8月半ばになり、昨日は、やっと過ごしやすい日がやってきた。
からりとした日で、最高気温が 前橋で28.2℃、湿度43%。これなら、ものをやる気がする。
日本では夏は死者を悼む季節
お盆
第二次大戦の終結と戦死者への追悼
原爆投下とその被害者への追悼
テレビ・ラジオでも、毎年絶えることなく、特集番組が組まれています。
その努力には敬服します。聞き取りの努力を地道に続けて、人々の重い口を開いてもらい、広く伝えています。マスコミ、ジャーナリストのこの努力がなければ、忘れられ、闇に消える事実の数々。
人は忘れやすい、忘れたことはなかったことになり、また同じ過ちを繰り返す
戦争を知る方がもうじきいなくなる時代がやってきます。今年、100歳を超えて、あるいは100歳間近になって、かつての経験を語る方々の姿も何名か映し出されていました。興味本位で妊婦の腹を切り裂くのを見た話など・・・その年になるまで、口にすることはできなかったわけです・・
以前見た番組、終戦以後ずっと精神病棟で過ごした方の姿も思い出しました・・戦場で心を病んでしまって、そのまま正常に戻れなかったという方が、病院の廊下をフラフラと歩く後ろ姿、心が破壊されてしまったわけでしょう。ですが、日本軍は、そういった心を病んだものは皆無で、日本の強さと宣伝していたとか、数日前の新聞記事にありました。
伊勢崎市で、戦争記録の展示がありました。15日、16日ですから、もう終了していますが。
伊勢崎市の戦時中の写真や焼夷弾の実物を借りての展示です。さらに、ナガサキ・ヒロシマの原爆の資料、沖縄戦の資料、はだしのゲンや、その他の出版物・新聞記事等も。
それぞれの地域で、こうした記録を掘り起こし、保存する努力、大切ですね。
伊勢崎女子高校の生徒 防空壕堀をしています。きっと勉強なんて出来なかったのでしょう。 このころ、地域の女生徒の女生徒の通う、高等教育機関だったはずです。
家じゅうの金属を供出させた |
焼夷弾の先には爆薬があって、その爆発で厚い屋上の壁を貫通させたとか。
伊勢崎での空襲の記録を紙芝居にして語る企画もあります。
話すのは90歳を過ぎた被災者。
絵を書いてくれた協力者もます。
「星になった母」
昭和20年8月14日の夜、伊勢崎は焼夷弾の雨にさらされました。用水路は火の川のようになる中、母は6人の子供を守るのに必死でした。赤ん坊を抱え、逃げる中、お母さんが倒れました・・顔色がおかしくなっていく・・
不発の焼夷弾が背中にあたり、死んでしまった・・子供たちは母を囲み、母の胸にいた赤ん坊は泣き・・油くさい雨が降ってきて・・
次の日父が見つけてくれて・・
母を運んで火葬し、粗末な墓をつくり・・
戦後の苦しいなか、一番下の子を養子にしてもと申し出た人もあったが、母が最期まで抱き抱えて離さなかった子だからと、父は育てあげたと。母の死んだ日(火葬の日だったかな?)明るく輝いていた星を思い起こして、星になった母としたといっていたと思う。 これ実話。
語ってくれた方も、この夜、同級生が直撃を受けて亡くなっているそうです。川の近くの1軒屋なのに、しかも、ちょうど屋外のトイレに行った時に、と。
とても張りのある声で、語ってくれました。
パネルを見ていたとき、隣にいたおじさんにちょっと声をかけました。そうしたらこの方、空襲体験者。焼失地域の地図を見ながら。「俺ここにいたんだ。7歳の時。警察署?がすぐ脇で、ここに逃げろと言われてな。それで助かった。」「家は燃えちゃっているんですね」「伊勢崎は1350発の焼夷弾が落とされた。死者29名。前橋では死者792名。家を守れと言われて死者が増えた。伊勢崎はそれを教訓に、家より命と逃げたから死者が少なかったと言えるかも」この数字、紙芝居語りで言っていて、書いておけばよかったと思っていた。この方、書きとめたんだ。私も、あらためてメモしました。
空襲の時の絵 |
落ちてきた焼夷弾実物 束になっていたものが、こうして バラバラになって落ちてきた |
投下された焼夷弾実物とレプリカ |
玉村から伊勢崎のこの付近は、8月14日夜に空襲を受けています。私の実家の隣の家は、玄関の前に不発弾が落ちています。不発でなかったら、生きていたかどうか・・・
母はよく言っていました。「戦争終わったのがわかって、川沿いに帰るとき、爆弾を捨てていったんだよ」
資料がありました。
ポツダム宣言受諾 14日午前11時50分
米軍機、サイパングアムから夕刻に出撃 関西・関東・東北方面
日本政府 ポツダム宣言受諾連絡 14日午後11時
どこにどう連絡というのをメモしてなかったなあ・・基本知識なんでしょうが
この数時間の遅れでさえ、多くの命を奪っていたことになるわけです・・・
ふと思いました。子供たちは、携帯電話に慣れていて、すぐ連絡すればいいじゃん、などと思うのだろうな、と。これからは、ていねいに説明していかないと、理解を得られないかもしれませんね。
今、火星がとても大きく見えます。火星と地球の距離がとても近くなっているからです。火星なんて知らなくっても大丈夫、まだ大きくて、とても目立ちますから。
平和な時代に星を見上げられる幸せをかみしめて、見上げるのはいかがでしょう。
よく知られた原爆の写真や絵も、パネルになって展示されていました。
左パネルの2枚目に注目。ローマ法王庁が昨年末、教団関係者にこの写真入りのカードを配布しています。カードに添えられた言葉は
「亡くなった弟を背負い、火葬の順番を待つ少年。少年の悲しみは、かみしめて血のにじんだ唇に表れている」
「バチカンばかりに任せておいてはいけないでしょう、日本人としては」
と思うのです。
お年寄りが亡くなって遺品整理をしていたら、戦時中の品が出てきて、捨ててしまった、売ったといあった話があるそうです。こうしたものはぜひとも集めて保存できたらと思います。ですが、難しい話でもあります。協力者が増えればと願わずにはいられません。
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