2016年11月30日水曜日

兜岩昆虫化石+ 八ッ場ダム本体工事の今

 
丹念に集められた昆虫化石  下仁田自然史館に展示してあります


虫化石って、めったに見つかりませんよね。全国でも、見つかる場所はそれほどたくさんは無いはず。すぐにバラバラになってしまう昆虫、しかも空を飛び回る昆虫が地層の中にうずもれるチャンスは少ないでしょう。
 下仁田地域では、繊細な昆虫化石が見つかっています。

下仁田の西部地域には、かつて湖が広がっていた時代があり、そこには植物の葉や昆虫が化石となって保存されました。

 「かつて」っていつ?  
800万年前ころと言われますが、350万年前という見解も出ています。なかなか難しい話なのですね。とにかく、人類がやっと地球上に姿を見せたか見せないか、人類?サル?などと迷ったりするような頃、地球の歴史からみたら「最近」ですが、人類の歴史から見たら、はるか昔の話です。

この化石は下仁田自然史館に展示してあります。小さな化石たちですが、こちらにいらしたときには、ぜひご覧ください。展示しきれない分は収蔵してあります。
詳しい分類、種名等は現在同定作業が進んでいて、かなりの部分、記録されてきています。
 写真で一部を紹介します。スケールが入っていませんが、どれも小さな昆虫たちです。
もっとちゃんとしたきれいな写真が撮られ記録保存に使用されています。その一部が展示されています。 
    なお、兜岩化石の詳細については以前にこのブログに載せました。
                http://geoharumi.blogspot.jp/2014/04/blog-post_20.html

                                                                                            
 
ガラスケースに並んでいます

 
小さな化石なので、これはと思うものを写真で拡大






クモ?






 どれもきれいにクリーニング・整形されています。この化石を採集し、クリーニングし、箱に収めたのは、茂木伊一 氏です。昆虫の名前等は、昨年からの同定作業で調べられていると思いますが、ここには載せていません。

これら化石のリストが完成したら、きちんと発表することになります。
これだけの化石が集まっているのは素晴らしいですね。
 

シダ
植物化石も収蔵されています。植物のほうがたくさん見つかります。
茂木さんは、特に昆虫を集めようとされたということです。
この地層はカエルの化石が見つかったことでも知られています。
 
植物についても、同定が進められています。下仁田自然学校の堀越武男さんの標本も多数あり、ご自身も同定を進められています。
こういったことに詳しい方、興味お持ちの方、いませんか。ご協力、歓迎です。


葉脈が繊細に残っています



ウリハダカエデ




カエデの実(翼果)
これもカエデの実です



右にのせたスイセイジュ(イベスイセイジュ)という植物、名前を聞いたこともありませんでした。
以前ブログにこの名前をのせたところ、2件ほど問い合わせがありました。関心を持つ方がいらっしゃるようです。残念ながら、この植物につての詳しい知見は、こちらでは持っていません。
 それぞれ情報を寄せ合いながら、あたらしいことがわかっていくとステキですね。

これから、もっと皆さんの目にふれることができるよう、工夫していきたいです。

現在、かつての化石産地は場所もはっきりわからないほどになっています。また、この場所は国定公園に指定され、動植物、岩石等の採集は禁止です。
下仁田自然学校では、これらの現地の再調査も始めています。もちろん、許可をとって。




本体工事の進む八ッ場ダム

ダム本体への作業にとりかかってすぐ、工事の進行が止まっていた八ッ場ダムですが、本体工事が本格化しています。岩盤が予想より悪かったと、予定通りに進まず設計変更、また地滑り対策、発掘費用の増加、資材人件費高騰などを理由に、720億円にものぼる増額要求が公表されたのが8月のお盆の時期でした。下流都県が分担してこのお金を払うわけですが、すべて議会で可決されて、現在、コンクリート打設の作業が進んでいます。

ダム軸のとおる付近
盛んに水をまいています




サイロのような入れ物に、原石山から延々10㎞をベルトコンベヤーで
砕石が運び込まれ、貯蔵されています。ここではコンクリート工場とも
いえそうなプラントが組まれ、ダムのコンクリートがつくられます。
左写真の遠方コンクリートの場所にダムができる。

ここは比較的里に近い場所ですが、谷の斜面が急で,杉などの植林がおこなわれませんでした。そこで、今では貴重ともいえる、もともとの広葉樹の森が残されてきました。良好な自然の残された場所といえます。

急流が崖をうがつ光景は若山牧水はじめ多くの人に愛され、さらに古い昔からこんこんとわく温泉も、そのほのかなイオウの香りと濁りのやさしい湯として愛されてきたのでした。

工事前には周辺を含めた自然の調査が行われます。環境アセスメントがらみです。国交省のHPには、重要な植物が70科275種が確認されたと載っています。そのうち、絶滅危惧種が植物で52種あります。
ずいぶん昔から計画された八ッ場ダムのアセスは、現在の基準から見たら、果して適合できるものだったのだろうか・・・

貴重なものは、掘り取って保護し、新たな街並みができたら、移植するとHPには書かれていますが、盗掘等の関係もありますが、具体的な内容は公表されることはなく、いったいどこまで何をやっているのか、知ることはできません。

水没するこの地域に、とても有名な野生植物がありました。大変美しい花で、とにかく、盗掘が心配され、場所等の情報はなるべく伏せられてきました。少なくとも、この植物だけは移植等の方策等が考えられているようです。気難しい野生の花たち、果して人間の思うようにふるまってくれるでしょうか。

かつて日本にやってきた海外のプラントハンターたち(園芸の盛んなヨーロッパでは、世界中に植物の原種を求めて旅したつわものたちがいた)の逸話で、この花を沢の向こう側に見た途端、藪も水も、ものともせず、まっすぐにその花を目指して駆け寄ったという話があります。この花は品種改良の原種とされ、生み出された花は今ではバラの庭園に、バラと一緒に植えられたりもし、愛されています。園芸品種の名はクレマチス(日本では,テツセンとよぶ人も多いかもしれません)。そして、日本で見つけられたものの名は、カザグルマ。素敵な名ですね・・そして,花も美しい。
 カザグルマの花をいくつかのせましょう。この花は各地で花が異なり、遺伝的意味でも、原産地の保護が大切とされています。八ッ場は多くの種類のカザグルマの花が咲くことで、知られてきました。人里近くののやや湿った斜面などに育ち、高温多湿が苦手という植物です。地元の方は「あんなの育てるの簡単だよ」というのですが、
そうではなく、吾妻渓谷の地が本当にこの植物に向いているのだと思います。





地元にもこの花を愛する方々がいらっしゃり、お庭に植えられていたりします。
「簡単だよ、植えておけば育つよ」などとおっしゃいますが、どこの土地でも育つというものではないでしょう・・・
カラマツの葉っぱをまくといいんだよ、とおっしゃる方も。
まだまだ分からないことだらけ。
カザグルカは、人里の林の縁などの日の当たるところに、何かに絡みついて育ったりする植物です。人目についてマニアに採られたり、草刈りで消えてしまったりと、受難続きです。全国で消えています。ですから絶滅危惧種に指定されています。群馬県では絶滅危惧Ⅰ類で、最も高いレベル。環境省では準絶滅危惧種に指定しています。

冬咲クレマチス シルホサ系
氷点下の戸外で育ちます。
 
八ッ場ダムの地域のカザグルマは、この花をとても愛したご家族の土地にありました。「私の秘密の花園」とよんでいたと聞いています。大切にしていたから大きな群落となったのではないでしょうか。今はそこは国交省の土地で、現在、工事により道路は閉鎖され、誰も近づくことはできません。もう自分のものではないから何もできないとおっしゃる様子は、少し寂しそうでした。橋の橋脚付近にもあったが,なくなってしまったとかもおっしゃっていました。
今は盗掘しようなどと思う人も、ここにはもちろん入れません。
プロの育種家(農家の方)も、とても気にされていました。園芸用の新しい品種をつくるには、野生種が宝物のように大切なのです。
その価値を熟知しているから、とても大切に思い、保護活動を願うのです。
これからさらに、DNA を調べたりと、やれることだってたくさんあるでしょう。

この植物が、いつまでも、日本の山野を彩ることができるよう、祈らずにいられません。

              夏には葉を落とすという冬咲クレマチス。
             白い花は清楚。雪の中でも咲いていると。
              ジングルベルと名付けられて売っていました。
                  戸外に植えておけば咲くと言います。
                  来年も咲くかなあ。挿し芽で増やしてみようかな。
             
                 






 
 

2016年11月21日月曜日

展示の紹介 化石など

 
朝起きたら 外は乳白色の深い霧・・
 🎶 ~ただ一面に立ち込めた 牧場の朝の霧の海 ~♫

そんな歌を思い出しながら、外に出てみました。

         (車運転中の人は、「のんきなこと言うな!」と悲鳴だったでしょうが)


地面から湯気?
← やっと霧が晴れてくると、日差しに温まった田んぼの土の上には白い水蒸気が上がっていました。ウキウキしてきます。
  (水蒸気は目に見えない、これは水蒸気ではない。小さな水滴です・・などと、無粋なことは言わないで・・・正しいことですが)





下仁田自然史館にあるもの紹介

化石をいくつか
この地域では、古生代の化石(フズリナなど)から中生代(アンモナイトなど)、そして新生代(貝化石など)までの化石が見つかっています。ちょっと車で移動するだけで、それぞれの時代の地層があるというわけです。考えてみたら、ずいぶん様々な地層がある場所なんですね。(以前にまとめた表は以下にあります。下仁田層の化石写真も載っています )http://geoharumi.blogspot.jp/2014/04/blog-post.html

下仁田駅からすぐ近く、鏑川の岸には、固い岩の中に下仁田層の化石が露出しています。
新生代、2000万年ほど前の海の化石がみられます。川の右岸には中央構造線の断層も見えていているという場所(関東では一番よく見える場所だと聞きました)。
 下仁田の西のはずれの、内山峠の近くにもこの時代の地層が少し見られ、貝などの化石も少し見つかっています。


下仁田から高崎まで続く丘陵には、下仁田層より少し時代が新しい新生代の海地層が分布します。富岡層群・安中層群と名付けられています。
その東のはずれの高崎観音山付近は、その最後のころで、海から陸になっていくところでした。陸の植物の化石も見つかります。いくつか紹介します。

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少々細かな話を書きます。

右の解説表、途中で切れているのは継ぎ足して見てください、すみません。
下の方のすきまに、「庭谷不整合」と書いてあるところが、一度海から陸になった時期です。
(以前につくっていて、今見て気づいたのですが、タイトルは「富岡層群」でなくて、「富岡層群・安中層群」ですね・・・・)

 少し前には、庭谷不整合というのは知られていなくて、地層全部が「富岡層群」とよばれていました。
富岡層群の小幡層は最近まで小幡層と井戸沢層にわけられていました。下仁田の井戸沢層に産出する大型有孔虫は、よく知られているものです。
 地層の名前は、他にもいろいろありました。それだけ研究した人がいたということでしょう。まだ変更があったりするのかもしれません。
だんだん統一されていくのでしょうね。


表は県立博物館が企画展を開いた時の資料を元にしている表です。ずいぶんいろいろな化石が出ているのですね。デスモスチルスやパレオパラドキシア、クジラやジュゴンといった哺乳類は、めったに見つかるものではない貴重なものです。下仁田では産出していませんが。

下仁田、富岡、安中地域の 展示してある
  新生代 海の時代の化石 を少しのせます  


新生代のウミユリ
ウミユリは古生代ばかりじゃない





ウニですね



高崎の裏山から産した亜炭
メタセコイア   海が陸化するとき、積もりました。
亜炭の材料になったのでしょうね
高崎から安中にかけての丘陵には、かつて亜炭の炭鉱がありました。
富岡製糸場でも使われていました。
現在のメタセコイアの写真をのせましょう。
 少し古くからある学校などの公共施設で見かけます。どこか近所にありませんか。並木になっているところもあるとか。
昔、競って植えたことがあるから・・・・これ、「生きている化石」として有名な木だから。
以前にも紹介しましたが、もう一度書けば・・・
・・・日本の三木博士が、化石で見つけた植物に、メタセコイアと名付けました。セコイアに似ているけれど、少し違うから、メタをつけた。1941年のこと。それから4年後、中国四川省で、生きているメタセコイアが見つかった!!その後、挿し木が日本にも持ち込まれ、競って植えられた。私も、家で父が挿し芽をしているのを見ていた記憶がある・・・
   戦争をはさんだ時代の話だったのですね・・
 アジア東部地域は、氷期にも氷に覆われず、多くの植物たちが生きのびたといいます。日本も多くの種類の植物が見られる地域ですね。
メタセコイアの仲間は約1億年前から化石が見つかるそうですから、歴史の古い植物です。  秋には黄葉し、葉を落とします。今頃はきれいな姿が見られると思いますよ。




 
 セコイアとメタセコイアの違い
  メタセコイアの葉は対生についている
   つまり、葉が同じ所から左右にのびている。
セコイアは 互生
  互い違いについている

 
ついでなので、もう一つの「生きている化石」を
 イチョウ です。
イチョウの仲間は、恐竜のいたころに栄えた植物なんです。
日本の自然の野山にはありませんよね。たぶん中国からやってきた木です。
   金色の ちひさき 鳥の形して
  いてふ ちるなり 夕日の丘に   与謝野晶子






とっても簡単な 植物標本作成
 紅葉が里まで降りてきました。ちょっと拾って、本のページにはさんだりしたものです。
きれいな色をしばらく楽しんで。やがて色あせてきます・・
この色を長く楽しむには、何と、カラーコピー。

下仁田の里見哲夫さんは、そんな楽しみ方を教えてきたそうです。場所は高崎観音山の染色植物園。薄い葉っぱばかりでなく、厚みのあるツワブキや菊の花もそれなりきれいにコピーされていました。
原色押し花や海藻の押し葉をつくり、それを材料に絵のような素敵な作品に仕上げる方々がいますが、そこまで手間暇かけず、凝らずに手軽に楽しむのも、なんだかいいな。

下仁田自然史館には、西上州で見られるカエデを集めて押し葉にしてあります。色があせてしまうのが残念。 そうか、コピーしておくのもいいかも。
下仁田で見られるカエデの標本です

2016年11月9日水曜日

もみじとドングリの検索表+鉱山の記録とは

時期遅れ に なりそうなのですが・・・

昨日、はっと気づきました。
モミジの季節も終わってしまう・・・せっかく検索表を作ったのに・・・

紹介するなら9月から10月初めだったのに・・・
    もう山のもみじは終わってしまったよねえ・・・どうしようか・・・
                          でも、大慌てでのせます!

表は下仁田自然史館に「ご自由にお持ちください」と置いておくプリントとして、昨年つくりました。グラフィック類など作るのが得意な職員が、今年、きれいに修正してくれました。カラー印刷にはならないのですが、ちょっとは役に立つかも。


モミジ  雪の多い地域(水上など 日本海側)と 雪の少ない太平洋側の下仁田は、少し違う種類が分布していたりします。
表は下仁田地域のもみじです。  なお、植物学ではモミジでなく、カエデと言います
  これを片手に葉っぱを見ると、わかるものもあると思います。
図を縦方向に並べ直したのをつくってくれていましたので、もっと見やすくなるかも。


説明を追加
ドングリ  自然保護協会の会報に「図はご自由に利用してください」と載っていたものを、一部修正したものです。

検索表はいろいろあるけれど、これ、とてもわかりやすいと思います。

フモトミズナラは、もとの図ではモンゴリナラとなっています。どちらを主張するかは、人によって異なるようです。
まだわからないことがあるんだなあ。

マテバシイは四国・九州・沖縄などに自生する木です。人が植えたものですが、けっこう見かけます。







フモトミズナラについては以前、以下で解説しました

元の図がカラーで載っていますhttps://www.blogger.com/blogger.g?blogID=481530670025045050#editor/target=post;postID=4233483773130505555;onPublishedMenu=allposts;onClosedMenu=allposts;postNum=69;src=link
 
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下仁田町の西牧鉱山から産する鶏冠石が 群馬県の県の石に選定されたことは何度かお知らせしました。この鉱山について、詳しく知りたいと思うのは、ごく普通の感情かと思います。
 
先日、鉱山が稼働していたころをご存知の方にお話をうかがう機会がありました
この鉱山は戦後しばらくまで掘っていたようで、近所の方など、娘もお年寄りも、働いていたといいます。子供は燃料の薪を集めたりもしたなど、貴重なお話を聞くことができました。
 
お聞きして記録に残さねば、うずもれて忘れられてしまうわけです。地質的にも大切な記録になりますが、地域の人々の生活を支えたり、その他にもあれこれの歴史があったかもしれません。ぜひ、こうしたものの記録を集め、残したいものです。
 
下仁田は複雑な地質を反映して、小さな鉱山がいくつもあったりします。古くから知られたものもあれば、戦後の苦しい時期にとにかくお金にならないかと、掘ってみたものもあるような気もします。そんな歴史を、自らの目で見た方が語れるなら、今のうちにお聞きするのも大切な文化の継承と思います。
 
山本作兵衛さん、ご存知でしょうか。炭鉱夫として働き、筑豊炭田の労働のようすや生活を炭鉱夫の目線で見て、66歳になって初めて絵筆を握り、炭鉱画を描き始めた方です。子供や子孫に炭鉱を伝えたいと思われたのだそうです。その絵は、今、ユネスコの世界記憶遺産となっています。
 この登録申請は、おそらく最初で最後、たった一度のチャンスでした。次の年からは、そんな市井の名もない人の絵など、推薦してもらえなかっただろうという状況だったそうです。とにかく、国宝級の文物がひしめくようにあるわけなので。
ですが、その絵を見た審査員たちは絶賛し、迷わず認定したといいます。炭鉱の生活を余すところなく描いた絵。その記憶力にも驚嘆を覚えます。掘削機械の細部まで、あやふやなら調べなおし、こだわって描き、正確さを追及していたとのことです。また、炭鉱という社会のようすも、赤裸に描かれています。
炭田が日本を支えたのは、そんなに昔の話ではありません。ドラマでよく取り上げられる戦国時代より、はるかに最近なのに、まるで知らない世界になっていないでしょうか。
 
知らなかった市民の歴史の一コマが、こうして残されたわけです。
「山本作兵衛 炭鉱画」といった名前で検索すれば、すぐにご覧になれます。
 
鶏冠石関連の話、地元の方のお話し等をもう少しうかがい、どこかで報告したいと思っています。
もちろん、鉱山そのものの地質についても。 
これ以外の小さな鉱山についても、皆で調べて、記録したらいかがでしょうか。これこそ、地元の方でなければできない仕事です。
 
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 そうそう、忘れてました。西ノ牧鉱山は、「南野牧」にあるのです。南野牧の人にとっては、気になる話でしょう。今回、話をお聞きしたかたも、そんな話をしていました。
先日、かぶら文化講座という富岡の公民館行事?で下仁田で地質見学・自然史館見学にいらした方が、鶏冠石の話も出たあと、最後に、「西ノ牧鉱山は南野牧にあるはずですよ。私はそこの出身だから」と、話しかけてくれました。
「えーっ、調べてみます」と答えましたが、地図を見てもよくわかりませんでした。地元に行ったら、確かに、住所は南野牧でした。
地元の人にとっては、少々悔しい話でしょうね。
標本の採集地にはちゃんと、「南野牧」と書ておきますよ。