2017年12月11日月曜日

カモシカが目の前に


カモシカに出会いました

 山すその民家のわきの道を歩いていたら、目の前を横切るものが・・
立ち止まってこちらを見て
スタスタと道を横切り








民家の裏の林に入っていきました


もぐもぐと草を食べ始め


立ち止まってしばらくこちらを見ている
カモシカって、こういう行動するのですよね


 毛皮の利用で、かつては幻の生き物になっていたカモシカ。昔、まだテレビが白黒放送だったころ、NHKの「自然のアルバム」?という番組で、”カモシカを撮影!!”と放送したのをなぜか覚えていました。ずっとあと、カモシカ特集の番組でその映像が出てきて、「ワー、私これ見てる!」とちょっと感激したものでした。
昔は人を見ると逃げたとききました。特別天然記念物になって、「人は怖くない」となってから
こうして人のすぐ近くにもやってくるようになったとか。それにしてもこんなに近くで見たのは初めてでした。
また姿見せてね。

  この日、初冬の里山で、1年分の薪集めと薪割、薪運びを手伝ってきました。
薪割りの機械があるのですね。ぐいぐい力づくで割っていく。この薪を薪ストーブで燃やします。
灯油・電気・ガス等で暖房する前まで、斧とのこぎりだけで冬支度の薪を準備していたわけで、、ずいぶん大変な大仕事だったろうとつくづく思いました。
 ちなみに私の子供のころの暖房は、台所で燃やした桑の枝が燃えたあとの”おき”(この言葉、きっと子供には通じない)。稲を脱穀した後のもみ殻を蒸し焼きにしたものを一緒に入れておくと、ちょうど炭のような役割になって、コタツの中は長い時間温かい。
燃料はすべて自給自足でした。というわけで、桑の枝があるので、薪割りは無し。
                          みなかみ町、赤谷プロジェクトにて
左手から丈夫な刃先で押してくると、
木の目に沿って割れます。




なんとなくぶらついていて出会うものって、なんだか楽しくて、うれしい。

「道草をして、何かに偶然出会う。そんな体験の蓄積が科学者を育むのに、意外さや想定外を受容する場が減っている
 これは、朝日新聞に載っていた生物学者の福岡伸一さんの言葉。どんな文脈で語られたかというと、ノーベル賞受賞とネット社会とのかかわりで。

 インターネットの急速な普及で、社会が劇的に変わってきています。本当に便利になりました。世界の僻地と言われる場所の子供だって、ネットで多くを学習できるかもしれない。実際にそういう子供の話もあります。写真だって、誰でも簡単に撮れ、それを発信するのも自由。意見交換もできる。調べものだって、検索機能のすばらしさを満喫。本づくりなんて限られた特別な人しかできなかったのに、今ではお金もかけずに発信できる…。自分で作る楽しさをみんなが知って、やるようになっています。
お年寄はなかなか使えないといいますが、外に出るのが難しくなってきた人など、ボタン一つで情報が手にはいったり、誰かと交流できるわけで、とても役に立つのでは。特に、今の若い世代が老人になった時は、ごく普通に使うわけでしょう。
 そこで、ふと立ち止まっての話です。ちょっと一部を抜き出して引用させてもらいます。そうだなと思う言葉を、太字にしてみました。

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 「ネット社会の出現で、物事を調べるあらゆるプロセスが漂白されている。効率よく知識に到達できるので、学びのリアルさが失われてしまった。」   
「イモを採ろうとツルを引っ張たら、探していたのとは違うイモが出てきたというような、偶然の副産物が生まれにくい。」  なるほど。ハッとしますね。
 「自然は古代ギリシャで”physis”(ピュシス)という。それは混沌としていてとらえどころがない。チョウのさなぎを育てていたら、中から、寄生バチが飛び出してくることだってある。その驚嘆に意味がある。
 ピュシスをロゴス(理性)であえて整理し、近似しようとするのが科学だ。だからおのずと限界があり、予期せぬ展開がある。」
「科学は本来、予見できないピュシスを扱うものなのに、畏怖や謙虚さが忘れられている。東日本大震災や東京電力福島第一原発事故は、その表れだろう。自然は混沌として,例外に満ちている。すぐに「わかった」「できた」というのは、科学とは言えない。
                 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

子供は経験が少ないだけ、いろいろなものに驚きを感じるかもしれない。
いろいろ経験したはずの大人で、この驚嘆の心と好奇心を忘れない人はきっと素敵な人。
あちこち道草して、たくさん楽しみたいですね。
  sense of wonder (不思議さに驚嘆する感性) 
   「沈黙の春」を書いたレイチェル・カーソンの この言葉こそが大切。

 戦争が終わり、子供たちは「好きなものを好きでいられる自由さ」の中で育つことができたと述べられていました。多くの子供が、好きなことを広く浅くやっていて、それが伏流水になっていると。
 翻って今、政府は研究開発の戦略的重点化と称して、いくつかの分野に重点的に国費を投じ、競争させ、世界で競争できる若い人材を増やそうとした・・・・
馬の鼻先に人参ぶら下げて競争させているようにしか見えないけど・・・成果ばかり強調されて。
このところたくさん生まれたノーベル賞受者は、「好きなものを好きに」で育った世代ということは、今、競争させられている世代は、どうなるのでしょうか。
科学研究の世界ではしばしば「現場は疲弊」と言われていますよね。

 未来のある子どもではないけれど、年取った世代も、せっせと「散歩」して、楽しいことを見つけて楽しんで、素敵な感性をもてるようにしたいですね。ネットの世界の素晴らしい所も、利用できたら、また世界も広がるし。


 
 1か月前の朝、西の空にきれいな形の虹がかかりました。
色はちょっと薄いのですが。空も灰色なのですが、何といってもこの季節に虹というのが意外。虹といえば、夏の夕立後の東の空にかかるもの、という印象なので、なんだか意外でした。ちょっと玄関を出るだけでも、こんなものに出会えるわけです。

スマホの画面ばかりでなく、ちょっと実物の世界に目を向けてみようよ。
こう言うと、若者に嫌われるかな。







2 件のコメント:

  1. 寒さで、散歩も億劫になりがちですが、天気の良い午前中にはウキウキ散歩に出かけます。好きな散歩コースは南町から大手町、上新田にかけて利根川の周りを歩きます。
    最近気になるのは、利根川の川底が上がって浅くなっているような気がするのと、川鵜が増えている事。コウモリの数が減ってきている事です。

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  2. 足腰の鍛錬のためにも歩かねば・・・という気分になってきました。
    我が家の近くにも、カワウのコロニーがあって、川辺の木が白くなっています。
    増えれば嫌われますね。昔は、東京近くから飛んでくるなんて言われたりしたと思うけど。
    自然のバランスは難しい。でも、共存を目指さねば、ですよね。

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