2016年4月27日水曜日

アカヤシオのピンクに染まる西上州の山

アカヤシオの咲く山々


花に彩られる山々を少し紹介したくて、書いています。たくさんの人が紹介していますので、今さら、なのですが。
 
アカヤシオ  とても魅力的な花 ・・・・・・ 
    華やかで しかも  やさしい色合いで 
山を登って山頂にたどりつく頃になって、やっと出会える花です。
地元ではヒトツバナとよんでいます。アカギツツジもこの花の別名。みんな名前をつけたくなるのでしょう。

ヒカゲツツジのクリーム色の花がいっしょにみられる山もあり、うれしくなります。
 
下仁田ジオパークが関わる地域には、アカヤシオの咲く山がたくさんあるのです。
 
先日(4月24日)の南牧村 三ツ岩です。
 
ピンクの尾根を歩きます




クリーム色が
ヒカゲツツジです


同じ岩場に
咲いていました









西上州とよばれる下仁田、南牧、上野村といった地域には,それほど高くはないけれど、岩峰がたくさんあったりして,「登った!」といった気分を味わえる山々があります。
長時間歩くのはもう大変、という中高年には,ちょうど良いかも。
もっとも、岩場があったりで、大変かなあ

岩を見ると縞模様の岩が壁のように立ち、祠まで作られていました。
 
もう少し近づくと、どうやら層状チャートのようです。
 
ふっと思いついたのですが、
   「山頂(付近)の石」
を集めて紹介したらどうかな、と。

西上州にはたくさんの山があって、雪があまりないので、冬にも登れる地域として、登山者にも人気があります。
どの山に,どんな石がある・・・と、それぞれサンプルを展示したら。
石集めに協力してくれる人、いますかあ~
 
  
 楽しんで、山の地質が頭に入るかも・・・
 ちょっとわかりにくい石もあるとは思いますが。

でも、頂上でハンマーをふるったりしないで、付近に落ちているのを拾う程度にしてくださいね。みんなが行く場所では、ひんしゅくを買ってしまいます。


ついでなので、同じく南牧村の烏帽子岳。2014年です。花がきれいなのは、だいたい1年おきと聞きました。はて、来年は?







下は上野村の天狗岩です。こんなふうに岩場を飾ってくれる花です。


同じは花ばかりずらずら並べましたが、皆さんも見にいきませんか。
ちなみに、三ッ岩では沼田の人と、烏帽子では前橋の方に出会いました。びっくりです。みんな同じ頃、行ってみたくなるのですね。

       

2016年4月21日木曜日

昔、利根川が流れていた所

地震の記憶

九州の地震,怖いですね。テレビの前に座り込んで映像と解説を見ていました。
強い揺れがいつまでも続き、住んでいる人たちにとってはどんなに怖いことか。
「中央構造線」という言葉も有名(?)になりそうです。
日本の高度成長期は地震活動が穏やかな時期でした。もしもっと地震活動が活発だったら,あの日本経済の急成長はなかっただろうと言う人もいます。

 私の父は2度、大きな地震に遭っています。最初は1931年の西埼玉地震。寄居付近が震源で、M6.9 、死者11名。近くの畑の地面に数cmの段差ができたと父は言っていました。その段差の延長線上にわが家があるのではと,少々心配。関東平野北西縁断層帯という地域になるのでしょう。
小学生で当時校庭にいたおばさんは「自動車が100台も来るような音がすると思ったら、奉安殿の前から水が吹き上がった」と。お墓の墓石が回転していたり,土蔵の壁が落ちたりなど、聞きました。(奉安殿という言葉から,時代がわかります)
次は、1943年の鳥取地震です。M7.2 ,死者1083名。知っていた方で亡くなった人もいたそうです。柱の下敷きになって。情報も伝わらず、群馬の実家では,もうダメかもしれないと思ったと聞きました。
1943年~1946年の敗戦前後には大きな被害の地震が4つもあり、3つは戦争中でもあって,ほとんど状況を知らされなかった・・・情報伝達手段が少なかったとはいえ,不安をあおるからと、意識的にも伝えなかった。
 なお、群馬は活断層の比較的少ない地域ですが、群馬東部・赤城山山麓の大間々付近では、遺跡発掘で地震の痕跡がたくさん見つかっています。地割れ、噴砂、山崩れ、岩屑なだれなど。おそらく818年の地震であろうとのことです。
父は第2次大戦では男子同級生の半分が亡くなったという世代で、私の世代から見ると,自然といい、人間社会といい、ずいぶん大変な目にあったものだと思わずにいられません。

 こういった話を聞かせてくれた人たちも,もうみんな鬼籍に入っています。「災害は忘れた頃にやってくる」と言いますが、実際に経験して知っている人たちがいなくなったらもう忘れてしまうなんてことのないよう、私たちも、ちゃんと賢こくあらねば。

 

梨の花の咲く所 かつての利根川の流れた場





前橋市下大島町付近には梨畑が広がっています。ここでは大島梨という名前で知られる梨ができます。
前橋市の中心からそれほど離れていない所、両毛線の電車が走り、梨畑の真ん中にはたくさんの車が通る駒形バイパスがあるという、けっこうにぎやかな場所です。

梨畑の花を見てきました。

道路沿いに広がる梨畑
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
よく手入れされた木と
白い梨の花の美しさ

 いつか満開の梨畑を
  ごらんになりませんか
 
 
こちらは桃の木
 
 
 
 
 

道端での直売でおおかた売ってしまうようです
 

 
 
 
 
 
 
 
収穫の季節には道路端にある直売所がオープンします。たくさんあります。
右写真では,道の向こう側も直売用の建物です。ほぼ直売で完売するようです。

この場所からもう少し南東、わが家に近いところでは,ブドウがたくさん栽培されています。種類は、ほとんどが巨峰です。




ブドウ畑

これらのくだものが育つのはどんなところ?

下図の赤いアンダーラインの”厩橋城”というところが前橋の県庁です。
(漢字、間違っていなかったよね,とネットで調べたら、”うまやばし” と読むと思っていたのに”まやばし”と読み仮名が振ってあるのです・・・中世にはマヤバシでそれ以前はウマヤバシ?だった、とか・・はて、何と読んでいるのやら)
 
県庁(厩橋)から南東に流れ下った広瀬川はやがて桃の木川と合流します.
その付近の広瀬川に沿うような地域に梨畑が見られます。
ここは広瀬川低地帯とよばれ、この図の右斜め方向(南東方向)にずっと伸びています。
なお、写真にのせたブドウ畑は、地図で黄色に囲った"広瀬川低地帯”と書かれた付近です。
これらの川の流れるのは幅3kmほどの低地帯です。
 
 
 
梨畑の下大島付近は「石っ川原」とよばれる農業に不向きな地域でした。砂地で石がゴロゴロ。きっと貧しい地域だったことでしょう。1830年、そこに梨を植え始めた人がいました。これがこの土地に合い、それ以後も苦労を重ねて,特産の梨となっていったわけです。
 
石ころゴロゴロの理由は、ここに昔、川が流れていたから。
今、近くを流れている川は広瀬川です。仙台市を流れる広瀬川と名前が同じ。 
♪~ 広瀬川 流れる水に ♪~ なんて さとう宗幸の歌を思い出してしまいそうですが,関係ありません。
前橋の広瀬川は、前橋市内商店街の近くを流れ、ほとりには前橋文学館などもあって、なかなか良い雰囲気です。「水と緑と詩の町」は前橋市のキャッチフレーズだったのでは。
 
   前橋市出身の詩人、萩原朔太郎の詩にもあります。 
 
       広瀬川白く流れたり  時さればみな幻想は消えゆかん  ・・・略・・
 
それにしても実際の川を見てみると,町中を流れるちょっと大きめ程度の幅の川で、こんな小さな川で、こんなに広い低地帯をつくり、石ころゴロゴロの土地を作れるのかと、思ってしまいます。・・・…その通りで、あの小さな広瀬川が広い低地帯を作ったわけではありません。じつは、今の広瀬川の流れている所には、昔、もっと大きな川の利根川が流れていました。
 
下図は利根川と烏川の合流点付近の流れの変遷の図で、上図の下半分にあたります。
歴史をひもといてみようというわけです。
 
下図の上部には、「廣瀬川」の文字が見え、「天文八年~十二年以前の利根川」との解説がついています。これは1540年頃より以前です。
   これ、昔はこの川が利根川だったと言っている!
 
 
 
 
玉村に住む私の母がこう言っていました。
「利根川は昔、狭くって,両側にはえる竹がかぶさるとくっついてしまうくらいだったんだよ。」  
幼い頃こんなことを聞いて 「エーッ,うそだい。」などと思ったものです。そんな小川じゃ、今のあの大量の川の水の行き場所がないじゃないかと。変な話だなあ,と思ったものです。
  後になって,これが本当の話と知りました。
 
利根川は昔、玉村(上図の左部分)を流れてはいませんでした。
流れていたのは今の広瀬川の流路に沿った地域。広瀬川低地帯とよばれます。大島梨で有名な地域は昔の利根川の川原で土地は砂質、1mも掘ると川原の石が出てくると聞きました。こんな水はけのよい土地が果樹にむいていて、梨作りが盛んになったわけです。
玉村は前橋台地とよばれる"台地”の上にあります。でも、低地から台地に川が流れるなんて、どう考えても変です。
 
わかっているのは、1540年頃かそれより前、利根川の流路が変わったということ。
用水路に洪水が流れ込んだといわれたりするようですが,正確な記録はなく,よくわかっていません。1470年(室町時代)の大洪水が有力視されているようです。

  江戸時代より前の記憶が語り継がれていることに感心しました。前橋の商店街アーケード街中央通りに,流路変更前の船着き場後の石碑があります(と書きながら,昔ながめたことがあるだけで,本当にそんな碑だったっけ、などと今思っているところです)。

 

 
前橋台地に流れ込んだ水は台地をえぐり川岸に崖をつくり、利根川は新しい流路を流れるようになったのです。
 その前橋台地の,多分最後の小さな崖が私の住んでいた所にありました。小さな崖にはぽたぽたと水がしたたり、白い粘土質の部分には小さな穴があき、サワガニがいました。
 ここで大きくカーブを切った利根川は、,とたんに川幅を広げ,大河の趣を見せています。広々とした川原、いくつもの中州、烏川との合流点では2つの川の広がりを合わせ、さえぎるもののない広がりを感じさせます。
 

今でこそ,川は川筋を流れて当たり前のように感じていますが、つい最近まで川は気ままに流れを変え,人を苦しめてもきました。この合流点付近では,利根川は乱流を繰り返し1783年(天明3年)の浅間の噴火時には、七分川がうまってしまったそうです。そんなわけで、土地が島になってしまったりという,川の暴れの様子がしのばれます。そこで地名には,「島」のつくものがあったりします。そういえば絹遺産になった養蚕農家のある場所も「島村」でしたね。

 
八斗島(やったじま)は、洪水時、ここで測った水量の高さを利根川の洪水の規模を測る目安にしていると聞いたことがあります。治水の重要なかなめの場所です。
 
もう20年近く前、こんな利根川の解説を書いたことがありました。
その時、利根川にかかる橋の長さを使って説明しました。今持ち出してみると、その後,ずいぶんたくさんの橋ができていることにあらためて気づきました。その橋の長さを入れてみようと思ったのですが、パソコンの前に座っていたのでは、ほとんどわかりませんでした。自分の住む玉村周辺に多いのにね。
今回は,そのデータ抜きで,以下にのせさせていただきます。

 
 
 
 


2016年4月16日土曜日

高崎の裏山 観音山の春

ジオパークの名を掲げながら、あまり地質にはふれてない。
そこで、前回紹介した丘陵とその続き、高崎観音山付近について紹介しようかと、あらためて見ると、思い描いた図が手元にない・・・・やっぱり,ちゃんと準備しないとダメなものです。
  言い訳からはじまってしまいました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

観音山の自然

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
観音山も山桜で春らんまん。これを紹介しないうちに時期はずれになってしまう。。。。。
4月12日の写真ですが、紹介します。
  新年度で忙しい4月上旬ですが、都合つく方、来年にでも、春の里山を愛でてみませんか。
  観音山ファミリーパーク付近などです。


ソメイヨシノの終わった頃、カスミザクラが咲きます。
里のサクラなので、園芸種やら雑種やらもあるようです。




 新緑のこの頃がいちばん美しい。


1000万年ほど前の時代、新生代中新世という時代、浅い海から河口付近に積もった礫や砂、泥からできた丘陵です。
まだ柔らかめの地層は、穏やかな起伏の丘をつくります。

丘陵の中の小さな道の切り通しには、下の写真のように地層が現れています。
泥の地層にしばしば見られるタマネギ状風化がありました。


ここは下仁田から続く丘陵です。この丘陵は富岡層群・安中層群という海に積もった地層からできていて、緩やかな地形は,「里山」とよばれ,人に利用されてきました。化石もたくさん見つかっている地層です。
観音山や前回紹介した山名地域は,この地層の一番最後の部分、つまりいちばん新しい地層の部分になります。海がなくなる頃、陸化の時期です。ですから,海とは言っても浅い海や河口地域に堆積した地層が分布しています。

泥より少し粒子の大きい、シルトの地層
傾いています
礫の入った地層もたくさん見られます


風化で、地層がタマネギのようにはがれていきます


海が陸になっていった時期なので、この付近は河口地域にもなり、陸の植物がたまり、化石になって出てきます。

右写真はメタセコイア。
今でも見ることのできる木です。観音山から見つかりました。

ちょっと,メタセコイアについて解説。
  ~~~~~~~~
 整った円錐形をした大きな木を,日本の学校や、古くからの公共施設などで見かけます。
その姿はどこか日本ばなれしていて、そしてなにか魅力的。秋には細かな葉を薄茶色に染め,やがてその葉を落としていきます。
この木の名はメタセコイア。この木は不思議な魅力的な歴史を持っているのです。

「生きている化石」これがこの木に与えられる言葉。この木ほどこの言葉にふさわしい植物はありません。

 1941年、三木茂博士は岐阜・和歌山などの地層からみつけた植物の化石に,メタセコイアという名前をつけました。セコイアという木に似ているけれど少し違うので,こう名付けたのです。セコイアは高さ100m近くにもなる木で,樹齢も数百年~1300年とかいわれ知られる木です。大木の象徴として語られたりします。現在は北アメリカ西海岸にしか自生していませんが、かつては世界中に栄えていました。そのセコイアの親戚で今はもう絶滅してしまった木、それがメタセコイアと考えられたのです。
 1943年中国四川省で新しい種類の大木が発見されました。調べると何とこれがあの化石で見つかり,絶滅したと思われていたメタセコイアだったのです。絶滅したと思われていた木が、今でも生き残っていたのです。

 その後メタセコイアはあちこちに植えられました。丈夫で成長が早く,挿し木でも簡単に増える木。曰く付きの木だと聞きながら挿し木をしている父のかたわらにしゃがみ込んで見ていたという、かすかな記憶があります。この木、学校などには競って植えたのではないでしょうか。
苗が日本にもたらされたのは1949年とのことです。
      ~~~~~~~~~~~~~~~
 観音山地域でたくさんたまった植物は、石炭のできはじめ・褐炭となって見つかります。
かつてこの丘陵では褐炭(亜炭)が採掘され、「高崎炭田」とよばれていました。富岡製糸場でも使われたそうです。
探鉱あとが陥没した、などという話が、ときどき流れてきたりします。今となってはちょっと迷惑な話となってしまいます。
炭田の分布図を探して,下仁田自然史館の展示解説に使ったのに、今、手元にない・・・・・すみません。褐炭の写真も。
こんな丘陵地域の,里山風景を紹介しましょう。
うねうねと続く丘陵内の道は,どこに向かっているのかわからなくなります。そんな道が編み目のようにつながり,民家が現れたりします。
その前に、位置関係の図も。道路マップで,継ぎ目がきたないのですが,ご勘弁を。
オレンジの丸が,今回関連した地域付近です。
なお、達磨寺は関係ありませんが、達磨で有名な少林山ですし、ブルーノ・タウトが住んだ家があるということで、ちょっと行ってみてもいい場所かと思い、チェックしました。もっとも,ブルーノ・タウトなんて、しられてないか・・ 
 


丘陵内の民家
こんな道をたどると、民家が現れたりします


畑にはイノシシよけ?の柵



マルバアオダモ


住宅団地もつくられました。

丘陵わきを流れる鏑川上流には
結晶片岩があり、ここでも碑に使われています。






 

バブルの頃、競ってゴルフ場が作られました.たくさんあります。




太陽光発電パネルが見られます

高崎市街からすぐ近くですが、
産廃処分施設がたくさんあります



こうしたとたんの塀が、延々続きます。
産廃とゴルフ場と太陽光発電。どれも時代をあらわしています。
そんな町近郊の丘陵地の散策はいかがでしょう。 


2016年4月10日日曜日

古い碑のある山名丘陵・・里山

  上野三碑(こうずけさんぴ)のある地域


 最近、群馬県内の古い碑を、「世界記憶遺産に登録を」という動きがあるようです。
鏑川に沿った地域には7世紀~8世紀に作られた古い碑が3つあります。それぞれ互いに近い場所です。そのうちの1つの「多胡碑」は、よく知られています。


クサボケ
下仁田から流れてきた鏑(かぶら)川が、高崎市街を流れてきた烏川に合流する付近、高崎の町の裏山、白衣観音で有名な観音山の続きの丘陵は、穏やかな里山歩きをしながら訪れることができます。そんな里山歩きで,これらの碑を訪ねることができます。

上野三碑については,以前このブログでも紹介しました。
  http://geoharumi.blogspot.jp/2014/10/blog-post_11.html

10年ほど前だったでしょうか、この山名丘陵の紹介のパンフレットを手に入れたことがあります。柔らかなタッチの里山賛歌、高崎市都市緑化協会でつくったものです。コース案内図をのせます。
 上信電鉄西山名駅から西にはいると、駐車場があるのですが、今回、きれいなトイレができていて、また、立派な木製の階段もできていて、びっくり。

 ハイキングコースはきれいに整備され、万葉などの歌碑が点々と置かれ、春は桜と新緑とヤマツツジがきれいです。歩いていたら、熊手を使って、落ち葉を道のわきによけている人がいました。
 「ご苦労様です。いつもお掃除してくださっているのですか」
 「17年前からやってるよ。落ち葉があると滑って歩きにくいからね。それに落ち葉にはマムシも
 いるし。結構飛ぶんだよ。横っ飛びもするし」
 「へえー!!」  
   私がこの場所に来始めた頃から、やってくださっているんだ。ありがとうございます。

なお、ソメイヨシノが終わる頃からがコースはきれいです。カスミザクラ(ヤマザクラとよんでいる桜)が新緑を白や薄ピンクに染めて、足元には小さい草花も咲いて。コースにはちょっとしたくさり場もあったのですが,今は利用禁止です。
上野三碑の「山ノ上の碑」「金井沢碑」がどこにあるかおわかりいただけるでしょうか。
ところでここは夏は暑くて蚊など虫がいたりしますから、訪れるのは春がいちばん。花もきれいです。
我が家から一番近い里山でもあり、1年あるいは数年おきくらいには、のんびり歩いたものです。
観音山周辺も同じように散策向きに整備されていて,誰でも春を味わえます。
フデリンドウ こんな花がみられる時もあります
明るい林には赤いヤマツツジの花
10年ほども前だったでしょうか、ここに行くと、根小屋城址や山名城址に、ヤマブキがたくさん植えられていました。しかも八重咲きの園芸品種。

モミジイチゴ いちばんおいしいキイチゴ
「ちょっとまずいんじゃないの」・・・・
管理が高崎市か林野庁関係かわからなかったので、両方に連絡をしてみました。ホームページの意見投稿欄に。
「ここは明るい雑木林にヤマツツジの咲く場所です。こういった里山は人の手入れでササなどを刈って、それで成り立っているはず。ヤマブキは薮になって増え、林の地面を覆ってしまい、そうしたらヤマツツジも無くなってしまうのでは。林床にあるフデリンドウやジュウニヒトエ、センボンヤリといった可憐な花もなくなってしまうでしょう。しかも、八重咲きの園芸種のヤマブキ。人工的な公園とか駐車場のまわりとかなら良いけれど、山にはまずいのでは」といったような内容だったと思います。すぐに高崎市から返事が来て、「じつは民間のボランティア団体が,植えたいと申し入れ、担当部署で許可してしまった。あの場所にはキンランなどもあったのですが・・・このご意見を団体責任者に見せたところ、すぐに"わかりました”と。ヤマブキは取り去っていくとのことです。」

残っているヤマブキのヤブ
ボランティア団体の方には申し訳なかったですが、でも,すぐにわかってくださって行動していただいて、感謝でした。今では数株残るのみで、取り去られています。取り去るだけでも大変な労力だったと思います。
このとき、上記パンフレットを紹介されました。そこには、ここに育つヤマザクラのつぶやきとして、こんな記述がありました。
 「つい最近まで,この城址広場の周縁に、ラン科のキンラン・ギンランが見られたのですが、ぐるりとヤマブキが植えられ、すべて姿を消してしまいました。でも、このヤマブキは,城址を美しく保全して行こうと、整備をしている人たちの気持ちの表れです。私は,そうした意味でも,自然への啓蒙に,少しでも役に立てたらと思っています。」
  私のつぶやきも,少しは役だったようでした。続きも少し紹介します。

 「山名丘陵から観音山丘陵にかけての,ヤマザクラの自生の多さは自慢できるものです。私は胸の内で、「西の吉野、東の観音山」と、うそぶいています。春、ソメイヨシノが散って,一週間ほど経ったら、この丘陵を訪ねてみてください。岡の斜面を埋めて、霞のように咲くヤマザクラは,それはそれは見事なものです。」
 友達に、「吉野のヤマザクラという気分になれるよ」,などと紹介していましたが、同じことが書いてあって、クスッとしたものです。ソメイヨシノの桜吹雪にヤマザクラの花の霞が重なって,ワクワクするようだった年もありました。なお,先に書いたように、桜はヤマザクラではなくてカスミザクラになると思います。別名ケヤマザクラ。ヤマザクラと違って、花の柄に細かな毛がはえています。
(気づいたら,カスミザクラのシーズンの写真がなかったので、今、紹介できません。ごめんなさい)

煙るような花のマルバアオダモ
ところでこの頃なら、山名でなくとも、それぞれの場所で「私のヤマザクラ」をみつけられると思います。桜はソメイヨシノばかりではないというのがよくわかります。ソメイヨシノより少し地味で、花と同時に葉が出ますが、そこにまた趣のあるものです。新緑の里山にちょっと目をむけてみてください。

シュンラン ごく希には見つかります
取らないでね

かつてこの丘陵にはシュンランやエビネが咲き、オオムラサキも舞っていたといいます。どれもほとんど見ることはできません。以前ハイキングコースの脇にあった濃い青の可憐な花は、ホタルカズラだったのではないでしょうか。これも今はありません。多くの美しい花の咲く植物は人に採取され、山の手入れがなくなり薮が繁り、なくなってきています。
人の多く住む都市近郊にある里山は、人と自然のふれあう場、自然を見る目を養う場にもなれます。春の一日、自然と友達となりませんか。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
下の図はさらに昔に描かれた図です。日本中が「リゾート、リゾート」と狂奔し、各地でゴルフ場、スキー場、マリーナ、ホテルがつくられた頃のことです。自然破壊の嵐でした。もう四半世紀も前の話なんですね・・・
 この場所は国有林でしたが、それを払い下げて,24時間営業の施設を作ろうとしたというのです。(財)日本宇宙少年団というところが払い下げを受け,アストロパークというところが作る計画だったとか。青少年育成に24時間営業???
 私はこの場所については、最初、ハイキングコースのあることも駐車場があることも知らず、太夫沢を登って林に入りましたが、そこがメインゲート予定地だったわけです。丘陵に上がると、向かい側の丘が,サクラと新緑で絵のようでした。ちょうどそのあたりが,10館のメインパビリオン建設予定場所だったようです。
 今、こんな施設、たてなくて良かったと思っている人、多いでしょうね。自然がなくなると思う人や、周辺の住宅に住む人ばかりでなく、お金儲けをしたかった人や、華やかな開発にあこがれた人も。リゾートブームのころ、町の活性化を求めて全国のずいぶん多くの町村が大金を費やし、その後そのつけに苦しみました。"町が破産”などといわれたり。
 当時は自然保護なんていえば,つまはじきにされたのではないでしょうか。でも、後に残されたのは破壊された自然ばかりか、膨大な負債。もちろん大もうけをした人もいるはずですが。
「できた施設は赤字続き、企業は逃げ出して、後に残されたのは負債と自然破壊だけ」なんてことにならなくて,本当に良かった。
 娯楽施設反対に立ち上がって頑張ってくれた人たちこそ、郷土や国を思う人たちだったと,感謝と尊敬の気持ちを述べたいと思います。
そして今・・・「世界記憶遺産?何それ?」と思ったりもしましたが、それができるのも、この丘陵の自然を残してくれたおかげとも思うわけです。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

わが家の近所の烏川周辺の紹介。
こんな花も,なかなかきれいなものです。皆さんの身近にも、こんな場所、ありませんか。

 咲いているのは,紫がハナダイコン、黄色がアブラナ(川原に自然にはびこっているもの)、遠くのピンクはサクラ。
この光景、紫と黄色の取り合わせが、じつに良い。
よく見ると,ハナダイコンの花そのものも、紫と黄色の組み合わせです。
最近、ハナダイコンは「はびこる」というほど,どこにでもありますから、皆さんの近くにもある光景かも知れません。





 川の河川敷の公園の様子ですが、一番下の写真は、誰も手入れしてない川原のようすです。手入れなんかしなくたって、公園と同じように花が咲いています。

ところで、ハナダイコンは別名 ムラサキハナナ ・ ショカッサイ 
 はるか昔、大学受験の時、大学の校舎のわきにジンチョウゲが香り,ハナダイコンの花が咲いていました。緊張と不安の中で,その色合いに慰められたのを覚えています。その頃まだ玉村町の私のまわりでは見かけたことのない花で、きれいな花、何というのだろうと思ったことを覚えています。いつから増えたのだろう・・多分,家の庭から逃げ出したのではないでしょうか。以前は花屋さんで種を売っていたりしたのですから。
 この花の原産地はシベリアから西アジ・ヨーロッパ・・・・・と、ネットにありましたが、でも、中国北部・東北部原産と書いてある権威ある図鑑もあります。ネット世界で誰かの書いたものが転載されながら伝わり、どれがなにやらわからない・・・。
かつて日本が中国を占領していた頃に中国に渡った人の中に,この花を愛して種を持ち帰った人もいたとか何かで読んだことがあります。原産地では野の花なのでしょう。

オオアラセイトウもハナダイコンとよばれると聞いていました。山渓ハンディ図鑑にも書いてあります。これもよく知られた図鑑です。でも、ハナダイコンとオオアラセイトウ、ムラサキハナナは別物という人もあって、混乱しますね。  
   まあ、どうでも良いか。  
     ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 (”サカタのタネ”のHPの植物紹介コーナーに、ムラサキハナナの紹介がありました。 
 ムラサキハナナ:アブラナ科オオアラセイトウ属  もともとの自生地は中国華北や東北
    これが正しいのではないでしょうか。 何となく納得します。
   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 世界一強い女の子…長靴下のピッピちゃんって、ご存知でしょうか。スウェーデンの児童文学者リンドグレーンさんが書いた児童文学の古典ともいえる人気のお話の主人公ですが、リンドグレーンのかいた児童文学で、カッレくんという少年が活躍するものがあります。夏の夜、カッレと友達の少年少女がオオアラセイトウの咲く中,夜遅くまで明るい白夜に近い北国で、夜中まで外で冒険しまくっているようすが描かれていました。これを読んだ頃、どんな花かはもちろん知りませんでしたが、なんだかやさしい響きの名前で、記憶に残っていました。本当は,どの花かな?
 この花から、いろいろなことを思い出させてもらい、楽しい気分でした。

他人の思い出話なんか聞きたくもないと言われそうです。まあ、お許しを。
誰もが小さな思い出を積み重ねて人生を送っているわけで、たくさんの思い出があるほど、人生が豊かになると思いませんか。