2014年6月29日日曜日

下仁田の鉱山 その5 鶏冠石

 世界遺産登録 おめでとうございます  荒船風穴

  養蚕も荒船風穴も身近なものでした。「世界遺産」などとは、思ってもみませんでした。

これから未来に向けて保存して行く責務を肝に銘じていくことになります。
古い時代の神社仏閣が今の時代まで美しく受け継がれ、国の宝になっているのにも、たくさんの人たちの多大な努力があったはずです。日々の清掃からはじまり、修理をはじめとした手入れ、それも原型を守るという基本が大前提、多くの人に見ていただくなどの活動、資金調達・・・関わる人たちの努力が守る価値と遺産・・・

蚕を飼うには、まず掃き立てる(飼う)量を決めて、今回は○○グラムといって、入手していました。かつて、この卵を風穴で保存したわけです。この掃き立て用の卵を扱う農家は、地域での有力者にもなっていたものです。家も大きく立派なつくりをしていました。

群馬県で作成した「ぐんま絹遺産」のパンフレットから、玉村町に残るものをあげてみます。
次は、我が家の近所に残る養蚕農家の施設です。 住居ではなく、養蚕作業用の建物として使用していました。           
                                               








 




            
遺産群に登録された渡辺家からは玉村町初代町長をつとめた方を輩出し(間違いないと思うのですけど・・)、
左写真の家からは、村長をつとめた方、あるいは東京で活躍し歌人の側面を持つ方もいらして、学校の校歌を作詞したり・・・
 このように書くと、地域の名士が町村を仕切り、財力をつかってあれこれのことをやった、とみられるかもしれません。たしかに、多くの若者が、たとえ才能があっても上級学校にも行けずに過ごした時代に、上級学校進学はもちろん、政治から文化活動にまでたずさわることができたというのは、地位と名誉と財力かといわれそう。
ですが、どちらのお宅も、そこに暮らした方々は堅実に働き、努力を積み重ねていたようすがうかがえます。渡辺家に残されているたくさんの文書類もそれらを伝えてくれます。地域を支える産業としての養蚕の要の蚕種を扱い、地域をもり立てていくことに責任を持って努力されたのだと思います。優秀な成績で学業を修めるにも、相当の努力が必要だったと思います。現在お住まいの方々も、みなさん誠実に生活されておられます。
先人への敬意と誇りが、簡単に昔の建物を壊してしまわなかったことにも結びついているのかもしれません。
こういったことを、古いものや過去にとらわれて進歩がないと見る向きもあるでしょうが、そうではなく、歴史を踏まえていく大切さこそを、今とらえるべきでしょう。

それにしても、快適な住まいのたてられる現在、この家に住み続けることは大変なのではとも思えます。木造家屋は、古くなれば修理もかなり必要ですし。そんなわけで、今、昔の建物はほとんど見ることがなくなってきています。


鶏冠石(けいかんせき)で有名・西ノ牧鉱山

鶏冠石(けいかんせき)という鉱物を調べると、日本での産地として「西ノ牧鉱山」が最初にあげられています。どこにでもあるという鉱物ではないので、鉱物好きの人にはよく知られているようです。
ただし、鉱山は1954年に閉山され、坑道入り口はコンクリートで固められ、採集も遠慮願いたいようです。

この鉱物のみつかる場所は安山岩が分布しますが、岩は熱水作用でボロボロとしている・・
ある時、しっかりとした石英脈の中に美しい結晶が・・・そこでは、あけぼののような赤色、オレンジ色、レモン色、黄金色・・柱状や毛状の結晶が輝いていたそうです。
そこにあったのは、鶏冠石、雄黄ゆうおう、またの名は石黄せきおう)。
どちらもヒ素とイオウの化合物・・・・・

「ヒ素」、この名前を聞くと、エッと思う方も多いはず。猛毒物質としてよく知られていますから。
鶏冠石と雄黄の違いは、ヒ素とイオウの化合の割合の違いだけです。
鶏のとさかのような赤い色の鶏冠石は、光があたるとだんだん分解して、黄橙色の粉末の雄黄に変化していくとか(おわび、この記述、間違っていたようです。光に当たって雄黄になるのではなく、パラ鶏冠石になるとのことです)。下仁田自然史館に展示されている鶏冠石は、だいぶ雄黄(ではなくて、パラ鶏冠石)になっているかも・・・・・
この鉱物は、低温熱水鉱床に伴っていますが、火山の噴気や温泉にも含まれているそうです。
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用語が混乱していて、なんだかよくわからなくなりそう。そこで、以下にまとめてみました。ご参考に。

   鶏冠石  (赤色)   光に当たると 
     ⇓
パラ 鶏冠石 (黄色  鶏冠石とは同じ化学組成だけれど結晶構造が異なる。多形の関係)
  
Orpimenntは 別の鉱物のようですね。日本名は使わないほうが混乱がなくてよいように思えてきます。


 

 

日本名

中国名

Realgar

  AsS     AsS 

鶏冠石
雄黄

Orpiment

黄色


As2S3

石黄 明治時代間違えて雄黄とよんだ人がいて、混乱のもとになっている

雌黄

薬学では今でも使うらしい

Pararealger

黄色

パラ鶏冠石

 
現在流通している鉱物図鑑の過半は、オーピメントに雄黄(ゆうおう)または石黄・雄黄併記を採用しており、鉱物学者間では訂正しない派が主流のようである。


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じつはこの鉱山では、もう一つめずらしい鉱物が産出しています。
世界で最初に西ノ牧鉱山で発見されたという記念すべきもので、若林鉱とよばれます。
アンチモンとイオウに少量のヒ素が入った鉱物です。1970年発見。鉱山は1954年に廃鉱になっていたのに、発見は1970年?
もともと雄黄の針状結晶と考えられていたものが、詳細な結晶構造の検討ができるようになり、じつは新しい鉱物であると判明。多くの鉱物を集めた若林さんのコレクションの中から見つけられ、そこで若林鉱と名付けられたのだそうです。世界でもそれほどたくさんみつかるものではないようで、アメリカのネバダなどの名前がでていました。何かに役に立つとかいった鉱物ではないのかと思いますが、希少さがうけるのか、インターネットの世界では、たくさん載っていました、

ここには、前回紹介した輝安鉱も伴っています。

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ところで、ヒ素って気になりませんか?そんな恐ろしそうな元素が入っているものを、一体何に使ったのか?・・・・花火の材料として使ったなどと書かれてありました。花火・・・案外単純な利用に、拍子抜けです。

ヒ素は生物への毒性が強く、水銀やカドミウムに並び称される嫌われ元素の代表格です。
ですが、かつては農薬、木材の防腐、殺鼠剤などに使われていました。宮沢賢治の文章の中にも、「亜ヒ酸」という言葉が出てきます。インチキ「植物医師」が相談に来た農民に次々と亜ヒ酸を売りつけていくという話です。「そうか、これを農薬に使っていたのか・・」などと思ったものです。ヒ素と言われて思いつく事例をあげてみれば・・・

  • 森永ヒ素ミルク中毒事件。1955年、ヒ素の混入したミルクを飲んだ赤ちゃんが100名以上亡くなっています。
  • 宮崎県高千穂町の土呂久(とろく)鉱山  1920年から1962年まで、中断しながらも亜ヒ酸を製造。住民に大きな被害。1975年裁判をおこし、1990年住民側全面勝訴。この過程で、公害健康被害補償法が成立しています。
  • 茨城県では2003年、住民からの手足のしびれ等の訴えから、井戸水へのヒ素が判明。それが旧日本軍の毒ガス兵器によるものなのではと言われ、やがてヒ素を含むコンクリート塊がみつかったが、結局、コンクリート塊のヒ素の出所ははっきりしていないのでは?住民の健康被害が多数みられます。
  • 中国では旧日本軍の毒ガス兵器遺棄によるヒ素被害があり、日中戦後処理未解決問題となっています。
  • さらに、1998年のヒ素入り毒カレー事件・・・・・・だんだん話がおどろおどろしくなってきました・・・・

    おどろおどろしいと書きましたが、実際に、無味無臭のヒ素による「暗殺」の話は数知れず・・小説や歴史の裏話に事欠きません。もっとも、今では容易に検出できるので、すぐにばれますが。
ヒ素は自然界に広く存在し、バングラデシュやインドのベンガル地方では、井戸水に溶け込む自然由来のヒ素で、多数の人に健康被害が引き起こされています。
ヒ素を含む鉱物は西ノ牧のような、熱水鉱床にもありますが、火山や温泉にもでてくるということですから、時には注意が必要になることもあるのかもしれません。

こんなヒ素ですが、かつては肌を白くすると信じられ、化粧品に使われたこともあるとか・・・昔から美白のためには努力をおしまなかったのか。幼少から微量の亜ヒ酸を服用させた地域もあるというのですが、ホント??といいたくなります。こどもが摂取したら、知能障害を引き起こすのでは・・

現在では半導体に使ったりしており、ケータイやプリンターにも・・といった記述もありましたが、どちらかというと需要は減っているようで、扱いの厄介者になっているかもしれません。
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ところで、ちょっと化学の話を。いやでなかったら、ちょっとおつきあいを。

周期表にならんだ元素では、縦方向に似た行動をする元素がならんでいて、とか勉強したかもしれません。同族元素などといって、何だか一族郎党といった趣です。
そこでヒ素の下を見ると、アンチモンがあります。前回解説した、アンチモンです。これも少し毒性があります。
西ノ牧鉱山では、ヒ素とイオウからできた鶏冠石を産しますが、アンチモンとイオウからできた輝安鉱も一緒に産します。そうか、性質の近い物質だったんだ、と、なんだか納得します。
輝安鉱の鉱山だった中丸鉱山は、場所もすぐ近くです。
 (ちなみに、水銀とカドミウムも、周期表の縦方向にならんでいます。ヒ素の位置からは離れますが、)
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なお、下仁田付近では 南牧村に大水沢鉱山という輝安鉱の鉱山もあったそうです。荒船鉱山という、鶏冠石を産する鉱山もあったようですが、詳しいことは調べていません。
下の地図で場所を確認していただけましたら。

あらためてみ見て気づいたのですが、元の地図に荒船山が載っていない・・・毛無岩、兜岩山とかあまりポピュラーでないものが載っていて・・・注意して見るものですね・・・書き加えておきました。
 大水沢鉱山は、ずっと南の方、地質条件のずいぶん違うところにあります。きっと、マグマの貫入があって、鉱床が形成されたのでしょう。このあたりの地質図を見ると、大規模な流紋岩の貫入などがたくさん見られる場所ですから。荒船鉱山は、でき方が西ノ牧鉱山に近い雰囲気でしょうね。

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庭のハンゲショウが白く目立ちはじめました。マタタビを思い起こさせる白い葉の姿です
 半夏生・・夏至からかぞえて11日目頃、7月2日頃、黄道100度の点を太陽が通過する日を言うそうです。
ハンゲショウ
この日までに農作業を終え、休みを取る、農業には大切な目安の日。ここまでに田植えを終わらせる目安。この植物も同じ字を書いて、同じ呼び名を持っています。そして半夏生の頃、白く装います。
玉村でも、今、盛んに田植えがおこなわれています。
今ではゴールデンウィークの頃に田植えをおこなう地域が多いと思いますが、もともとは梅雨時の今頃が田植えでした。

農繁期の一応の終了期を示唆する植物。ハンゲショウ。

蚕、麦刈り、田植え、雑草退治・・・らっきょう漬け、梅干しづくり・・・とにかく、きりなく仕事があったはずです。らっきょうも、買ってきてらっきょう酢に漬けるのではありません。畑に植えたものを何キロも収穫し、余分なところを切り取り、洗い、塩漬けにする・・自給自足に近い生活の田舎の地方では、大切な仕事でした。

「赤城山はツツジがきれい」ときいても、出かけている暇はありませんでした。

絵手紙 小林生子さん
半夏生・・でも、半化粧という人もいます。葉っぱが半分白くなっているので。
庭ではびこってはびこって・・・時々ぬき取ります。ドクダミ科ハンゲショウ属とありました。ドクダミか・・どおりで丈夫。
それなのに今、野生のハンゲショウは群馬県で準絶滅危惧種。他にも23都道府県で危惧種の指定があります。もともと湿地にはえるもので、そんな生息環境がなくなってきているからでしょう。
そういえば渡良瀬遊水池には、野生のものがあるそうです。

おとしぶみ










初夏の山沿いの道を歩いてると、こんなものが落ちていることがあります。オトシブミです。
小さな昆虫が葉っぱをくるくる巻いて、中に卵を産み付けています。「落とし文(手紙)」とは、名前も何ともステキな名前。
5月頃から見られます。
以前、下仁田のほたるやま公園のケヤキの木の下にたくさん落ちていたことがあったのですが、何月何日だったかなあ・・・荒船山に登った時も、子供たちが不思議がって喜んでいました。
 なお、オトシブミの種類はたくさんあるそうで、巻物を切り落とさないのもあります。


庭先のザクロの花は、色鮮やかで、この季節、周囲を明るくしてくれます。

2014年6月22日日曜日

下仁田の鉱山 その4 輝安鉱の鉱山

梅雨の季節です

       絵 小林生子さん






雨の季節にも その湿度を楽しむかのような花が咲きます。


下仁田でも、高速道路入り口付近にアジサイをたくさん植えて
いらした人たちを歓迎しています。アジサイ祭りも開かれます。



少し日陰の場所ではびこって、嫌われがちなドクダミも、よく見るときちんとした端正な花の姿をしています。もっとも、白いのは花びらでもガクでもなく、単なる飾りだそうですが。
梅雨時の雨の中でも、当たり前のように咲いています。
      (アジサイの花びらに見えるのはガク        だそうです。)
民間薬の「じゅうやく」として、昔から知られたものですが、少し年配の人でないと、このことも知らないでしょうか。


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下仁田周辺の鉱山   

  今回はちょっとめずらしい鉱物を産出した場所を紹介します。そんな鉱石を採掘した場所は数ヶ所ありますが、1ヶ所しか行ったことがないので、今回はその場所について紹介します。

中丸鉱山
大学生の観察会にご一緒させてもらったことがありましたので、まずこの鉱山の紹介を。

下仁田町を東西に走る国道254から北方向に20分ほど山道を少し歩くと、かつての鉱山あとがみられます。中丸鉱山本鉱とよばれ、急斜面をよじ登ったところには、小さな坑道跡もあり、中をのぞかせてもらいました。奥行き10mほどの坑道があります。

鉱山事務所跡
この南東の急斜面をやっとのことでよじ登ると
坑道がありました
坑道の中にあった、鉄サビつらら状のもの
ここより東、山道を進み、さらに道もなくなった山の斜面を歩くと、中丸鉱山東坑があります。
急斜面を落ち葉に膝まで埋もれ滑りながら登った場所は、なんとズリ山でした。顔を出した石は採掘あとのズリ。それを丹念に見ていくと、鉱物の結晶がみつかりました。

ここは輝安鉱という鉱物がみつかることで知られます。アンチモンという元素を含む鉱物です。
右写真はそのとき採集したもの、スケールがないのですが、放射状に集まった1cm程度のかたまりが、その鉱物で、多分、輝安鉱。「多分」と書いたのは、専門の方が、違う鉱物もあるかもしれないとおっしゃっていたから。調べてみたいということで、一部持って行かれました。
他には以下のような鉱物があるそうです。重晶石は見かけました。
 黄鉄鉱、閃亜鉛鉱、重晶石
 輝安鉱の風化でできた黄安華・・
  (場所によっては方鉛鉱)

「黄安華」ってはじめて聞きました。右の写真の黒い部分が黄土色になったようなものがみられましたから、それだったのだと思います。

日本はかつて、大きく美しい輝安鉱の結晶の産することで知られていました。海外にもたくさんもちだされたそうです。残念ながら、今ではなくなってしまいました。
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ここはアンチモンを得るために採掘していたわけです。アンチモンについて調べてみました。

 たまたま1ヶ月ほど前の新聞に、エレクトロニクス関係の会社が全面広告で元素周期表を載せていました。元素の表に、その元素の使い道が記されているものです。
アンチモンの項目はこんなふうにかかれてありました。「古くはエジプト女性のアイシャドー。現代では燃えにくいカーペットやカーテンの素材に使われる。」・・・・・・この説明、少し、”身近”にこだわりすぎていないかなあ・・・鹿児島湾の海底の泥の中にたくさん埋もれているのがみつかったことは、強調して書かれてありました。
インターネットで見ていただければ、実に様々なものに使われているのがわかります。半導体材料、合金、バッテリー、難燃剤(カーペットだけでなく、プラスチックに混ぜて航空機から車両その他・・・)その他さまざま・・・私には理解できないものばかりですが。
いわゆる、レアメタルの部類になる金属元素で、使用量が増加しているけれど、じつは毒性があるので、問題視もされているはずです。

女の子たちに、黒く焼いた肌に目のまわりを白く縁取りした、いわゆるガングロが流行った頃、ある先生が女子高校生に言っていました。「クレオパトラがなんで派手なアイシャドーをしたか知ってるか。あれには毒があって、目のまわりに飛んでくる虫を追い払えるからだ。」虫が目に卵を産み付けるのを防いだのだといっていたような気もがするのですが、ちょっと記憶が不正確・・・
こうして、目のまわりになにやら「塗りたくる」女子高校生たちにお説教をしたわけです。
このクレオパトラのアイシャドーは輝安鉱を粉にしたものだったそうです。じつは、輝安鉱に含まれるアンチモンには毒性があるのです。ですから今ではアンチモンは化粧品には使われません。もっとも、輝安鉱の粉そのものに毒性はあるのかな・・・・?
先に挙げた新聞の周期表にも、毒性の表示はした方がいいと思うのですけどね。

私はアンチモンについては、「固体になると体積の増える物質」として記憶していました。
物質はふつう、液体から固体になると体積が減ります。例外は水。水(液体)が凍ると氷(固体)になって体積が増えます。これってじつは、とてもめずらしい、普通じゃない性質なのです。他にはアンチモンがあって、それを利用してアンチモンを入れた合金で活版印刷の鋳造活字をつくったと。型に流し込んだ金属の体積が減ってしまっては、うまく印刷用の型がつくれない・・
パソコンで簡単に印刷までできるようになって、活版印刷って何?といわれそう。この印刷技術の開発で本が大量に作られ、人類の知識・文化の発展に、どんなに貢献したことか。

  (レアメタル:さまざまな理由から、産業界での使用量・流通量が少なく、希少な金属)

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        上毛新聞社 群馬の大地 より 
鉱山のだいたいの場所は左図でごらん下さい。
この付近は火山岩や火砕岩の分布地域で、鉱床付近には市野萱(いちのかや)貫入岩体とよばれる、あとから入り込んできたマグマが固まった岩石が分布しています。鉱床を含むのはこの岩体の一部の岩石とのこと。

鉱床のタイプは浅熱水性鉱脈型鉱床というものになります。
新第三紀以降という、地球の歴史からしたら比較的新しい時代、地下の比較的浅い場所で鉱脈ができたものです。
この地域にはかつて他にも鉱山があり、比較的めずらしい鉱物を産しています。

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この季節にも 木の実はみのります
                                           

           びわは

     やさしい きのみだから

     だっこ しあって うれている

     うすい 虹ある

     ろばさんの

     お耳みたいな 葉のかげに

     
          まど・みちお
                                

花も咲きます

   ネムの花は 優しい雰囲気。 植えられたものもみますが、川辺にも育っています。


ねじれているけど、ひねくれてなんかいない。

芝生にはえるネジバナ

時々、山沿いの道端でもみかけます。
でも、本当に、まれ・・・


マダケのタケノコの皮が、ぱらりぱらりと落ちていきます。

この皮でお弁当のおにぎりを包みました。
今では、竹の皮を使ったら、むしろ高級品。
食用の孟宗竹の皮は、うぶ毛のごとき毛がはえているし、しなやかに曲がってくれないし、ものを包むには不向きです。
利用したい方は、今の時期に、マダケの竹藪にいって集めてくださいね。

その昔は、この竹の皮を買い集める人もいたそうです。
しっかり利用していたわけです。


昔はこの皮で草履をつくったと聞いていました。
今、健康志向などで、またそんな草履を室内履きに使う人もいるとか。




下仁田の山あいにも、木の実や花が見られます。

     ヤマグワが実をつけていました。        ミツバウツギは、こんな形の実をさげています



道端のヘビイチゴの実はめだちます              林のかげに咲くサワギク

もちろん、ヤマアジサイも咲いています                 大きな葉っぱのアワブキの花です















少し標高の高いところ(700mくらい)にいくと、まだウツギが咲いていました。そのあたりで見かけたものです。

モミジイチゴの実                      ウリノキ  かわいい花・・アップで撮りたかった

イチゴはどれも毒がなく食べられるとききますが、一番おいしいのが、黄色いこのイチゴ!

まだウツギ(うのはな)が咲いていました。
                                        下仁田 山あいの集落


  咲く花などは地味な季節になりましたが、生き物がぐんぐん成長する季節です。

2014年6月16日月曜日

下仁田ジオパークの鉱山・石材  その3 砥石


砥石

砥石、使っていますか? 「何と読むのかわからない」という若者も多いかも・・・「といし」ですよね。
偉そうにいったものの、じつは私も、包丁の研ぎ方がよくわかっていない・・よく切れる包丁は料理をおいしくするといわれるのに。

南牧村の砥石産地は、かつて江戸幕府直轄とされ、有名なものでした。
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かつて、砥石は身近で大切な道具だったはずです

榛名山の麓、金井東裏遺跡でみつかった「甲を着た人骨」、6世紀初頭の榛名山二ツ岳の噴火のとき火砕流に埋もれ、みつかった人骨が大きな話題になりました。
発見された人骨は、発掘からすぐあと、2013年3月に、緊急に一般公開もされました。



この緊急公開のあと、ていねいに遺体を調べ、うつぶせの遺体の下まで調べていったわけです。

このとき、砥石がみつかりました。
この人は、砥石を持参していたのです。小さな穴があるので、ひもを通して身につけていたとおもわれます。

鹿角の柄の刀子(とうす 小さなナイフのようなもの)が一緒にみつかっています。きっと、その刃を研ぐための砥石だったのでしょう。



古墳時代の人骨で、甲を着たものの発見は、はじめて、
火山噴出物の下からみつかったのも、全国初でした。
1500年ぶりの姿・・・・
 
発掘現場にも行ってきました。
ここからは4体の人骨がみつかっています。2体は全身骨格が残されていました。一人は首飾りをつけた女性です。石の管玉とガラス玉の首飾り。
他に乳児もみつかっています。

人や馬の足あともたくさんありました。この噴火ではたくさんの方が亡くなったのかもしれません
発掘現場


古墳の中からも砥石はみつかっています。
埼玉県行田市の5世紀の埼玉(さきたま)古墳群の
稲荷山古墳でも、砥石がおさめられてました。

この古墳、大変に有名です。
納められていたさびた刀にX線をあてたら、なんと金の文字が浮かび上がってきたのです。金象嵌(ぞうがん)で刻まれた115の文字は、日本の歴史研究に重要な文字となった・・・鉄剣は今、国宝になっています。この剣にもちゃんと砥石がそえられていたというわけです。

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南牧村の砥沢は、砥石の生産で有名でした。江戸時代は幕府直轄とされていたほどというのが有名な話。

この砥石、古墳時代から使われていたようです。そして、昭和50年代まで採掘が続けられましたが、今は採掘されていません。なぜ? 

・・・・・・・人造砥石がつくられ、すっかり取って代わられたから。昭和30年代の高度成長期には、天然の砥石はほぼ役目をおえました。
       そればかりか、刃物を使う生活も、ずいぶん減ってしまいました。


砥沢砥
  南牧の道の駅に行くと、南牧産の砥石が販売され、下のような解説も掲示されています。
































もっと高価なもの(2万円とか・・・)もありました。




下仁田から流れ出している鏑川流域では、古い時代から人が住み、遺跡発掘では砥石もでてきます。
今と同じに、刃物の研磨に使われていたものであることが、使用痕からわかります。
ジオパーク講演会での秋池武さんの報告を参考にして、発見された砥石の例をのせます。
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・古墳時代前期
  甘楽郡天引遺跡の住居3軒から4点

・平安時代
  吉井町黒熊中西遺跡10号住居より、天慶四年(880年)の刻印字のある砥石

・14世紀末、禅僧義堂周信の「空華集」中にある「砥」の文字が、砥沢砥と見られる

・砥石管理の権利について残されたもの 

  1555年
    藤岡市平井で源左衛門が砥石山を管理し、武蔵榛沢郡人見の太郎左衛門にあてがわれ
    た、といった資料・・・北条氏堯の印判状より
  1565年
    無許可採掘者は荷馬ともとらえて連行せよとの命令(北条氏邦より太郎左衛門宛て)
   1557年
   西上州から出される砥石は、仁美(人見)の太郎左衛門の手判のないものは商売ができない
      よう、北条氏邦の印判状に印されている

・江戸時代
  砥石需要が庶民にも広がり、幕府管理の下、国内各地に流通した。
   
     道の駅の記述とちょっと違いますが、発掘その他の調査によって調べられたものです。
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砥沢の石って、どんな石?白い石だけれど・・・


流紋岩です。地下のマグマが地表浅いところで冷え固まったもの。ただし、この場所の流紋岩は地表に流れたのではなくて、900万~800万年前、地層に入り込んだ(貫入した)ものです。

さらに後から熱の作用を受けて少し変化していて、細かい結晶で加工しやすいものになっています。小さな粒のザクロ石(ガーネット)が入っていて、これが砥石の性能を高めているそうです。宝石になるような粒のガーネットではないのですが、ここでは、粒の小ささが砥石の価値をたかめています。粒が大きかったら砥石になれなかった・・価値がなくなった・・
  場所は砥沢本谷奥です。南牧村砥沢本谷の奥では、今でも鉱山跡が見られるそうです。
  この地域の経済も大きく支えてきた石だったわけです。

これも砥沢の石です
砥沢の石でつくりました


小坂でも砥石を取ったところがあるそうです。場所は小坂村大字小坂、明治の頃から採掘して、今でもその跡が見られるということで、本多優二さんの「下仁田ジオパーク応援団」のブログに紹介があります。昨年6月の紹介です。
http://geogunma.blogspot.jp/2013/06/blog-post_9.html

こんなことを書きながら、じつは私、砥石のとれる場所、鉱山跡にいってみたことがありません。
皆さんの書かれたもので紹介させていただきました。

この流紋岩は、下仁田では鏑川の川原の石でよく見かけます。青岩公園での川原の石の観察会でひろう、白っぽい石の一つがこれです。
この石でつくった作品を紹介します。下仁田自然学校の細矢さんが作ってくれました。
砥石にするには、さらに吟味して、砥石にむいたところを選ぶのでしょうね。

もっと昔の砥石

古墳時代より前、縄文時代にも砥石は使われています。
考えてみれば、「磨製石器」というのは、石を磨いているわけですから、磨くための石、「砥石」があってもいいはず。
縄文時代中期(5000年ほど前)、鏑川周辺の地域では、砥石に牛伏砂岩という石を使いました。
牛伏山という山があるのは、地元の方ならご存知かと。その付近でとれる砂岩を利用したものです。
牛伏砂岩というのは、富岡や高崎の丘陵をつくる富岡層群という地層の一部で、その中でも一番古い部分です。海に堆積した砂です。

どんな砥石?といわれても、実物は知らないので・・・「牛伏砂岩」なら見たことがありますので、その写真を下にのせます。
一言で言うと、粗い粒の砂岩で、大粒の石英や長石の粒が入ったものです。石をガリガリ削っていくのには適していたのでしょう。
鉄製の刃物が使われるようになると、そんな石で削ったら、ぼろぼろになってしまう・・細かい粒の砥石が必要になり、そこで砥沢の石が最適の石として登場したわけです。

牛伏砂岩の石垣・灯籠


甘楽町小幡の磨崖仏も牛伏砂岩、この面は断層になっています。中央構造線はこの付近を通っています。
右はその近くの砂岩です。ザラザラした石です。




下仁田町吉崎の「吉崎遺跡」、馬山で高速道路インター建設時に発見された「下鎌田遺跡」からは
牛伏砂岩製の砥石が多数出土したそうです。どうやら磨製石斧制作場所だったのではと言われています。ここでつくって利根川流域まで持って行った・・・・このときの発掘品は大量に保管されていますから、いつか見せていただこうかな。
 縄文時代中期には、定住生活も営まれるようになり、木を切ったりするための大型石斧が必要になってきて、それを下仁田ではつくっていたようなのです。5000年も前ですから、商品としてお金で売り買いする時代ではないけれど、石器をつくって流通させていた・・・・人は昔も頑張っていたんだ。


まるで知らない砥石のことを書きました。
いろいろご存知の方、地元の方などから、もっとたくさんの知識・知見が聞けるかもしれないな、などと思っているところです。

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 季節の便り

アジサイの季節になりました。

山の中にも園芸品種でない、野生のアジサイが咲きます

  コアジサイは色も姿も繊細でステキです。 これから、他の種類のアジサイも咲きだします。
 だんだん違った種類も紹介できるかな。

コアジサイの花
                           
沢沿いや石垣にはユキノシタの花


一つの花


        葉っぱを裏返すと、赤い!
これを 利用して、学校では
「細胞の原形質分離」というのを実験します。高校で生物を勉強した人なら 、覚えてる人もいるかも。多くの人が使うタイプの教科書の最初の部分に出てくるので。

でも、きっと実験した人少ないだろうな。何しろこの葉っぱが手に入らない・・・
ユキノシタがあった、と喜んでも、葉っぱをひっくり返すと、白いものが多い。我が家にあるのも白い。下仁田のは、見事に赤くて、きれい。
赤と白になる条件は?・・・ ・・以前真っ赤だったところが、今回白かった・・・理由??わからないなあ。どなたか教えてください。


       マタタビの花が咲き出しました。下向きにちょっと慎ましやかに咲いていますが、
       白くなった葉が、花のある場所を知らせてくれます。                                          
マタタビの花
いまごろのマタタビの葉

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玉村では麦刈り。今年はずっと雨が降り続いて、麦から芽が出てきてしまうのではと心配に。
6月4日には雨、それからずっと、12日まで降っていた・・・この雨で、農作物の被害も出ているようです。

雨が上がり、やっと麦を刈ることができました。刈ったあとの麦わらは、以前は束ねたりしていましたが、今は小さくきざんでしまい、すき込むのが主流のようです。 麦わらの利用がなくなったわけ・・・・「麦わら帽子」の麦わらは、どこで調達するのかなあ。  いよいよ田植えの準備です。



 
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身近な植物を一つ紹介
        庭先の白い花、何だかご存知でしょうか。実になると多分知ってる。
         ナンテンです。こんな地味な花が咲きます。
         この植物の御利益で 「難を転じて」ほしいですね。