2014年9月28日日曜日

石の利用 お彼岸にちなんで

  お彼岸

ヒガンバナはそろそろ終わりに近くなりました。キンモクセイの香がどこからともなく漂ってきます。
 秋、彼岸が思い起こされてきます。
  お彼岸にはお墓参りに行かれたでしょうか。


< 石 が語ること >

お墓に行くと新しい墓石はピカピカに磨かれ、石の組織や含まれる鉱物がよく見え、「岩石の学習をするのに役立ちそう」といつも思ってしまいます。

 一方、昨今は放置されたお墓が増え、その処分がニュースの話題に取り上げられたりしています。先祖代々の墓を守り継ぐといった話が、どこか時代にそぐわなくなってきている・・・・子どもたちがはるか離れた場所で生活をしているのは普通だし、名字を継ぐ子どもがいない例も普通だし・・・世界では夫婦別姓の国も多いわけで、そこでのお墓事情はどうなのかな。
 「田舎」と思っていた我が家の近所のお墓にも、「○○家」ではない文字の刻まれたものがいくつも見られて、少々驚いているところです。
(お墓の持ち主の方・・無断で写真のせて、すみません
他にも、絆・心・など、いろいろありました)

  最近は立派な石を使った立派な墓がたくさん見られます。子どもが怖がるお墓の雰囲気はほとんどなくて、肝試しに使う気分にもなれないかも。(もっとも、今はお墓で肝試しなんてやらないでしょうが)。
つくりは立派になったけれど、お墓はあまり心に留められなくなってきているのかも・・墓守で子どもに迷惑かけたくない、散骨がいい、樹木葬がいいという声も聞こえてくるこの頃です。たしかに、若い世代にとっては、「先祖代々の・・・」というのは窮屈で古色蒼然とした面倒くさいだけのものに映ったりもするかも。

 とはいえ、お墓という形にはこだわらなくても、前の時代を生きた人たちへの敬意・感謝の気持ちは忘れてはいけないしそのためにはお墓参りなどの何らかの形は意味があるかも。家族皆が集まる機会にもなりますし。手を合わせたり読経の響きを聞いたり、時代を超えて長く続いてきたことには、それなりの意味があったからでしょう。

 

ずいぶん昔、中学生の頃ですが、古墳の発掘見学をしていたときのこと。古墳の石室の天井部分に使われていた石について、発掘していた人が説明していた姿が記憶の奥にあります。遠くから運ばれた石で、こんな大きいものを・・・といった内容だったかな、と思っているのですが、ちょっとあやふや。そんなことを今でも覚えているのは、その少し後の記憶と重なるからでしょうか。高校の修学旅行で奈良の石舞台古墳を見ていたとき、その大きな石について、たまたま近くにいた地学の先生から「これ、かこう岩でできているんだよ」との話を聞き、無味乾燥だった「かこう岩」が、急に生き生きと浮かび上がった経験です。

はるか昔から、腐ることなく長く残る石はお墓や碑に使われてきました。権力、財力があれば、価値の高そうな石やら、大きくて扱うのが大変そうな石などが使われてきたような・・・・美しい鉱物・宝石類も同様です。
 石や鉱物は、今でも実際の産業・鉱工業などで重要な役割を果たしてきているわけですが、それは直接目に触れないためよくわからず、墓石やら飾り物のほうが、目にとまる、美しいので関心を引くことになるということでしょうか。


玉村町で、お墓や碑に刻まれた言葉を丹念に調べた方がいます。戦争で亡くなった方々の墓、その他、戦争に関わる文の刻まれたものなどを調べました。もちろん、町の資料としての記録はありますが、新たにわかることも出てきます。戦死者数も少し多くみつかったということです。
明治から昭和まで、玉村は地方の小さな町ですが、明治からの戦没者589~606名(正確にはわからない)、特に第2次大戦では581名の死者の名前を墓碑で確認しました。正確に言えば、玉村以外に葬られた方もいるかもしれませんので、正確な数字はわかりません。きちんとお墓をつくってもらえなかった人だっているかもしれませんし。なお、当時の玉村の人口は右のグラフでごらん下さい。人口15,000人もいない程度の町でした。

 澤地久枝さんが「蒼海よ眠れ ミッドウェー海戦の生と死」を書いた動機・・それは、死者数約○○名」という言葉だったといった話を聞いたことがあります。「約・・・」一人一人が生きていた生身の人間、喜んだり悲しんだりして生きていたはず、それを「約何人」で片付けることへの怒り・・アメリカにも渡り一人一人を訪ね歩き、全員の氏名を調べあげた・・


 ほんの数回ですが、玉村町戦没者の調査に同行させていただいたことがあります。
氏名、年齢、亡くなった場所。
調べた結果は、

 死亡年齢は21~25歳が48%、徴兵検査による現役兵と見てよいだろうとのこと。
 26~30歳が27%で、これは召集兵または技術保持者。
 こうしてみると30歳以下の戦没者がほぼ80%となっています。

亡くなった場所の名前を読んでいると、ため息が出てきます。どこかで聞いたような地名・・・ニューギニア、レイテ、ルソン、ボルネオ、硫黄島、パラオ、ラバウル・・・・満州等の中国大陸のものもあります。
群馬からの部隊・高崎15連隊はビルマ作戦からさらにインパール作戦に投入され、「白骨街道」「靖国街道」とよばれた戦地での犠牲者ともなりました。私の父の同級生はほぼ半数が戦死したと聞いていますが、いったいどこでどのような最後を迎えたのでしょうか。澤地久枝さんのようにはできなくても、せめて、記録に残しておくことは、後の者の責務とも思えてきます。
 地名に「ペリリュー島」という名前がありました。聞いたことのない地名でした・・つい最近、NHKの番組で、ペリリュー島の戦闘が放送されました。当時のフィルムがみつかったようです。互いに相手のせん滅をめざし、せい惨としか言いようのない、目をそむけたくなるような戦いを繰り広げていた様子が明らかにされていました・・・軍事作戦的にはもはやほとんど意味がなくなっていても、狂気のようにとにかく戦い続けていた・・・満州にいた高崎15連隊は、1944年2月、南方へ移動、パラオへ。その一部がペリリュー島へ派遣されています。ここではほぼ全滅しています。
お墓など見る気もしないものですが、こうしてみると、石に刻まれた文字は、記録の一つとなってきます。
玉村の人で「731部隊にいた」と、ある時知人にぽろっと言った人がいたそうです。そのとき「経験をみんなに話してくれないか」と言ったら、「とんでもない」と口をつぐみ、以後決してそのことは口にしなかったそうです。この方たちは、皆、今は鬼籍に入っています。記録というのは、なかなか残らないものなのです。(731部隊・・生きた中国人を実験材料に使った・・もちろん生体実験にされた人は、皆亡くなっています・・・・ほとんどの人が、戦争の記憶は口に出さぬまま自身の経験をそのまま墓まで持って行っいったのでしょう・・)    

墓石は誰でも見ることのできる記録。ただ、私の世代になると、あのわかりにくい難しい漢字の世界には、敷居が高くなります。

玉村には、墓地の一角に戦没者のお墓をまとめた場所が見られます。町内に13カ所見られます。写真は西光寺のもので、白いかこう岩で同じ形の墓石で、戦後1953年につくられています。ですから第2次大戦の戦死者の墓です。戦前には軍が管理した墓碑群があり、明治の頃からこういった型があるようす。その形を受け継いでいたのではないかということです。家族の墓へ移した人や、家族の墓にも二重にたてた方もいたりと、調べると、家族の思いが伝わってきそうです。西光寺の10基のうち、今年のお彼岸に花の手向けられていたのが6基ありました。この墓石は文字の彫りが浅く、簡単に削った程で、今ではひっかき傷のごとくで、努力しないとはっきり読み取れないほどになっているものもありました。写真のものはよく文字が見えていて、ラバウルの文字が読み取れます。



下の墓は個人で建てたものですが、墓石の右と左に兄弟と思われる名前が刻んであります。


人間、目の前から見えなくなったものは、すぐに忘れてしまう生き物のようです。特に、都合の悪いことや自分の利益にならないことは。忘れてはいけないもの、感謝を持つべきものには、少しの努力くらいは注いでいく必要があるとおもいます。
 
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すっかり玉村のお墓の話になってしまいました。
普通、よそのお宅のお墓など見て回りませんし、ましてや、下仁田のお墓など、まるっきり見たこともありません。
 地質見学で下仁田を歩いていたある時、みんながおもしろがるお墓がありました。
 「きっと、とんでもない”のんべえ”だったに違いない」とみんなで笑いました。おちょこをかぶっていたのか、とっくりの形だったのか、どんなだったのか今思い出せないのですが・・・場所はどこだったかなあ・・
 この人、家族に相当迷惑かけたのではないかな・・でも、こうして楽しいお墓を作ってもらえたのだから、いい家族に恵まれていていたんだろうなあ。幸せな人だったのだろうなあ・・・・みんなが、こうして幸せにお墓に入れるような世の中でありたいです。

丈夫で長く残る「石」は、ちょっとした庶民の歴史も知らせてくれるようです。
今回は、自然の歴史でなくて、人の歴史を語ってくれる石の話でした。









長文の書き添えられているものもありました。武勇をたたえる雰囲気のものから、その方を心からしのぶものまで・・・。そんな書き添えがあると、1度ならず2度とか、招集を受けて戦地へ赴いているのもわかったりします。
 

2014年9月14日日曜日

秋の訪れ 草花遊び

ゆきあいの空

 この言葉、ご存知だったでしょうか。はじめてこの言葉を聞いたとき、「なんとやさしく美しい言葉だろう」と思いました。夏と秋の行き交う空、夏から秋へ、次の季節に移り変わろうとする頃の空をこうよぶのだそうです。空も澄んできています。雲を無心の心で眺めていること、最近あったかなあ・・
  というわけで、季節の便りをいくつか。

  
 シュウカイドウの花が咲いています。
昔からあちこちの家の庭の隅などに咲いていた花。
さまざまな園芸品種が栽培される中にあっても、いまでも負けない美しさだと思っています。




学校へ通う道が舗装してないあぜ道の時代、夏休みの終わる頃、その道はすっかり草で覆われてしまいました。その草をきれいに刈りとってもらって、2学期がはじまりました。
 そんな道を歩くと、まわりにチカラシバがたくさんはえていました。素足に触れるとむずがゆく、ちょっといやでした。紫がかった大きな穂はまさに瓶を洗うブラシのよう。踏まれても平気、それどころか、固い土のところにはえ、引き抜こうったって引き抜けない。「力いっぱい」引いたってぬけないから「力芝」。人の踏むような道にはえるので、別名ミチシバ。写真がちょっと貧相でしたが・・
 このいかにも生命力のありそうな草が、繊細に見えるときがありました。細かな水滴が大きな穂をおおい、輝くとき。いくつもいくつも群れてはえるチカラシバに水滴がきらきら輝く姿は本当に美しく、稲に張られて水滴に輝くクモの巣とともに心に浮かびます。こんな場所を、素足をひんやりぬらしながら歩きました。
 あの水滴は雨のしずくだったのだろうかと思って、ふと気づきました。雨のこともあったでしょうが、でも、朝露だったのでは、と。
 季節の変化を、秋の日の朝の冷え込みを、その秋の訪れを、チカラシバがやさしく教えてくれていたのかもしれません。(近所で写真を撮ろうかと思ったら、チカラシバ、あまりみつからないのですよね。最近、いかに身の回りの自然を見ていなかったか・・)

  白露(はくろ)という言葉があります。今年は9月8日。秋の気配が露を結びはじめる時という意味でしょうか。夏から秋への交代の目印。 最近の日本の気象は、9月も亜熱帯のような日々だったりしますが、今年に限って言えば、まさに、秋の訪れです。

    「白露(しらつゆ)に 風の吹きしく 秋の野は
          つらぬき留めぬ たまぞ散りける」    小倉百人一首

露は秋のものと、古来、人々は感じてきたのでしょう。(白露の美しい写真がほしいところでした・・・)
 
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長くなりましたが、秋と言えば、月を無視するわけにはいかないでしょう。今年の「中秋の月」はやけに早く、もう過ぎてしまいましたが。
また思い出を。

 人は華やかな満月だけを愛でたわけではありません。
満月の日、月は太陽が西の空に沈むころ、東の空から登ってきます。満月が過ぎてから、月の出の時刻はだんだん遅くなります。昔の人は、それをいかにもふさわしい言葉で表していました。
ある国語の先生、それを黒板にこんなふうに書きました。

 ・ 望月、十五夜  (ほぼ満月)      
 ・ 十六夜      (いざよい月、満月の次の日の月)
 ・ 立ち待ちの月  (満月から2日目の月)
 ・ 居待ちの月   
 ・ 寝待ちの月 臥し待ちの月
 ・ 寝言の月
 ・ いびきの月
 ・ おねしょの月
 ・ おもらしの月

黒板の文字をせっせと写していた(と思うけど・・)中学生の生徒たち、このあたりで「ン?!」
「うそだア~」と大笑い。
どこまでが本当だと思いますか?表現が何となく上品なところまでです。
答えは "臥し待ちの月”。満月から4日目の月です。
これよりあとの月は、まとめて"有明の月ありあけのつき”。夜半に月の出を待つには遅く、むしろ明け方の空にかかる月を見ることになる・・・だんだん月の出が遅くなっていく様子が、本当に見事に美しく現されています。月の出を、立って待つ、座って待つ、横になって待つ・・・電気という夜の照明のない時代、人々はこうして夜とつきあっていたわけです。(現代人は宵っ張りなので、”有明の月”の時期の月も夜に眺めていそうですが)。

満月から後、東の空に姿を見せる時刻が遅くなるだけでなく、月はだんだんやせてゆきます。やがて月は、夜を越して、朝、太陽といっしょにのぼり、夕方、太陽といっしょに、西の空に沈みます。つまり、見えないということになります。新月です。
それから3日ほど後、夕方、西の空には細い月が見えます。この月は昼間、太陽を追いかけるようにのぼってきたものの、明るい太陽の光でみえなかったもので、お日様が沈んで、やっと見えるようになりました。そして日没のすぐ後、太陽を追いかけるように西の空に沈みます。どうぞ美しい三日月を眺めてください。
細かった月もだんだん太ってきて、やがて新月から15日(月齢では14)、再び満月。満月は新月から指折り数えて、だいたい15日目。なーんだ、十五夜ってそういう意味だったのか、というところです。満月の前の月も、十三夜といって、愛でていますね。

  ところで、月はふしぎな力を持つと、昔から人々は考えてきました。
 
 生物たちの産卵が満月と関係のある例はたくさんあります。満月と関わる大潮の日、
 海を波立たせて魚たちやカニたちの大群が1カ所に集まり、産卵をしたりするのです。
  古来、人は月の光を味わい、優れた文学や名曲を生み出しました。
  空を見上げたら、そんな人たちの爪のアカ程度でもあやかりたいものです。
 
地球と月は兄弟ではないかといわれます。火星くらいの大きな天体が高速で地球に衝突し、飛び散ったかけらから月ができたとか・・さまざまな説がありますが、こんな説が今、有力なようです。
大地を見る、地球を見る「ジオパーク」にかかわる私たち、時には空の月にも夢をはせ、大地の生い立ちを思い描くのもいいなあ・・・
 
 
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月の話なので、ススキの話も。
十五夜には、ススキを飾りましたか?  子供の頃から、ススキは「そこら」に行って調達、つまり、近所の川原でとってきたわけです。ずっと後になって、それがススキでなく、オギだと知りました。

オギとススキの違い

株立ちになっているか、いないか
といったところでしょうか。

フサフサと銀白色の穂を揺らすのはオギ。少し赤みや黄色みを帯びたのがススキ。
はえる場所も少し違います。オギは少し湿り気のある所、ススキは乾いたところ。水ぎわをヨシがおおい、オギが銀の穂を見せているかもしれません。

萩原さんはハギの花をご存知でしょうが、荻原さん、オギがどれだかご存知だったでしょうか。



                                        

最近は園芸用の斑入りススキをいけることが多くなって、川原に取りに行かなくなりました。今年あらためていって見たら、ヨシの穂はあるけれど、オギが見当たらない・・・
オオブタクサが背高く生いしげるのが目立っていました。右写真です。花粉を飛ばし花粉症の原因のにっくき草、外国からやってきた外来種ですが、大きな顔をしてはえています。  
                             



     草花遊び

夏から秋へ  草と遊んだ記憶を どうぞ。。。。。。。。。

サツマイモの 茎を互い違いに折って、ネックレスを。札幌で、小学校の男の先生が、とても喜んでいたのを思い出します。北国札幌ではサツマイモは育てませんが、教育用にビニールハウスの中で育てていました。



ヒガンバナで同じことをやる遊びが本に載っていました。見栄えもきれい。でも、ヒガンバナは毒草というイメージがあって、遊んだことはありませんでした。

そのほかいくつかの遊びを。

そこらに咲いていたオシロイバナです。


こちらもパラシュートです。

これは遊んだことある人、多いのではないかな。            
夏の花、朝顔は、まだ咲き残っています。
朝顔は、プチッと音を立てます。

 

ススキミミズク、じょうすにつくる人って、いますよね。

夏の風景の書き残し

 アマサギの写真を撮ったら、白いサギ・白鷺の区別をのせようかと思っていました。田んぼにいくらでも飛んできていた、と思っていました。たしかに、以前は・・・。でも、今年あらためてみようと思ったら、姿が見えない・・・このあたりには来なくなったのか、それとも、夏鳥なので減少しているのか(最近、夏に日本に渡ってくる鳥の数が減っていると聞いたことがあって、こんな連想が浮かびました)・・・常日頃、周りを見ていないのに、また気付いたところです。
 というわけで、シラサギの出番がありませんでした。白いサギはいつでもいますから、これからの参考に紹介を。チュウサギというのもいますが、よくわかりません・・・これも夏鳥として飛来しますから、これからの時期見られるのは、コサギとダイサギでしょうか。灰色っぽいサギもいて、こちらはアオサギ。水田の水がなくなりますから、これからは川辺で姿を見かけるかと思います。






地球も星ですから、空の星のことも思い浮かべながら大地を見ていくと、また格別の味わいがあるかも。 今回は”季節の便り”になりました。

 

2014年9月12日金曜日

石器の材料・遺跡紹介

 
前回は、かつて、群馬に住んだ人たちのことにふれてみました。
今回はまず、石器の材料について紹介してみます。
 
 いちばん有名な黒曜石 
  黒曜石はマグマが急に冷えてできた石です。石の中身は天然ガラス。ガラスが石になる?・・・
 身のまわりにあるガラスはたいてい無色透明なのに、黒曜石は黒。薄くすればすけてみえるかもしれないけれど、これがどうしてガラス?と思う人だっていると思います。
マグマが冷えてできたガラスはもとがマグマなので、窓ガラスなどとは違って鉄分などをたくさん含み、それが冷えると無色透明ではなくて、着色ガラスになります。しっかり光を吸収して、黒く見えるというわけのようです。お酒の瓶で黒っぽいのは、何を混ぜているのかなあ?・・・とにかく、ガラスを多く含んだ石は黒っぽく見えます
 ガラスの切り口は鋭いし加工も簡単で、鋭利な刃のできる黒曜石は石器の材料として最高なのでしょう。北海道や長野県、箱根、九州などに大規模な黒曜石産地があります。
 じつは、この石、どこにでもある石というわけではないのです。全国で「黒曜石産地」がどこにあるか、調べられているほどです。石に含まれる微量な成分の量の割合が産地ごとに違うのを利用して、産地をつきとめるのだそうです。
 群馬県には長野県和田峠から黒曜石がたくさん持ち込まれています。伊勢崎市では和田峠産と栃木県高原山産の黒曜石が混じっているとか。西から来た人と東から来た人がここに一緒にいた、狩りをしていた・・・・言葉なんて、通じたのだろうか・・外国人と会うような気分だったりして・・・とにかく、交流があったのですね。
 
<黒色安山岩>
 
黒色安山岩??・・・岩石の勉強をしたことのある人は、「一体それ何?」と思ってしまいます。聞いたことのない岩石名なので。
安山岩は普通、灰色っぽい色をしています。黒ければ「玄武岩」と言いたいところです。ところがガラス質安山岩は黒く見えます。そこで、石器を調べる考古学の人たちは、「黒色安山岩」と名付けてよんでいるようです。
 
 荒船山の山頂近くの石は「荒船溶岩」とよばれる、真っ黒緻密な石です。「玄武岩」と思ってしまいますが、成分を調べれば安山岩です(下仁田自然史館にも展示してあります)。これも黒色安山岩というわけです。右上の図にも、黒曜石と一緒に黒色安山岩の産地がのっていますね。黒曜石にはかないませんが、それでも割れば薄くはがれて、鋭利な刃ができます。
荒船山の「黒色安山岩」はそれほど石器むきではないらしく、八風山(はっぷうさん・上信越自動車道にこの名前のトンネルがありますね)のものが大量に使われているようです。
 
<そのほかの石材>
 
上の2つは高品質で特別な材料に思えます。きっと、大切に使っていたでしょう。
ふだん使っていた石器は、もっと身近な材料だったのでは。そんな材料をあげてみます。
  
      (下仁田自然学校で実施している学習会「地学講座」での資料から)
 
<堆積岩の仲間>         : 頁岩けつがん、シェール)  砂岩  粘板岩  チャート 
  (つもって固まった石)                凝灰岩
<火成岩の仲間>         : 流紋岩、蛇紋岩 花崗岩  (安山岩と黒曜石は書きました)
  (マグマが冷えてできた石): 
<変成岩の仲間>         : ホルンフェルス 結晶片岩など
 (岩石が熱や圧力で変化したもの): 
< 鉱物 >         :  水晶  ヒスイ  メノウ
 
 
 こうして書くと、「何でも使っている」感じです。硬くて加工しやすければ、何でも利用したのでしょう。普段使いの石器の材料は、地元産の材料だったでしょうから。
地質調査でよく歩いていらっしゃる方は、石器を見て、材料となった岩石がどこにあるか、推定できることもあるようです。下仁田自然学校の堀越さんは、長きにわたってこの地域を歩いていらして、石器にも関心をもたれ、「この石器の石は、あそこの石らしい」とか石器の材料になった石の産地の推定をされたりしていました。
 高速道路工事の時、下仁田地域でみつかった石器の写真を少しのせます。
青岩のような青みがかった石や、白っぽい頁岩、安山岩など見られました。現地に行って採集したり、川原の石から集めたりしたことでしょう。
石器の詳しい説明はできませんが、小さな化石の入っていたのもありました。
なお、下仁田では、交易用の石オノもつくっていました。
これら石器類は 下仁田でも大量に保管されています。





まだまだご先祖様の残した石器や土器が転がっている下仁田、そんなものにもちょっと目を向けてみるのも、意味があると思えます。 
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20世紀後半からあと、大規模な開発がずいぶんありました。道路ができたり、工業団地が、住宅団地ができたり。そんな時にみつかった遺跡がたくさんあるわけです。
 
 上信越高速道は、鏑川が刻んだ谷の河岸段丘上を通っています。そこでは旧石器時代からさらに後までの、さまざまな遺跡がみつかっています。その紹介の図の一部をのせます。よく見えないとは思いますが、雰囲気だけでも・・・緑の線が高速道路、赤い丸印が遺跡です。たくさんあります。
このあたりは、きっと、人にとっては住みやすい場所だったのでしょう。
 
 
  

利根川のような大きな川沿いの平らな土地は、洪水の危険も多く、現在なら「平らで水田がつくれて生産力が高い」と思えますが、はるか昔は「ヨシが茂り、びちゃびちゃとした場所、安定しない手のつけられない場所」だったのかも。利根川沿いの玉村町には、縄文・弥生といった古い時代の遺跡は、ほとんどありません。まだ人が住むには、不向きな場所だったのかもしれません。4世紀、古墳時代から後のものならたくさん見られます。技術・生産力が高まって水田開発ができるようになってから、人が住めるようになったのでは。
鏑川の周囲は、小さめの川と周囲のおだやかな丘陵があり、水を得るにも燃料の木を得るにも都合がよく、住みやすかったのではないのかな。
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地元学校に配られた学習資料かな、と思う表を載せてみます。
        
 表はどうやら本郷塩川遺跡について語る資料のようです。

下の写真が本郷塩川遺跡、昨年の様子です。吉井町にあります。鏑川右岸での道路建設に伴う発掘でみつかった場所です。
  石が円形に並べられていて、印象的!  
川原石を並べていますね。鏑川から拾ってきたのでしょう。これがお墓か祭りの場なのか、まだわからないようです。床に敷石をびっしりとと敷いた住居もみつかっています。縄文時代のものとか。
奈良時代から平安時代の人々が日常に使っていた土器もたくさん出ているそうです。
ずいぶん長きにわたり、人々が生活していたんだなあ・・・・



 それにしても、平等院鳳凰堂がつくられた頃、庶民はまだ竪穴住居に住んでいたのだ・・と表を見ていると気づきます・・・・・


この遺跡のあるのは、河岸段丘の上。
ここでは、堆積物は、下の硬めの岩石の上に薄くのっているだけでした。写真の白いのが富岡層群の岩石、その上の薄くのった土といった感じのものが段丘堆積物です。


場所がどこかわからないと思いますので、地図、それも、地質図をのせてみます。遺跡は鏑川に流れ込む大沢川右岸になります。白い地層は、富岡層群に挟まる凝灰岩かな?

下仁田はこの図にはのっていないのですが、図のすぐ左で、地層は続いています。

以上は、下仁田自然学校の金剛萱研究グループで見学会を行ったときの資料を参考にさせていただきました。
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稲穂が見える季節となりました。 でもまだ稲の花の咲いている田んぼもあります。9月9日のこと。
 「みのるほど 頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」
     先人の言葉を忘れずに振る舞えたらいいのだけれど・・・


当たり前に稲穂の美しい水田が見られると思うと、それは間違い。
田植えはしたけれど、手入れがあまりされていない水田は。左のようになります。ここはヒエがたくさんはえてしまっています。

今、稲作はほとんど収益の上がらない状態になっています。生活の基本の食料生産は、大切な仕事と思うのですが、これからどうなっていくのか・・
この場所は、1,000年以上、いえ、1,600年とかの長きにわたって稲がつくられてきた地域でしょう。そんな営みがこの先どうなっていくのか、気がかりでもあります。

2014年9月4日木曜日

古代の人々の足音・・3万年前から古墳の時代まで

古代人の足音・・・・・古代の人たちの息吹

 私のうまれ育った玉村町では、地面を掘ると必ず、昔の人の住んでいた痕跡が出てきます。
家をつくる、道路をつくる、○○の開発を・・・そんな時には、事前に必ず発掘があります。浅間山天明の噴火で埋まった畑の畝、もっと昔の平安時代の田んぼのあととか、時には戦国の頃の屋敷跡とか、埋もれた古墳とか・・・とにかく、あれこれ掘り出されます。
 

                                            
真夏の暑い中、真冬の寒い日、たくさんの人たちが発掘作業にはげむ風景は、馴染みの光景だったりしました。真夏の発掘作業現場近くを通るとき、いつも思っていました・・「私なら熱中症で倒れる・・」。
              
 発掘作業を周囲からのぞいて、「ちょっと見てもいいですかあ」などと図々しく聞くと、「どうぞ」などと言われて、お話を聞いたりしたことも、何度かあります。井戸があったり、1,500年以上前のあまり壊れていない壺が埋まっているのを見たりしたら、「どんな人が使っていたのかな」、などと親しみを感じ、「やあ、こんにちは」という気分になったものです。昔の人の毎日の生活が 見えるようで、過去の人と握手したい気分。                   
もしかして、私のはるか遠いご先祖様、いないかなあ・・・
時には一般公開の説明会が開かれたりもします。ここ数年でも、我が家から歩いて行けるような距離で2回ほど実施されていました。                        2011年の近所での発掘風景

 玉村町では道路・住宅造成などで、たくさんの発掘があったわけです
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 下仁田でも大規模な遺跡がみつかっています。高速道路建設では、多くの発掘が行われました。
馬山地区ではこのときみつかった下鎌田遺跡はじめいくつもの遺跡もあるようです。旧石器時代のものでは17,000年~15,000年前の黒曜石製のナイフ型石器と、チャート製の槍先型尖頭器が出土しています。黒曜石の産出場所は下仁田にはなく、産地の信州とのつながりも考察されてきます。
 下鎌田では、縄文時代の竪穴住居跡も221軒みつかっています。ずいぶん大規模です。磨製石斧をつくっていた場所らしく、その制作跡が多数見られたそうです。斧の製造工房というわけでしょうか。このように集中して制作していた例は少なく、注目されるものとのこと。周囲と交易していたのでしょうね。さらに弥生時代の遺跡もあり、そのあとの時代に出現した古墳も、いくつか見られます。馬山丘陵は遺跡街道などとよばれ、畑に縄文土器のかけらやら、もっと新しい時代の茶碗のかけらのようなものやらが、普通に転がっていたりするのです。

下仁田のずっと東の玉村町では多数の古墳がありましたが、そこから西に、西から東に流れている鏑川沿いにも大規模なものも含め、多数の古墳があります。そして鏑の谷の一番奥の下仁田まで古墳の建設が見られたことがわかります。これより西は山の地域で、古墳は見られなくなります。(以上、下仁田自然学校の連絡誌くりっぺにのせられた、麻生敏隆さんの資料を参考)
ところで、じつは、下仁田ではもっと古い時代の石器もみつかっています。
3万年ほど前のものです。                         金剛萱でみつかった石器

3万年・・・・玉村町では1,600年前ころの古墳とか、江戸時代1,783年の浅間天明の噴火で埋まったものとかが地面の下から出てきますが、これよりはるかに古い時代です。

この石器は下仁田自然学校の研究グループが見つけました。金剛萱(こんごうがや)という、下仁田自然史館から近い場所にある標高788mの山の、もう山頂に近い場所にありました。そこには40万年間にわたり降り積もった火山灰の大露頭があり、その意味でも貴重な場所となっています。
自然学校では、今、この火山灰と石器についての紹介の冊子を作成中です。今年中には完成の予定ですので、乞うご期待。「まだ誰も知らない、金剛萱の話」です。

 なお、金剛萱はこの地学講座でも取り上げたことがあります。
                                            
「降り積もった火山灰 1・2」                                                       
http://geoharumi.blogspot.jp/2014/03/blog-post_23.html

http://geoharumi.blogspot.jp/2014/03/blog-post_5965.html


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「縄文時代っていう言葉があったけど、どれくらい古いの?3万年前って、縄文時代と関係ある?」  こんなふうに聞かれたことがあります。
「弥生時代と縄文時代って、どっちが古いんだっけ?」などとも。
昔、学校で習ったことはあるはずですが、生活に関係ない話なので、みんなわからなくなってしまいます。歴史大好きの人は、本当によくご存知ですが・・・
それでも、どれも地面から掘り出されるもの、ロマンを感じさせるもの、ということで、多くの人が、見れば何となくうれしくなったりするわけです。

そんな疑問に、すっきり答える冊子を群馬県でつくっています。
美しい色調のフルカラー68ページで200円! きっと子どもたちの副読本に使えるようにしているのでしょう。
この本、今年4月発行ということで、最近知りました。県庁2階の書籍を扱っているコーナーで買えます。

この本で気に入ったことの一つは、年代と出来事が、群馬・日本・世界と比較対象してならんでいること。これを見れば、いつ古墳ができたのか、縄文時代っていつ頃かなどが、すっと頭に入ります。じつは私、以前から、こういう表を自分でつくろうと思いつつ、きちんとつくったことがありませんでした。        (表は、もっと新しい時代まで書かれてあります)

 


この表だけで、いろいろわかります。
「3万年前って、旧石器時代という時代で、群馬県内では人の登場のいちばん最初の時期らしい」とか、
「紀元前1万年ころ土器が作り始められた」(3万年前には土器はなかった)とか、
「古墳時代は西暦400年とかその少し前後までとか・・などと、すっと頭に入ってきます。
名前だけはよく聞く青森県の三内丸山遺跡は、こんな時代なのだなとかいったことも。

旧石器時代というと、岩宿遺跡がとても有名です。この遺跡は群馬県の遺跡です。表のいちばん左上にあります。
なぜ有名かというと、ここではじめて日本の旧石器がみつかったから。しかも見つけたのが、アマチュアの青年。1946年、敗戦直後の貧しい時代、納豆の行商をしながらコツコツ崖を見続け、それまで「日本には旧石器時代に人はいなかった」と言われていのに、その旧石器人が使っていた石器を見つけたから。その後、旧石器は全国でみつかっています。

岩宿は群馬の東部。西端の下仁田からずっと東方向です。岩宿も3万年ほど前の遺跡ですから、もしかして、金剛萱を訪れた人たちと交流があったかもしれない・・・

岩宿遺跡についての、本の記述をのせてみます。
    (県の「副読本」なので、ここに載せてもかまわないかと思いますので・・)







ところで、群馬県は古墳大国って、ご存知だったでしょうか。解説記事も載っています。おもな古墳の所在地は地図でのせられ、もちろん有名な古墳は解説されています。
                                                  




                                                 遺跡分布図の一部  

        

玉村町では、以前、たくさんの小さな古墳があり
ました。男の子などは、そんな古墳で遊んでいたものです。下の写真のイメージでしょうか。平らな土地でちょっとでも高いところがあると、上りたくなるものです。

穴を掘っていたら、何か出てきた・・などということもあったようです。兄がそんなことを言っていたことがあります。きっと「まずい!」と思ったことでしょう。 
学校には石器や土器のかけらが 箱の中に転がっていたりしました。きっとそんな物を見つけると、学校に持ってきた人がいたのでしょう。


私が中学生の時、これらの古墳を一斉に発掘し、平らにならして、水田の耕地整理が行われました。私の学年では、まる1日、その発掘風景を見て回りました。このとき、学校近くの小さな古墳から、三角縁神獣鏡が出ました。みつかったばかりで、まだ村の集会所に置いてあったのを、専門の方の解説を聞きながらおそるおそる眺めました。
その鏡の写真も、この冊子に載っていました。
大和朝廷との強い絆を示すもので、こんな小さな古墳から出て来るというのが信じられない・・
下の写真が、今はない古墳の姿と、発掘された鏡です。

(下の写真は玉村町発行の資料からです)

 その後、減反政策により、せっかくつくった田んぼにも休耕田がひろがり続け、耕地整理のための資金をはらった農家の人たちには、このお金は重荷となるはめになりました。
 玉村町に2つだけ残った少し大きめの古墳・・・バブルの頃、所有権のすき間を利用して、端を削ってなにやら利用しようとした人がいたりもしました。原状復帰させられましたけど。
 今になると、「小さな古墳を結んだ古墳公園なんてできたらよかったなあ」などと言っていた人もいました。考古学関係の人だったと思うけど・・
4世紀、5世紀につくられ、1500年・1600年間とかいった長きにわたり残っていた小さな高まりの古墳、
他が失われてしまった今、なんとしても残さね
ば・・

ちなみに玉村町関係は他にも載っています。
下は太刀の柄。朝鮮半島でつくられていた物らしい。冠もみつかっています。
芝根小学校建設当時、出土しました。小学校の隣の田んぼでは、冬に麦を育てると、ぼんやりと古墳の模様が浮き上がってくるのがみえるとか。屋上から見おろさないとよくわからないらしくて・・

他に、土器の写真も載っていました。

 これは東山道のコース。7世紀後半、中央と地方を結ぶ道路がつくられ、中央との命令・報告や緊急通信のために使われたといいます。これが玉村町通っていて、浅間山方向へまっすぐのびていました。浅間山を目印にしてつくっていたのではとか、聞いた記憶があります。両側に溝があり、幅が広い!!まるで現在の自動車のよう。広いところは4車線分もあるとか。
発掘していたときそれも見にいって、現代の道路のような姿にびっくりして、あれこれ質問したのですが、何を聞いたかなあ・・ちゃんと書いておくものですね。
草がはえたりするのは、どうしてたの?その他いろいろの管理はどうしたの?車輪のあるものは通ったの?泥でぬかってわだちができたりしないの?周りの溝は何のため?溝はすぐ崩れたりしなかったの?  こんなことは聞いたと思います。

下仁田から続く富岡層群からなる丘陵の東端には、7世紀から8世紀につくられた3つの碑があります。いちばん有名なのが多胡碑。牛伏砂岩でできています。こんな古い碑が3つもあるのもスゴイ。


だんだん話が新しくなってきたので、また下仁田近くにもどってみます。
高速道路建設では、たくさんの遺跡が出てきました。旧石器時代のものもあります。下の図で、みつかった旧石器時代の遺跡の位置をごらん下さい。
八風山(はっぷうさん)は石器の石材のとれる場所です。黒曜石ではないけれど、緻密な安山岩で、石器などにずいぶん使われたようです。黒曜石はもっと西の、長野県にあります。
  図 中村由克さん

下仁田の金剛萱って、旧石器時代の人にとって、どんな場所だったのでしょうか。
こんなことも想像しながら、下仁田に関わった古い時代の人たちのことも想像して見たくなります。
 まさに「古代人の足音」が聞こえてくるかもしれません。