレイ岩
(せん)緑岩(りょくがん)
花こう岩
下仁田にはそれぞれの岩石がありますが、ハンレイ岩や玄武岩はわずかです

成分も冷える速度もだんだん変化しているので、石の顔つきもだんだん変わっていきます。そこをエイッと区別しようというわけですから、境目はなかなか難しい。ですから、石の名前をつけるのは難しい。
上の表から、さらにこまかく区分した名前もあります。(たとえば、デイサイトとか石英閃緑岩とか・・専門家はさらにこまかく分けています)
学問的にいえば、含まれる二酸化ケイ素という成分の量で分けられます。多いと白く,少ないと黒っぽくなります。
<番外編>

かんらん岩
地下深く、マントルにも達するのではという非常に深い場所から上がってきたのではといわれる岩石。下仁田では何ヶ所かで見つかります。どんな歴史をたどって、下仁田の地表に顔をみせたのでしょうか。
この岩石は、二酸化珪素の量が、玄武岩やはんれい岩よりさらに少ないという石で、持つとずっしりと重く感じます。 
 
②堆積岩(たいせきがん)・・・水中や地上に、さまざまなものが積もって固まってできた石
タイプ1:砕屑岩(さいせつがん)
 泥や砂、石のかけらが固まったもの
 
 

岩石名

材料

分け方・その他

泥岩


粒の直径1/16mm以下

圧力でだんだん硬くなり、

頁岩(けつがん)(シェール)、粘板岩(ねんばんがん)(スレート)と名前を変えていく

砂岩


1/162mm

 

れき岩

(れき)

粒の直径2mm 以上

含まれる礫がとがっていると、(かく)礫岩(れきがん)とよばれる
 
タイプ2:火山砕屑岩
 火山噴出物が固まったもの 
 
凝灰岩(ぎょうかいがん)
火山灰
粒子の大きさ2mm以下
角礫の大きさ・まわりを埋める火山灰との量の比の差で名付けられるので、他の名称もある。
(ぎょう)(かい)(かく)礫岩(れきがん)
角礫と火山灰
32mm以上といった、中粒の火山岩の角礫が多く含まれる
陸上に噴出し、高温で内部が溶けてくっついているのは溶結(ようけつ)凝灰岩(ぎょうかいがん)といわれる。そのほかにも、軽石を含むものが軽石質凝灰岩とよばれたりと、他の用語もある。
 火山灰の粒経・角礫の大きさなどには、いくつかの定義があるようで、違った数値も見られます

タイプ3:生物岩  他
  生物からできた石 その他
 

生物岩

石灰岩

生物遺体

サンゴ・有孔虫など

化学的に沈殿したものもある

チャート

生物遺体

放散虫など

化学岩

主に化学的過程で水溶液から沈殿して形成されるもの。岩塩や石膏は海水や塩湖の水が蒸発してできる(蒸発岩)。他に、石灰岩・チャート・苦灰岩などある。
 
下仁田では岩塩以外ならみられます。石膏は岩石の割れ目・すきまを埋める程度のものならみつかります。
この場合の石膏の成因は海水の蒸発とは関係ないものです。
 
変成岩・・熱や圧力で、岩石が個体のまま変化したもの。新しい鉱物が生じている。 
 
 

 

岩石名

材料

でき方

広域変成岩

結晶片岩

さまざまな岩石

低温高圧型。地下深く押し込まれ、温度は低いながらも高い圧力を受けて、もとの岩石が個体のまま変化してできた。幅数十km、長さ数百km以上の範囲が8,000気圧といった高圧に数百万年以上おかれたと推定される。地下温度200800℃ほどの温度の低温部分で生じる。ですから低温といっても,200℃以上の温度。

(へん)麻岩(まがん)

高温低圧型。地下の温度の高温部分、約600℃以上で生じるという。粗粒でしま構造が見られる。

接触変成岩

結晶質石灰岩(大理石)

石灰岩

高温のマグマが上昇してきたとき、周囲はやけどして変化した岩石ができ、これも変成岩といわれる。かこう岩体のまわり数十m~数kmに分布するなど、狭い範囲でみられる。(マグマは8001300℃で入りこんできて、ゆっくり冷え固まりながら、数万年や数十万年間、熱さが保たれるといわれる)

ホルンフェルス

泥岩・砂岩

その他
     下仁田で見られるのは結晶片岩とホルンフェルス


どこかで聞いたことのある名前、あったでしょうか。
たくさんの石の名前が出てくると、とても難しく感じるものですが、上の表のどこの仲間かな、と考えると、わかってきそうな気がします。温度とかの数字は、本などに書いてあったものです。資料によっては違った数値もあるかもしれません。悪しからず。詳しい方、ぜひ教えてください。

では、次回からそれぞれの岩石について書きます。
分類順ではなく、よく目立つものとか,書きやすいものとか、つまり,私の気の向いたものの順で書いていきます。

2013年9月24日火曜日

河岸段丘

本文に入る前に、ひとこと

 下仁田にも田んぼがある,田んぼだったところがある,という話をうかがいました。
日本人は何とかして田んぼを,米を作ろうとしてきたのだなあ・・・
 玉村町は田んぼが広がり、その中に、ちょっとした盛り上がり程度の小さな古墳が点々と見られる場所でした。私が中学生の頃,大規模な耕地整理がおこなわれ、古墳は多少大きめの2つを残し,すべて消滅しました。発掘調査がおこなわれ、学校内での授業はやめにして、見学に行きました。そんな古墳から、三角縁神獣鏡が見つかり、出土したばかりの鏡を見せてもらいました。
 今の田んぼは休耕田があちこちに広がります。農家の方が言っていました。「耕地整理には分担金があって、相当額払ったのですよ。それがなければずいぶん楽なのに,と思ったものですよ」。
考古に関係している方は「古墳が残っていたら、それを巡る古墳の里公園なんてつくれたかも」
 あちこちから怨嗟の声が聞こえてきそうです。

では、今回は,教科書にも必ず出てくる 河岸段丘 についてです。


地形⑤

鏑川に沿って平らな場所が続いています。昔から人が利用し、家もたくさん見られます。この地形は河岸段丘とよばれ、川がつくった地形です。
鏑川周辺の段丘地形を長年調べてこられた高橋武夫さん(下仁田自然学校運営顧問)に、段丘について解説を書いていただきました。ちょっと写真を足して,お読みいただきたいと思います。

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   鏑川がつくった河岸段丘               高橋武夫

 
西牧川と南牧川が合流した鏑川が白山をすぎると、川の両岸は広がり、南の高台にも平坦な地形が展開してきます。ここは鏑川河岸段丘の最上部です。ここから、下流へ20数kmほどの地区に連続して、上二段の河岸段丘が見られます。
 
河岸段丘は川の両岸に発達するのが普通ですが、鏑川では川の南側の地域にその多くが広がり、さらに上位段丘は、全て南の地域にあります。めずらしい段丘地形で、このような段丘を非対称段丘とよびます。

        鏑川下流部の段丘    群馬の大地 より    
             この図の原図は高橋武夫さんです 
   


段丘面の地面の下にあるもの

河岸段丘地形は川が流れてできた川原の跡です。だから段丘面の下には必ず川原の砂礫が残っています(段丘面の下に隠されている砂礫層。厚さが2~3mほどある)。その石を調べるとそこを流れていた川がどこから流れてきたのかが分かります。石の種類は安山岩・チャート・結晶片岩がほとんどです。これは今の鏑川の礫の様子とそっくりです。

段丘面の上を,昔の鏑川が流れていたのはいつ頃?

上位段丘面では赤土が表土になっていますが、下位段丘面には赤土がありません。赤土はおよそ15,000年ほど前に噴火した浅間山の火山灰ですが、下位段丘面に赤土がないということは、下位段丘が浅間山の噴火の後にできたことを教えてくれます。
 


上の写真は下仁田の下位段丘
なんということもない,平らで家が建っている、普通の町の光景です。国道254号線が通っている、家がたくさんある場所です。

下は上位段丘。
斜面を登っていくと、平らな土地に着きます。この高台の平らな土地に、ネギとコンニャクの畑が広がっています。馬山(まやま)丘陵とよばれています。
遠方に家並みが広がっています。標高は低く、これが下位段丘ということになります。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
下仁田付近の段丘の区分図を高橋さんに描いていただきました。

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 ・上位段丘面は火山灰(やがて赤土になる)の降り積もるより前、15,000年より前にはできていたことがわかります。

・下位段丘には赤土がありません。昔の鏑川が火山灰を流してしまったからです。下位段丘は15,000年より後にできたことがわかります。

どうして川の南側にばかり段丘が発達するの?
  

鏑川は東に向けて流れ下っていますが、同時に、川全体が北に移動していて、
北側の川岸は少しずつ削られているから。これは今でも進行中のようです。

「関東山地の北側に、上下二段の河岸段丘をつくりながら北へ移動してきた鏑川は,現在もゆっくりとその流れを北へ移しているようです」(”ぐんまの大地”より  高橋武夫)
   (この内容は”かぶら川の石図鑑”に詳しく書かれてあります)
どうして移動するのか・・それは鏑川の南の地域が常に上昇しているからと考えられます。南にある山々も少しずつ上昇しているのかもしれない,などと考えると、ワクワクしてきます。