2014年2月23日日曜日

大地の大きな構造 その1 くりっペ


    クリッペ(根なし山)

下仁田の地質案内といえば、もう、第一にあげられるのがこれ ・・・・・「根なし山」・・・・
   下仁田ジオパークの「目玉」でしょうか。

とはいえ、「きれいな花」のように、「見ればだれもがイイナと感じる」というものではないところが、観光資源というには、相当の工夫を求められそう・・・ 
  頭の中で想像力をはたらかせると、やっと「すごいことだなあ・・・・」と・・・。
というわけで、少し解説をします。    (なお、図はことわりのあるもの以外すべて下仁田自然学校作成)



  青岩公園の岩の上に立って周囲を見渡した時、川の南側にポコポコといくつも見られる小さな山々の起伏は、じつは多くが根なし山です。
  雨もようの日、この山々に霧がかかり、墨絵の世界のような幽玄な姿がみられました。下仁田町役場から見た景色でした。写真に撮っておけばよかった・・・今頃思っているところです 。
  北側にも同じような高さの小さな山々がありますが,これは根なし山ではありません。まったく違った誕生のドラマを語る山々なのです。
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 下仁田ではどこか別の場所からやってきた岩体(黄色の部分)が、青岩の石(緑色片岩)や秩父帯の岩石の上に乗っています。 下の図のイメージです。


の下仁田の南方向から町のほうを見た図
 青色でぬった下の地層との境目は断層(赤い線)で、これを境に,黄色い部分が、どこからか動いてきたことになります。
 この断層部分を「すべり面」などとも言っています。ツルッと簡単に滑ってきたわけじゃないでしょうが・・・・

下仁田自然史館の入り口すぐ近くのジオサイト・有名な青倉の断層は、この低角断層を見ていることになります。下の写真です。


この写真で、人の頭の上付近、左から右上方向に走っている割れ目のように見えるところが,低角断層です。
              写真:下仁田自然史館



クリッペの山々

下仁田市街地の南にはクリッペの山々が連なっています。
下図は北から南方向を見た図で、薄い黄色の部分がクリッペ群です。

これがいったい、どこからやってきたか・・・・わかっていないのです。

下図の赤い線は中央構造線です。大断層ですが、クリッペをのせている断層とは別のものです(上図と同じ赤い線で書いてありますが、違うものです)。     
              下仁田自然誌館は大崩山の右下付近です。

たまには、クリッペが削りとられて穴があいたようになり、断層の下の石が顔をのぞかせることがあります
  (左図)。
この現象が下仁田自然史館のすぐわきでも見られます。青倉川の川に沿って、クリッペを作る砂岩層の下に、下の地層、左図の緑色で示した緑色片岩がちらっと見えています。
こんな現象を、フェンスターといいます。(最近はウィンドウとよぶことが多いようです)
このフェンスターの場所で、ぼんやり川沿いの石を見ただけでは、「違う石があるなあ」という程度にしか感じませんが、きちんと説明を聞くと、「ヘエー、そうだったんだ」と思えるものです。

クリッペといい、フェンスター(ウィンドウ)といい、丹念に山を歩いて地質調査をして、はじめてわかるものです。交通事情の悪い時代、こうした場所をじつに丹念に歩かれ詳しく記録された先人の苦労がしのばれます。
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下仁田のクリッペを最初に見つけたのは藤本治義氏で、1942年に講演会で発表しています。「跡倉おしかぶせ」とよんでいたようです。戦中戦後の印刷事情のため、印刷公表は1953年になりましたが。


ところで、下仁田には古くから地質案内の看板が立てられていたということです。写真に残っています。この写真がいつ撮られたのかははっきりしませんが、下仁田自然学校運営顧問の細矢さんは、1953年にはこの案内板を見ているそうです。

ジオパーク認定には、地域の自然の解説板のあることも条件になっています。下仁田は、はるか昔からそんな取り組みがされていた地域だったわけです。
  なお、この古い案内板は現存しません。

     解説文を読むと、跡倉層が「青倉礫岩層」になっています。間違いなのか,当時はそう       言っていたのか?  つくったのは「下仁田観光協会」とありますね。
            
     写真は みやま文庫 1967年 自然の歴史 より


現在の解説板


現在、下仁田ジオパーク地域には10基の立派なつくりの地質解説板があります。2000年~2001年に、県の補助金などをうけ、下仁田町と
下仁田自然学校が協力してつくりました。地質見学に来た地質に関心を持つ人、学生の方々に役立つように、という目的でした。
まだ、ジオパークといったものは、提唱さえされていない頃の話でした。

ジオパークの活動に伴い、解説内容をより幅広い人向けの内容に変更することになり、現在、ジオパーク推進室により取り組まれています。


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クリッぺをつくる岩石

クリッペをつくる岩石で一番多いのは跡倉層の泥岩・砂岩・礫岩です。下図の黄緑部分になります。
ほかに、古い時代の石英閃緑岩(赤・オレンジ部分)と、石英閃緑岩が入り込んだ時に周囲の泥岩が熱で変化してできたホルンフェルス(紫部分)があります。


下仁田町から南方向に見えるクリッペのスケッチ   色の付いたところがクリッペ



それにしても、こんな岩のかたまりが,どこからかズリ動いてくるというのは、想像をこえます。
どんな力がはたらいたのか?どれくらいの時間をかけて動いていたのか?
地球にはたらく力・・・・簡単に想像できるものではないですね。


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ところで、別の場所から動いてきた地層・岩石のかたまりが、一つ一つの山になっている場合をクリッペとよびますが、大きな塊状ではナップ(デッケ)とよびます。(デッケはドイツ語、ナップは英語かなあ・・)。専門家の話にはしばしば出てきますので、ちょっと解説を。こういう用語名は,解説してもらわないと何のことかわかりませんので。高校地学教科書の図をのせてみます。

下の図のaのようにぐっと曲がった地層が、さらに押されて一部が切れ、別の場所まで動いて行ってしまう(bのように)・・・動いていった境目は断層として残されます。
  この図では断層の上と下の地層が同じ種類のもので描かれていますが、下仁田では断層
  の上は跡倉層の砂岩や泥岩、下は青岩の石(緑色片岩)で、まったく異なる岩石にな
  っています。
右の図の「衝上断層(しょうじょうだんそう)」が、クリッペをのせている低角断層にあたります。
                                        図: 第一学習社・高校地学教科書より


衝上断層の上の部分のことをナップとよびます。ナップは遠くからやってきた岩のかたまりかもしれない・・・・。こんな構造を,このブログに前回のせた図では 「押し被かぶせ構造」とよんでいました。藤本治義さんが使った言葉がこれです。


このナップが削られ、ポコポコと別々の山の形になったものをクリッペとよびます。

                                       
他の場所にも,ナップ・クリッペはあるの?

下の図の黄色い部分はクリッペ・ナップです。埼玉県小川町のほうまであるんだ・・
こんな中で、下仁田のクリッペは日本の地質100選に選ばれています。
どんな地層でできているのでしょうか。
神流湖のわきにある神山クリッペは跡倉層からできています.
小川町には石英閃緑岩が分布し、石英閃緑岩の研究をしている方は、下仁田のものと岩石学的特徴が一致すると述べています。ホルンフェルスも分布します。
下仁田だけでなく,もっと広い範囲での出来事が想像されてきます。







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ナップのような構造は,じつはヨーロッパアルプスなどで大規模に見られるといいます。そういった図を載せますので,ご参考に。ナップという言葉で説明されています。
  見ただけではあまりよくわかりませんが、雰囲気を感じられるかも。
第一学習社 地学教科書より

次の図もヨーロッパアルプスの構造。アルプスの山々は、とにかく、たくさんの褶曲と断層の組み合わせで、できている!

          東京書籍地学教科書より

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関東地方に2月14日金曜日から15日にかけてから降り続いた雪、大変な被害!!
  当日家に帰れなかったり,車を放置せざるを得なくなったり、雪道を長時間歩いたり・・・

下仁田も麻痺状態だったようです。孤立世帯も・・・。「あそこの集落はどうかな・・・」と、地質見学で訪れた場所が頭に浮かぶ・・平原(へばら)、七久保・・・・
学校は授業ができず、再開は24日月曜日からだそうです。

春の花のシーズンに,何となくドライブした場所も思いおこされます。三波川結晶片岩の地域を流れる鮎川に沿って、なにやら上る道があるので行って見たら,相当登った上に、手入れのされたハナモモなどが美しく咲き乱れる集落があり、びっくりしました。奈良山といいました。周囲の山々をみわたせ、気分もよくなる・・・でも、毎日の卵や牛乳はどうするのか、とか思ってしまう・・・あそこも孤立しているのでは・・さらに進むと、「名無村」などと言う集落があったり・・(この文字を見て,びっくりしました。「ななしむら」ではなく、「ななむら」と読むそうです。ちゃんと2万五千分の1の地図に載っています)。家があったかなあ、と、記憶が薄れているのですが、名前からして辺境の地で、いかにも孤立しそう・・
他にも、春には花の咲き誇る、山奥の桃源郷の趣の集落が思い浮かびます・・どこも、雪に閉じ込められたのでは・・・


ビニールハウスの被害は,本当に痛ましい・・農業をおこなっている方には高齢の方も多く、野菜作りをやめると言っている方がたくさんいると聞きます。ビニールハウスを再建するには相当高額の資金が必要なのです・・・つぶれたハウスのパイプて撤去だけでも、手に余るほどの作業です。規模の大きなハウスは,かなりの借金をしての建設だったことでしょう。
下は、玉村町の農業用ハウスの様子です。

バラのハウス・相当高額の投資をされているはずです
被害に遭われた皆様の、少しでも重荷の軽減がなされることを願ってやみません。


つぶれたハウスの下にはイチゴが・


キュウリが凍っています


雪国からしたら,普通にある程度の雪・・・でも、備えがないということは、こんなことになるわけです・・・


毎日を安全快適に過ごしているのは、きちんとしたシステムと多くの人の力のおかげと、つくづく思った雪の被害でした。





2014年2月16日日曜日

褶曲 ・ずれ礫


大雪   家に帰れない・・ 日曜日は総出で雪かき・・・みなさん、いかがでしたか

普段あまり雪のない地域の大雪・・・・・関東は、もう,麻痺状態。
群馬県も麻痺、というと、「エッ,群馬って普段から雪がいっぱいなんじゃないの」という人もいることでしょう。上越県境近くのイメージがあるかもしれませんが、平野部は、雪はほとんどなしなのです。「かかあ殿下と空っ風」の県ですから。
  前橋の積雪73cm!・・・1896年に観測はじめて以来の最高値、しかも2番は37cmなのです。

「この程度の雪、普通じゃないか」と、雪国の方から言われそう
こんなの札幌に住んでいたときは、当たり前の光景でしたが・・
玉村町での光景です
近所でも、車を乗り捨てて7時間かかって歩いて帰ってきたとか、たった8㎞ほどの距離を車で5時間かかって帰り着いた方、動かなくなったJR高崎線の駅から2時間かかって歩いて帰り着いた人・・・・道には車がのりすてて・・・・もちろん新聞も配達できない・・
 スチール製のカーポートがずいぶん壊れていて、近所の住宅団地でも8件みましたし、ベランダがこわれていたり・・・次の日、スーパーマーケットではパンなどの棚はすっかりカラ・・・
 皆さんの周りではいかがだったでしょう。
テレビのニュースではいろいろ大変な様子が・・・下仁田のとなり、南牧村は、陸の孤島になって停電で、と、報じられていました。

天気予報が本当によく当たるようになって、いつも「すごいなあ」と感心しているのですが、自然の力のすごさには謙虚にならねばと思う次第です。それにしても、世界中で自然災害が増えているというのは気になります。

<3>
地層の褶曲
  岩石なのにどうしてアメのように曲がれるの?
 
鉄の棒も、長い間にはぐんにゃりまがったりします。ながーい時間力をかけ続ければ、鉄はもちろん、岩石も変形してまがることができるはず・・・・
この説明、ほとんど小学校低学年の子供の絵本の世界だなあ・・・・と思いつつ書いています。
     温度が高めなら曲がりやすいのか、地下での圧力のかかりかたはどんなのか・・・
    もっといい説明が書けるようになりたいのですが・・・難しそう

 曲がった地層は「褶曲している」といいます。
力が加わった時、曲がるだけではなく、岩石が破壊されてしまうことももちろんあります。このときは地震が起こり、断層ができます。

大桑原の褶曲                          写真 関谷友彦さん
大桑原でみられる褶曲した地層です。8000万年ほど昔に海に堆積した跡倉層とよばれる地層。曲がりすぎて横倒し」という感じですね。
    地層には砂泥の粒の大きさがだんだんかわっていくグレーディングがみられて、どっちが
    地層の上位かわかります。川の水をじゃぶじゃぶ渡らないとみられないけれど。

 下に教科書でよく見るような褶曲の形の説明をのせます。どれに一番近い?
   褶曲の構造にはいろいろな用語があってわからなくなりそうですが(例えば,大桑原の褶曲は
   シンフォーム状背斜とか・・・)、まず下の図のイメージを思い浮かべたらいかがでしょう。
                                地学図表 浜島書店より
下仁田駅から西に、大崩山(おおぐいやま)・川井山という小さな山がみられます。これらは、どこからか横すべりしてきた岩のかたまり、クリッペとして知られています。その周辺一帯も横滑りしてきた地層で、少し西に行った宮室では、すっかりひっくりかえった砂と泥の地層がみられます。そこに行く途中でこの褶曲がみられます。大崩山も中腹より上部はこの跡倉層で、跡倉層は,ずいぶん変動にさらされてきたのだなあ・・・と思えます。写真のように大きく褶曲していると、大きな力が働いたんだ、どんな大事件があったのだろうと、誰でも素直に感じられます。

                                  地学日曜散歩 1971年 より 一部改変

褶曲には、小さいのから大きいのまで、いろいろあります。山そのものが褶曲の一部という、大規模なときもあります。
    
 岩石の中に見られるこんな曲がりの模様も、褶曲といっています。

上はスティルプノメレンという鉱物を含む長瀞の結晶片岩。
この岩は虎岩とよばれていて、宮沢賢治が歌に詠んでいることでも知られています。


下は近所のお寺で見かけた石です。緑色岩やチャートでしょうか。




















<4>その他
     ずれ礫
      
下仁田では、「切れてずれて、お皿に盛ったお刺身のようにみえる礫」が見られます。
礫に何本も平行にひび割れがはいり、割れ目に沿ってずれています。

割れ目というより「断層の動いた力を受けて,切れている」、 といった方がいいかな・・
こんなに割れているのだから、取り出したら、ぼろぼろと崩れるかと思えば、まったくそんなことなし。硬くしっかりくっついています。


この礫を含む地層は神農原(かのはら礫岩とよばれ、ねこし峡でよく見られます。市街地裏山の浅間山(せんげんやま中腹にも。神農原礫岩は、さらに鏑川下流の神農原へと 分布しています。
   礫は花こう岩の仲間の石(石英はん岩)が大部分で、赤みがかった長石が目立つ石です。
   この礫にたくさんのひび割れがはいり、時には写真のようにずれているものがあるのです。
   こんな、切れたような礫、めったに見られるものじゃない・・・ぜひご覧あれ。



  
ずれた礫がたくさん見られるのは、はねこし峡や石淵橋、浅間山付近、あるいは鬼ヶ沢にある
かつての鉄道鉄橋付近などで、鏑川の下流へ少し離れた神農原などではあまりみられなくなるそう
です。

この石は8500万年ほど前に形成されたものらしいのですが、その後礫になり,礫岩のもとになりまし
た。でも、神農原礫岩がいつ堆積したかはわかっていません。2000万年前に堆積した地層に覆わ
れていますから、8500万年よりあとで、2000万年より前に堆積したことだけはわかります。
 

こんな礫、めったに見られるものじゃない  
  ほかのどこに行ったら,こんな礫が見られるでしょうか  

他の地域での「ずれ礫」の見られる所を調べて、水落幸広さん、棚瀬充史さんが下仁田自然学校の連絡誌クリッペに紹介してくれました(2008年)。

「ずれ礫(くいちがい礫)」の見られるところ
      これで見ても、 どこにでもあるというものではなさそう・・・という感じがします。
    愛知県北東部巣山 阿寺七滝礫層の「くいちがい礫」 (中央構造線沿いです)
    山梨県南巨摩郡早川町  (南部フォッサマグナ)
    福井県敦賀 矢良巣岳頂上付近の礫岩中のチャート  (飛騨外縁帯)
    襟裳岬 歌露礫層   (日高西縁)
    断層帯の中で礫が食い違っている例
  神奈川県神縄断層
  国府津―松田断層
  新潟県糸魚川市小滝
やっぱり、”断層関連”という感じがしてきます。

どうやってできた??
・・・中央構造線の近くにあるから、そのパワーが関係しているのかも・・・
究極のパワーストーン!?
 より強い力なら、砕けたりすりつぶされたりしてしまうはず。
    ちょうどうまい具合に力がかかったのか・・・

      上にあげた水落さん、棚瀬さん、ずれ礫を切って,その断面のスケッチを解説してくれました。たくさんの割れ目がみられます。
     ②の割れ目だけでなく、①の方向の割れ目もあります。②には右上に伸びる割れ目群が発達。これは②に伴うもので、左ずれで形成・・・これって、羽状割れ目の時解説した、ミ型とか杉型とかといった割れ目を思い出させる話です。
     顕微鏡でみて、含まれる鉱物の変形のようすも語られています。

下仁田自然学校の運営委員の中島啓治さんがこのずれ礫を岩石カッターで切って断面を出して磨いてくれました。断面では割れ目がしっかりくっついていて、ちょっと見た目には、どこにずれの割れ目があるのかわからないほど・・・ほとんど普通の石に見えて、写真をとるのも忘れてました。
自然史館に展示してありますので、ごらんになりませんか。

切れた方向・ずれの方向に規則性は、と調べ、報告された方々もいます。小坂共栄さんたちで、3タイプの断裂があるということです。
多くの人たちを引きつけるずれ礫、とはいえ調べるのはなかなか難しい話です。
下仁田では町の真ん中を通って東西方向に大断層(中央構造線)が通っています。
この断層に近い場所にずれ礫が多い感じがしますが、どうなのでしょうか。


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前回、洗濯機の話をちょっと書きました。
ほんの一時期、ちょっと変わった洗濯道具がありました。幼い頃の記憶にあります。丸い入れ物をグルグルまわしていたような記憶が。蓋を開けると、パンッといったとかも。ご存知のかた、いらっしゃるでしょうか。
それの記事が新聞に載っていたことがあって、「そうだ、兄やおじさんに見せてあげよう」と,とっておきました。ところがどこかに紛れてしまい・・・それが最近出てきました。あらためて読んでみました。
 こんなふうにいろいろ工夫し頑張る人が近くにいたんだ、という気分でした。何だかうれしいです。
たくさんの人の努力と工夫で今があるのだな,と思いました。



2014年2月9日日曜日

地層に見られる模様 その4  地層中の丸い塊は何?

    地層中の丸い塊は何?

時々、砂や泥などの地層の中に、丸い塊が見られることがあります。
「そんなの礫(丸い石)が転がり込んだので、何の不思議もない」と思うかもしれません。
でも、よく考えると変です。丸い石が転がり込む場所(それなり強い水の流れのある場所)に、一緒に細かな砂や泥がたまるでしょうか・・・・・泥や細かい砂の地層の中に石ころがぽつぽつと混じるというのは、少しおかしい・・・
じつは、丸い石ころと見えるものは、小石ではなかったのです。
下の写真をご覧ください。真ん中付近にある数個の丸いものが、ノジュールと呼ばれるかたまりです。


秩父31番札所  ラミナの目立つ砂岩層の中にノジュールが見られる

<タイプ1> 
ノジュール(結核・コンクリーション・団塊などともよぶ)

もともとはなかったのに、時間がたつにつれて地層中にできた塊
中に化石が見つかることがあり、化石採集をする人にはよく知られています。
水上町合瀬(かっせ)でみられたノジュール
火山灰質の地層の中に丸い塊がたくさんありました

石灰分が集まって
きた固い塊で
丸い球状のものが
印象的。
でも他の形のものも
あるといいます。
大きさもさまざま

集まる化学成分には他にもいろいろあるといいます。石灰分のものが目に触れることが多いような気がしますが。
他には、鉄分,ケイ酸分、そういえば深海にはマンガンノジュールというのが転がっているとか。これをさらって集めれば、マンガンを採掘できそうですが、なにぶん深い海の底の話、簡単に実現するわけはない・・
泥が舞い上がって環境問題にもなるでしょうし。


 <下仁田で見られたもの>
西牧川岸 下仁田層で化石採集して
いたら、小さな丸っこい玉が転がり出てきました  
下仁田でみつけたノジュール 


<タイプ2> 
 火山豆石(まめいし)
 
火山噴火が関係して、火山灰の丸い塊ができることがあります。
    例は少なめ。大きさもそれほど大きくなりません。

下仁田周辺では、2カ所で見つかっています。
①富岡の丘陵で 富岡層群の中に見られます
②本宿地域で 本宿層中にみられます



どうやってできたの?
火山噴火の噴煙の中で、気流の乱高下で火山灰が集まるといわれます。積乱雲の中で(ひょう)ができる仕組みが連想されます。あるいは、積もった火山灰の中に雨水滴が落ちてできたのではとも言われるようです。ちゃんとわかっていないのかなあ・・・

というわけで、今でも火山噴火の時、丸い粒ができることがあるはず。それが地層中にうずもれて、さらに私たちの目に触れるということは、どちらかというと、まれなことのように思えます。激しい火山活動があったのだろうな、と、想像はされますが。
本宿層の火山豆石

















<タイプ3>
 風化でできる丸い形


大桁山の登山道に,丸いかたまりが転がっていました。












安山岩が風化して,こんなふうになりました。そういえば以前、大桁山で拾った楕円形の塊が、まるで恐竜の卵のようにみえて、みんなでおもしろがったことがあったなあ・・
雨風にさらされているうちに、こうして風化して砕けていくわけです。
タマネギの皮をむくように丸くむけて砕けていくものを玉ねぎ状風化と呼んでいます。砂岩や泥岩にしばしば見られますが、写真が手元になかった・・・残念!何度も見たことある気がするのですけど・・・なかなかおもしろい形になるので、ネット検索で写真をみていただけたら・・・・写真がたくさん載っています。

富岡層群の牛伏砂岩層、縦横斜めに割れ目(節理)が入っている

タマネギのように風化する仕組みの解説ものっていました。それで、少し解説を。
左の写真のように、節理の入った地層では、この割れ目に沿って雨水、地下水がはいりこみ、岩石は粘土化し軟らかくなっていく。さらに熱・凍結・乾燥などで膨張収縮をくりかえし、剥離していく・・・こんな繰り返しでタマネギ状風化ができていくようです。





  岩石はやがて砕けて、砂や泥になっていきます。

ついでなので他の風化の様子をのせます


泥岩の風化の様子です。
泥岩はこまかく割れていきます。
 
写真はみなかみ町湯宿の川原ですが、
こういった風化は、普通にどこでも観察できます。


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先日、下仁田で写真のような実をもらいました。丸くふくれ少し透き通った感じの飴色のもの。
落ちているのを見ると拾いたくなる!!

割ると中から真っ黒い種が転がりでます・・・ご存知の方もいらっしゃるかと(でも知っている人
は少ないかも)。ムクロジの実です。
これをいただいた数日後、近所の方からもいただきました。神社に節分の行事で出かけ、落
ちていたのを拾ってきたとか。しかも物知りの年配の方に、この実についての話を、いろいろと
教わってきたそうです。 


 この実を見つけるなら、神社かお寺に行くにかぎります。もともと日本には自生していないもので、こんな場所にしばしば植えてあるので。

   黒い種に鳥の羽をさして、羽子板でつく正月の遊び、「はねつき」の羽根にしました。もっとも、最近は、はねつきって何?といわれそう。 

泡がたつかな・・・

   


もうひとつ、この実の利用価値は、かつてこの実を
石けんとして利用したという話。サポニンという成分を含みます。


子供の頃に、泡がたつか、などと実をつぶして遊んだことが,
記憶の底から転がり出てきました。あれはムクロジだった
のか、エゴノキだったのか。・・・ネットで見ると、ムクロジが
オーガニック材料として販売までされている!水に入れて
みたけれど、洗濯するまでいきそうもないなあ・・・
今の洗剤のありがたさを思っています。

戦争当時だったか戦後すぐのころだったか、石けんが手に
入らなくなり、入手できたときは本当にありがたかったと,
父が言っていたのを思い出します。

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今では、洗濯機にぽんと汚れ物を入れれば、きれいになって、すすぎ、脱水までしてくれる。
でも、これ、人類の歴史から見ると、本当に最近のこと。
今88歳の方の言っていた言葉が忘れられません。
「電気洗濯機を発明してくれた人にはノーベル賞をあげたいと思った」。
小学校の先生をしながら三人の子供を育てたこの方には、洗濯の負担は、そうとうのもの
だったでしょう。私の母は、私のおむつを手洗いで洗ってくれたのだと、あらためて感謝したもの
です。ゴム手袋もない時代、農家の主婦は朝早くから井戸水で手を赤くしながら洗濯したはずで
す。
地下水温はほぼその地域の平均気温ですから、玉村あたりなら15℃程度。冬暖かく夏冷たく感
じるとはいえ、それで水仕事をするのは楽ではありません。

だいぶ昔、石けんについてしらべたことがありました。子供向け本に載っていた記述に仰天しま
した。2000年ほど前のこと、ローマでは腐らせた尿を洗濯に使った、と。街角に桶を置き
通行人の尿を集めるのが洗濯屋の権利。この尿を腐らせ、尿からできるアンモニアが汚れを
落とすというのです。尿、さらにアンモニア・・少しでも理科を勉強した人なら、あの強烈な刺激
臭を思い出して、信じがたい思いをが強まるわけ。アルカリが汚れを分解してくれるわけなのですが・・・

中世ヨーロッパでは、服はたびたび洗濯できないような重いもので、あまり洗濯もしなかった
 ようです。ノミ・シラミも多い・・・(でも,私の子供の頃には、まだノミがいました。シラミは見たこと
ありませんけど)。日本の衣服事情はどうだったのかなあ・・・
16世紀になって、毛織物工業が栄えた時代、石けんは織物の仕上げに使われるために盛んに
作られるようになったそうですが、洗濯になんて使われたのかどうか・・・
 昔は石けんというのは貴重品で、ほとんど洗濯にはつかわれず、洗濯には灰や白土という土
などが利用されていたようです。洗濯は川へ行って踏み洗い、棒でつつくなど・・・。大きな鍋で煮
ている映像も見たことがありますが、ごく最近まで今こんなことがおこなわれていたということでし
ょうか。殺菌消毒したということなのでしょう。
18世紀から19世紀、産業革命の頃は「洗濯女」という職業もふえ、下層階級の仕事とされてい
たと思います。朝から晩まで,汚れ物と格闘していた重労働・・・
猫は自分の体をきれいになめています。人間は,衣類を着ので、誰かが衣類をきれいにしな
ければならない生き物になっている・・・

歴史のかなたの話と思われそうなので、今の話を。
ユニセフで手洗いキャンペーンを進めているニュースを見ました。学校で手を洗うことを教え、
子供を通して,親、地域にも手洗い習慣を広める・・石けんで手を洗うだけで、病気を減らせる,
子供の死亡率を減らせる・・・・中世の衛生状態を「昔はなんとまあ・・・」などと言っている場合
じゃないわけ。
世界では三人に一人がトイレのない生活をしている,11億人は屋外排泄していると言うので
。ちょっと信じられない数字。
子供の死亡原因の上位に、「下痢」があります。これ、きれいな水とせっけんによる手洗いで相当減らせるものなのです。

日本人はきれい好きといわれますが、ムクロジもそんな生活に貢献してきたかも。
今の日本ではやたらと衛生関連のグッズがありますが、まだ石けんの使用を広めねばならない地域がたくさんあることも知るべきと思いました。

公衆衛生の発展のおかげで、どんなに多くの命が救われたことか。石けんはそれに多大に貢献というわけで、今の日本の衛生的環境には感謝です。
かつてはムクロジにも,もしかしたら,感謝していた人たちがいたのかもしれません。