2019年3月30日土曜日

里の桜とカタクリ、一緒に咲きました


今年もしだれ桜とカタクリが咲きました
2019年3月29日
農家の前庭にこのしだれ桜はあります


農家の家の前庭に育つ桜です。
2本の木が寄り添って。見事な形を作り出しています。








数年前の大雪では、横に張り出した枝が何本か折れたそうです。
同じ日、歩いても行ける距離に(歩くと少し遠いかな)、カタクリの群生地があります。
晴れた昼間に花が開きます。朝早くや曇った日には、花弁は少し下を向いてしまいます。
  カタクリについては 以前に紹介しました。
 https://geoharumi.blogspot.com/2016/03/blog-post_26.html

ここは、鏑川のつくった河岸段丘の 段丘崖に咲くカタクリです。関東平野はカタクリには暑すぎるのですが、北向き斜面で水がわくような場所なので、夏の暑さをしのげて、生き延びているわけです。
場所は群馬県吉井町小串付近

しだれ桜は見つけにくくて、「見つからない!」と。
大きい木なのに、すぐ近くに行くまで見えないのです。カタクリの群生斜面を車で登りそのまま道なりに進んで、高速道(上信越道)に突き当たるまで進み、側道を少し右に行けば見られますよ、というのですが・・・下に掘りこんで作られた高速道を背にして北方向を見て、初めて見えます。
 近くには下写真のような、しだれない桜もあります。これは遠くからも見えていて、こちらに行った方もいました。カタクリの斜面を登ると、斜め右方向遠くに、これが見えるのです。でも、枝垂れの方がいいなあ・・・


昨年、一昨年の花も見てみましょう。
2018年3月27日




2018年3月24日 この年、3日前にはまだこんな状態でした

2017年4月4日  
















2017年4月4日  コブシも咲いていました
桜、カタクリ・・・
 人が手入れをして、美しく咲いています。里山の美しさです。
里山という言葉は、自然保護活動をされていた方が、山里という言葉をひっくり返して作ったと聞きました。みんなに受け入れられ、広く使われています。今では里海という言葉もあります。

 人は趣味で自然に手を加えていたのでしょうか・・・基本的には、生活の糧を得るためです。お米を作り、畑を耕し、林の木々を利用し。 
 桜は見るだけで作物にはならないし、違うじゃないか、と言われそう。単に、きれいだからという趣味だろう、と・・・・いいえ、生活に利用したのです。
 春、種まきのころ、いったいいつどの作業行うか、これは収穫に重要な影響を与えます。数日の差が影響する場合があるのです。ところでこの桜、満開が3月27日頃だったり、4月4日頃だったりしています。天気予報もない時代、農作業の時期を間違いなく行うのに、サクラは役割を果たしたのだといいます。ですから農家の庭に、大切に育てられていたのでしょう。美しさも愛でて、大切にして。

 里山の美しい景色は、自然を生かしてよいものをつくろうという、人の心が
現れた光景なのでしょう。
これからの春の日、晴れた風のない穏やかな日だったら、毎日でも野山に出ていたい。
春の里山は、本当に素敵です。年をとってもいつまでも一緒にいられる自然です。

桜はすぐに散ることから、命を散らす象徴とされてもきました。ですから武士には嫌われ、家紋に桜はほとんどないとか、桜の文字のつく名前はあまりないとか、先日のテレビ番組で聞きました。 でも今、サクラにそういった負のイメージは消え、歌の世界でも桜をうたったものがたくさん現れ、今は皆に親しまれるイメージになっているとのこと。
 ちなみに、桜の文字の付くお名前に、農業とかかわる起源を持つ話も紹介されていました。そういえば桜庭さんという人、いたなあ。

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3月30日に下仁田に咲いていた花々です。サクラもあちこち咲いていました。
サクラと言っても、サクラの代表のソメイヨシノの花はまだですが。
サクラには、園芸品種も多く、実にいろいろな種類がありそうです。
フキノトウとアズマイチゲ
アズマイチゲ
曇っていて、花はあまり開いていません
里山の花、という感じがしますね

キブシ
ミツバツツジ
ミヤマキケマン
アブラチャン







2019年3月21日木曜日

クリスマスローズの咲く雑木林




足元に小さな花
野趣味満点のガーデン
春が来た

気温が20℃を超えるという。
アッ・・花が終わっちゃうかも。何もかも放り出して、花を見に。
桜のような華やかものではなくて、クリスマスローズです。
富久樹園 高崎クリスマスローズガーデン
一度行ったことがありますが、6年も前でした。高崎市下里見 高崎方面からきて406号線の北下里見という信号を左折したかなあ。
丘陵の少し上の方につくられた庭で、場所はちょっとわかりにくかった。
入園料500円でコーヒーつき。

テーブルにはクリスマスローズの花がいっぱい。
よく見ると手前の花にミツバチが訪れています。
ここでコーヒーを飲みました。

陽だまりの雑木林
木の葉の落ちた雑木林では、
足元に小さな花たちが咲きます。
クリスマスローズは日本に自生はしていませんが、この林にとてもよく似合う。他にも原種シクラメンの仲間やスノードロップ、原種スイセンなど植えられていて、いい感じ。
少しうつむいた花が 優しい。

でも華やかな桜を見るような気分でこられた方は、「なんだこれだけ」とか思うかもしれませんね。









 スノードロップは花も終わりころ

原種スイセン
 シクラメンの原種がたくさん
  
チオノドクサだと思う

お店はクリスマスローズの苗から鉢植えまで販売しています。


ここは見晴らしがよく、榛名山、赤城山から県庁まで、よく見えます。
近くには果樹の畑が並び、梨などがもうじき花を咲かせるでしょう。
榛名梅林も近く、向かい側から見たら、梅の花が一面に広がっていました。
果樹園です もうじき花盛りでしょう





白いのはすべて梅の花

梅林



最後に 我が家の近くの農家のハクモクレン
霜にあたらずにすんだようで、とてもきれいでした。
 花はいいですね。人が育てた花を集めてみました。










2019年3月18日月曜日

磁鉄鉱から鉄をつくる 目の前でのたたら製鉄


たたら製鉄 はじめて5年 5回目です

下仁田町には良質な磁鉄鉱の産出があり、明治時代には近代的な精錬所までありました。
鉱山は小栗上野介が開発計画し、明治10年には操業開始したといいます。
今は、地元の方中心に、鉄山研究会が結成され、活動しています。

 「よし、自分たちで鉄をつくろう」と、下仁田自然史館の前庭でたたら製鉄を始めました。5年前のことです。     
この炉の底に鉄ができています
  
  今回私がいただいた ”鉄” です ↓
鉄のかけらを最後にいただきました
1目盛りは1mmです
   










炉の底から取り出して水に入れると・・・

↓こんな固まりが取り出せます

これをガンガンたたいて、
いらない部分を取り去ります
 
 
 

あるとき、元先生をされていた方がこんなことを言いました。
「何か人の役に立つことをしたい。昔、製鉄をやっていた地域だし、たたら製鉄をやりたいのだが」
 相談されたグループは、やったこともないし、それだけのことをやる人手もないし・・・と・・
鉄山研究会というグループがあるから、そこに相談してみたら、と。
 いろいろ相談されたのでしょう、とにかく今、こうしてたたら製鉄が行われています。

 たたらは西日本で盛んだったと思います。アニメ「もののけ姫」に出てきますね。
最近、たたらを楽しむ人たちが増えているとききました。
自分でいじれる、参加できる、鉄づくりのすべてが見える、多くの人との出会いがある。
 いま、便利な機器の仕組みはみんなブラックボックス、さらに、ちょっとクリックすれば何でも望みがかなうような気分になる昨今、モノづくりそのものの経験、汗水たらす姿は、ステキです。


鉄の科学を熱く語る永田さん
この作業は、あちこちでたたらを広める活動をされている福島さんが指揮してくださっています。その先生ともいえる、東京工業大学の名誉教授永田和宏氏もいらして、現場で説明、待ち時間には映像を交えた解説もしていただきました。

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中小坂鉄山の守り神
この石宮の柱を鉄山の鉄で柱をつくりたい、と




 
 じつはここで作った鉄を使って、中小坂鉄山山頂の石宮の柱を復元しようと計画しているのだそうです。危険も伴う鉱山の仕事です、神様への祈りも欠かせなかったでしょう。もともとの鉄製の柱は、さびてボロボロになってしまうので屋内に保管、模造品に取り換えられています。完成すれば140年ぶりの新品になるはず。

そこで、中小坂鉄山の鉄鉱石から鉄をつくって、その鉄で作ろうという夢が生まれたわけです。
昨年、成功。今年も挑戦です。
全国の数あるたたら製鉄の中で,
磁鉄鉱から鉄をつくったのは、ここだけとうかがいました。

 鉄山の鉄鉱石は、今は採集禁止です
でもそこは地元の強み。40年近く前に拾っておいたものを使っての挑戦です。
たたらは普通、砂鉄を使います。中小坂は山から掘り出す鉄鉱石。砂鉄のように、まずは細かくしなければなりません。
磁鉄鉱塊→くだけたもの→粉
石臼で粉に。臼は隣村・
南牧村の椚石で作ったもの
中小坂の鉄鉱石は
磁鉄鉱といって、磁石がくっつ石、硬い石です。
これをたたいて粉にするのは、ちょっと・・・無理。まずは真っ赤に焼いて(焙焼)、水の中に投入。もろくなって小片になります(左写真)。
そのあと、石臼に入れついて粉に。
フルイでふるいます。








石臼は、下仁田名産コンニャクを粉にするときに使った臼にも使用した椚石の臼。隣の南牧村の青木石材さんから頂いたとのこと。杵も知り合いの方の制作したもの。
粉はふるいの上に落とし、さらにフルイでふるって、小さい粒だけにします。
これがたしか、中小坂鉄山で、鉄鉱石を焼いた
焙焼施設のあとだったと思います・・違ったかな?

完成した炉
ブロアーで空気を送り込みながら加熱
たたらとは、空気を送り込むふいごを
意味する言葉だそうです



間隔をあけながら 磁鉄鉱の粉と 木炭を投入
投入しているのは地元の里見さん
投入記録です
この炉の高さ、構造も、何度も失敗を繰り返して突き止めたものだそうです。永田氏はある刀鍛冶の方が、小さな炉とふいごで、木炭と砂鉄から1時間で簡単に鉄の塊(ケラ)を作ったのを見て、学生とやってみたが4年連続してできない!コツを教わり努力を積み重ねたそうです。

 炉の中で、いったい鉄ができているのかどうか・・・これを炉から上がる炎の色や小さな音を聞いて判断します。小さな窓から、中の灼熱の様子もうかがえるようにしていました。
かつてこうした鉄を扱う職人たちは、いつもこの強烈な光を見ていて仕事をし、白内障で目が見えなくなってしまった。そのため細い隙間から見るようにして 目を保護しながら、片目で見て作業をすすめたといいますが、…それが一つ目小僧の起源だったという説もあるという・・こんな話もうかがいました。

 鉄を取り出すには、炉を壊さねばなりません。この作業、みなさん実にきびきび無駄がなく、見ていて気持がいい。  
炉の解体中の写真です

                 


熱でレンガがくっついていた
このあと、ケラと呼ばれる塊を
水にいれます


 できたケラは6・4㎏
投入した磁鉄鉱21.5㎏ これ、大成功!!
 (砂鉄20㎏に対し 木炭は70㎏といった割合で使うそうです)
ケラです これを”練って”使える鉄に仕上げます
係の方は、朝8時からはじめて、ケラ取り出し2時過ぎ、それから片付け、1日仕事の労働です。でも、みなさん、楽しそう。うどんや甘酒サービスまであります。みんな会員と協力団体の方の手作りです。
 炉の底にできたものは、 ゴツゴツボロボロ・・これだけでは使い物にならない。これを練り上げるのが「鍛錬」。そうか、鍛錬とはここからきた言葉なのか。 真っ赤に熱した塊をたたき、伸びたところをたたみ、またたたき、これを繰り返すうち、粘りのある強い鉄になります。何だか、粉からうどんをつくった子どものころを思い出しました。二毛作の北関東では、自家製の小麦粉に少量の水を加え、ボロボロした塊の上にむしろのようなものを置いて、その上に乗って足で踏み、伸びるとぱたんと半分に折ってまた足で踏む・・これを繰り返すと、うどん生地ができました。踏むのがもっぱら子供の仕事。

 こうしてできた鉄・和鉄はさびにくいのだそうです。包丁も、日本刀も、さびにくい…たたらで作った鉄には酸素がたくさん含まれていて・・・などなど、さびにくいメカニズム、鉄原子がくついていく仕組み、炉の温度の微妙・・映像を交え、こうした説明も永田氏からお聞きしました。酸素が多くてさびない?どういうこと?? などなど、驚くようなお話満載で、理解もしきれませんが、でも楽しい。今ここに書くと間違いだらけになりそうで、今回、書くのはちょっと失礼しますが。
 お聞きすると、新しい発見として何十本も論文を書き、とにかくまだまだやることいっぱい・・・4千年も昔から人がつくり始め、武器としてつかわれ、農具は生産力を飛躍的に高め、近代・現代の文明の基礎となった、そんな鉄、人類の歴史ともに調べに調べられてきた鉄ですが、まだまだ未知のことがある。
 そんな魅力を,自ら出向いて語り続ける人たちがいるのです。

こうした活動、町の歴史・特色とかかわることもできるわけで、自治体でもぜひ援助してほしいですね。

 以前、たまたま運転中に聞いたラジオの朗読で聞いた短編がふと頭に浮かびました。
伊集院静の短編で、アナウンサーの朗読のすばらしさも加わり、心に残りました。
内容を書いてみたのですが、ネットで調べると、見つかるものですね・・・こちらの方がずっとくわしい・・転載させていただきます。「私の読書日記」 というブログです。                           http://blog.livedoor.jp/midori_nozawa/archives/52237811.html
 短編は「親方と神様」 「少年譜」 という題の、短編を集めた本に載っているそうです。
原作、読んでみようかな。
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昭和23年の夏、12歳の吉川浩太少年は鍛冶職人の六郎の仕事場を訪れます。
 授業で、鍛冶屋という仕事は人間の仕事としてごく初期のころからあった大切な職業だと
先生から教わったからです。親方は独身で50年もこの道で生きてきました。
 親方自身13歳の頃に、素晴らしい鍛冶職人から大切なことを教えてもらったのです。

 夏休みの間、六郎の下で、鍛冶屋のイロハを教えてもらった浩太少年でした。
が母親は少年が本気で弟子入りを考えていることに反対でした。それで担任に話して、
 担任が六郎を訪ねてきました。
 担任は六郎に直に話してもらう方法しか浩太を説得できる人はいないと
考えたのです。

 六郎は浩太をつれて山に登りました。そこは自分が少年の頃に親方に連れられて登った山でした。滝の落ちるあたりで膝まで水に浸かり、川底の砂を手ですくってみせました。手の中には
 きらきら小さなものがありました。砂鉄が集まって、刀を作ること。小さな真砂砂鉄を神様が備えてくださったこと。浩太の中には玉鋼を作る真砂砂鉄と同じようなものが詰まっている。「かなやごさん」(鉄の神様)が守ってくれると。ひとつひとつ丁寧に集めていくとできるようになること。山も滝もずっと待っていることを。

 浩太は親方に抱きついて嗚咽しました。自分は親方に弟子入りはできないことを最初から分かって
山についてきたようでした。

 六郎は昭和30年に誰もいないところで倒れていて、静かな死でした。

さて吉川浩太は今ではN製鉄の顧問となっていました。浩太は鉄鋼業界の重鎮となっていました。今回会社役員の法事に出席のため新潟に到着しました。新入社員佐藤は秘書部で代理として同行しました。弥彦山に登り、日本海を眺めていた時、飛行機が飛んでいました。新入社員に尋ねると、新潟からの飛行ルートが分かりました。

 吉川浩太は急に飛行機で九州に行こうと思い立ちました。新入社員が飛行機の中で、顧問にジュースをもって近づくと、浩太の目は涙でぬれていました。浩太は新入社員を隣の座席に招き、昔大切なことを教えてくれた親方と一緒に登った山を眺めてみたかったと話します。
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伊集院静氏はご自身が子供のころ鍛冶屋になりたいと思っていたそうです。小学生の時、鍛冶屋の仕事をずっと見ていて学校に行かないこともあったのだそうです。
心を込めて文をつづったのではないでしょうか。