2015年5月11日月曜日

渡良瀬遊水地と足尾

前回群馬県北部の湿地を紹介したので、今回は南部の湿地紹介。

前回紹介の場所は、まずは地質条件によって湿地ができ、さらに気候条件などが加わって生き物の生息条件が決まっている、大地は自然の姿を決める基本的な要素、「母なる大地」にはそんな意味もある。。。そんなことを書くつもりが、すっかりサンショウウオの話になってしまったなあ・・・
下仁田は湿地にはあまり縁がありませんが、湿地は大地と生き物・人とのつながりを思い描ける場所だと思っています。
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我が家から北へ70kmほど行くと、冷涼な地域に育つミズゴケの育つ泥炭湿地があるわけですが、南東へ60kmほど行けば、今度は夏には日本一暑そうな地域付近(館林、板倉)にある湿地、主にヨシの茂る湿地があります。渡良瀬遊水地・・・
ここは自然にできた湿地ではありません。国の政策でうまれた湿地です。

  泥炭・・寒冷地では寒さと水によりミズゴケやその他植物が腐らずに堆積してできピートモス(園芸用に売っていますね)ができる。以前はこれだけを泥炭と思っていたけれど、熱帯でもタイプの異なる泥炭がたくさんあるとわかってきた。雨期には大地が冠水してしまい、水と酸欠で植物が腐らずにつもるためできる泥炭。
 

渡良瀬遊水地のヨシ原
渡良瀬遊水地は
群馬県南東部、”鶴舞う形の群馬県”の鶴のくちばし部分が少しひっかかる場所、おおかたは栃木県にある広大な湿地です。
この湿地の名前が知られているのは広さが広いからではなく、田中正造の名前とともに思い浮かぶから・・と思っているのはほんの一部の人だけかな・・・・・ウィンドサーフィン、サイクリング、熱気球大会等アウトドアスポーツの場として思い浮かべる人が多いかも・・・
公害の原点ともいわれる足尾銅山の鉱毒被害に立ち向かい、美しい自然を残すことを訴えた田中正造は、忘れることなく何度でもふり返ってみるべき人であるでしょう。

この場所がどうやってうまれたか、パンフレットの一部から載せてみます。
 パンフ発行は「渡良瀬遊水池をラムサール条約登録地にする会」。ラムサール条約は湿地保全のための国際条約 で、渡良瀬遊水地は2012年に登録されました。  

図のように、明治時代には北部に大きな沼がありました。現在はヨシ原やゴルフ場、運動公園となっています。
現在の湖がハート型になっているのには意味があります。ハートのくぼみ部分には旧谷中村の役場跡などがあります。湖に飲み込まれそうになったこの場所は、保存運動で残されました。田中正造ともかかわる歴史の記憶遺産ともいうべき場所です。人は忘れっぽい生き物。忘れてはいけないものを忘れないための記念は、きちんと残すことの大切さも感じました
  (やたらに過去の記憶を消し去ろうとする動きがみられるのが、ふと頭をよぎりました。戦争やら戦争中の芳しくない日本人の行動のことなどを・・)



 


   渡良瀬遊水地の歴史
 
100年前、ここに谷中村や赤麻沼があった。
 渡良瀬遊水地は、もともと赤麻沼をはじめ、いくつもの大きな沼や湿地帯、それに農地や村落があったところです。1888年(明治21年)3つの村が合併して谷中村となり、約370戸、2,500余人の村民は、農業・漁業・スゲ笠つくりなどで暮らしていました。しかし、明治10年代から、渡良瀬川最上流の足尾銅山から鉱毒が流出して、流域一帯の産業・生活に甚大な被害をもたらし、足尾鉱毒事件として時代を揺るがす社会問題になりました。
 当初、衆議院議員でもあった田中正造は、流域被害民と共に必死に訴えましたが、明治政府は洪水防止という理由で谷中村周辺を遊水地にすることを決定。家屋を破壊してまで村民の立ち退きを強行し、1907年に谷中村は滅亡しました。さらに1910年代に、栃木・群馬県境を流れる渡良瀬川の河道が東に付け替えられ、赤麻沼一帯に直接流入した土砂で沼は消え、田畑や人家跡も一面のヨシ原になりました。
 
開発から、遺跡や自然の保全へ
 こうした歴史を持つ本州一広大な遊水地のヨシ原は、湿地性動植物の貴重な生息地となりましたが、一方では開発計画も考えられ、東京など首都圏に水を供給する平地ダムとして、1989年には渡良瀬貯水池(谷中湖)がつくられました。この湖の形は開発反対運動があった証です。旧村民は神社跡・役場跡を守るため「谷中村の遺跡を守る会」を結成して座り込みをおこない、その結果、計画は変更され、ハート型の湖になりました。
 谷中湖完成後も開発計画は次々と浮上し、遊水地の自然が大きく破壊される危険が
たかまりました。1990年に遊水地の歴史と自然を守るための利根川流域住民の会が結成され、その活動により自然破壊をともなう計画は消えました。さらに21世紀になって、遊水地を愛し利用する人々の取り組みや、ラムサール条約を目指した連合組織も結成され、それぞれ多彩な活動を展開してきました。そして2012年7月に渡良瀬遊水地は国際的に重要な湿地として認められ、新しいページが開かれたのです。
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  鉱毒除外を訴え足尾銅山の操業停止を訴え続けた田中正造にたいし、問題を遊水地をつくることによる洪水対策にすり替えたともいえるかもしれません。
今、遊水地は現在、たくさんの生き物たちが生きる場所になっています。絶滅危惧種の多さはきわだっており、またワシ・タカのような猛禽類の日本屈指の生息地です。
 

 湿地というと、蚊やブヨが飛び回り、泥のびちゃびちゃした底なし沼とか、暗く不気味なイメージを持たれたりしますが、本来はまったく違います。命のあふれた、いきものの豊かな場所なのです。 苦しい歴史の末つくられた湿地を、今後は生き物の住む場所として保存していく決意が、ラムサール条約締結でしょう。
 
  植物 約1,000種 絶滅危惧種59種  多い!!
  昆虫 約1,700種 絶滅危惧種23種
  野鳥 252種   絶滅危惧種44種

5月の第1週、湿地の観察会に参加してきました。 長年この地の植物の調査をされている大和田さんが、個人的に開いているものです。写真等のホームページがあります。
  「渡良瀬遊水地の植物」 http://cafegrancino.com/mo/

谷中村役場跡
谷中村役場跡にある説明板


チョウジソウ 山野草として人気があり、
 堀りとられることも多い 
見られた絶滅危惧種いくつか。  他にもたくさんありました。





絶滅危惧種を踏みつけなければ、歩けないほどはえていたり。でも、日本中見ても、他の場所にはほとんど見られないものもあるのです。トネハナヤスリなどその最たるもの。足の踏み場もなく、踏んづけて歩いて、でもこれ、利根川や淀川などの限られた水系にしか 見つかっていない。 

トネハナヤスリ
シダの仲間

ノウルシ











チョウジソウ以外は小さな花で、どれも地味なものです。ここに安住の地を求めて人知れず育つ植物たち。絶滅危惧種がこれほど集中する場は、めったにみられません。観察会に参加して教えてもらってはじめて、その価値を知ることができるものです
解説を聞き、今までだだっ広いだけのヨシの原だったものが、急に宝物のある場に変わってきます

初夏の風の吹き渡るなか、オオヨシキリ(夏鳥)のギョギョシ ギョギョシというにぎやかな声が聞こえていました。
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谷中村を消滅させたのは、足尾の銅山の鉱毒。その足尾では、今でもはげ山がひろがっています。生き物の住む場となった渡良瀬遊水地とはまったく違う顔を見せます。


鉱毒と、政府とたたかった田中正造はこう言っています。
真の文明は 山を荒らさす 川を荒らさず 
 村を破らず 人を殺ささるべし

北海道の佐呂間町へ集団移住した村人は、そこに「栃木」という地名をつけています。酷寒の地で、どんなにつらいおもいをしたことか。
足尾銅山は1973年閉山。富国強兵に、大きく役だった鉱山だったでしょう。
地質を学ぶとき、ここには行ってみるべきでしょう。一方、この鉱山で生活を支えてきた地元の方々には、複雑な思いがあることかと思います。

これらの関係は過去のものではなく、今でも同様に
引き起こされていると思いませんか。

足尾と渡良瀬の位置関係は地図でごらん下さい。


下は足尾のやまのようすです。木の枯れ果てた山に長年植林をしてきていますが、今でも、森に覆われた山は実現していません。早春の木の葉のない時期というのを差し引いても、荒涼とした光景が広がります。亡くなった作家の立松和平さんも、植林のため、ずいぶん通っていたはずです。




銅を含んだ廃液の青色
銅を含んだ青色
テレビドラマ「足尾から来た女」で、足尾で、家の脇に積まれた石くれが鮮やかな青にそまってえがかれているのを見て、「いくら何でも、ちょっと色がひどいんじゃない」と思ったのですが、実際、水の流れるところが色鮮やかな青色にそまっているのを見て、びっくりしました。












何だか、解説記事のようになってしまいましたが、「現地に行く」というのは 、いろいろなことがわかってくる基、とつくづく思うところです。



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