2015年6月21日日曜日

 休止のお知らせ お礼

花瓶代わりにタケノコの節を
雨時、近所ではマダケのタケノコが伸びています。竹細工に適し、養蚕道具をつくった竹です。
タケノコを食用にもらいました。食べるにはちょっと硬いという部分は,節でスパッと切り、水を入れ,小さなあじさいをさしました。
 お皿に載せて、いかがでしょう。
 タケノコを切る時のあの感触も,なかなかいいものです。
 
 先日は群馬の伊勢崎・前橋地域で突風。激烈な下降気流のダウンバーストだったのではと、ニュースでは伝えていました。飛行機事故の原因として名前を知ることになったダウンバーストが身近でも起こったわけです。その日のトップニュースでした。我が家は川を渡れば伊勢崎市、細い木が折れるのではと思うほどの強風が一時吹きました。
次の日は浅間山の噴火。これもトップニュースになりました。
昔は、この灰が今住んでいるこの地域にも降ってきたこともありました。


キバネツノトンボ、産卵中
ビルの中で自然と離れて過ごす時間の多い人が増え,多くの人が忘れてしまいそうな自然ですが、「忘れてはいけない」と言われたようでした。

   注意報 火山 突風 独裁者  
              朝日新聞川柳欄より
 
 春から夏は生き物の活動が活発で、少し教えてもらえれば、すぐ身近なところでも様々なものが目にとまります。「身近な自然観察」で、少し心が豊かになれるような気がします。

 先日、目の前をビューンと飛んでいった虫が、草の茎に止まった、と思ったら、産卵をはじめました。名前を調べてくれた人がいて,「キバネツノトンボ」。ウスバカゲロウ(幼虫はアリジゴク)に近い仲間で、群馬県では準絶滅危惧種にリストアップされていました。見たのは水上町ですが、温泉街のすぐ裏の空き地でした。
 遠くに行かなくても,身近な草むらでも,川原でも、様々な自然観察ができます。

 
 シダの前葉体の話を書いたとき,「どこかで見られないかなあ」と、聞かれたときがありました。
私は,昔、胞子をまいて前葉体を育てたものです。ハート型の小さな緑のコケのようなものがはえてきます。学校の理科の教科書に出てくるものなので、学校なら、できれば生徒にも見せてあげられたら、と思います。
 
シダの前葉体の育て方
 必要なもの・・・・水苔、素焼の植木鉢、水槽、シャーレなど  、シダの胞子
 
簡単に言えば、「胞子を水苔にまいて、乾かないように,カビが生えないように置いておく」ということです。

①水苔をぐつぐつ煮ます。水苔が生きかえらないように。また滅菌のために。一緒に植木鉢も熱湯消毒のために煮た方がいいです。

植木鉢に水苔を詰めて、そこに胞子を蒔きます。ほんのちょっとだけ。「指でつまんで」などとしたら多すぎて、生えてきた前葉体が過密状態で、ハートではなくて,リボン状になってしまいます。紙片にちょっとくっつけて、紙をポンッとたたいて落とす程度でOK。

③右上図のようにして置いておく,ということですが,これだと乾きやすいので、右のように,水槽に入れてそのまま直射日光の当たらないところで放っておくのが簡単。学校なら、図のように、理科実験用具のシャーレを斜めにしてかぶせておくと、湿度が保てます。

と、書きましたが、これを読んで、実行できる人はあまりいないでしょうね。まず、何といっても、「胞子はどこで手に入れるの?」

アジアンタム
胞子はシダの葉っぱの裏などにつきますが、でも、いつ熟す?どのシダがいい?  等々、疑問がいっぱい。なかには、採集しておくと発芽率が急速に落ちてしまうものもあるといいますし。
ここで、救世主。いつでも胞子を着けていて、あちこちのお店で売っているシダがあるのです。
アジアンタムといって、家においている方もいるかも。
写真でごらんになったら,おわかりになる方もいらっしゃるかと思います。
このシダの葉っぱを取って裏がえせば、いつでも茶色の胞子嚢がついています。これを,水苔の上でぽんぽんとたたけば,胞子が落ちるというわけです。
④蒔く時期
 梅雨時が良かったかのではと思います。ちょっと遅い時期や早い時期に蒔いたりして,はえなかった経験があります。だいぶ以前のことなので、また、札幌在住のころのことなので、気候条件が違い、少々あやふやで、申し訳ありません。


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 いままでこのブログをお読みいただいて、ほんとうにありがとうございました。

朝早く目が覚めると、こんな光景を見ることもあります
下仁田がジオパーク登録され、地域の皆さんが地質を見たり,あるいは解説員として活躍されるということもはじまりました。また、この地では、下仁田自然学校が長くにわたり活動を続けてきていました。ということで、多くの人にあまり馴染みのない地質の見方の基礎用語とか、あるいは自然学校のつくった解説資料をつかっての、地域の地質の解説などをしたら、お役に立てるかと思い、はじめたページでした。とりあえず、思いつくこと・何とか解説文の書けそうなことを綴ってきました。
 下仁田を調査したこともなく、詳しく歩いたこともない私が書くのもおこがましいとは思いましたが、多少はお役に立てたでしょうか。多くの人、特に自然学校運営顧問の方々には,資料を たくさんいただき、たくさん教えていただきました 。私の知識理解不足から、「こいつ、何書いてんだ。ろくにわかってないなあ」などと思われた方もいらっしゃるかもしれないなあ、とは思っています。

 砥石を掘った方の話を聞きたい、鍾乳洞にも行ってみたいなど、まだまだ書くことはあるかと思います。あまり紹介していない地域もあります。植物等については、もっと見たい・・と思うところ。夏には陸生ホタルのクロマドボタルもたくさん光るこんな地域には、それなりの楽しみもあります。ですが、手持ちの資料では,詳しく紹介ができない部分になってきています。これからまた、皆さんに教わり、現地に行き、資料を集められたら、また新たに紹介文を追加していけるかと思う次第です。追加できるように、努力していきたいと思っているところです。

 地質にはいろいろ異なる意見があったり、使っている用語が変わってきていたりで、わかりにくく感じるときもあります。でも、考えて見たら、それは「まだまだわからないことが足元にたくさんころがっている世界」だからといえます。そう思うと、ちょっと楽しくなります。

 地質に関心を持つ方には、見るべき地質現象の宝庫に見える下仁田、あるいは植物も豊富な下仁田、ぜひ足を運んで見てください。地質は、ただ見ても、「なんだ、石っころの話か」などと言われたりすることがあります。解説者の話を聞く機会を持たれるのもいいことかと思います。見えなかったものが見えてきます。

そんなわけで、一応、このブログ、解説は休止します。お読みいただいた方には、深く感謝申し上げます。





 





2015年6月14日日曜日

昔、ロウセキを掘ったそうです・・秋畑にて

ロウセキって、ご存知ですか

ろう石:白く軟らかい石
ある年代以上の人は、この石でコンクリートなどの上に絵を描いたことがあるのでは。
もしかしたら、そんな石を長瀞あたりのお土産でもらったりしたかも。
今でも,長瀞にいくと、ロウセキでつくったお土産物が店先に並んでいます。



秋畑のようす、ずいぶん高いところまで家があります
下仁田から少し東、甘楽町の山あいの集落・秋畑(あきはた)で、以前「ロウセキ」を掘っていたと聞き、実際に掘った方のお話をうかがいました。下仁田自然学校運営顧問の堀越武男さんの知りあいの方ということで、堀越さんと一緒にお宅を訪問させていただきました。


途中の家並み
                    

 


サクラの咲くころの武者行列で知られるようになった小幡の家並みを、そのまま南に進み山の地域に入っていくと、秋畑にたどりつきます。
  小幡は織田家ゆかりの地とのことで、最近再現された庭園・楽山園や、見学できるコンニャク工場もあり、観光バスもやってきますが、そこから先へはなかなか行かないものです。
 写真にみるように、秋畑は平地には恵まれない山あいの集落です。秋畑では土日祝祭日に農村レストランのソバのお店が開かれ、それを目当てのお客さんも来るようです。


 うかがった田村さんのお宅は、道からほんの少しわきに入ったところにありました。古くからの農家のつくりで、玄関を入ると広い土間になっていて、私としては「なつかしい~」。その土間に置かれたテーブルと椅子で,お話しをうかがいました。

田村さんのお宅、蚕を飼っていたご様子
 ご自身は昭和33年から5年間ほど掘ったそうです。

 「ろうせき」とよんでいますが、秋畑のものは正式には滑石(タルク)。モース硬度計で1の、軟らかい鉱物の代表です。
蛇紋岩から変化して(交代作用で)できたりするのだそうで、日本では変成岩の中に小規模に見られる・・・というわけで、三波川結晶片岩地域に小規模に点々と見つかるのです。石綿の出ることもあったそうです。
 堀越さんがあらかじめ電話で話を聞いておられ、詳しいメモを作ってくださっていました。それをもとに、概略を書きます。

ろうせきでつくった表札、
当時のもので残っているのはこれだけとのこと

 
採掘時期 :昭和25年~昭和40年  
最盛期 : 昭和33年~昭和35年
 
滑石の採掘地 :甘楽町大字秋畑  
         河振(かわふり)  
         小倉(こぐら) 
         芳ノ元(よしのもと)

いちばん質の良いものを産したのは河振の近く

滑石採掘の規模 :地元の人が数人程度で採掘したものが多いようで、一人か二人ではじめ,うまくいけば4人、5人とかで掘ったそうです。坑道を掘る先山(さきやま)とズリを運び出す「ズリだし」がいて、先山の方が取り分は多かった。最盛期には13~14軒(グループ)が掘っていたようです。多くの業者が出入りした時期もあり、鉱山師が採掘権を取得して採掘を進めたりすることも。そんな人には秋田鉱専を出た人もいたり、北海道から来た人もいたようです。鉱区を取るための代書屋までいたといいます。

利用:   質の悪いもの 農薬の増量剤
      質の良いもの 化粧品、ゴム、食品など
  粉にして利用したことがわかります
    

そんなわけで近所には製粉業者が5つありました。現在はなくなっていますが、この頃創業したもののひとつが、現在、小幡の浅田製粉につながります。ここは有名な化粧品会社も取引先にあるようです。  
                                                                                                                                          


地質 :蛇紋岩と”普通の石”の境目に”ロウセキ”の層があり、この層を「ひ」と呼びました。この地域の鉱山は露天ではなく、坑道をほっていったものとのことで、横方向に広がる「よこっぴ」と縦方向の「たてっぴ」があり、「たてっぴ」が掘りやすかったそうです。
 掘っていると,急に目の前が白くなることがあり、「ロウセキだ」と。うれしい瞬間だったことでしょう。
掘った場所が軟らかいところもあり、それは白土と呼んでいました。これは主に農薬につかったとのこと。白土の中にロウセキの塊が混じっていたそうです。

沓脱ぎ石には立派な結晶片岩
畑から出たものとのこと

 ツルハシひとつで掘り進む・・・ウーン大変だなあ。真っ暗な坑道・・・当然電気で照明して、と思ってしまいそうですが、いえいえ、電気なんてきていません。ではヘッドランプ?電池を使ったような、そんなハイカラなものはもちろんありません。照明はカーバイドだったと聞きました。カーバイド・・・ご存知でしょうか・・・
 たしか、アセチレンランプに使ったものだよなあ・・と。もっとも私でも、アセチレンランプって、見たことあったかどうか・・?
 

縦坑は水の出たこともあり、また、酸欠で亡くなった方もいたそうです。

坑道は木枠で周囲や天井をかためながら掘り進みました。ツルハシでほり、一人で毎日1m程度しか掘れない・・・田村さんは、奥さんの実家の畑に坑道を掘ったとのことで、坑道の長さは30mほど。もっと長く掘った人もいたとのことです。坑道を掘るから、畑の名前に「トンネル」とついていた場所もあったとか。
 
採掘跡は現在はすっかり荒れていて、今は見ることはできません。

庭に置かれた蛇紋の石
鉱山になる山は、蛇紋岩の山で、硬くて畑にもなりにくかった場所だったそうです。
平地に恵まれないこの地域では、石垣を組んで畑にし、農業を行いました。コンニャク栽培、養蚕などもおこなわれ、豆類はよくとれたとの話。かつてコンニャクは急斜面の水はけの良い場所でしか栽培できなかったといいますから、この地域は栽培に向いていたのかもしれません。

近くに 赤谷(あかや) 赤谷平(あけびら)という地名の場所があり、そこでも
ろう石を掘ったようです。


飛び石もきれいな結晶片岩、ご自分で取っていらしたもの
                    

とったろう石(滑石)を粉にする製粉工場でも地元の人は働いたわけです。ところが思いもかけないことが・・・けい肺になって亡くなる人が増えたのです。
工場では真っ白な粉がいっぱいに舞っていました。
「からだじゅう真っ白。頭から足まで。
昔だから、そこで口に手ぬぐいまいたくらいで働いていたんだよ
こんななかで,肺に入り込んだ鉱物の粒子は重大な健康被害をひきおこしていったわけです。
 石綿のでることもあったという話も,重い言葉となって響きます。とはいえ、タルク(滑石)そのものには発がん性はなく、化粧品やベビーパウダーの材用にもなっているようです。

ここではたくさんの人が鉱山で働き、収入を得たわけですが、それもわずかの期間で終わったわけです。
「鉱山でたくさん働いていたのに、今,それを話せるのは俺しかいなくなってしまったなあ。ここ数年で、バタバタと急に亡くなったしなあ」
少し寂しそうにつぶやいておられました
当時のことをじつにこまかく覚えておられ、たくさんの人の名前も覚えておられるご様子。、青焼きの地図も保管され、鮮明に話してくださいました。

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ろう石、滑石・・・・
  この2つ、同じものじゃなかったの?? という程度の認識でした。ろうそくのような質感をもち、軟らかくて字を書けるようなのは、みんな「ろう石」だと思っていました。

でも本当は違うものらしい・・・そこで少し調べてみました。

ろう石は軟らかい数種類の粘土鉱物からできています。特に葉ろう石という粘土鉱物が多くふくまれます。
滑石は,滑石という鉱物です。

でき方も違う!!
ろう石は「石英や長石の多い火山灰や岩石(白っぽい石)が熱水の作用を受けてできた
滑石(タルク)は結晶片岩のような高圧変成作用を受けたりしてでき、蛇紋岩からできたりするといいますから、むしろ黒っぽい石からできる、といえそう。なんだか、正反対。

昔、東日本で「石筆」として駄菓子屋で売られていたのは秩父周辺で採取されたタルクだと言いますから、私が遊んだのは、滑石なんだなあ。

どちらも似て見えるので、ちょっと見ても区別できないかも・・・例えば篆刻(書道で使う雅号を彫ったはんこ)など、どちらも使っているようです。筆もどちらもつかったようです。

 ろう石は秩父での採掘が以前からあり、戦前にも掘っていました。はるか昔なら,古墳時代の勾玉にも使われたと言いますが、明治のころから本格的に使われはじめています。
学校教育がはじまると、石板(ノートのように使う小さな黒板、もともとは粘板岩でつくった)に石筆(鉛筆状に切ったろう石や滑石)が使われました。

明治後半に北九州の八幡製鉄所がつくられる時に、溶鉱炉の耐火煉瓦の材料としてろう石が使用され、以後、重工業を支える基幹物質のひとつに。戦後の復興期には鉄鉱石や石灰石とともに、ろう石も全国の資源調査がおこなわれたといいます。顔つきも、用途も似た滑石も、同時に掘られていったわけでしょう。

 「そうか、それで,戦後、あちこちで小さな鉱山を掘っていたのか」と、納得。
下仁田にも馬山鉱山があって、ここは蛇紋岩があり,滑石を掘っていました。農薬の増量剤、ゴムなどに使ったと聞きました。戦後、農薬が大量に使われるようになって、滑石やろう石の需要も増えた時期に一致するなあ、などと思います。

2008年の産総研地質ニュースの文章で「ロウ石が現在もっとも多量に利用されているのは、ガラス繊維の材料でしょう」と。織物をつくるわけではなく、新幹線・自動車などの車体、小型漁船などの船舶、断熱材などの建材・・・いやはや、驚いてしまいます。

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戦場の集落だったと思うけど・・
秋畑に向かう途中、「戦場」という地名が・・・エッ,何、それ。なんて読むの??
   「せんば」 だそうです。
それにしても、何で、こんな字を当てたんだろう・・

道を先にたどると、「会場」という場所も。読み方、わからない。どなたか教えてください。
さらに東のほうに行けば、
「名無村」もあります。
何だか変わった地名がたくさんあって、楽しくなります。


2015年6月7日日曜日

川原の石・鮎川 結晶片岩の石ころがいっぱい


結晶片岩がいっぱい・・・鮎川の川原

川原の石の展示解説をするとき、ふっと思いました。
「そうだ、三波川結晶片岩の石ころのいっぱいある川原を入れよう。結晶片岩はきれいだし、日本中どこにでもあるという石ではないし、だいいち、地質学でつかう三波川帯とか、三波川結晶片岩とかの名前は、群馬県南部にある小さな川・三波川からついたのだから」


藤岡市上落合付近にて、もうじき鏑川に合流します
というわけで、三波川結晶片岩の分布する地域を流れ、我が家からも近い「鮎川」という川で、川原の石を拾うことにしました。
藤岡市と高崎市の境界付近で鏑川に合流する川です。

どんな種類の石が多そうですか?
石の種類を調べると、三波川結晶片岩と、変成の度合いの弱いミカブ緑色岩の2種類で、なんと80%ほども占めます! 
 
結晶片岩の分布する場所へ行っても、道ばたにある石は風化でボロボロして色もあまり鮮やかでなかったり・・なんの石かもわかりにくいことも・・・とはいえ地質調査ではどこにどんな石がどんなふうに分布しているかが決定的に重要です。ですから、記録解説するときも、必ず現地の「石」をつかいます。川原の石なんかで、あれこれ言うことはあまりないでしょう。

白い点々・点紋が入っています
でも石を見るだけなら、川原の石はあまり風化してないし,表面に石の特徴が見えます。ハンマーを持っていなくても,きれいに見えるというわけ。というわけで、鮎川の川原で拾った石の写真をのせてみます。(黒い点は目印に使ったシールなので、気になさらないでください。写真もボケていて、すみません))

これらは三波川結晶片岩です。


平らな面・片理が発達。
それがこまかく褶曲しているものもあります。 

左写真では片理に沿って、粉のように白くキラキラしています。
変成作用で、小さな白雲母、絹雲母がたくさんできているわけです。 


緑色岩
三波川結晶片岩と御荷鉾緑色岩との分け方は? とか言い始めるとちょっと大変。ここでは,それほど厳密なことは考えずに分けています。御荷鉾緑色岩と思われるのを,ひとつ載せます。

結晶片岩の解説を見れば、「点紋の入ったのは変成の度合いが高め」とか、「変成前の、もとの岩石は何か」とか、「この色は何の色か」など、いろいろ難しい話がでてきます。
以前に,調べながら解説を書いてみたことがあります。

 
結晶片岩
 
 地層に見られる平らな面  片理 ・へきかい
 
 
一緒に転がっている石の中に、やけに黒っぽかったり、表面が赤さび色に見えたりする石がありました。これって、以前に下仁田の川原で見た石に少し似ているのでは・・・黒内山の石、かんらん岩に・・・・蛇紋岩のような石も見かけた・・・。とはいえ少々確信がなくて・・・それほどあちこちにある石ではないでしょうから・・・・こんな石が、調べた場所では5%ほどの個数ありました。
 

そこで、鮎川の上流の地質を調べてみることにしました。地質図を見たわけです。
地形図
なら国土地理院の地形図があります。日本全国の2万5千分の1地形図が市販され、国土地理院のホームページからも見ることができます。(最近はこの地形図を買う人が減り、店頭に置く店も減って、必要な人も、ネットで見るのが増えているかも)


蛇紋岩?
 

地形図といってもあまり見ていないでしょうが、地質図は,さらに見たこともないものでしょう。どこで手に入れるかもまるっきりわからない。
でも今はこれもネット上で見ることができます。
 産業総合研究所(産総研)のHPで日本シームレス地質図という名称のものを公開しています。地形図の等高線と重ねて,地質の分布が色分けされてあります。
 
これで見ると、鮎川を少しさかのぼると、川の近くに「超苦鉄質岩類(超塩基性岩:蛇紋岩:オフィオライト)」という部分が点々と,紫色に塗られていました。やっぱりあった!
超苦鉄質岩って、かんらん岩とか蛇紋岩のような石の仲間のことです。超塩基性岩などとも言います。この場所の石が川原の石になって転がっているに違いない、と私は思ったのです。
 
この地質図をそのままここに載せるわけにはいきませんので、以前につくった簡単な図を下にのせます。鮎川の流路はちょっといい加減なのですが、川のはじまりと最後の位置はだいたい図の位置になるかと思います。
 
   星印が川原の石を調べた場所です。
 


ご覧いただいてわかるように、鮎川はほぼ緑色に塗った三波川結晶片岩分布地域を流れ
チャート
下っています。 スタートは秩父帯にあり、川原の石の中にチャートが少し含まれているのにも納得。

超苦鉄質岩の岩体は、地図上の川の名前で”三波川”と書かれた上あたりに,点々と見られます。
あらためて、「川原の石は上流の様子を語るなあ・・」と思った次第です。
 
「三波川結晶片岩」の名前は、もちろん、地図にある
「三波川」からつきました。
この川の付近で、この結晶片岩が最初に研究されたから。
 
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 ところで、産総研のシームレス地質図を見ると、鮎川のまわりはおおかた「三波川変成岩類の泥質片岩(点紋帯)」です。
 ところが下仁田付近は「三波川帯」になっていません。もともと,下仁田付近や三波石峡あたりの岩石は,変成の弱い御荷鉾緑色岩類とよばれていました。シームレス地質図では「御荷鉾緑色岩」といった名称も見当たりませんでした。そして、この地質図では、その部分は「ジュラ紀苦鉄質火山岩類(付加体コンプレックス中の岩体)」と書かれてあります・・・・・・
 
研究が進む中で、いろいろ解明もされ、解釈も変化してくるわけです。地質図も変わってくるし,呼び名も変わったり、人によっては違った説も図もできてきます・・・
私たち素人は何といってよいか・・まだまだわからないことがたくさんある世界なのだなあ、と・・・
とはいえ、この地域の変成をうけた岩石の説明は、「三波川帯」という言葉で教科書でも普通にのっています。

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 山里でも、苗を植えた田んぼが見られる季節になりました。写真は みなかみ町。
 
1ヶ月前は下のような姿。水のあるこの風景、なんだか、いいなあ



    今はさわやかな初夏、  
        今年はもう、30℃を超える日があって、びっくりですが。
         自然に親しみたいですね。