我が家の近くに利根川が流れています。
この川原には、角が取れて丸くなった石が転がっています。
たくわんや白菜を、大きめの入れ物にたくさん漬けていた頃、母や祖母はそんな石を重石にしていました。安山岩や閃緑岩が重石になっていたはずです。
まどみちおさんの 次の詩を読んだとき、おもわずクスッと笑ってしまいました。
つけものの おもし
まど みちお
つけもののおもしは こっちむきのようで
あれは なに してるんだ あっちむきのようで
あそんでいるようで おじいのようで
はたらいているようで おばあのようで
わらっているようで
すわっているようで つけものの おもしは
ねころんでいるようで あれは なんだ
ねぼけているようで
りきんでいるようで
(今はスーパーマーケットで取って付きの重石を買う・・・いえ、できあがった漬け物を買う)
次も、まどさんの 石ころの詩
そうか、むかしは雲をまとった岩山だったかもしれないのだ・・・
でも、もっとスゴイ人生、いえ、石の生い立ちだったかもしれない・・・たとえば地下深く20km・30kmとかいった所できゅうぎゅう押されたり・・・・・・そんな話もできそうです。
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下仁田では、川原につどって、石の学習会がしばしば開かれます。
鏑川という、それほど大きくも長くもない川が流れる下仁田ですが、ここにはとにかく、石の種類が多い。 小さい川だけれど、私の家の近くの利根川より、ずっと種類が多い。主なものでも17種類。
下仁田自然学校では、かつて、そんな川原の石の学習用のテキスト本も作りました。これは今でも観察会に利用して,重宝しています。
川原の石は,もともとは上流にある石です。どこにあったのかな。
今回は、そんなことを取り上げてみます。
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上流のどこにどんな石があるかは、地質図をみると、見当がついてきます。
地質図なんて馴染みのないものかと思います。地面にどんな石があるのかとか、その地面の地層が曲がったり断層で切れたりしていたりの様子も示したものです。ヨーロッパなどでは、地質図を普通にそこらに売っていたという話をずっと以前に聞いたことがありますから、国によっては広く知られて利用されているのかもしれません。
先日、川原の石の学習会をした時に、群馬県の地質図を眺めました。簡単にした図を作りましたので,参考に紹介します。ちょっと図が小さくて、見づらいかもしれませんが。
(「群馬県10万分の1地質図」に添えられた図をもとに作成しました。もとの図は時代だけで分けていますので、少し書き加えました。 片品川付近は蛇紋岩などが分布したりしていて、私はほとんどわかっていないのでここにはちゃんとかきませんでしたが、あしからず。)
住んでいるのが群馬県なので、ここでは群馬の地質図だけを示しました。
”鶴舞う形の群馬県”は川の水をすべて利根川に集めて、鶴のくちばしに向かって流れていくのですね。東の端を流れる渡良瀬川も,もう少し下流で利根川に合流します。
利根川水系に沿ってできたツルの形に見えてきます。
図でみるように、地質はちょっとづつ違いますから、場所によって川原の石も違ってきます。
前橋では,安山岩や閃緑岩がたくさん見られました。上流を見ると、「なるほどね」と納得。
こうしてみると、県の北の方は、マグマ起源の石が多いですね。
県の西部、鶴の翼の付近はどうでしょうか。
下仁田付近を拡大した図を下にのせます。
結晶片岩があったり、秩父中古生といわれる地層(横破線の部分)が分布したりしていて、他地域とは違った種類の岩石がみられます。斜め破線は第三紀という時代のもので、砂岩・泥岩・火山噴出物などが見られます。
なるほど、バラエティーに富んでいて、いろいろな石が川原に出てくるわけです。
(中古生層は県の東部、桐生の方にもありますが、ここのものは渡良瀬に流れていくのもわかるかと思います)
三波川という小さな川(神流川の支流)が図にあります。この川が「三波川結晶片岩」の名前の元になった川です。この付近で最初に結晶片岩の研究がされ、論文が書かれ、名前がつけられたという、記念すべき川です(図に緑色に色がついているのは、学習会の解説のために塗ったもの)。
横破線の秩父系の石は、ここから南へ、秩父方面へずっと続いています。秩父までの地質図を見ると、よくわかります。秩父でこの地層の研究がされたので、”秩父”の名を冠しているというわけです。
”中古生層”というのも、妙な言葉です。40年ほど前までは、ここは古生層と考えられていたのが、中生層の中に古生層が転がり込んで混じっているのがわかって、こんなふうに呼んだりしたわけです。
純粋な中生代というのは、群馬県では切れ切れにあちこちに見られるだけです。
参考に紹介します。右図です。
下仁田の跡倉層が、しっかり載っています。
火成岩というのは、かこう岩だったり,閃緑岩だったり、溶結凝灰岩だったり、いろいろあるようです。
群馬の自然をたずねて 日曜の地学 より
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群馬北部、水上方面などには新生代第三紀の地層がひろく分布しています。斜め破線で現されている場所です。温泉があったりして、たまには出かけますよね。
ここでは,火山灰その他火山噴出物が固まって、さらに色が緑色になっている岩石が見られます。海底火山の噴出物で、日本ではグリーンタフ(緑のタフ=火山灰・緑色凝灰岩)とよびならわされていて、緑色は変質してできた緑泥石(りょくでいせき)などのためです。日本海側に広く分布していて、関東北部にも分布がみられます。そんな石を,先日見る機会がありました。
左写真です。ちょっと緑っぽいのがわかります。
この地域ではこんな石を石材に利用しました。青波石という石材の名前もありましたが、今はもう取っていません。
この地域の温泉に行くと、緑色の石が湯船に使われているときがあります。ぬれて、きれいな色が映えます。大谷石かななどと思ったこともありますが、きっとこんな地元の石なのでしょうね。
少し軟らかそうな石なので、川原の石ではみつかりませんが。
この石を取った場所は、月夜野、現在はみなかみ町後閑にあるJR後閑駅近くの、山裾に開けられたトンネルの中です。
今から70年ほど前、1945年2月、地下壕を掘って工場疎開すると、突貫工事で地下壕を掘ったというのです。中島飛行機製作所尾島工場の疎開移転先とされました。無理を重ね、多くの犠牲者をうんだ工事が,あちこちで行われていた頃のことです。
トンネルは主幹が170m、横穴が16本、長いもので140m、高さ6m、幅5m、トラックが通れる広さです。8月10日に完成、でも、敗戦で使われることはありませんでした。交通の便を考え、また適度に丈夫で,また掘りやすい岩であることも、白羽の矢の立った理由なのでしょう。200台の工作機械が設置されていたとのことですが、それらは残っていません。
今は一部がキノコ栽培に利用されています。他は真っ暗で足元は水で少しぬかっている状態でした。薄暗い中で白く見えた石のかけらを拾ってきたら、緑のグリーンタフの石でした。
戦争の遺跡として、ここを保存・活用したいと努力されている方々が案内してくれました。
キノコ栽培の様子です。
天井や側面の所々に
戦争当時の電気設備の残骸が残っています。
お寺には「中国人殉難者慰霊之碑」があります。1970年竣工でした。日中国交回復より前からこうしたことを行っていたのですね・・・月夜野町はじめ21すべての部落人々が、当時10円20円を出し合って、総額50万円のお金で建設されたものとのことです。
こんなことがあったんだ。この地域の方々には頭が下がります。
このお寺にも、いつか立ち寄ってみたい!
この壕の案内は、「月夜野戦跡文化を守る会」が行っています。多くの方に紹介したいとおっしゃっていました。連絡すると,案内していただけます。
石はいろいろ利用されるわけですが、かつて、あちこちで地下壕が掘られたこともあったのを、あらためておもいうかべた日でした。
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