2015年4月5日日曜日

下仁田地質案内17 馬山鉱山

下仁田地域の小さい鉱山   馬山(まやま)鉱山

下仁田地域は地質が複雑なだけあって、さまざまな小さな鉱山があったようです。
鉱山で採掘したものは、石灰、鉄、マンガン・・鉱物として有名な鶏冠石は花火などに使っていたと聞きました(ヒ素を含む鉱物です)・・・他に、砥石や石材、骨材利用など、さまざまなものが堀り取られてきました。

こうなるといろいろ噂が出てきて、「あそこでは金を掘ってみた」とか、ウソか本当かわからない話題も耳に入ってきます。

鉱山と言っても、どれも今は採掘していませんが、そんな一つ、馬山鉱山に立ち寄りました。
蒔田(まいた)の集落を通る道をしばらく進み、大きくカーブする道の端に、草に覆われた空き地と、その奥に崩された崖が見えます(右写真ですが、逆光でよくわからない写真で、すみません)。道端には「馬山鉱山」の古いプレートと、立ち入り禁止のためのチェーンが張られていました(うっかりして、写真撮ってこなかった)。

場所は下図の真ん中上の方の小さな黄色丸です。蒔田不動からそれほど遠くない位置。
蒔田不動はクリッペの上にありますが(③のマークのたくさんある薄茶色部分はクリッペ地域をあらわします)、この鉱山は三波川結晶片岩地域にあります。










「昔遊んだよ」という地元の方もいました。「何掘ってたの?」ときいても、子供時代のこと、そんなことは知らないわけです。

崖まで行くと、濃緑がかった黒っぽい石で、一部はツルツルしていて、全体に圧砕された感じ。断層らしいところは時に強く圧砕されて、平らにつぶれて粉々です。
「緑色岩、いや、蛇紋岩なのかな・・」などとながめていました。

 


を拾って帰ろうかと思ったのですが、向かい側の畑でトラクターを動かしているお年寄りが、作業を終えそうな雰囲気。ちょっと待って、話を聞いてみよう、と。
この鉱山のすぐ脇には、家が1軒あります。もしこの家の人なら、きっといろいろご存知だろう、と思ったわけです。

「お仕事中お忙しいところ、すみません。下仁田で地質を見たりしている者です。下仁田ジオパークというのにもかかわっているのですけど、この鉱山のこと、もしご存知でしたら、お聞きしてもよろしいでしょうか」「ああ、いいよ」













聞いてみたら、なんとまあ、この方、この鉱山を掘り始めた人で、ここでずっと働いていた方でした。
「東京オリンピックの年にはじめた。○○歳だったよ。平成17年までやっていた。年がわかっちゃうねえ。」
かなりのお年とわかります。でもとてもお元気に見えました。
「何掘っていたんですか?」「タルクだよ。タルク、知ってる?」「ええ。蝋石(ろうせき)とか・・」そう言いながらも、タルク(滑石)はずっと白い石のイメージで、この蛇紋岩のような石がさらに変質した石だったんじゃなかったっけ・・・私くらいの年の者は、ろう石で、コンクリートの上に絵をかいたりして遊んだので、記憶にあるわけです。最も軟らかい鉱物の一つとして、モース硬度計の1になっていると教わったり。
 ここの石は掘り取って、安中などの工場に運んで、細かな粉にしたとのこと。粉にしたら、スベスベしたパウダーで、白くみえて、滑石と同じ用途に使ったのかな

「タルクって、何に使ったんですか?」「農薬。」・・・「農薬??・・・」「農薬に混ぜて量を増やして、それをまいた。今なら水で薄めてまくけれど、これは粉でまいた。水と同じ役割さ」
「何の作物に使ったのですか?」「ウーン、稲だな。それから、今はそんなことしないけど、タイヤとかゴムの間に打ち粉してまぶした」・・・・そういえば、ゴムがくっついてしまわないようにと、何やら白い粉がくっついていたことがあったような気もする。

「タルクって、もっと白いイメージがあるんですけど」
「山のあっち、秋畑にもほっていたところあって、そこのは白いけど、かるくてフワフワして、舞ってしまうから、農薬には向いてなかった。ここのは蛇紋(蛇紋岩のこと)で重いから沈んで、こっちの方が良かった。」
なるほど、蛇紋岩などの石は比重が大きくて、ずっしり重い。粉も重いというわけか。細かな粉にしたのでけっこう白く見えたのかな。製品は、”タルク”で通用したのかな
  (秋畑の位置は、最初の地質図の右方に黄色に、”秋畑”と書いてあります)

鉱山をはじめるにあたり、電気を引いて、自分もここに住み着き、働いたそうです。いちばん人がいたときは15人働いていたとのこと。
表面は火薬で崩したけれど、あとはユンボで。5台あったそうです。
ダンプなら荷台が斜めになるので、下ろすのが楽になるけれど、最初の頃はダンプはなく、普通の平らな荷台のトラック。ベルトコンベアーで石を載せたりもした。
昭和45年にパワーショベル(ユンボのことですよね・・)を導入、鉱石を積むのにも使った。その前はブルトーザーしかなかった。

「もう、全部掘っちゃったんですか? もっとも、お金儲からなければ、やれませんものね」
「ウーン、だいいち、働くものがいないよ。一人じゃできないからね」
鉱山でそれなり生活が成り立っていたのでしょう。

こんな話をスラスラとしてくださった。まだまだ何か話が出てきそう。使った道具など見せてもらえるかもしれない・・「また何かお聞かせいただくかもしれませんけど」「うん、来なよ」

経験者に、いろいろお話し聞かせていただいて、記録を取っておくのも、いいなあ・・。
きっと高齢になっていらっしゃるでしょうし、今のうちにお聞きしないと・・・

←蒔田の道わきの斜面では、日差しを浴びて、
アズマイチゲが咲き誇っていました。
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 この鉱山をはじめた東京オリンピックの頃といえば、水田に農薬が使われるようになり、それによって魚がたくさん浮き上がっていたのを思い出します。
 学校帰りのあぜ道、道路わきの用水路から大きな魚が何匹も道に放りあげられていたことがありました。見たこともなかったような大きなナマズでした。それが何匹も何匹も。
白い腹を見せた魚たちの死骸が目に焼き付いた時代。ナマズは水田に産卵にきたりしたようですから、そんなナマズだったのかもしれんません。
 幼い頃、自転車の荷台に乗せてもらって夕暮れの道を通ったとき、道脇の水路にホタルが光っていたのが思い浮かびます。捕まえてきて、蚊帳の中に入れたこともありました。それも農薬をまくようになって、ぴたっといなくなったようです。
今「蚊帳(かや)」何だかわからない人も多いかも。 私の住む玉村町では家のまわりに堀を巡らした大きな農家がありましたが、そのお宅では堀にウナギがすみつくので、堀さらいをした時捕まえ、男の人たちは町の料理屋に売り、それでお酒を買い込んで一杯やって楽しんだりしていたそうです。他の魚は捕まえて焼いてから煮付け、食べたとのこと。農薬をまくようになったら、ウナギたちはいなくなったそうです。
 かつては地域の池の堀さらいでも、最後はウナギなど捕まえて食べた話を聞きました。
農薬は重労働を軽減してくれたのですが、その使用で子供の遊び相手でもあった用水路の小魚や昆虫たちは死に、さらに用水路のコンクリート化で、すっかり姿を消してしまいました。今は魚毒性の弱い農薬になっていますが、そんなわけで、水路の魚は目にしません。
田んぼや水路に、水辺に生き物の姿がたくさんみられること、それを素直に喜びたいとおもいます。
 こんな時代の変遷も、思い浮かんできた日になりました。

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←ザゼンソウ

3月後半の下仁田では、ザゼンソウの花が咲きます。
この花は寒冷地では普通に見られますが、太平洋側で標高の高くない場所ではまれです。
大切にせねば。


   ミヤマキケマンの黄色い花
         あちこちで見られます。


 

沢沿いにはダンコウバイの黄色いボンボン。 少し地味ですが赤っぽいフサザクラの花も。


房の下がるキブシの花は、独特の形で、誰でもすぐに覚えられます。

これらの花が終わりを迎え、岩肌にはツツジの仲間が華やかに咲きはじめています。

野外に出るのが楽しくなる季節がはじまりました。
うれしいですね。
 


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