ピンク色のねむの花がやさしく咲くころ、ああ、梅雨の季節だなと思います。
梅雨と言えばアジサイのイメージですが、私にとってはこれも梅雨の季節の花。
川辺にもはえる木で、糸のように長く伸びているのはおしべです。夜になると葉を閉じるのも、なんだか楽しい。
私の近所では、もう花の盛りを過ぎています。いよいよ夏本番です。
先日関越高速を走っていたら、周囲にたくさんのねむの木が満開でした。
荒れ地に最初に入り込む木、パイオニアツリーのひとつと聞きます。
そんな梅雨末期の大雨。
西日本の大雨災害、その映像に釘付けでした。
恐怖を感じるような強い雨は、どんなに恐ろしかったことでしょう。
まだ行方不明の方も多数いらっしゃるという現実です。
最近の西日本、今頃は毎年のように大雨なのでは。
地球温暖化による気候変動、という言葉が、現実味をもって迫ってくるようです。
如意寺
第二次世界大戦末期、労務者として働き亡くなった中国人を弔い、慰霊碑もあるお寺と聞いていました。
行って見たいなと思いながら、そのままになっていましたが、先日近くに行ったおり、訪ねました。
場所はみなかみ町、関越高速道路月夜野インターから間近の場所です。
周囲にはリンゴ畑も広がる山里のお寺でした。
境内には沙羅(ナツツバキ)が静かに咲いていました。
寺の裏手は少し小高くなり、竹林も広がっています。
野ウサギの姿をみかけました。
中国人殉難者慰霊碑
1970年竣工。中国との国交が回復するのはこの後、1972年のことです。
左わきにはこの碑建立の由来の書かれた石の板があり、裏面にはこの碑建立にあたって
お金を出しあった方々が記されています。
どんな方々かというと
・亡くなった方々の働いた工事関連会社
(株)間組 東京電力
・下に記した地元の方々
月夜野町はじめ21すべての部落の人々が、当時10円20円を出し合って、総額50万円のお金で建設されたものとのこと
最近の塔婆もありました |
地域の地区名がたくさん書かれてありました
後閑 師 真坂 小川島 南区 ・・下区
上組 ・・学校・小和田・・・上牧
下牧・・・
地元の方ならわかる地名でしょう。
地域の皆さんの総意でこの碑を建てているわけです。どうしてこのようなことができたのでしょうか。
このお寺の住職は戦時中であっても、
亡くなった中国人を、日本人と同じに弔い、過去帳も作り、遺骨を保管し、戦後は遺骨を本国の遺族のもとに返したという歴史があったのです。
竹林をたどった先には
軍馬の慰霊碑もありました。多数の馬が軍馬として徴用され、
海を渡り、そして,1頭たりと帰ってくることはなかったのではないでしょうか。
田畑を耕し、家族同様にかわいがっていた馬たちもたくさんいたことでしょう。
以下に慰霊碑の写真を載せます。
以前、この話はブログに書いたことがありました。”川原の石のふるさと”というテーマのページでしたが、その後ろに付け加えて書きました。
解説の一部を載せます。発電所建設(岩本発電所導水路工事)のため中国人を働かせましたが、同時に、飛行機をつくっていた太田の中島飛行場関連の工場疎開のために,後閑にトンネルも掘っていました。そこを見学させていただいた時のものです。
この壕は学徒や中国人ら約3,000人を動員した突貫工事だったとのこと。中国人は利根川の発電所建設のため、約14kmの導水路(ほとんどトンネル)建設工事に従事させられ、その後、月夜野地下壕にも移され、612人のうち合計59人が死亡しています。飢え、過労、栄養失調、逃亡を図って溺死、毒草による中毒、中には撲殺も。月夜野にある如意寺の住職は「死者に中国人も日本人もない」と、丁寧に戒名をつけ、檀家の者と同じに手厚く葬り、出身地や年齢まで過去帳に記載し保存したといいます。死亡した中国人の氏名と出身地,死亡原因が判明しているのは、全国でもめずらしいといいます。合祀された方々のために、「中国人殉難者慰霊碑」という墓標をたて、毎年冥福を祈りました。安置所には「何年後トイエ共此札取リ去ル可カラズ」と書かれた木札が掲げられ、1953年には遺骨を本国へ送置することもできました。
お寺には「中国人殉難者慰霊之碑」があります。1970年竣工でした。日中国交回復より前からこうしたことを行っていたのですね・・・月夜野町はじめ21すべての部落人々が、当時10円20円を出し合って、総額50万円のお金で建設されたものとのことです。
本堂 |
お寺の本殿をちょっと拝んで帰ろうとすると、ちょうどバケツとぞうきんを持った女性が出てきたところで、明るい声で「おはようございます」とあいさつしてくださいました。
「慰霊碑を見せていただきました、お話を聞いていたものですから」、とお礼を言うと、
「中に入ってご覧になりませんか」 何ともうれしい話です。
許可をもらって、写真も撮らせていただきました。
本堂には ご本尊がまつられています。この後ろに亡くなった中国人の遺骨を安置したのだそうです。
「先々代はとてもきつい人で、憲兵が来ても、ここより先には決して入らせなかったとききます」と。戦時中です。うっかりしたら憲兵にしょっ引かれる、何されるかわからない時代です。
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ご本尊のまつられた場所の裏にまわると、下写真の板が取り付けられていました。
野道 山道様
返信削除初めまして、失礼を承知で突然数年前の貴兄ブログに投稿させていただきました。
私は現在日本中国友好協会群馬県連合会の理事をしてます羽鳥と申します。
みなかみ町月夜野の如意寺で毎年中国人強制連行殉難者の慰霊をしているものです。
2020年は10月11日に執り行います。毎年配布するチラシの記事資料をネットで調べていたところ貴兄のブログを拝見し、あまりにきれいに正確に整理された文章に驚くと同時に写真のアングルや明瞭さに感服した次第です。また須弥壇裏を撮った写真に私の作製したチラシの端が文章に反映されているのにはびっくりしました。
毎年須弥壇裏にも入っていますが気が付きませんでした。チラシはたぶん御住職が置かれたのだと思います。忘れたいかもしれないことを忘れないようにしていただいたことに感謝します。
思いがけず、以前のブログへのコメントいただき、ありがとうございます。相変わらず日中関係は困難な中・・・忘れたことは繰り返されるという言葉を思います・・・今はコロナ禍の中の世界ですが、今後どうなっていくのでしょうか。互いを知り合うことで、嫌悪や憎しみではなく、理解が得られると思うのですが。
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