2018年7月28日土曜日

豪雨水害、日本は自然災害の多い国なのに

日本は自然災害の多い国 
     頭に叩き込んだ方がいいですね

今、台風が東から西へ向かっている・・・考えられないコース・・・
この夏の酷暑・・・
  今までにない気象現象が頻発する日本・・・いえ、「世界でも」らしい。
  気候変動が起こっていると、誰もが思わずにいられないのでは。

 西日本の豪雨災害は、本当に痛ましい。200名以上の方が亡くなっています。
そのあとの猛暑。私など、クーラー使っているのに、何だか頭痛がしてきそうな気分で何もしたくなくゴロゴロ過ごしていたのに。被災された方々、あの暑さの中、水もなく、お風呂にも入れず、体育館などにいたのでしょう。いたたまれない。
 台風は、今、西日本方面に向かって、西方向に移動中。また崖崩れなど起こらねばいいのですが。せっかく運び出した土砂が、また流れ込んだりしなければいいのですが。

 西日本地域の、崩れやすい風化した花崗岩のマサの地質は、より一層、土砂崩れを招いたでしょう。土砂に家が巻き込まれて亡くなった方がたくさんいます。平地も少ないですね・・・
 そんな中で、水に沈む町がニュース画面に大きく映し出されていました。川の水の災害を考えてみました。


  • 岡山県倉敷市真備町 小田川の堤防の決壊で51人死亡、地区の3割、120haが浸水。
  • 愛媛県西予市 ダム放流量急増 河川で車ごと流されるなどして5名死亡


日経新聞7/17付


愛媛の例を見てみます。
 左図は西予市を含む地域の、当日の状況です。
肘川という川が流れ、2つのダムがあります。図の野村地区で5名の死者が出ています。ダムの放流が原因ではと。
ところでここは、洪水ハザードマップを作成していなかったことも判明。

4日後の11日、国交省が記者会見をしました。ずいぶん遅いなあ。 で、何を言ったかというと

放流はやむを得なかった」
「住民への周知も適切だった」

何のことはない。
『自分たちはやることをちゃんとやった。自分たちは悪くない』
と言っているだけ。

『下流域の被害は予想されたが、想定外の雨量でやむを得なかった。午前5時10分ころから大州市に連絡していた。放水の1時間以上前、警報のサイレンを鳴らした。』 『3台の車両や流域にあるスピーカーなどで注意を促した』

  聞いてない方が悪い? 
 自分たちは全力を尽くした。いえ、決められたことはやった、ですね。
仕事として決められたことはやったのだから、自分たちに責任はない、としか聞こえないでのですけど・・・オリンピックや高校野球じゃないのだから、一生懸命やったのだから、それでいい、というわけにはいかない。
 
 地元の方々は、『警報は聞いていない。明け方で、土砂降りの中で聞こえなかった。午前8時過ぎに近所の人からの連絡で気づいた。津波のように押し寄せてくる水を見た。ダムが自分たちを守ってくれると思ってきたのに』など。こんな未明に、大雨の中、警報なんて聞く人ほとんどいないよね。

ダム流入量と放水量のグラフがあります。

八ッ場あしたの会HPより
 以下に、解説の一部をのせます。

「いかに急激な増水だったかがわかります。
ダムがなければ流量の上昇には4~5時間かかりましたが、ダムがあるために、ダムからの放流で流量上昇時間が1~2時間に短縮され、しかも、そのうちの数十分で流量が急上昇しました。」「ダムの放流水は殆ど高いところから落とされるために、スピードが加速されて下流を下ります。そうすると今までの速さで流れているところにぶつかって水が掃けなくなります。ダムが放流した場合の先端は津波のように立ってくるので、堤防を越えやすくなります。」

当日は安全放水量の6倍の水が放水されました。放水しないと、コンクリートのダム部分は大丈夫でも、まわりの岩が削られて、ダムが壊れる、ということのようです。ダム決壊だと、大変な被害を生むでしょう。
 おりしも、7月23日、ラオスで完成まじかの建設中ダムが決壊し、数百人が行方不明、洪水が6つの村を襲い、6600人以上が家を失った、っというニュースが飛び込んでいました。

「ルールに基づいた処置だった」 だから、正しい?
「そりゃ、ルールがまずいんじゃないの。もう少し他の方策も考えなくちゃいけないんじゃないの」というのが、普通なら考えることじゃないのだろうか。同じ過ちをくりかえさないためにはどうしたらよいか、考えなくては。亡くなった方々へのまなざしを感じられない。

「ダムがなければ、もっと被害は大きかった」 関係者は口をそろえているといいます。
「異常時の放水は仕方ない」         これも同じく

 でも、「想定を超える大雨が降ると、ダムが無力になり、洪水は防げない」
これは以前から言われ続けていることだとか。無視されていますが。

・ダムの治水効果を過大にアピール
・ダム治水の限界、ダムの危険性の周知の努力を、ほとんどしてきていない
・ダム建設に予算の多くをつぎ込んでしまい、堤防強化や河川改修という、もっと安くて短時間にできることをやってこなかった

これらも、ずっと言われ続けてきていると思うのですけど。

多くの方が亡くなった岡山県倉敷市真備町、ここは河川改修を行う直前だったと聞きます。
高梁川にそそぐ小田川の堤防が決壊していますが、支流の小田川の水が水量の多くなった高梁川に入れなかったことからの結果といいます。高梁川には5つのダムがあります。それでも、防ぐことはできなかった・・・関係者は「ダムがなければもっと被害は大きかった」と口をそろえるようですが、ダムを一つやめて、そのお金で堤防強化・河川改修を早くやるべきだった、とは、誰も言わないのですね。
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ところで、この間、政府のやってきたことが腹立たしいので、時系列で書いてみると
 
5日午後2時  気象庁 「西日本と東日本で記録的大雨のおそれ」と発表
     5日夜  自民党中心人物たち、赤坂で宴会。安倍首相、政調会長、
         総務会長、防衛大臣、法務大臣、国交大臣・・・ 
         しかも水害の中、ツイッターで写真付きで知らせている者も
6日午後9時50分  倉敷市小田川に氾濫警戒警報  10時29分 氾濫危険情報
7日午前0時30分   小田川に氾濫発生情報
    1時34分  国交省 小田川の堤防決壊確認  0時30分 2か所目の決壊確認
7日朝      愛媛・肱川 氾濫
      11日 国会は”カジノ法案”審議入り 石井国交大臣はこの法案の担当相で、
        カジノ法にかかりきり
13日  安倍首相 被災地訪問  
      15日未明 カジノ法、衆院内閣委員会で可決
16日  国交大臣 被災地訪問

この後、カジノ法成立、参院定数6増の成立

この人たちがどこを向いているのか、考えるだけでも暗くなる。
この人たちに、命を預けてはいけない、と・・・つい、長々と書いてしまいました。
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今回のことで、私は実は、とてもザワッとした嫌な感じを受けました。
「決められたことをきちんと果たしたのだから、私は正しい」
  これをちょっと変化させると
「言われたことをやっただけ。だから、責任はない。私は悪くない。」

これって、かつて、たとえばナチスのユダヤ人虐殺等で、実際に役割をはたした人たちが言っていたこと。日本軍でも同じ。自分に責任があると思っていない。
それに関した、有名な心理学実験もある。実験だからと言って、別室の見えない人に電気ショックを与えて、だんだん電圧をあげていく実験(本当はこれはウソ。電気なんか流していない)。相手が苦しんでいる声をあげるのに、多くの人が電圧をどんどん上げていっも、なかなかやめようとしない。言われたことだから、やりとげなくてはいけない、と。

つい最近知った、ナチス宣伝相のゲッペルスの秘書をしていた女性の映画の宣伝についての一部を紹介します。

「何も知らなかった。私に罪はない」。ナチス宣伝相ゲッベルスの秘書が、103歳にして沈黙を破り独白する。オーストリアのドキュメンタリー映画「ゲッベルスと私」が公開される。強大な権力に対し、自分を殺し従順に生きるか、声を上げる勇気を持てるか。今日的テーマを持った作品だ。

 ブルンヒルデ・ポムゼルは敗戦までの3年間、秘書を務めた。紳士的な上司の下で指示された仕事を忠実にこなし、ユダヤ人女性の親友の窮状に接しつつもホロコーストについては何も知らなかった、と語る。

 「知ろうとせず、目をそむけた。しっかりした知性の持ち主の彼女がそうしたのは、ある種の自己防衛。戦後、『何も知らなかった』と言い続けたのも自己防衛だろう」と、共同監督の1人、フロリアン・バイゲンザマーは語る。

 反ナチ運動「白バラ」のショル兄妹の処刑について「残酷だった」とポムゼルは言いつつ、「黙っていたら彼らは生きていたのに」。そして金庫にしまった裁判記録に興味があったが、「忠誠心から見なかった」と誇る。
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自分は正しかった、人はそう思いたがるのではありますが・・・
話がちょっと飛躍しすぎたかな。

書き忘れていました。最後に東京新聞の7月13日付から
  「ダムにつぎ込んだ人手、熱意、資金の何分の一かでも 防災教育と避難訓練に
    まわしていれば」

資料の多くは八ッ場あしたの会のHPから使わせていただきました。

2018年7月24日火曜日

夏の絵手紙を

暑い!
 少しはさわやかな気分にと、夏の絵を  
           絵は小林生子さんです

     今年は楽しむより、「命を守る」になってしまっていますが
     みなさん、無理しないで過ごしましょう























早朝は涼しい  花もみずみずしい
  私たちも 生き返りますね
  早起きしています。
                    でも、さわやかなのは早朝だけ・・






夏の花、ひまわりに、今年は
ちょっと暑苦しさを感じてしまいます











トロロアオイ






花オクラという、花を食べる野菜があります。
シーズンはこれからでしょうが、これはなかなかさわやかな姿の花。食べたときのとろりとした食感も、好ましい。
 この植物はトロロアオイのことだと書いてありました。我が家の庭には、いつのころかどこかから持ち帰った種からはえたトロロアオイが咲きます。品種が違うということもあるし・・食べていません。いつも自然にはえてきます。でも、今年はみんな削りとってしまったか・・見かけないので、慌てています。

どんびえ
棚の奥から、昔使ったアイスクリームをつくる道具が出てきました。懐かしい。
子供とよく作ったものです。発売当時は人気で、入手するのに順番待ち。 でも、最近は聞いたこともない。
懐かしくて、暑さも手伝って、作ってみました。

 この入れ物の中に、生クリームと牛乳と砂糖、バニラをぽたりとたらして、くるくる回せば出来上がり。
  



どうして冷えるかというと・・
 
冷やした特性ポットを使うのです。下写真です。
アルミ製のポットには、蓄冷材が入っていて、冷凍庫で7時間以上冷やします。それが材料をうまく冷やします。
蓄冷材はチルファストという物質だそうです。
使われなくなったのはこの物質に問題があるのか?と思って調べたのですが、特になさそう。
子供がポットに触って、冷たい金属に手がくっつく事故なんかあるとか? そんな面倒なことするより、市販のおいしいアイスクリームを買った方がいいと言う人が多い?
 まあ、ものには「はやりすたり」がつきもので、長く愛されるものとは、相当なものということでしょうか。ロングセラー、定番商品とは、すごいことなのですね。伝統のものというのも、すごいことですね。

 いずれにしても、次々と新しいものがつくられ家庭に入ってきた昭和の時代を身をもって体験してきたものにとっては、そんな、物の歴史に思いをはせる時間にもなりました。
 アイスクリーム、おいしかったですよ。

 田んぼの生きものを見に行こうと思っていたのに、この暑さ、行く気になるような日がない。カブトエビもホウネンエビも小型ゲンゴロウもミドリムシも、もう今年はあきらめです。時期が少し遅くなると、姿を見かけなくなるものもあります。特に、カブトエビ、ホウネンエビは。
以前、紹介したことがありました。以下です。そこらにある水の中の生きものにも、思いをはせてみませんか。

 http://geoharumi.blogspot.com/2014/07/blog-post_20.html 








2018年7月18日水曜日

チャツボミゴケ公園 珍しいコケの公園

酷暑  小学生も亡くなっていますね。かわいそう・・・
      日本は気候が変わってしまった。

少し涼しそうな話を
 用事があって、チャツボミゴケ公園に行ってきました。はじめて行きました。


場所は草津のすぐ近く。
合併前までは
六合村くにむら、今は
中之条町。


コケが生えています。
茶壺、ではなくて
茶・ツボミゴケ
です。
ツボミゴケの一種です。


茶色は鉄サビの色です。



どおりで、ここは昔
鉄鉱石を採掘した
「群馬鉄山」の跡地です。






















水の流れの中に、フカフカした緑が見られます。これがコケ。
フカフカですが、踏んだりしないこと。ダメになります。
水の中にも見かけます。

この水はじつは普通の水じゃない。温泉、と思えばいいかな。
かなり酸性のきつい水で、pH2.8とかです。いろいろなものも溶け込んでいるでしょう。
水の中には白っぽいものも沈んでいます。湯ノ花 といった感じでしょうか。

こんな酸性の強い場所には普通は植物は育たないです。でも、このコケはこの酸性の水が大好き。というより、普通の水では育たないのです。世の中にはいろいろなものがいるものです。




強酸性の水の流れている場所だけに育つのですから、間違っても持ち帰って育てようなどと思わないこと。












数年前までは知る人もほとんどいなかったでしょう。
昨年、国の天然記念物に指定され、最近は群馬県人にはけっこう広く知られています。
コケ好きの人も、最近は増えているようですね。
休日で猛暑のこの日には、たくさんの人が訪れていました。



終戦近く、鉄を欲しい時期、鉄鉱石を掘った場所ですから、茶色い石も転がっています。

そのさらに昔、平安時代とかには、この赤茶色のものを都まで送ったとか。
ベンガラ(塗料)として。
お土産に売っていたので、買ってきました。


それにしても、こんな山奥の不便なところまで、そんな昔に人が来て採取していたのですね。
驚きです。

草津から近いこの場所、観光客をよぼうと、道を整え、駐車場から現地までの1.3㎞には、バスが走っていました。100円で乗れます。
強気で頑張っているのかな。

昔、鉄鉱石関連の施設のあった平らな場所には、びっしりと太陽光パネルが置かれていました。世の中の移り変わりを感じます。


2018年7月13日金曜日

如意寺・戦時中、なくなった中国人労務者を慰霊した寺

  水害
ピンク色のねむの花がやさしく咲くころ、ああ、梅雨の季節だなと思います。
梅雨と言えばアジサイのイメージですが、私にとってはこれも梅雨の季節の花。
川辺にもはえる木で、糸のように長く伸びているのはおしべです。夜になると葉を閉じるのも、なんだか楽しい。

私の近所では、もう花の盛りを過ぎています。いよいよ夏本番です。
先日関越高速を走っていたら、周囲にたくさんのねむの木が満開でした。
  荒れ地に最初に入り込む木、パイオニアツリーのひとつと聞きます。


そんな梅雨末期の大雨。
西日本の大雨災害、その映像に釘付けでした。
恐怖を感じるような強い雨は、どんなに恐ろしかったことでしょう。
まだ行方不明の方も多数いらっしゃるという現実です。
  最近の西日本、今頃は毎年のように大雨なのでは。
  地球温暖化による気候変動、という言葉が、現実味をもって迫ってくるようです。

如意寺   
第二次世界大戦末期、労務者として働き亡くなった中国人を弔い、慰霊碑もあるお寺と聞いていました。
行って見たいなと思いながら、そのままになっていましたが、先日近くに行ったおり、訪ねました。
場所はみなかみ町、関越高速道路月夜野インターから間近の場所です。











 周囲にはリンゴ畑も広がる山里のお寺でした。
境内には沙羅(ナツツバキ)が静かに咲いていました。

寺の裏手は少し小高くなり、竹林も広がっています。
野ウサギの姿をみかけました。

慰霊碑は境内の回遊路の一角にありました。
  中国人殉難者慰霊碑
1970年竣工。中国との国交が回復するのはこの後、1972年のことです。


左わきにはこの碑建立の由来の書かれた石の板があり、裏面にはこの碑建立にあたって
お金を出しあった方々が記されています。
 どんな方々かというと

・亡くなった方々の働いた工事関連会社
 (株)間組  東京電力 
 
・下に記した地元の方々
月夜野町はじめ21すべての部落の人々が、当時10円20円を出し合って、総額50万円のお金で建設されたものとのこと
最近の塔婆もありました

地域の地区名がたくさん書かれてありました
 後閑 師 真坂 小川島 南区 ・・下区
 上組 ・・学校・小和田・・・上牧 
 下牧・・・
地元の方ならわかる地名でしょう。

地域の皆さんの総意でこの碑を建てているわけです。どうしてこのようなことができたのでしょうか。

このお寺の住職は戦時中であっても、
亡くなった中国人を、日本人と同じに弔い、過去帳も作り、遺骨を保管し、戦後は遺骨を本国の遺族のもとに返したという歴史があったのです。


竹林をたどった先には
軍馬の慰霊碑もありました。多数の馬が軍馬として徴用され、
海を渡り、そして,1頭たりと帰ってくることはなかったのではないでしょうか。
田畑を耕し、家族同様にかわいがっていた馬たちもたくさんいたことでしょう。

以下に慰霊碑の写真を載せます。









以前、この話はブログに書いたことがありました。”川原の石のふるさと”というテーマのページでしたが、その後ろに付け加えて書きました。

解説の一部を載せます。発電所建設(岩本発電所導水路工事)のため中国人を働かせましたが、同時に、飛行機をつくっていた太田の中島飛行場関連の工場疎開のために,後閑にトンネルも掘っていました。そこを見学させていただいた時のものです。

この壕は学徒や中国人ら約3,000人を動員した突貫工事だったとのこと。中国人は利根川の発電所建設のため、約14kmの導水路(ほとんどトンネル)建設工事に従事させられ、その後、月夜野地下壕にも移され、612人のうち合計59人が死亡しています。飢え、過労、栄養失調、逃亡を図って溺死、毒草による中毒、中には撲殺も。月夜野にある如意寺の住職は「死者に中国人も日本人もない」と、丁寧に戒名をつけ、檀家の者と同じに手厚く葬り、出身地や年齢まで過去帳に記載し保存したといいます。死亡した中国人の氏名と出身地,死亡原因が判明しているのは、全国でもめずらしいといいます。合祀された方々のために、「中国人殉難者慰霊碑」という墓標をたて、毎年冥福を祈りました。安置所には「何年後トイエ共此札取リ去ル可カラズ」と書かれた木札が掲げられ、1953年には遺骨を本国へ送置することもできました。
お寺には「中国人殉難者慰霊之碑」があります。1970年竣工でした。日中国交回復より前からこうしたことを行っていたのですね・・・月夜野町はじめ21すべての部落人々が、当時10円20円を出し合って、総額50万円のお金で建設されたものとのことです。



本堂

お寺の本殿をちょっと拝んで帰ろうとすると、ちょうどバケツとぞうきんを持った女性が出てきたところで、明るい声で「おはようございます」とあいさつしてくださいました。
「慰霊碑を見せていただきました、お話を聞いていたものですから」、とお礼を言うと、
「中に入ってご覧になりませんか」   何ともうれしい話です。
許可をもらって、写真も撮らせていただきました。


本堂には ご本尊がまつられています。この後ろに亡くなった中国人の遺骨を安置したのだそうです。

「先々代はとてもきつい人で、憲兵が来ても、ここより先には決して入らせなかったとききます」と。戦時中です。うっかりしたら憲兵にしょっ引かれる、何されるかわからない時代です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    
ご本尊のまつられた場所の裏にまわると、下写真の板が取り付けられていました。

何年後トイエ共此札  取リ去ル可カラズ  
         こう書かれています。気迫さえ感じます。

1953年、遺骨を返還する際にこの場所に、「遺骨安置所」のこの木札を下げたとのことです。
気づくと写真左下端に供養のお知らせのプリントが写っていました。こうして毎年供養の会を開いて、それで慰霊碑のわきには新しい塔婆があるのだと、納得しました。

ここは引き戸になっていて、「ここに遺骨が納められていたんですよ」とおっしゃり、
戸を開けてくれました。「ここは一切、何も動かしてないんですよ」
遺骨を納めていたであろう壺もそのまま。
写真を撮らせていただきました。


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  以下は フィールドワーク 群馬の戦争遺跡 の一部から           
       (第10回戦争遺跡保存全国シンポジウム群馬県実行委員会編 2007年)
                    重複する部分もありますがご容赦を

「発電所工事の現場にも近いことから、中国人犠牲者はこの寺に葬られました。当時の住職・坂西道仙師は
  ”たとえ敵国の俘虜であっても死ねば仏の前では一視同仁”
と言って手厚く葬り、過去帳にも檀家同様に出身地や年齢まで詳しく記載し遺骨は本堂の須弥壇裏に安置しました。」

当時の状況については以下です。少しまとめて書けば

「”当時は食糧は非常に粗悪で、カボチャ、トウモロコシ、サツマイモなどが主食であったが、それすら満足に食べられない慢性的な飢餓状態”と工事を担当した間組の社史にもあるほど。
1日12時間に及ぶ厳しいい労働で、1年足らずの間に43人もの中国人労働者が死亡。死因は飢餓・過労死や胃腸障害が多いが、溺死(あまりの苦しさに脱走を図っておぼれ死んだのでしょう・・)・毒ウツギ中毒(野草を手当たり次第食べたのでしょう)・・暴力、虐待は日常茶飯事。あまりの悲惨な状況を見かねた地元の人がひそかに食べ物を分け与えたこともあったといいます。

この難工事、強制連行された中国人606人と、朝鮮人約1,000人が動員されたそうです。
掘削といっても、ノミで掘れるのは1日でせいぜい30~50㎝だったといいます。
・・・・・・・・・・・・・・・
 後閑に掘られた月夜野地下壕は、海軍設営隊・間組・さらに動員学徒・朝鮮人、強制連行の中国人を含むおよそ3,000人での突貫工事で掘られました。
発電所とこのトンネル工事で、多くの犠牲が生まれたわけです。
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如意寺では今でも慰霊をおこなっていますし、人々の心に残ることができます。
慰霊を進めてくださった坂西道仙師の気高い心と強い意志のおかげで、またそれを引きついでおられるお寺はじめとした皆様のおかげで、いまこうして歴史を知ることができます。
「一度あったことは、忘れればまた繰り返される」 これは実際にあったことなのです。

今、私の家の近くでは、高崎市の公園・群馬の森にある朝鮮人犠牲者追悼碑(2001年設置)を撤去せよとの主張が繰り返され、裁判も起こされています。全国にそういった動きもあるとも聞きます。

様々な意見のあるのはごく普通のことでしょう。ですが、こうして慰霊の気持ちを示している場があることも知ってほしいし、誇らしくも思えます。
  


  如意寺
   群馬県利根郡みなかみ町上津2578 〒379-1315
   TEL 0278-62-2693








2018年7月7日土曜日

プラム、鹿、どれも食べ物になるんですね

暑い夏・・・ちょっと早すぎ

ふと気づくと、前回書いたのいつだっけ・・・NHKのテレビ番組ではないけれど 
 『 ぼーっとして生きてんじゃないよ 』といわれそう。

それにしても暑い日が続いた。
ちなみに、我が家からすぐ、川の対岸の伊勢崎市の最高気温
  6月29日 37.4℃ 全国3位 の暑さ
     30日 36.8℃   2位
  7月 1日 36.5℃      3位
     2日 37.3℃      1位 
     3日 36.3℃         3位   これからどうなることか・・と思ったものです。

今日は大雨、特に西日本は大変。暑くはないけれど・・・テレビは終日災害情報を伝えています。
日本は気象災害も多い国といいますが、ほんとうだなあ。

 ところでこの数字は,あまりの暑さに、書きとめておいたもの。
ネットで調べたら書いてあるだろうと見たら、あれ?違う数字が書いてある??・・・日本気象協会を見るのがいいだろう。
でも、開いたページで、 ん?  数字が出てこない・・・・やっとのことで何とか・・みなさ~ん、誰でもわかると思わないでください、ちょっとしたことでも、ひとつステップがわからないだけでも、答えまで行きつけないのです。「こんな簡単なこと」でも、自分には常識でも、他の人にとっても常識とは思わないでね。

庭先の果実

庭先に果物を植えたくなります。昔は、買って食べることも少なかったわけで、実るのは楽しみだったわけ。
 プラムが実っています。昨年ほとんど実らなかったのですが、今年は鈴なり。それで、粒が小さくて貧相なんです・・・生で食べますが、鍋に入れて火にかけてつぶして、それをざるにあげておくと、きれいな濃い赤いジュースがたくさんできます。
お酒につけっれば、赤いお酒。
 昔からの品種らしく、まあまあの味ですが、無農薬、それでもほぼ毎年よくなります。皆さん、お世辞かな、「おいしい」と言ってくれます。
放っておくとぼたぼた落ちて始末に悪い。
忙しくて熟したのに気づかずに、一面にプラムの落ちていたこともあるなあ。











  もう1本、香り高くすごくおいしい大粒のプラムがありましたが、消毒しても灰星病で、実が毎年みんなダメになるように・・、あきらめて切りました。
 ちなみに、梅も「プラム」、同じ仲間というわけ。




 買ってみたユリがたくさん咲きました。
豪華。
でも、ユリはやっぱり、一重咲きの清楚な方がいいな・・・

もうじきヤマユリが咲きますね
野のユリは、ゆり根がおいしくて、イノシシなんかが食べてしまうとか。
花がきれいと、人がとってしまうし・・
きれいな野生の花、採らないでね。




山すそで、鹿が罠にかかっていました。
 鹿は「有害鳥獣の駆除」の対象。どこでも増えて困っています。減らさなければならない・・・
とはいえ、きれいな目をして、体も美しい鹿。野生のけものはお風呂に入るわけでもないのに、きれいな毛並みを見せています。
シカ肉を食べさせていただくこともあるのですが、こうしてシカを見てしまうと・・・・

 私たちは生き物の命をいただいて生きているのだと、あらためて思います。
無駄なことをせずに、ありがたくいただく気持ちを持つことを、教え教わっていかねばならないと思います。

 玉村には大きな食肉センターがあり, 言ってみれば屠殺場があるわけです。たくさんの家畜が運ばれてくるのでしょうが、少し離れていることもあって目には留まらず、おいしい肉だけ食べています。
 そこでは教育用なら内臓などをいただくことができます。「脊髄」「眼球」「脳」といったものはなかなか実感がわかず、昔、いただきに行ったものです。
脊髄は長いバナナのような感触。これが背骨の中にあるというのは、見ないとわからない・・・背骨にあるのは硬い骨、と思っているだけです。
頭だけを別の場所に運び、そこで耳、頬、を切り取って、売るそうです。毎日その仕事をするのも、たいへんだなあ・・・ほとんど豚ですが、牛も少しあるようでした。牛なら,舌も取るのでしょう。
豚の脳。半分に切っています。
頭の大きさから思うより 小さかった。
その残りをいただきました。眼球と脳を取り出せます。
豚の先祖はイノシシ、猪突猛進のイノシシは頭の骨が厚く硬く、刃こぼれしたようなナタを頭に当て、ハンマーでガンガンとたたくと、うまくいけばぱっかりわれ、ぶよぶよとしたやわらかい脳が取り出せました。
希望の女生徒も取り出し手伝ったものです。

物置の隅に、フォルマリン漬けのなごりが少し残っていました。


切った断面です。右側のしわの多い目立つ部分は小脳
捨てようかどうしようかと思い、たしか少し前処分したと思います。

まるままの脳もあったのですが、処分したっけ・・

脊髄は背骨の中を通っている神経の重要なケーブルと言えるでしょうか。
取り出すと、「腸?」と聞かれるような見かけ。
切れ端が残っていました。
脊髄の輪切り断面
豚の脊髄です。柔らかいものです。














海外からの労働者が多かったころ、中東からの人たちは、この脳を食べる習慣があり、もらいに来たとか聞きました。白子のような感じなのでしょうか・・・
 骨からは骨油をしぼり取れ、砕けば肥料なのだとか。
 いただいた命、大切に利用するのが、命に報いることでしょう。

うなぎがいなくなったとか、いろいろな魚がいなくなたとか・・・人間はこの100年もしない間に、海の魚まで食べつくすというのだろうか・・・それは傲慢ですよね。