8月はお盆の季節。そして終戦の日のある月、原爆投下も含め、祈りを捧げる日が続く。
そして航空機の大事故の日も。
お盆帰省のシーズンで満席のジャンボ機が群馬の山奥に墜落したのは、もう31年も前,1985年の8月12日夕刻でした。
8月11日「山の日」が祝日として制定されました。最初は12日という案だったそうです。この案に強く反対したのが群馬県。ジャンボ機墜落の命日には,遺族ばかりでなく,多くの人が慰霊に訪れます。航空機事故をおこさぬようにとの誓いもあらたにします。その日に祝日をぶつけるのは、耐えがたい。
思いがけず誘われ、この慰霊登山に参加させていただきました。毎年慰霊に参加しているグループに混ぜてもらったのです。
そこで、今回は鎮魂の8月を少し紹介させていただきます。
もっとも、他人の思い出話を聞いても仕方ないかとも思いますが・・
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群馬から遠く離れて住んでいて,たまたま帰省していた折に,この事故がありました。終戦にちなんだ戦争ドキュメンタリーのような番組を見ていたとき、「航空機の機影が消えた」といったテロップが・・・番組は中断し、刻々と情報が流されていったのを覚えています。乗客の人数を聞くだけでも、驚きのニュース・・・このときのことが記憶にある方も多いと思います。
この頃、中里村(現 神流町)のさざ波岩の穴が恐竜の足痕化石と判明したと、ニュースになっていました。それを見にいこうと計画していたのですが、上野村方面はお盆帰省の人など以外は立ち入り禁止。中里村も立ち入り禁止区域に入っていました。どうしようかな・・でも、この先、いついけるかわからないなあ・・・ご遺族や関係者の方からしたら、自分たちの気持ち、やっぱり他人にはわからないのだと思われたことでしょう。
上野村には、中学校時代の恩師ともいえる人が、ずっと住み着いて、先生をしていました。亡くなるまで,そこで教育に携わっておられました。先生に会いに行くことにして,入らせてもらおうかな・・会えることもなかなかないし、・・会いたいなあ・・・連絡して,上野村を訪ねることに。
上野村では校庭はヘリコプターが発着し、自衛隊などだったでしょうか、車も目立ち、落ち着かない雰囲気が続いていました。
そんなわけで、忘れられないこととなりました。
今回誘ってくれた人の一人は、事故当時遺体安置所で待機し、ドライアイスの交換などもしたそうです。遺体と言っても、きれいな姿ではないわけですし、だいいち、遺体はチョコレート色に変色したものだったと。8月の猛暑の中です・・・思い描くだけでも痛ましさが増します。
もう一人の人は山登りの好きな方で、一度御巣鷹に向かったことがあるそうですが、秋も遅く、登山道は閉鎖のひもがかかっていたとのことで、慰霊の場には行かず。もし事故を起こしたら,それこそ迷惑をかけてしまう。
上野村はかつて群馬のチベットと呼ばれていました。神流川沿いのクネクネした細い道をたどり、やっと行き着くような感じ・・・自家用車がない頃は、簡単に行き着くこともできなかったでしょう。
標高が高いわけではないので、夏はそれなり暑いのに、冬は寒い。先生が、「万年筆のインクが凍った」といっていた記憶が・・雪も降らないから,スキー場もできない・・・スキーブームがはじまっていたころだったかなあ。林業が壊滅的になっていて、これから野村をどうしていくかは大きな課題だったのだと思います。今は,下仁田から上野村へのトンネルが掘られ、比較的気軽に行ける場所になりました。
墜落現場の御巣鷹山は、その村から、さらに奥深く道をたどったところになります。わずかに明かりのともる、昔ながらの雰囲気の暗いトンネルをいくつもくぐり、ずいぶん車で走った気がします(距離を測っておくんだった・・)。道は整備されているとはいえ、個人で来る気はしないですね。
もちろん、この日はたくさんの車が来ており、駐車場の順番待ち。そこから,登山口までは用意された車で向かいます。
登山口が標高1359m、御巣鷹の尾根が1539m、。ずいぶん高い・・。
ちなみに、赤城山の大沼の標高が1345m、榛名山の最高峰・掃部ヶ岳が1449m。
あちこちにスタッフが控えています。
据え付けの杖を利用する人もたくさん見かけます。
標高差180m、行程800mという記述に、「軽いよね」と思ったのですが、「登山靴履いてきてよかった」に変わりました。高齢になった遺族が,墓標まで登れなくなる・・という話がよくわかりました。
足元の、ゴツゴツとした石のある道や、注意しながらの階段・・・よく整備されているとはいえ、もともとが古い時代の地層からなる、急峻な山なのです。
メディアの人たちもたくさんみかけました |
すらりとしたシオジの木の育つ沢沿い |
途中では水を渡すスタッフも |
途中には「クマよけの鐘、鳴らしてください」と、いくつも鳴り物があります。墓標が見えてきました。その、ほぼ最初の場所が目的地でした。
名前は 川上 英治・和子・咲子
この家族には慶子さんという女の子がいます。川上慶子・・・ヘリコプターにつり上げられ、救助された、あの女の子です。家族で生き残ったのは 慶子さんと、家に残っていた兄だけ。
当時、マスコミに追い回され、兄も精神的に参ってしまったという話も聞いたことがあります。飛行機が落ちた直後は,まだ妹の声も聞こえていた・・他の人の声もだんだん声が消えていき・・・どんなに辛かったろう。もっと早く,救助隊が行っていたら・・・誰もが思ったことです。
慶子さんもお兄さんも、到底この場に来られる状態にはなれない・・・そんなことから、ずっと川上さんの慰霊に訪れ、花を手向け,線香をあげてきたのがこのみなさんです。
写真の上に見えるピンクのものは かざぐるま。123個あります。墜落機123便からこの数になったと聞きました。。
かざぐるま設置を含め、地元の上野村の人でこの地の整備をされている方がいらっしゃり,親しく話をされていました。こういった方々のおかげで,こうしてきれいに整備されているわけでしょう。
この墓標のある場所は,スゲノ沢と書かれた場所のすぐわき。大水がでると、流されてしまう可能性があるから、移したらと、管理をになっている地元の方から言われているそうです。いい場所があるから、と。教えてもらいましたが、たしかに穏やかな場所です。墓標は最初は犠牲者の見つかった付近に立てていたのかもしれませんが、移したりもしているとのことです。
飛行機は御巣鷹の尾根の向かいの山に激突し、跳ね返るように仰向けに御巣鷹の尾根に散ったと聞きました。命の助かった慶子さんは、機体の飛び散ったその端のほうにいたわけでしょう。家族の墓標が一番端っこ付近にあるわけですから。
登るにつれ、墓標も増えていきます
急な斜面・・上から見おろすと,さらに急に見えます。
数日前、整備作業をされていた日航職員が、斜面で転落し,死亡しました。道沿いとはいえ、急な斜面は危険な場所なのです。
皆で転落現場にお線香を供えさせていただきました。
おもちゃも供えられています |
おとうさんやすらかに・・・ |
123便の機長達の慰霊碑です |
機長は歯しか見つからなかったと、聞きました。事故後は,家族も苦しんだでしょう。操縦士の責任は・・・と。
山崎豊子の「沈まぬ太陽」を、読み出したらやめられなくなったことを思い出します。
お花を供える人のいない墓標もたくさんあります。高齢となった遺族は,あの場まで登ることも不可能になってきます。それでも,いつまでもこの場を忘れずに守り続けることの大切さを思う。
当日の記録です。いろいろな本に載っているかとも思いますが。グループの人が準備してくれました。
当日の記録です。いろいろな本に載っているかとも思いますが。グループの人が準備してくれました。
先日、熊本地震で行方不明だった大学生らしい遺体が見つかったと報道されました。
警察・消防の捜索は,5月1日で中断していたといいます。ご両親はそれからも、勤めを休み川沿いをくまなく歩いたと言います。足場の悪いところは,命綱まで張って。先月末、息子の車をみつけました。11日、遺体が引き上げられました・・・
こんなにも 肉親の思いは深いものなのか。
亡くなった経緯は異なるものの、命の重さを思う8月です。
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当時、「ジャンボは落ちない」と言われていました。「どうしてそんなこと言えるんだろう」と、すごく疑問に思っていました。ですが、あまりに何度も自信を持ってあちこちで言われるので「そうかなあ」と、半ば認めるような気分もしてきはじめたのでした。そんな時、この事故です。間違ったことを信じ始めてきていたのを,恥じたことを覚えています。
その後1995年、阪神淡路の震災発生、高速道路がひっくりかえった映像が流されてきました。この少し前、1994年ロサンゼルスで大きな地震による高速道路の倒壊があったとき、「日本は地震対策の技術が優れているから,あんなことは起こらない」というようなことを専門家が言っていた・・・相も変わらぬ「安全神話」。「自分だけは大丈夫」と思える神経がわからない。まれにしか起こらないことは,自分には関わりないと思えるのか。
そして今、「原発再稼働」・・・ああ、イヤだ。どうしてこうも平気で安全神話を言える人たちなのだろう。しかも、地震は活動期に入っているのですよ。
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地質のことも,少々ふれましょう。
こんな急峻な山はどんな地質でできているのでしょうか。
下仁田の南部や南牧村の古い時代の地層に続くものです。秩父帯とよばれる古い地層で、硬い泥岩やチャートなどが、よく見られます。道の周囲には、いかにも古そうな,角ばった硬い泥岩の仲間の岩肌が見えていました。かなり珪質に見え、これはチャートかなと思えるところも。
手軽にみられる国土地理院のシームレス地質図を開いてみたら、御巣鷹山の地名も載っていました。御巣鷹付近には,チャートの塊もあります。
「前・後期付加コンプレックスの基質と、そこに取り込まれたチャートのブロック」がこの付近の解説でした。約2億年から1.4億年前に海のほうから海溝付近に押し寄せてきて、くっついたもの、複雑に変形し、また、そこには3億年といったもっと古い時代のものも,転がり込んでいる・・・ジュラ紀付加体。
億の単位の時代の古い石で、硬くしまった石が見られるわけです。
またこの付近の古い地層にはシオジという木がたくさんあり、保護されている・・・・そういえば山を越えて(トンネルを越えて)南牧村にもシオジの木がたくさんはえているのを見たことがあります。
多くの人にとっては,上野村の温泉「シオジの湯」が思い浮かぶかもしれません。
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季節の風景を少し
田んぼにサギがたくさん。写真撮ろうかなと思って,いつもついついそのまま。
イネが伸びてきて、白いサギの頭だけしか見えなくなってきた・・・さきほど,近くの田んぼにいたのを撮ってきました。
ここらにいるのはダイサギとコサギ。アオサギもけっこう見かけます。
間に合わせの写真ですが、今ごろの里の風景です。
朝のイネには水滴が輝きます |
オモダカ すてきな水辺の花 |
クリのイガが,こんなに大きくなっています |
暑い暑い日々、草も木も、すっかり伸びきっています。
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