今朝(8月25日)の新聞記事
史上最も暑い夏
6~8月(8月22日時点)の平均気温は
東日本では統計を取り始めた1946年以降、過去最高。年平均を1.6℃上回る。
東日本って、関東甲信越・東海・北陸。 年平均は81年~2010年の平均値
そこで今年の最高気温をグラフにしてみました。
8月24日までの記録ですが、それにしても暑い。
熊谷の41.1℃は全国過去最高の気温です。
我が家は伊勢崎市に隣接しています。ほぼいつも前橋より暑い。
住んでいる玉村町の今日の予想最高気温38℃・・・そんなにならないと思うけれど。雲が出てきています。どうかそのままでいてください。
こんな気温では、何もやりたくない…というのも、許されるか…
でも、雑草は生い茂るし・・・これも困ったものです。
西日本では豪雨災害で、今も本当に大変な日々を送っているわけで、暑いくらいで文句言うなと言われそうです。ちなみに、西日本の平均気温は、平年より1.1℃高かったとのこと。
ところで平均気温というのは過去30年間の平均を言うようですから、私の子供のころからなら、もっと平均気温は上がっているはずです。
秋でもないのに台風もたくさんやってきているし、大雨と酷暑には、「気候変動」という言葉が実感を持ってきます。
ちょっと、受け売りの話になりますが、
2015年12月、パリで開かれていたCOP21では、パリ協定が締結されています。
「世界の平均気温上昇を2℃未満に抑える」
付け加えて、「1.5℃に抑えることがリスク軽減に大きく貢献する」
2℃なんてたいした数値じゃないように感じてしまいそうですが、今年の関東の夏の平均気温は、1.6℃高かっただけ。1.6℃上昇を身をもって感じると、2℃も大変なことと実感。
海水温も上昇しています。温まりにくく冷めにくい海ですから、今、たくさんのエネルギーをため込んでいるわけです。
温度上昇はある一線を越えると、気候はわずか数年でガラガラと激変してしまって元に戻せないといいます。「まったく違った状態」になるわけです。
ここ1万年間、地球の気候は安定していました。
おかげで人類はのびのびと文明を発展できた、と言う人もいます。
気候の変動については様々な本もあると思いますが、先日読んだものは、過去の気候の解説として面白いものでした。
「人類と気候の10万年史 過去に何が起きたのか、これから何が起こるのか」
講談社ブルーバックス 中川 毅
日本には年代測定の「世界標準のものさし」があります。
7万年以上にわたって湖に乱されることなくたまった堆積物です。湖は福井県にある
水月湖すいげこつという湖で、2013年に約5万年前までの物差しとして世界に認定されています。これによって年代測定の精度を高めているといいます。放射性同位体から何年前というのを測定できますが、それだけではある理由でどうしても誤差が出てきます。水月湖のようなものから、その精度を較正していけるわけです。
たまった堆積物は45m、1年に平均0.7㎜の堆積です。こんなに長く、しかも堆積物が乱されることなくたまった場所は世界にもなく、「奇跡の湖」と言われると聞きました。
この研究を続けてきた方が、本の著者です。
この堆積物を薄く切り取ったものの展示を、上野の科学博物館で見たことがあります。
地道な研究を積み重ねて、こうした成果を得ているわけです。こういったものから人類の指針となるデータが生まれるのでしょう。
今では、こうした研究が気候変動を考えるうえで、大きく役立っているわけです。
~~~~~~~~~~~~~~~
江戸時代には、あまさけは夏の飲み物・・・えーっ??
と思ったわけですが、砂糖なんて手に入らない時期、甘い飲み物は、疲れた体には、ありがたかったのだろうなあ。
冷蔵庫に麹の残りがいつまでも入っていました。
そうだ,あまさけつくってみよう、と思い立ちました。冬と違って、温度を保つのも簡単だし、と。
炊いたご飯の温度が60℃くらいに下がったら,麹を入れて、タオルやら保温シートやらにくるんでおくだけ。あっという間にできました。
発酵し過ぎて酸っぱくならないように、というのだけ気を使って、できたものが、左写真。ちゃんとできましたよ。
買えば結構値の張る飲み物かと。
甘すぎるくらい甘い・・・
今どきの若者は、あまさけは喜ばないかな。ですが発酵食品はアジアの得意分野。様々なものがあります。多くの複雑な味を作り出していて、いいものだな、と。
2018年8月25日土曜日
2018年8月18日土曜日
戦争記録を伝える・10年続けています
今年の夏の暑さは、災害級 ほんとうにそう思う。6末から続く辛い日々・・・
8月半ばになり、昨日は、やっと過ごしやすい日がやってきた。
からりとした日で、最高気温が 前橋で28.2℃、湿度43%。これなら、ものをやる気がする。
日本では夏は死者を悼む季節
お盆
第二次大戦の終結と戦死者への追悼
原爆投下とその被害者への追悼
テレビ・ラジオでも、毎年絶えることなく、特集番組が組まれています。
その努力には敬服します。聞き取りの努力を地道に続けて、人々の重い口を開いてもらい、広く伝えています。マスコミ、ジャーナリストのこの努力がなければ、忘れられ、闇に消える事実の数々。
人は忘れやすい、忘れたことはなかったことになり、また同じ過ちを繰り返す
戦争を知る方がもうじきいなくなる時代がやってきます。今年、100歳を超えて、あるいは100歳間近になって、かつての経験を語る方々の姿も何名か映し出されていました。興味本位で妊婦の腹を切り裂くのを見た話など・・・その年になるまで、口にすることはできなかったわけです・・
以前見た番組、終戦以後ずっと精神病棟で過ごした方の姿も思い出しました・・戦場で心を病んでしまって、そのまま正常に戻れなかったという方が、病院の廊下をフラフラと歩く後ろ姿、心が破壊されてしまったわけでしょう。ですが、日本軍は、そういった心を病んだものは皆無で、日本の強さと宣伝していたとか、数日前の新聞記事にありました。
伊勢崎市で、戦争記録の展示がありました。15日、16日ですから、もう終了していますが。
伊勢崎市の戦時中の写真や焼夷弾の実物を借りての展示です。さらに、ナガサキ・ヒロシマの原爆の資料、沖縄戦の資料、はだしのゲンや、その他の出版物・新聞記事等も。
それぞれの地域で、こうした記録を掘り起こし、保存する努力、大切ですね。
伊勢崎女子高校の生徒 防空壕堀をしています。きっと勉強なんて出来なかったのでしょう。 このころ、地域の女生徒の女生徒の通う、高等教育機関だったはずです。
焼夷弾の先には爆薬があって、その爆発で厚い屋上の壁を貫通させたとか。
伊勢崎での空襲の記録を紙芝居にして語る企画もあります。
話すのは90歳を過ぎた被災者。
絵を書いてくれた協力者もます。
「星になった母」
昭和20年8月14日の夜、伊勢崎は焼夷弾の雨にさらされました。用水路は火の川のようになる中、母は6人の子供を守るのに必死でした。赤ん坊を抱え、逃げる中、お母さんが倒れました・・顔色がおかしくなっていく・・
不発の焼夷弾が背中にあたり、死んでしまった・・子供たちは母を囲み、母の胸にいた赤ん坊は泣き・・油くさい雨が降ってきて・・
次の日父が見つけてくれて・・
母を運んで火葬し、粗末な墓をつくり・・
戦後の苦しいなか、一番下の子を養子にしてもと申し出た人もあったが、母が最期まで抱き抱えて離さなかった子だからと、父は育てあげたと。母の死んだ日(火葬の日だったかな?)明るく輝いていた星を思い起こして、星になった母としたといっていたと思う。 これ実話。
語ってくれた方も、この夜、同級生が直撃を受けて亡くなっているそうです。川の近くの1軒屋なのに、しかも、ちょうど屋外のトイレに行った時に、と。
とても張りのある声で、語ってくれました。
パネルを見ていたとき、隣にいたおじさんにちょっと声をかけました。そうしたらこの方、空襲体験者。焼失地域の地図を見ながら。「俺ここにいたんだ。7歳の時。警察署?がすぐ脇で、ここに逃げろと言われてな。それで助かった。」「家は燃えちゃっているんですね」「伊勢崎は1350発の焼夷弾が落とされた。死者29名。前橋では死者792名。家を守れと言われて死者が増えた。伊勢崎はそれを教訓に、家より命と逃げたから死者が少なかったと言えるかも」この数字、紙芝居語りで言っていて、書いておけばよかったと思っていた。この方、書きとめたんだ。私も、あらためてメモしました。
焼夷弾の実物もありました。係の人に「鉄屑がお金になった時期、よく売らずに持っていましたね」と言ったら、「あの空襲の絵を描いた人が持ていて、貸してくれているんだ」とのことでした。
玉村から伊勢崎のこの付近は、8月14日夜に空襲を受けています。私の実家の隣の家は、玄関の前に不発弾が落ちています。不発でなかったら、生きていたかどうか・・・
母はよく言っていました。「戦争終わったのがわかって、川沿いに帰るとき、爆弾を捨てていったんだよ」
資料がありました。
ポツダム宣言受諾 14日午前11時50分
米軍機、サイパングアムから夕刻に出撃 関西・関東・東北方面
日本政府 ポツダム宣言受諾連絡 14日午後11時
どこにどう連絡というのをメモしてなかったなあ・・基本知識なんでしょうが
この数時間の遅れでさえ、多くの命を奪っていたことになるわけです・・・
ふと思いました。子供たちは、携帯電話に慣れていて、すぐ連絡すればいいじゃん、などと思うのだろうな、と。これからは、ていねいに説明していかないと、理解を得られないかもしれませんね。
今、火星がとても大きく見えます。火星と地球の距離がとても近くなっているからです。火星なんて知らなくっても大丈夫、まだ大きくて、とても目立ちますから。
平和な時代に星を見上げられる幸せをかみしめて、見上げるのはいかがでしょう。
よく知られた原爆の写真や絵も、パネルになって展示されていました。
左パネルの2枚目に注目。ローマ法王庁が昨年末、教団関係者にこの写真入りのカードを配布しています。カードに添えられた言葉は
「亡くなった弟を背負い、火葬の順番を待つ少年。少年の悲しみは、かみしめて血のにじんだ唇に表れている」
「バチカンばかりに任せておいてはいけないでしょう、日本人としては」
と思うのです。
お年寄りが亡くなって遺品整理をしていたら、戦時中の品が出てきて、捨ててしまった、売ったといあった話があるそうです。こうしたものはぜひとも集めて保存できたらと思います。ですが、難しい話でもあります。協力者が増えればと願わずにはいられません。
8月半ばになり、昨日は、やっと過ごしやすい日がやってきた。
からりとした日で、最高気温が 前橋で28.2℃、湿度43%。これなら、ものをやる気がする。
日本では夏は死者を悼む季節
お盆
第二次大戦の終結と戦死者への追悼
原爆投下とその被害者への追悼
テレビ・ラジオでも、毎年絶えることなく、特集番組が組まれています。
その努力には敬服します。聞き取りの努力を地道に続けて、人々の重い口を開いてもらい、広く伝えています。マスコミ、ジャーナリストのこの努力がなければ、忘れられ、闇に消える事実の数々。
人は忘れやすい、忘れたことはなかったことになり、また同じ過ちを繰り返す
戦争を知る方がもうじきいなくなる時代がやってきます。今年、100歳を超えて、あるいは100歳間近になって、かつての経験を語る方々の姿も何名か映し出されていました。興味本位で妊婦の腹を切り裂くのを見た話など・・・その年になるまで、口にすることはできなかったわけです・・
以前見た番組、終戦以後ずっと精神病棟で過ごした方の姿も思い出しました・・戦場で心を病んでしまって、そのまま正常に戻れなかったという方が、病院の廊下をフラフラと歩く後ろ姿、心が破壊されてしまったわけでしょう。ですが、日本軍は、そういった心を病んだものは皆無で、日本の強さと宣伝していたとか、数日前の新聞記事にありました。
伊勢崎市で、戦争記録の展示がありました。15日、16日ですから、もう終了していますが。
伊勢崎市の戦時中の写真や焼夷弾の実物を借りての展示です。さらに、ナガサキ・ヒロシマの原爆の資料、沖縄戦の資料、はだしのゲンや、その他の出版物・新聞記事等も。
それぞれの地域で、こうした記録を掘り起こし、保存する努力、大切ですね。
伊勢崎女子高校の生徒 防空壕堀をしています。きっと勉強なんて出来なかったのでしょう。 このころ、地域の女生徒の女生徒の通う、高等教育機関だったはずです。
家じゅうの金属を供出させた |
焼夷弾の先には爆薬があって、その爆発で厚い屋上の壁を貫通させたとか。
伊勢崎での空襲の記録を紙芝居にして語る企画もあります。
話すのは90歳を過ぎた被災者。
絵を書いてくれた協力者もます。
「星になった母」
昭和20年8月14日の夜、伊勢崎は焼夷弾の雨にさらされました。用水路は火の川のようになる中、母は6人の子供を守るのに必死でした。赤ん坊を抱え、逃げる中、お母さんが倒れました・・顔色がおかしくなっていく・・
不発の焼夷弾が背中にあたり、死んでしまった・・子供たちは母を囲み、母の胸にいた赤ん坊は泣き・・油くさい雨が降ってきて・・
次の日父が見つけてくれて・・
母を運んで火葬し、粗末な墓をつくり・・
戦後の苦しいなか、一番下の子を養子にしてもと申し出た人もあったが、母が最期まで抱き抱えて離さなかった子だからと、父は育てあげたと。母の死んだ日(火葬の日だったかな?)明るく輝いていた星を思い起こして、星になった母としたといっていたと思う。 これ実話。
語ってくれた方も、この夜、同級生が直撃を受けて亡くなっているそうです。川の近くの1軒屋なのに、しかも、ちょうど屋外のトイレに行った時に、と。
とても張りのある声で、語ってくれました。
パネルを見ていたとき、隣にいたおじさんにちょっと声をかけました。そうしたらこの方、空襲体験者。焼失地域の地図を見ながら。「俺ここにいたんだ。7歳の時。警察署?がすぐ脇で、ここに逃げろと言われてな。それで助かった。」「家は燃えちゃっているんですね」「伊勢崎は1350発の焼夷弾が落とされた。死者29名。前橋では死者792名。家を守れと言われて死者が増えた。伊勢崎はそれを教訓に、家より命と逃げたから死者が少なかったと言えるかも」この数字、紙芝居語りで言っていて、書いておけばよかったと思っていた。この方、書きとめたんだ。私も、あらためてメモしました。
空襲の時の絵 |
落ちてきた焼夷弾実物 束になっていたものが、こうして バラバラになって落ちてきた |
投下された焼夷弾実物とレプリカ |
玉村から伊勢崎のこの付近は、8月14日夜に空襲を受けています。私の実家の隣の家は、玄関の前に不発弾が落ちています。不発でなかったら、生きていたかどうか・・・
母はよく言っていました。「戦争終わったのがわかって、川沿いに帰るとき、爆弾を捨てていったんだよ」
資料がありました。
ポツダム宣言受諾 14日午前11時50分
米軍機、サイパングアムから夕刻に出撃 関西・関東・東北方面
日本政府 ポツダム宣言受諾連絡 14日午後11時
どこにどう連絡というのをメモしてなかったなあ・・基本知識なんでしょうが
この数時間の遅れでさえ、多くの命を奪っていたことになるわけです・・・
ふと思いました。子供たちは、携帯電話に慣れていて、すぐ連絡すればいいじゃん、などと思うのだろうな、と。これからは、ていねいに説明していかないと、理解を得られないかもしれませんね。
今、火星がとても大きく見えます。火星と地球の距離がとても近くなっているからです。火星なんて知らなくっても大丈夫、まだ大きくて、とても目立ちますから。
平和な時代に星を見上げられる幸せをかみしめて、見上げるのはいかがでしょう。
よく知られた原爆の写真や絵も、パネルになって展示されていました。
左パネルの2枚目に注目。ローマ法王庁が昨年末、教団関係者にこの写真入りのカードを配布しています。カードに添えられた言葉は
「亡くなった弟を背負い、火葬の順番を待つ少年。少年の悲しみは、かみしめて血のにじんだ唇に表れている」
「バチカンばかりに任せておいてはいけないでしょう、日本人としては」
と思うのです。
お年寄りが亡くなって遺品整理をしていたら、戦時中の品が出てきて、捨ててしまった、売ったといあった話があるそうです。こうしたものはぜひとも集めて保存できたらと思います。ですが、難しい話でもあります。協力者が増えればと願わずにはいられません。
2018年8月15日水曜日
ピカソのゲルニカが壁いっぱいに
群馬県立近代美術館
今、ピカソのゲルニカを織り込んだタペストリーが展示
されています
夏休み時期、各所で特別展などが開催されています。
行こうかな、と思っても、ついつい見逃して・・・の繰り返し・・・
県立近代美術館開催中の「ウィリアム・モリスと英国の壁紙展」というのを見に行こうかと思っていたところ、新聞に記者の書いているコラムが目に留まる・・・
「こんなところでゲルニカに出会うとは思わなかった」 ?・・ゲルニカ?・・・
美術館の2階、常設展示などのコーナーの壁面いっぱいに、見たことのあるモチーフ、ゲルニカが。布で織った作品・タペストリーが掲げられていたのです。
大きさは原画サイズとほぼ同じで、3.2m × 8m
作成は1983年
所蔵はここ、近代美術館 1996年入手
ゲルニカのタペストリーは世界に3枚あり
1枚目は1955年作成、6ヶ月かけて織りあげられ、現在は国連本部安全保障理事会のエントランス壁面を飾っているそうです。
2枚目は1976年作成、フランスのウンターリンデン美術館所蔵。
そして3枚目がここ、群馬の近代美術館に。びっくりです。
原画は1937年パリ万博スペイン館に出展したもの。ゲルニカでの無差別攻撃を聞いたピカソが、急きょテーマを変更して作成したことは、あまりにも有名です。
「スペインに真の民主主義が回復するまではスペイン政府に渡さない」とのピカソの言葉通り、ずっとニューヨーク近代美術館に置かれ、1981年、ピカソ死後スペインにわたったのは、ニュースで報道されたのをかすかに覚えています。
写真を撮るわけにはいきませんので、ご覧になりたい方は会場へどうぞ。
同じフロアーには戦争に関連した作品がいくつか掲げられていました。
夏・・戦争の記憶を呼び起こす季節・・・それにちなんだ展示なのでは。
忘れないために、こうしたものを繰り返し展示していくことは大切でしょう。
・ ミロー 「スペインを助けよ」
1936年 スペイン支援を訴えるキャンペーンとしてデザイン。切手のデザインを
ポスターにしたもの
・ジャン・フォートリエ 「銃殺された人々」1943年 「黒い人質」
1940年対独レジスタンス運動に参加、パリ郊外に隠れて42年から開始された
「人質」シリーズは、45年発表され、大きな反響を。暴力・拷問・虐殺などの横行
する戦争という現実から生み出されたものと。
こんな時代環境のなかでも描き続けていたのか・・・
・福沢一郎 「敗戦群像」 「虚脱」
裸体の折り重なり積みあがった絵は、見るものに時代を感じさせる。富岡市生まれ
・鶴岡政男 「夜の群像」
戦争でつらい経験をし、終戦後1949年に描かれた。戦争の苦しみと戦後の混乱を
表現。 高崎市生まれ
ところで、美術には疎い私でも、どこかで名前を聞いたことのある画家の作品もあります。一部屋を使ってのムンクの絵の展示もありました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
壁紙展を紹介していませんでした。
美術館は我が家から近い場所にあるので、ちょっと目の保養に、といった気分でした。
写真はチラシにあった壁紙のデザインです。
表題になったモリスという方は、1834年~1896年に生きた方。
壁紙を使った部屋の再現が会場の一角にありました。
手の込んだデザイン、豪華、きれい。でも
日本人のセンスには、白壁に美しさを求める気持ちもあるかもしれません。
文化は、地域、時代でそれぞれなのでしょう。
下の写真のポットは、豪華ではあるけれど、でも
「部屋に置いたら、ほこりがたまるよな、扱いが大変だよな」とか、思ってしまうのは、日々の生活の追われてしまうからか。それとも現代に住む私たちの感覚なのか・・
モリスという方は、自身の目指す快適な生活空間には、家具や壁紙が欠かせないと、木版による美しい壁紙をうみ出したのだといいます。また、産業革命による大量生産の始まったこの時期に、時間をかけた丁寧な手仕事を愛し、自然の美をたたえたといいます。手の込んだ木版も展示されていました。
どんなにか手間のかかったことでしょう。
こうして、デザインで生活に潤いを、文化を感じさせたと言えるのでしょう。
現代の私たちは、生活者の感覚として、もっとシンプルな方が生活しやすいな、とか感じるような気がします…
実際、彼より前の時代から後の時代までの壁紙が展示されており、時代の経過とともに、デザインがよりシンプルになっていく様子もみられました。
現代に近づくと「洗える壁紙」との作品も。私など、これこそ、清潔でいいな、と感じますから。
最後に、モリスのデザインをとり込んだ模様の布が、大きくいっぱいに掲げられていました。
これ、まったく違和感なし。どこかで見たことがあるような感じがします。同じようなものは布として販売されているのでは。
なるほど、今でも通じるとは、優れたものとはこういうものなのか、と思いました。
暑さでダウンしそうな今年の夏、クーラーのきいたこうした施設を訪れるのもいいものかもしれません。
今、ピカソのゲルニカを織り込んだタペストリーが展示
されています
夏休み時期、各所で特別展などが開催されています。
行こうかな、と思っても、ついつい見逃して・・・の繰り返し・・・
県立近代美術館開催中の「ウィリアム・モリスと英国の壁紙展」というのを見に行こうかと思っていたところ、新聞に記者の書いているコラムが目に留まる・・・
「こんなところでゲルニカに出会うとは思わなかった」 ?・・ゲルニカ?・・・
美術館の2階、常設展示などのコーナーの壁面いっぱいに、見たことのあるモチーフ、ゲルニカが。布で織った作品・タペストリーが掲げられていたのです。
大きさは原画サイズとほぼ同じで、3.2m × 8m
作成は1983年
所蔵はここ、近代美術館 1996年入手
ゲルニカのタペストリーは世界に3枚あり
1枚目は1955年作成、6ヶ月かけて織りあげられ、現在は国連本部安全保障理事会のエントランス壁面を飾っているそうです。
2枚目は1976年作成、フランスのウンターリンデン美術館所蔵。
そして3枚目がここ、群馬の近代美術館に。びっくりです。
原画は1937年パリ万博スペイン館に出展したもの。ゲルニカでの無差別攻撃を聞いたピカソが、急きょテーマを変更して作成したことは、あまりにも有名です。
「スペインに真の民主主義が回復するまではスペイン政府に渡さない」とのピカソの言葉通り、ずっとニューヨーク近代美術館に置かれ、1981年、ピカソ死後スペインにわたったのは、ニュースで報道されたのをかすかに覚えています。
写真を撮るわけにはいきませんので、ご覧になりたい方は会場へどうぞ。
同じフロアーには戦争に関連した作品がいくつか掲げられていました。
夏・・戦争の記憶を呼び起こす季節・・・それにちなんだ展示なのでは。
忘れないために、こうしたものを繰り返し展示していくことは大切でしょう。
・ ミロー 「スペインを助けよ」
1936年 スペイン支援を訴えるキャンペーンとしてデザイン。切手のデザインを
ポスターにしたもの
・ジャン・フォートリエ 「銃殺された人々」1943年 「黒い人質」
1940年対独レジスタンス運動に参加、パリ郊外に隠れて42年から開始された
「人質」シリーズは、45年発表され、大きな反響を。暴力・拷問・虐殺などの横行
する戦争という現実から生み出されたものと。
こんな時代環境のなかでも描き続けていたのか・・・
・福沢一郎 「敗戦群像」 「虚脱」
裸体の折り重なり積みあがった絵は、見るものに時代を感じさせる。富岡市生まれ
・鶴岡政男 「夜の群像」
戦争でつらい経験をし、終戦後1949年に描かれた。戦争の苦しみと戦後の混乱を
表現。 高崎市生まれ
ところで、美術には疎い私でも、どこかで名前を聞いたことのある画家の作品もあります。一部屋を使ってのムンクの絵の展示もありました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
壁紙展を紹介していませんでした。
美術館は我が家から近い場所にあるので、ちょっと目の保養に、といった気分でした。
写真はチラシにあった壁紙のデザインです。
表題になったモリスという方は、1834年~1896年に生きた方。
壁紙を使った部屋の再現が会場の一角にありました。
手の込んだデザイン、豪華、きれい。でも
日本人のセンスには、白壁に美しさを求める気持ちもあるかもしれません。
文化は、地域、時代でそれぞれなのでしょう。
下の写真のポットは、豪華ではあるけれど、でも
「部屋に置いたら、ほこりがたまるよな、扱いが大変だよな」とか、思ってしまうのは、日々の生活の追われてしまうからか。それとも現代に住む私たちの感覚なのか・・
モリスのデザインを現代に |
どんなにか手間のかかったことでしょう。
こうして、デザインで生活に潤いを、文化を感じさせたと言えるのでしょう。
現代の私たちは、生活者の感覚として、もっとシンプルな方が生活しやすいな、とか感じるような気がします…
実際、彼より前の時代から後の時代までの壁紙が展示されており、時代の経過とともに、デザインがよりシンプルになっていく様子もみられました。
現代に近づくと「洗える壁紙」との作品も。私など、これこそ、清潔でいいな、と感じますから。
最後に、モリスのデザインをとり込んだ模様の布が、大きくいっぱいに掲げられていました。
これ、まったく違和感なし。どこかで見たことがあるような感じがします。同じようなものは布として販売されているのでは。
なるほど、今でも通じるとは、優れたものとはこういうものなのか、と思いました。
暑さでダウンしそうな今年の夏、クーラーのきいたこうした施設を訪れるのもいいものかもしれません。
2018年8月10日金曜日
科学のお楽しみ広場・・手作り実験満載
酷暑に負けて、数日、何もしたくなかった・・・
数日前には、すぐ目の前の住宅街の道路で、熱中症で倒れたお年寄りが救急車で搬送。
翌日の新聞には”多数の方が搬送、玉村の人は重症”とあった。この日の気温は39℃。
大丈夫だったでしょうか・・・
でも、暑さに負ける前に、人の熱気でいっぱいの場所に行ってきました。
外は猛暑、猛烈な暑さの毎日でした。めげずにホールの中は熱気・元気いっぱい。
場所は高崎市総合文化センター内中央公民館。科教協(科学教育研究協議会)全国大会が群馬県で開かれていました。多くの先生たちが集まっていました。
もう1週間もたってしまいましたが、写真で熱気をお伝え出来たらと思いました。
写真は、「お楽しみ広場」で、誰でも参加自由、無料。子供たちもやってきてました。科学工作、実験の工夫が所狭しと並んでいます。
何これ、という感じですね。
ガラクタ市? いいえ、どれもそれぞれの人が持ち込んだ、「楽しい実験・あそび」の材料です。
この広場が開いたのは午前中だけで、足をとめて見られたのは、ほんのわずか。時間が足りない。
聞けば、いろいろ説明してくれます。
塩ビ管を登る虫・・クルクルまわりながら登ります。
動きのあるのは楽しい。磁石をうまく使ったりしていて、この動きについて聞けば、「私が工夫しました」と。
廃棄のCDは、いろいろ組み合わせて、虹色を楽しめます。大きなコマをつくっていました。回すと、きれい! 分光シートをちょっと張り付けたお土産もあります。
このブースの人、クリップやら紐やら昆布まで、なんでも組んで、いろいろな形をつくっていました。
これにさらに磁石を組み合わせて、ボールペンの先っぽにぶら下がってクルクルまわっていました。目を引きます。
写真ではゴミみたいにしか見えませんが。
出展者は、何でも組んでみたくなると、楽しそう。
学校の理科の時間にすぐ使えるものはもちろんあります。顕微鏡で見るもの、岩石や化石の標本なども。
下の写真も学校授業に即、使えそう。というより、使っている。乾電池と裸銅線と、磁石と、ちょっとした金具が材料。
うまくセットすると,銅線が回転します。スムーズに。動画を載せようと思ったのですが、うまく入れられなかったので(そういえば動画を載せたことなかった、今わからないので、すみません。動いてないと面白くないですね)
小学校低学年でも作れそうで、工夫もできる。
どうやったらうまく回転するか、形はどうしようか、とか。
銅線がプラス側から離れると、即、止まってしまうのは電気の流れを感じさせるし、回転は電気と磁石の関係を、余分なものを省いてシンプルに見せてくれる。
「こういうの見たことないんですけど」と言ったら、「そうでしょ。私が工夫しました。ネットにも載ってないですよ。私の地域ではみんなでやってますけど」ですって。
どこですか、と聞いたら、群馬県の沼田。頑張ってる人、いるんですね。
会場は、ホール以外にもあり、少しスペースのあるこの会場は、元教室だったのでは。
リングと輪にした紐だけで、ワイワイやっている所がありました。輪になったひもをリングに通し、ひもを手に持ってリングをエイっと落とす・・するとあら不思議、写真右のように、リングがひもにぶら下がる。なかなかできないところがいい。
えーっと、これ、なんだか知っているような…しばらくして思い出しました。ずっと昔、これ、子供と遊んだものだ・・
ひもを使った遊びって”指ぬき”とかいくつかあって、そんな本を見ながら、遊んでいたなあ…ちょっと手品のようで楽しい。でも、どうやるのだったかすっかり忘れ果てていました。たしか家に本があったなあ・・・これ載っていたかなあ・・・
昔からの遊びでしょうが、知ってる人って少ないですよね。昔を思い出して、なんだか楽しくなりました。 遊ぶ動物は知能の高い動物だそうですよ。人間も動物なんですよね。
先ほど、NHKの特集番組で、「暴力に無抵抗な教師 今学校現場で何が」というテーマが取り上げられていました。教師に暴力をふるう生徒とそれをなかったことのように授業に戻る先生の姿が写っていました。教室にいた生徒が撮っていた動画です。
生徒による対教師暴力が増加しているといいます。すぐに警察に引き渡せばいいという意見もありますが、生徒の将来を考えるとどうするべきか、教育の場であり、人って間違いをしながら成長するもの。それを支えて教える場が学校のはず・・とはいえ、悪いことを悪いとも言えないとは・・・バットで後頭部を殴られた若い女教師もいました。とにかく子供たちが教師をバカにしている気分が垣間見えるような・・・。学校の評判を落とすことに神経をとがらせざるをえない学校、親にどうみられるかを気にせざるをえない現場・・・指導するというより、もみ消してしまうことも・・・大変だなあ・・長時間の練習が問題になっている部活動も、生活指導も郊外巡視も小学校の英語やら道徳教育やら、膨大な書類作成やら、とにかく、やることばかりが増え、一方教師に対する尊敬の念は消え果てて・・・
それでもこうして頑張っている方々がいることに、応援したい気持ちになります。
がんばれ、でも、頑張りすぎないで。
こんなに楽しそうにしている姿、気持ちいいものですね。
数日前には、すぐ目の前の住宅街の道路で、熱中症で倒れたお年寄りが救急車で搬送。
翌日の新聞には”多数の方が搬送、玉村の人は重症”とあった。この日の気温は39℃。
大丈夫だったでしょうか・・・
でも、暑さに負ける前に、人の熱気でいっぱいの場所に行ってきました。
外は猛暑、猛烈な暑さの毎日でした。めげずにホールの中は熱気・元気いっぱい。
場所は高崎市総合文化センター内中央公民館。科教協(科学教育研究協議会)全国大会が群馬県で開かれていました。多くの先生たちが集まっていました。
もう1週間もたってしまいましたが、写真で熱気をお伝え出来たらと思いました。
写真は、「お楽しみ広場」で、誰でも参加自由、無料。子供たちもやってきてました。科学工作、実験の工夫が所狭しと並んでいます。
何これ、という感じですね。
ガラクタ市? いいえ、どれもそれぞれの人が持ち込んだ、「楽しい実験・あそび」の材料です。
この広場が開いたのは午前中だけで、足をとめて見られたのは、ほんのわずか。時間が足りない。
聞けば、いろいろ説明してくれます。
塩ビ管を登る虫・・クルクルまわりながら登ります。
動きのあるのは楽しい。磁石をうまく使ったりしていて、この動きについて聞けば、「私が工夫しました」と。
このブースの人、クリップやら紐やら昆布まで、なんでも組んで、いろいろな形をつくっていました。
これにさらに磁石を組み合わせて、ボールペンの先っぽにぶら下がってクルクルまわっていました。目を引きます。
写真ではゴミみたいにしか見えませんが。
出展者は、何でも組んでみたくなると、楽しそう。
下の写真も学校授業に即、使えそう。というより、使っている。乾電池と裸銅線と、磁石と、ちょっとした金具が材料。
うまくセットすると,銅線が回転します。スムーズに。動画を載せようと思ったのですが、うまく入れられなかったので(そういえば動画を載せたことなかった、今わからないので、すみません。動いてないと面白くないですね)
小学校低学年でも作れそうで、工夫もできる。
どうやったらうまく回転するか、形はどうしようか、とか。
銅線がプラス側から離れると、即、止まってしまうのは電気の流れを感じさせるし、回転は電気と磁石の関係を、余分なものを省いてシンプルに見せてくれる。
「こういうの見たことないんですけど」と言ったら、「そうでしょ。私が工夫しました。ネットにも載ってないですよ。私の地域ではみんなでやってますけど」ですって。
どこですか、と聞いたら、群馬県の沼田。頑張ってる人、いるんですね。
会場は、ホール以外にもあり、少しスペースのあるこの会場は、元教室だったのでは。
リングと輪にした紐だけで、ワイワイやっている所がありました。輪になったひもをリングに通し、ひもを手に持ってリングをエイっと落とす・・するとあら不思議、写真右のように、リングがひもにぶら下がる。なかなかできないところがいい。
えーっと、これ、なんだか知っているような…しばらくして思い出しました。ずっと昔、これ、子供と遊んだものだ・・
ひもを使った遊びって”指ぬき”とかいくつかあって、そんな本を見ながら、遊んでいたなあ…ちょっと手品のようで楽しい。でも、どうやるのだったかすっかり忘れ果てていました。たしか家に本があったなあ・・・これ載っていたかなあ・・・
昔からの遊びでしょうが、知ってる人って少ないですよね。昔を思い出して、なんだか楽しくなりました。 遊ぶ動物は知能の高い動物だそうですよ。人間も動物なんですよね。
先ほど、NHKの特集番組で、「暴力に無抵抗な教師 今学校現場で何が」というテーマが取り上げられていました。教師に暴力をふるう生徒とそれをなかったことのように授業に戻る先生の姿が写っていました。教室にいた生徒が撮っていた動画です。
生徒による対教師暴力が増加しているといいます。すぐに警察に引き渡せばいいという意見もありますが、生徒の将来を考えるとどうするべきか、教育の場であり、人って間違いをしながら成長するもの。それを支えて教える場が学校のはず・・とはいえ、悪いことを悪いとも言えないとは・・・バットで後頭部を殴られた若い女教師もいました。とにかく子供たちが教師をバカにしている気分が垣間見えるような・・・。学校の評判を落とすことに神経をとがらせざるをえない学校、親にどうみられるかを気にせざるをえない現場・・・指導するというより、もみ消してしまうことも・・・大変だなあ・・長時間の練習が問題になっている部活動も、生活指導も郊外巡視も小学校の英語やら道徳教育やら、膨大な書類作成やら、とにかく、やることばかりが増え、一方教師に対する尊敬の念は消え果てて・・・
それでもこうして頑張っている方々がいることに、応援したい気持ちになります。
がんばれ、でも、頑張りすぎないで。
こんなに楽しそうにしている姿、気持ちいいものですね。
2018年8月2日木曜日
川原で見られるもの
ちょっと涼しい日があったと思ったら、また猛暑。
熱中症でたくさんお方が亡くなっており、豪雨もある・・・テレビニュースでも専門家が
「異常気象といってよい」と言っていました。気象災害が増えるという予想も。
豪雨災害について、元建設相土木研究所次長だった方がご意見を投稿されていることを教えていただきました。以下に載せます。
河川管理の現場に立っていた方のご意見には重みがあります。
”
安く効果的な治水を求める声は以前からあり、それを「ダム建設の妨げになると思ったOBの横やり”等、歴史経過もご存知の方の声でしょう。
これからの日本、自然災害にも多くの知恵と努力を傾けねば。
利根川べりで育った私ですが、川のことはそれほど知りません。
でも、川風に吹かれたり、水に足を浸したりで、川の雰囲気は心にしみついているのかも。
男の子は、川で釣りや仕掛けで魚をとったり、泳いだり。中流域の利根川は川幅も広く、急な流れもあり、結構危ない場所もあるわけです。私の同級生のお兄さんがおぼれて亡くなり、その後泳ぐことは禁止になったと思います。女の子は、水辺で「メダカ」と称した魚の子をつかまえたり、石を積んだり、暑い日、素足を水に浸してバシャバシャと遊んだり。
親たちは養蚕道具を川へ持っていって洗いました。
台風のあとの「大水」を見に行って、膨れ上がる水をながめたりもしました。最近は「川を見にいたりしないでください」とニュースでも注意を促されますが。
でも今の子供は、川とはもっと疎遠でしょう。「よい子は川で遊ばない」なんていう看板があったりしていましたし。たしかに、危険な場所もあります。ですが、知らないということは、怖いこと。
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下仁田では、青岩公園という場所で、しばしば石の勉強が行われてきました。
川の水の流れについても、いろいろ学べます。
前橋工科大学の学生達が来た時、さすが大学生、目を凝らして、いろいろ見つけるのだそうです。案内者の方が学べたとか。いい話ですね。ちょっと紹介。
この公園は、川の中にあります。矢印の所などに大きな石がいくつもゴロンと見られます。〇の中は人です。
これは以前に紹介した時の図です。以下のページです。
http://geoharumi.blogspot.com/2017/07/blog-post_30.html
どうしてここにある?
質問すれば、もとからあった、人が運んだなどとの考えも。でも、「水が運んだ」ですよね。
近くに行くと、「こんな大きい石、運んだんだ・・・」とつくづく思ってしまう。
洪水の時、土石流とまではいわなくても、泥、石混じりの流れがあったことでしょう。その時には、小さな石もたくさん混じっていたはず。洪水の時川の近くに行ったら、ゴロゴロと石のぶつかる音が聞こえたと、地元の方が言っていました。
運び上げられた大きな石の後ろには、背の高い木がはえています。よく流されずに残ったなあ。水の流れが渦の関係などでゆるくなったのかな?・・東北の震災では立ったまま残った「奇跡の1本松」もあったし。
幹についた凸凹 下のほうだけに見られる |
デコボコの拡大 |
小さなポットホール 10個以上は見られたかな |
チャートの表面 |
転がっている丸い石には硬い岩のチャートもたくさんあります。その表面になんだかまるっこいものが見えます。これも、石が
当たって出来た跡かもしれない・・・と。
見る目があれば、いろいろ見えてくるものです。
この川を少し下ると、大きなポットホールがあります。
川の流れから8mも上になる崖の上にあって、簡単に近づけないのが残念です。ずっと昔にできたものでしょう。
大きなポットホール 写真 本多優二さん |
左の写真では 石のくぼみに小石がたまっています。場所は青岩公園の少し上流。こんなくぼみがたくさんありました。この石が水の流れにぐるぐる回って石を削っていたのではないでしょうか。
これもポットホールの赤ちゃん?
ついでなので、他に見えるものも。
川岸の崖に見える白い模様 力が加わってできた割れ目を方解石が埋めてできた 力の様子を示す雁行状の模様 |
岩畳の上に引っかかっている柱状節理。 20㎞ほど上流に見事な柱状節理があるという。 上流を歩いた時、川にこういった細長い石がごろごろ転がっていた。 |
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