~~~~~~最近の世の中 オリンピックやったけど、本当はそれどころじゃない ~~
コロナ感染者数の急増に、不安が広がります。
病床が足りないからと、入院を制限する、重症者だけ入院で、あとは自宅で、などと政府が言って大問題に。少しコロナがおさまっていた時に、次期感染の備えをするんだよと、専門家もジャーナリストもさんざん言ってきたのに、前と同じことの繰り返し・・・・政府担当者からは、もうやる手がない、などと言う声もあるとか。「これやったらいい」という声は巷にあふれているのだから、少しは耳を傾けなさいよ、です。変なリーダーを持つと、庶民は戦争で殺されたりする・・感染症でも殺される・・・・1年くらい前そんなことを思っていたけれど、現実になってきた恐ろしさ、です。
家にいることが多いので、ろくろく掃除も整理していなかった家の中の物の整理整頓を始める。暑い暑い夏は、草の繁り方も半端じゃなくて、これも大変。そんなこんなで、いつの間にか時間が過ぎる・・・
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資料の整理をはじめて、こんな「ちょぼっと」しかないのに整理できてないなんて、何やっていたんだ、と思う始末。
そんな中に、新潟との県境付近の三国山の説明を書いた文章がありました。
紹介しようかと。文字ばかりですが。
暑い夏、涼しい山に行きたいですね…でも、コロナの猛烈な感染、あちこち出歩くのはお勧めできません。上越県境三国の自然でも、ちょっと学んでみませんか。そして、いつか行ってみませんか。
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「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」 川端康成の「雪国」の冒頭の文は、上越県境の自然を実に視覚的にあざやかに表現しています。高く急峻な山、新潟側の豪雪と群馬のカラカラ天気。かつて田中角栄は、この山を削り取りたいと言ったとか。山によって、水蒸気が雪となって降り、新潟は雪に埋もれ、苦労を強いられるわけですから。
この県境の山を超えるのは困難なことでした。少しでも低くなだらかなルートをと作られたのが、三国街道だったといいます。古い歴史を持っているようです。細い山道はわずかな物資を運ぶのがやっとだったことでしょう。冬の峠越えは無理。時には雪による遭難事故もありました。
やがて谷川岳の下を掘ったトンネルで交通網が整備されていきました。いつごろできたのかなと思い、調べてみました。旅をしてネット紹介している「花鳥風月 Visual紀行」というページに、そんな歴史が書かれてありました。
- 三国街道 奈良時代にはすでに人の往来があったかもしれない、と。山の中をぬって歩く道。みなかみ町では今でもその名残の道を歩いて楽しめます。
中山道と三国街道を継承したような道が国道17号線となったのが1952年と書かれてありましたが、三国峠は通ることができなかったとか。自動車が通れるようになったのは1957年(昭和32年)、未舗装の道路でした。・・・こんな最近の話だったのか・・・ - 国鉄上越線 1931年(昭和6年) 谷川岳の下を通るトンネル開通。みなかみから直接越後湯沢に。以後はすべてトンネルを掘ってのこのルート。
- 上越新幹線 1982年(昭和57年)
- 関越自動車道 1985年(昭和60年)
登山好きの人には魅力ある山々が連なるこの地域は、人々の行き来を困難にしてきた場所でもあったわけです。
最近、群馬県境トレイルが整備されました。山好きの人には魅惑のルートでしょう。山岳地帯の尾根を伝って歩く道…いいだろうなあ…体力ないと無理な道。
三国山はどうやって山になったか、育つ植物にはどんな特徴があるか、10年ほど前、そんな話を書いたことがありました。この地域で自然ガイドをやっている人に聞かれて書いてみたものでした。
写真があればいいのですが、少ししかありません。当時はあまり写真を撮っていなかったなあ。
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三国山の生い立ち
山はどうやって高くなるの?
そんなことあまり考えたことないでしょうね。
火をふく火山は、火山灰や溶岩が積み重なって高くなるんだろうと思えます。富士山も赤城山も榛名山も火山なので、火山噴出物がたくさん積み重なっています。
では、三国山は?
三国山に登る |
*三国山の山頂に登ると、砕けた岩石に敷き詰められたガレ場があり、登りやすいように幅の広い階段がつくられています。砕けた石の表面は白っぽい部分もありますが黒い部分も顔を見せています。たたき合わせると、カンカンと乾いた音がする硬い岩石です。
この石は泥が固まって硬くなったもので、頁岩(けつがん)とよばれています。本の頁(ページ)のように薄く平らに割れやすいということからこんな名前が付けられたようです(なお、平らに割れやすくなっていない時は泥岩とよばれます)。地層には赤谷層という名前が付けられています。
*表面が白っぽいのは風雨にさらされて 風化したため。風化作用では細かく砕けてもいきます。寒暖の差が激しいと、温度差で岩石が伸びたり縮んだりして砕けやすくなり、さらに割れ目に入りこんだ水は凍って割れ目を広げ、岩は割れていきます。上越国境は豪雪地帯ですから雪による浸食等の影響もさまざまあるでしょう。ガレ場形成にも関係しているのでしょうか?雪・寒さ・さらに山を越える強風により、岩石のガレ場は風化でさらに砕け、下方に動いていきます。(雪の作用で、あの階段は壊れたりしないのでしょうか?)
泥はいつどこで積もった?
*泥は常識的に考えたら水の中に積もります。山の山頂には積もらないでしょう。実はこの山の山頂の岩石は、もともとは海の中に積もったとわかっています。しかも深い海の底。水深200mから2000m。どうしてわかるかというと、有孔虫という小さな生物の化石からわかるのです。水深1500mの海底にすんでいた有孔虫も見つかっているそうです。残念ながら三国山の山頂からは化石は見つかっていないのですが、湯宿温泉の川原の泥岩から有孔虫、カイメン、ウニなどの化石が見つかっています。三国山と湯宿には同じ地層が分布しているのです。三国山の岩石は後から熱などの影響を受けて、化石は消えてしまったようです。岩石が湯宿のものより硬いのは、そんな熱の影響もあると思われます。
*有孔虫からは堆積した時代もわかります。この泥が積もったのは1600万年から1350万年前。海が一番深くなったのは1400万年前。1㎜以下の小さな有孔虫が教えてくれました。ずいぶん昔の話なのでピンときませんが、人類誕生よりだいぶ昔になります。
(学校で教わる古い人類・アウストラロピテクスは150万~400万年前頃、恐竜が滅びたのは6600万年前といわれる)
*じつはこの時代、群馬県は広く海におおわれていたことがわかっています。
*海底火山の活動も活発で、赤谷地域には火山灰などからできた地層もあちこちに見られます。
海はいつから陸に?
*三国山は1646m。単純に考えて、仮に1500mの海底がここまで上昇したとしても、大地は3000m以上隆起していることになります。
山と谷の連なり |
三国山は大地が隆起してできた山と言えるわけです。
*深い海の底がどんどん隆起し始めたのは400万年ほど前からのようです。地下から大量のマグマが上昇してきていますから、押し上げたということもあるでしょう。
地下深くで固まったマグマは花崗岩の親戚で少し色の濃い石英閃緑岩といった岩石になります。花崗岩の仲間は谷川岳付近にも広く見られます。ところで地下で固まったはずのこの岩石が、今地上に見られるということは、これも大地が上昇したことを物語るわけです。
*三国山は昔は今のように高くはなかったようです。今から100万年より後の時代から急上昇して今のように高くなったようです。
*赤谷地域に陸地が姿を現した後からも大規模な火山活動があり、赤谷の地域にはその時の陸上の火山噴出物も見られます。
今でも上昇しているの?
国道17号線沿いには一等水準点が設けられています。標高を正確に測る場所です。明治時代1894年から測っているというのですから、貴重です。この記録を見ると、赤谷地域は今でも上昇しています。しかも三国山に近づくにつれて上昇の値が大きくなっています。
三国山は今でも上昇しているのです。
(図を参考に。年間㎜単位の見えないほどのわずかな上昇ですが、でも、1年に1mmでも100万年積み重ねたら1000m。馬鹿にできないわけです。
山道を歩くと、道のわきから急斜面の深い谷が見えます。長い間には削れてなだらかにならないかな、などと思ったりしますが、上昇し続けたら、急峻な地形になるのだろうな。
以前に水準点について紹介した時、上グラフで説明しました。以下のページです。
山はさらに上昇し、平野は沈降していく。そんな大地の動き、本当なんだ。
三国山は温かい?
地面を掘ると温度が上がります。平均では100m掘ると3℃上がると言われています。
沼田から山の方に向かうと、この数字が高くなり、温泉のある湯宿(ゆじゅく)では100mで8℃も上昇します。
全体的に三国山脈に近い地域は温度の上がる傾向がみられるということです。温泉のたくさん見られるこの地域は、地面の底で熱を生み出す活動があるのかもしれません。
<まとめ>
三国山はかつて深い海の底に積もった堆積物からできている
堆積物の年代は1600万年前から350万年前
400万年ほど前から上昇をはじめ、その後上昇が激しくなり、今の山ができた
三国地域の上昇は今でも続いている
この地域の地下は、温度が平均より少し高めになっている
年代については多少異論もあるかもしれませんが、大地の動きについて、なんとなくお判りいただけたでしょうか
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