2016年12月6日火曜日

柚子の季節です・八ッ場の遺跡発掘



ユズの季節

庭先、道端、近所の畑に、黄色い柚子の姿、ありませんか。都会では無理?でも、スーパーマーケットの店先に並んでますね。季節を感じます。
ちなみに、下仁田では周辺の山道を歩くと、放置された柚子畑かな?と思うような柚子の木を見かけます。

  利用は?  


ちょっと絞って、香りを楽しむ、
千切りをちょこっと料理にのせる・・「大好き」という人もいますが、お風呂に入れる以外、使ったことのない人のほうが多いかも。

 一昨年「柚子とうがらしのつくりかた」という記事を見て、作ってみました。ビンに詰めてそのまま冷蔵庫の奥に・・・しばらくして取り出してみたものの、「ウーン・・」。
そのまま忘れてました。いいかげん後になってビンを開けてみたら 「これ、なかなかいける!」 ちなみに、販売されている柚子胡椒は、青ユズの皮と青唐辛子からつくるそうです。もともと九州で作られてきたもので、胡椒は、唐辛子の古語とか。

   柚子唐辛子  つくりかたは以下です。
 ① ゆずの皮をすりつぶす(刻んで、すりこ木でいい加減につぶしただけ)
 ② 皮の10%程度の重さの塩、 5~10%の唐辛子粉(一味とうがらし)を加える
 ③ 混ぜて、柚子果汁も少し混ぜる
 ④ ビンに詰めて、冷蔵庫の隅っこに・・・あとは時間がつくってくれます。
     昨年は大きなビンにいっぱい作りました。

これに麹を混ぜて作ってもおいしそう。調べたら、そんなレシピもありました。

ユズといえば、ポン酢。
写真は、サイズが小さめで、汁がたっぷり出る一才ユズという品種。加工用柚子です。
ポン酢の材料でした。
私の実家はこのユズを出荷していました。今頃は収穫が大仕事で、手伝ったものです。
今は加工工場が操業をやめてしまい、せいぜい、冬至のころに出荷する程度。
ユズは何十年か前、農協(JA)が率先して導入したものですが、いまではあちこちにあった柚子畑も処分されてしまったものが多いようです。
値段が安くて、でも、汁が多くて、気軽に使いやすい加工用柚子本ユズより香りが落ちるといわれますが、私などには違いが判らず、レモンのようにも使えるこのユズは重宝しまます。
けっこうな労力のわりに大したお金にならない農業・農産物は、作る人がどんどんいなくなっています。
我が家の周りも、時折トラクターで雑草退治をしているだけの畑が広がっています。

   ポン酢  作り方
① 柚子果汁を絞る  でも、ユズでなくても何でもいいとか。田舎では庭先に酸っぱい夏みかんとかミカンとかを、けっこう見かけます。これを利用すればOKらしい。酸っぱいものがいいとか。今の子供は店先に並んだ果物しか食べないけれど、昔はこうした庭先の果実を食べたものです。代表は柿ですけど、ビワ、イチジク、プラム、アンズ、ユスラウメ、モモ、グミ…いろいろ植わっていたなあ~
② 果汁の80%のしょうゆ、20%のみりん、 果汁100mlあたり2~3gのだし昆布、10gの削り節を加える。1日後に昆布を取り出し、削り節を濾す、とあったけれど、そのまま置きっぱなし・・・ペットボトルに詰めて冷蔵庫に入れておいた。
これだけで半年以上もつとか。  凍らせて、暑い夏にも長く使いました。

お金をかけずに、ちょっと手間をかけただけで、いいものができます。
昔は、とにかく、いろいろ身の周りのものを工夫して、利用してましたね。
簡単においしいものも手に入らないし、お金もないし。

ユズはたくさんあったので、砂糖菓子(ピール おいしいけどちょっと手間がかかる)、ジャム(中の白い袋にとろみの元・ペクチンがたくさんあるようで、簡単にできる)、化粧水(種でつくる)とか、いろいろ作ってみたものです。上品な和食をつくるのは敷居が高い・・もっと気楽に味わうのがいい。味噌汁に入れるという人もいました。ふわーっと香りが広がって、ステキ、と。

高価なもの、珍しいものを買うより、お金をかけずにこうしておいしいものを見つけたりするほうが、得した気がして、いい気分。お店もない田舎で育ったからか、一生懸命おいしいお店をさがすとかいったことは、あまりしたことがない・・・三つ子の魂100までなのかな。
でも最近は、面倒くさくなってきて、作るのは手間のかからないものばかりになってきた・・・

みなさん、身の回りのものを、もう一度みなおしてみませんか。
気楽でお金もかからず、楽しいものですよ。

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たくさんの遺跡が・・・八ッ場ダム建設地域 


土地を開発するときも、家を建てるときも、発掘が行われます。玉村の我が家を建てるときも、ちゃんと調べています。玉村は、必ず発掘しなければいけない地域なのじゃなかったかな?古墳時代の遺跡がたくさんある地域なので。
たしか 我が家の下には、平安時代の田んぼの跡があった。

八ッ場ダムに沈む地域には、江戸時代の浅間山天明の噴火の際に、吾妻川を流れ下った泥流にうまった家・寺・畑などが見つかっています。
さらに掘り進むと、平安時代と思われる遺跡も出ています。さらにその下には縄文時代の遺跡が見つかっています。
水田耕作の始まった弥生時代には、水田に不向きなこの地域からは人が立ち去っていたようで、弥生中期から後期からあと、9世紀・平安時代まで、人の生活跡は見つからないとのことです。

こうした遺跡を訪ねお話をうかがう機会がありました。
群馬県埋蔵文化財事業団の職員の方が、丁寧に熱心に案内説明してくださいました。


ここより下は水に沈む
遠く見えるのが不動大橋。右は発掘中の土地
右写真の遠くに見える横に走るラインは、ダム地域にかけられた橋。
満水になれば、橋げた近くまで水没する予定です。
空を横断して見える橋で、高さを想像してください。


有力者の家

天明の時代、ここに住んだ人たちの家が出てきます。左は大変立派な家です。有力者の家でしょう。

建物あと
 ここでは 同じ地域に、江戸・平安・縄文時代遺跡が出土したりします。
この地域からは庶民の家が何軒も掘り出されていましたが、右上写真の発掘あとは、平安時代の竪穴住居あとだったかな・・・以前に見た時は、天明の泥流に埋まった住居がいくつか見えていたと思うけれど。この平安の時代の遺跡からは、愛知や岐阜で生産されたうわぐすりのある焼き物・灰釉陶器が出土したそうです。通常の農業がおこわれたとはおもえなくて、ここで農耕で食料が得られたのかどうかは少し疑問のようです・・・他地域との交換が行われていたことも考えられそう。 

 ところで、どうやって時代がわかる?
出土物、土器の模様など   でも、そこにはさまれる火山灰も重要。
浅間山の火山灰の降り積もるこの場所は、土を掘りながら、火山灰を注意深く見るのです。 

 これは何でしょう。


白い筋は、浅間の火山灰です。畑の畝を埋めてたまったもの。この畑に植えられていたのは、麻。
時代は田沼意次の時代の末期。貨幣経済が発達し、麻は特産物として、流通にのったというわけです。
天明以前と以後の石垣が重なる
石垣の組み方が途中で変わる・・
古い時代の上に新しい石垣を積み重ねたようです。


平安時代の住居跡・かまどのあと
かまど跡は赤く焼けた土からもわかります。このかまど跡のある家は、竪穴住居とのこと。平安の時代で思い浮かぶのは、十二単や平等院鳳凰堂、紫式部。同じ時代に、庶民は竪穴住居かあ・・・この遺跡の時代は9世紀後半以降。

ここで遺跡の多いのは、泥流に埋まった天明の時代、それから縄文時代だとききました。

縄文時代 並んだ石・列石
 かまど跡のすぐ隣には、縄文の遺跡。
石が並んでいます。何のためか??
祭りの場?墓?

こうした遺構を列石とよんでいます。
円くならんだのを環状列石とよんで、それは見たこともありますが、そうか、まっすぐ並んでいる場合もあるですね。こっちのほうが単純そう。

土器の破片もたくさん見られました。
土器からここは縄文時代後期から晩期とわかります。

骨片 焼いたもの
白い骨片がたくさん散らばっています。焼けた骨のかけらだとか。大きなものが出れば、何の骨かわかるのですが、骨片ばかりらしい。

 縄文土器には、見事な模様がつけられています。とにかく、見事な模様が多い・・・でも、弥生時代になると、模様は減り、あってもせいぜい入れ物の口の部分くらい。なぜ?      それに縄文の土器は分厚いのに、どんどん薄い焼き物になっていく。これも、どうして?
            ・・・こんな説明をされました。

縄文時代 土器破片
「縄文の時代は、いつも食料が手に入るか、いつなくなるかの不安の中で生きていた。ですから、模様にも食べ物への祈りが込められていた。
水田がはじまり、祈りの気持ちがすくなくなっていったのでは。

だんだん、祈りというより、効率が大切になっていった。焼き物も、薄くすることで加熱の時の熱の伝わりを早くしていった。祈りをこめた飾りより、いかに使うかの効率の良さの追及が始まった」
 なるほど・・

そういえば、ラスコーの壁画などだって、獲物がたくさん捕れることを願い、描かれたといいますね。見事な絵が描かれていて、皆がびっくりした絵です。


土器につけられたあじろ模様、この時代の流行
林中原Ⅱ遺跡とよばれ、縄文中期から後期、120軒以上の住居がみつかり、大集落があったと考えられる場所もあったりするとか。

 上流には多数の焼かれた人骨の発見された場所もあります。。4500年~5000年前の人骨は県内最古。2015年発見。8月に見学会があったようです。
人が押しよせそうな発掘成果です。でも
なかなか報道してくれないという気がしてしまうのですが・・
おおきく報道されると工事に支障が出るから・・・?
2016年になって、本体工事にかかる時期になったから、「もう大丈夫」と、やっと報道したのかと・・そんなことを思ってしまうのです。


 発掘費用は事業者が負担します。日本の遺跡発掘は、大半が開発事業に伴う記録保存用の発掘でしょうから、文部科学省ではなく、国土交通省が担当しているようなものなのかも、などと思ってしまいます。

八ッ場ダム関連の遺跡発掘調査費は、当初66億円とされていました。
2008年に98億円に増額。
ことし、さらに88億円の増額が決まりました。98+88だから、186億円。165億円とメモしたことがあったのだけど、、あとで確認してみますけど。

 大量の遺跡の発掘で お金が足りないのですね。
 さらに、ダム本体のすぐ近くの岩陰遺跡はまだ手付かずとか。長期の発掘が必要とされそうな、貴重な遺跡らしい。この額は入っているのかな?

工事に伴い、立ち入り禁止区域が広がり、これらを見る機会もますます減ってきます。
埋蔵文化財事業団では、ご案内しますとの看板もたてています。皆さんに見ていただきたいという気持ちを強く持っているのでしょうが、なかなかそうはいかないのでしょう。
これから冬季にはいり、発掘は休止ですが、ダムができれば、見ることのできなくなるものです。春になったら機会を見つけて全地域遺跡とも言えるこの地の歴史に、思いをはせてみてはいかがでしょうか。



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