2014年10月11日土曜日

上信電鉄に沿って・天井川   

上信電鉄沿いに
  
   
天井川(てんじょうがわ)
    川底が田んぼより高い!!   
 
  
 天井川・・・昔は教科書にも載っていました。今はどうなのかな。
  川底がまわりの土地より高い・・・そんな場所が、高崎ー下仁田をむすんでいる上信電鉄の線路からほど近い場所にあります。

 下の写真ではよくわからないかなあ・・・ 右側の田んぼが、コンクリート張りの川底より少し低いのですが・・・     現地に行けば すぐに納得できます。
 
 
     
   


左写真のような階段を上っていくと、川が流れているわけです。
         (太夫沢川)

場所は、上信電鉄根小屋駅付近、高崎市ですね。上信電鉄が烏川を渡る橋の近くです。

 ここは高崎市の裏山・大きな白衣観音の立つ丘陵から続く里山の裾野です。丘陵からは、烏川に向けて、小さな川(沢)が何本も流れています。
これらの川が天井川になっているわけです。
下の図をごらん下さい。
                                                作図 堀越武男さん
 
「地獄沢」という名前も見られます。川底が高いわけで、氾濫して、住人に辛い思いをさせたのかも・・・・隣には「薬師沢」もあって、薬師如来のご威光を求めたのかもしれないなどと、想像がはたらきます。            
少し昔、井戸沢川は道の上を流れていました。
写真をごらん下さい。道路の上を横切っている「出すなスピード」と書いてあるところは、水路になっていて、川が流れていました。
まさに 天井川
    
       写真 自然との出会い
              上毛新聞社
 

今は改修されて、川は道路の下を流れていて、ごく普通の風景です。
とはいえ、この付近の道路を車で走ると、沢を横切るときには、道が少し盛り上がります。ほんのちょっとの起伏ではありますが、何度も登ったり降りたり。
この道を通りかかることがあったら、ちょっと思いだしていただけたらいかがでしょう。


この天井川について書かれた解説をのせます。上にのせた地図をご覧いただいて、お読みいただけたらと思います。    下仁田自然学校運営委員の堀越武男さんの書かれたものです。
  
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 根小屋(ねごや)駅から山名(やまな)駅までの間には、烏川右岸の低地と南西の丘陵地との間に、丘陵から流れだす小河川によって、いくつもの扇状地が作られています。小河川は根小屋七沢と呼ばれ、北西(高崎より)から中ツ沢川、金井沢、太夫沢、井戸沢、地獄沢、薬師沢、および柳沢川の七沢です。
 この付近の丘陵は、比高は100mあまりで、あまり急峻ではありませんが、地質は第三紀の板鼻層の砂岩や礫岩および第四紀の凝灰角礫岩で、固結度が低いため、崩壊しやすく、台風の大雨や夏の夕立の雨などで、多量の土砂を流し出します。そのため、各河川はその出口付近に小さな扇状地を作っています。
 この地域は、古代より開けた土地で、小河川は流路が固定され、氾濫のたびに流路両側に堤防が積み上げられ、周囲の田畑より川底の方が高くなった、いわゆる”天井川”になっています。

 根小屋駅から県道へ出たところの川が中ツ沢川です。踏切をわたり、山名方向へ行くと、金井沢の橋を渡ります。橋の部分が高くなっていることに気づくでしょう。
 城山町入り口の信号をすぎたところで高くなっている橋が太夫沢川の橋です。太夫沢川と次の井戸沢川が、最も川底が高くなっています。県道より下流部のたんぼ道の橋まで行くと、もっとよく見られます。井戸沢川は現在改修されていますが、かつては水路が県道の上を通っていました。
次の地獄沢、薬師沢、柳沢川もそれぞれの橋の部分が高くなっています。注意して見てください。

 山名駅の手前に山名八幡があります。神社の入り口に、馬庭念流の達人が割ったといいつたえられる”太刀割石”があります。
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昔からの住宅もあります。
右写真の住宅と雑草の生い茂った
川底との関係は、どうでしょうか。

天井川は教科書にも載ってました。
以前は大河川氾濫が重大問題だった時代ですから、川のことはしっかり勉強したのでしょうが、今は学習の重点が少し変わっているかもしれません。

なだらかな丘陵は、コナラなどの雑木林の林が続きます。



 






通りかかった上信電鉄の電車→
春は山桜(カスミザクラ)が咲きほこり、足元にはスミレなどの春の花々が顔をのぞかせる、里山の風景がひろがります。
ソメイヨシノの花が終わる頃、その桜吹雪と芽吹きの若々しい緑の中に、ソメイヨシノより少し遅めに咲く山桜の花がいっぱい、とても気持ちのいい風景がひろがります。















春にはおすすめの場所です。(桜の頃少しぼけた写真ですが、雰囲気を感じていただけましたら。)
  「ちょうど桜が満開」という時に行けるとは限らないことが、残念。
この場所、夏は暑苦しく汗でベタベタ、さらにヤブ蚊の襲来と、訪れるには、まったくおすすめできません。暑い中、ここで働いてこられた方々に、頭が下がります。
  落ち葉が足元でカサカサ音を立てる頃になると、また行ってみたい場所です。
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 高崎の観音山から続くこの丘陵には砂礫や泥っぽい地層がひろがります。

 泥っぽい地層                                    礫岩の地層
たしかに、雨風に削られたら、どんどん流されていきそうな地層に見えます。
それでも、人の感覚ではとても古い時代に思える900万年ほど昔の浅い海、河口に堆積したものです。この程度の古さでは、地層はそれほど固くはなれなのでしょう。
時々、植物が積もってできた亜炭がみつかり、掘って利用していたこともありました。


地層の時代関係は下の表で。
群馬県立自然史博物館で発表しているものです。
       「かぶらの里の露頭ガイド」 群馬県立自然史博物館・かぶら理科研究会 より










この表は、
下仁田から富岡、高崎と続く丘陵に分布している地層を現しています。

化石がたくさんみつかってきた地層でもあります















下仁田地域には、小幡(おばた)層・井戸沢層がみられ、この丘陵の連なりの地層の中では古い時代であることがわかります。虻田(あぶた)や鏑川にかかる只川(ただがわ)橋付近にみられ、1550万年前、1650万年前といった時代になります。有孔虫や貝、サメの歯などがみつかっています。

東に向かって、だんだん新しい時代の地層が分布し、いちばん東になる観音山や山名丘陵には浅い海や河口につもった板鼻層、いちばん新しい時代のものが見られます。だんだん海が浅くなり、陸になっていったことがわかります。
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天井川ができるには、人の活動が関わっていた・・・
 
この付近は古くから人の活動が盛んでした。古墳もたくさんあり、古い碑もあります。
燃料や建築材料が必要になるはずで、木をたくさん切ったこともあるでしょう。山肌がむき出しになると、大雨のたび、土砂も流れ出したことでしょう。高くなった川底・・堤防をもっと高く・・・・
自然のままなら、川底が高くなれば、川は流れを変えるのでしょうが、人が住んでいるところでは、土地を失いたくない人は、川のまわりを囲っていった・・・
   そこで、天井川がうまれた・・・天井川は人が作った人工地形ですね
 


この地域には上野三碑(こうづけさんぴ)という、7世紀~8世紀に作られた古い碑文が3カ所見られます。全国で見ても、めったにあるものではない話です。
←こんな看板も見かけました。
山名にあるのが「山の上の碑」、金井沢にあるのが「金井沢碑」、少し離れて多胡碑。
いちばん有名なのが多胡碑で、国の特別史跡、日本三古碑とされているというものです。
古くから人が住んで、きっと文化も発展していたのでしょう。


山の上の碑から金井沢碑にかけては雑木林の中を自然歩道がつくられています。途中には山城のあとがあったり、人の歴史も色濃い道です。良く整備された道には、万葉集のなかから群馬にちなんだ歌が選ばれ、石に刻まれ、いくつも置かれてあります。安山岩質の自然石は風景に良くなじんでいます。

はるか昔、中学時代に学んだことのある歌があって、何だかうれしくなりました。

ささの葉は 
  み山もさやに さやけども
我は妹(いも)おも
  わかれきぬれば

防人(さきもり)の歌で、妻との別れを嘆く歌です。
「さ」の言葉の繰り返しが美しい・・でも、昔はササをザザと発音していたという話もある・・ザザだったら、この歌も台無しだよな、などという話が、おもしろく思い起こされます。


7世紀、8世紀といった昔、この東国から九州まで、どうやって行ったのでしょうか・・・・・客死というより、行き帰りで、のたれ死んだ人も多かったのでは・・。歌が美しいだけに、いっそう、国家権力の残酷さを感じたものです。

左も万葉集の歌が刻んであります。
石碑には、美しい書で刻み(私には文字が読み取れなかったりしますが)、わきに 誰でも読める文字と歌の解説文が添えられています。



  山の上の碑です。上信電鉄西山名駅から1.1km


歴史を巡って散策するのがお好きな方も多いかと思います。この三碑は楽に行けそうと思えますが、一つ注意。
「山の上の碑」に行くには、階段を登らねばなりません。180段。写真の階段です。最近はステンレスの手すりがつけられています。
 ところでこの階段、碑のために作ったものではありません。観音札所巡りのためのものだったようです。
江戸中期、人々が旅をおぼえ、西国33カ所巡りまでは無理としても、地域で札所を作って巡ったりしたようです。北甘楽郡、多胡郡、緑野郡にもそんな札所が作られ、ここも札所に選ばれたようです。階段の上には古墳があり、そこにお堂が建てられていたようですが、古墳はあるものの、お堂は片鱗も見られず、札所の話も忘れ去られているとのことです。今は古墳に隣接する碑が、注目されているわけです。
 
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 天井川について調べてみました。

 普通の川より危険性が高い川とのことで、NHKがアンケート調査を行っています。全国に少なくとも240あるとの報告がありました。
場所は京都や滋賀など、関西に集中とのこと。やはり、古くから発展していた地域ということになります。
出雲の斐伊川・・これも、古く発展した地域で、地質はザラザラと崩れやすいカコウ岩で、砂鉄による製鉄、たたらが行われていたわけで、大量の砂礫が川に流れたはずです。
どこも、洪水に悩んだ地域だったことでしょう。
洪水の頻発で荒れ狂う川がヤマタノオロチの伝説をうみ(そういえば、支流が集まり本流となる川は、ヤマタノオロチそのものです)、たたら製法により作られた鉄が、オロチの尾から出てきた草薙の剣の伝説をうんだとか。

人の歴史をたくさん語りそうな天井川の話でした。
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 前回、白鷺について書き、白鷺の一つ、アマサギを見かけなかったことを書きました。
以前は飛来していたが「アマサギは2008年以来、記録がない」のだとか。野鳥の会で長年にわたる記録をまとめた報告書に載っていました。 2008年から・・・まるで気づかずにいました。
その他の鳥でも、みられなくなったもの、増えたものと、変化があるのですね。
どうして?     わからないことがたくさんありそうです。
 
 










2014年10月6日月曜日

カワノリ  夏の終わりの草花

 
御嶽山の噴火では、犠牲になられた方のご冥福をお祈りいたします。

「木曽のおんたけさん」の名で親しまれている山なのに・・・
噴火規模としてはごく小さな噴火ではあっても、その噴火口の近に多くの方々がいらした・・紅葉シーズンの休日の晴れた日の、皆が頂上付近に集まっていた昼食時間帯の噴火・・・・噴火時間が半日ずれていたら・・雨の日だったら・・紅葉シーズンが終わっていた頃なら・・・自然の力には、あらがうことはできないのだけれど・・・

 下仁田の「金剛萱こんごうかや」という山にある火山灰の厚く積もった場所で、御嶽からやってきた火山灰がみつかります。ただし、最近のものではなく、9万6千年ほど前の噴火の火山灰です。地面の下に埋もれていますから、崖になった場所で、赤土の中にみつかります。下仁田にまで地層に残る規模で火山灰がつもったのですから、ずいぶん大きな噴火だったのでしょう。
9万6千年前に噴火を見た人がいて記録を残したわけではなし。残せるわけはないけれど・・・・記録を残せるほど人類の文化は進歩していなかったでしょうし、それより何より、この頃日本列島に人は住んでいなかったでしょうから。住んでいた証拠はみつかっていませんし。
 最近まで、人が残した噴火記録がない火山は、死火山とか休火山とかよばれていました(少し年配の方なら、この言葉を学校で勉強したと思います。教科書に載っていました)。御嶽もその分類に入っていたのですが、1979年、突然噴火。このニュース、かすかに頭の中に残っています。
これをきっかけに、死火山、休火山という言葉は使わないことになったという、人の認識を変えた山だったわけです。


下仁田に海苔(のり)が育つ?・・・・カワノリ

浅草のり・青のり・、のり巻き・海苔せんべい・海苔ふりかけ・・・・海苔のつく言葉はたくさんありそう。日本人には欠かせない食べ物。おにぎりで、今日も食べた方もいらっしゃるかも。
でも、この海苔のもとが何なのか、わからない子どももたくさんいるかな。

 「海の苔(コケ)」と書くわけで、海でとれる、岩などにくっついているコケのようなものを集めたものです。もちろん、今は「養殖」していて、浅い海に張られた網のようなものに育てています。有明海が有名産地ですが、諫早湾干拓事業で湾奥を締めきって以来、海苔の色が悪くなったり、ひどい不作が起こったりしていることが思い浮かんできます・・・・利害関係も絡み、裁判闘争もあり、周辺の人々は、もう長くこの問題で苦しめられている・・・

ところで、ノリは生物学的に言えばコケ類ではなくて藻類。ワカメやコンブも藻類で、他にもいろいろなものが含まれているグループです。
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下仁田でも海苔がつくられていました。「アオクラノリ」の名で、第三回内国勧業博覧会(明治23年1890年)に出品されていたということですから。どこかでノリがとれたわけです。青倉ノリを出品したのは下仁田町青倉の「福田ます」さん。褒賞に輝いたそうです。
 下仁田にはもちろん海はありません。このノリ、川に育ちます。藻類で、名前はカワノリ。
 
下仁田自然学校の名誉顧問・里見哲夫さんが自然学校連絡誌の「くりっぺ」にのせた解説をもとに、カワノリの紹介をしてみます。

 まず、本物の写真をごらん下さい。
ちょっとだけ採らせていただきました。これ、小さものものでした。

育つ場所は河川の上流部です。
 下の写真をごらん下さい。

いつも水で洗われる急流の岩
 多く見られます。
・水量は年間を通じて変化が少な
 い場所。
・水温は低く、樹木によって適当に日がさえぎられる日照条件
・魚類では、ヤマメ・イワナ・カジカ
の生息域になります。

渓流魚の釣りをなさる方なら、情景が思い浮かぶかもしれません。周辺の環境が良く保存された地域であることはまちがいありません。
このカワノリ、河川の上流部ならどこにでも育つわけではありません。どこなら育つのか、その条件はなかなかわからないようです。

2006年、青倉小学校(廃校となり、現在は下仁田自然史館)の子どもたちが、カワノリについて調べました。子どもたちも、カワノリを地域の宝と感じてくれたのではないでしょうか。
 



○見られる地域
栃木県が北限、鹿児島県が南限。
中央構造線に沿って、太平洋に注ぐ河川の上流部と言われてきましたが、例外的に、千曲川や鳥取県、新潟県でもみつかったとのこと。
群馬県内では利根川・片品川では見られませんが、他の水系には報告があるようです。青倉の他では桐生川が有名で、桐生ノリの名が残っています。

○現在分布の見られる県をあげてみます。

栃木・群馬・埼玉・東京・神奈川・長野・静岡・岐阜・奈良・滋賀・三重・徳島・高知・大分・熊本・宮崎・鹿児島   古くは各地でノリとして乾燥し、名産品として扱われたようです。

こんなにあちこちにたくさんあるし、食用にもしたものなのに、実は、今、カワノリは、
国のレッドデータブックで絶滅危惧Ⅱ類に指定されています(訂正:現在,レッドデータからは はずれたようです)。意外なことに、県単位でのレッドデータに指定している所は少なく、群馬でも指定されていません。私は、普通、国の指定の方が厳しい印象を持っているのですが・・・。

知らぬ間に数を減らし、気づいたときは絶滅といったことも起こりかねません。
大切にしていきたいものの一つです。
人は、食べる話になると、すぐにとってきてしまいがち。食べることは絶対に慎んで、みんなで守っていきたいものです。
冷たく美しい水の流れる渓流に育つ地域の宝、ジオパークの宝として、保全していくことを願ってやみません。

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道端や山裾に咲く草花

ドングリ
落ちたドングリを拾おうとしたら、とがった頭の方から、しっかりと地面深く根が伸びていました。掘り取って、ちょっと写真を。
ドングリは落ちてすぐ根を伸ばすのですね。知らなかった・・・でも、そういえば、秋に山道を歩くと、なにやら芽の出たようなドングリを目にしますね。来春になると葉っぱが出てきます。
春になったら拾い集めたドングリをまいておこう、と思って蒔いても、一度乾いてしまったドングリは、もう発芽しません。
動物達の大切な食べ物にもなるドングリ・・・
   秋だなあ。



春の野の花は、可憐でみんなに愛されます。有名な花もたくさんあります。
でも、今ごろの花・・夏が終わり、秋に向かう頃、・・・    はて、何が咲いていたっけ・・・・
道端にはつる草がからみつき、トゲトゲした葉や茎、実もたくさんあり、葉っぱは虫に食われて穴だらけ、あれこれ虫もいそう・・・まだ暑い日もあり、ヤブ蚊も飛んできそう・・・

というわけで、あまり振り向いてもらえない道端です。はえているものも、「雑草」という感じがしてくるし・・・でも、よく見ると花も咲いています。
林の端や道端に咲いていた花をあげてみましょう。

   キツリフネ            ツリフネソウ  種にふれるとパチンとはじけて楽しい

        キバナアキギリ                        カラマツソウ   

     ミゾソバ  少し湿った所のどこにでも    ヤマハッカ ハッカの匂いはしないけど

セキヤノアキチョウジ  上品な感じ                ノハラアザミかな?

ダイコンソウ 普通もっと早い時期               シラネセンキュウ セリ科は多種あるので、
                                                                                                    違っていたら、ごめんなさい


   イヌタデ   ままごとのアカマンマはこの花          ハナタデ  かな?                      

ガンクビソウ                         オオヤマハコベ                       





                           オクモミジハグマ  



オケラ  虫だけでなく、植物にもこんな名前があります



















 

ミズヒキの花は、ちょっと大写しにしてみました。
虫眼鏡、ルーペで見ると、「ヘエー、こんなんだ」、と思うことも多くて、別の世界がひろがります。
めしべの先っぽがちらりと見えています。長い枝のような部分につく花は、上と下で、ちょっと違って見えます。咲く時期が違うようです。
最近のカメラは、簡単に拡大画像が撮れて、目で見るよりよく見えてきて、便利だなあとおもいます。



茎にとげのあるアキノウナギツカミなども繁り、秋の山裾にも、花はみられます。
ときには目を留めてみませんか。




      
   





2014年9月28日日曜日

石の利用 お彼岸にちなんで

  お彼岸

ヒガンバナはそろそろ終わりに近くなりました。キンモクセイの香がどこからともなく漂ってきます。
 秋、彼岸が思い起こされてきます。
  お彼岸にはお墓参りに行かれたでしょうか。


< 石 が語ること >

お墓に行くと新しい墓石はピカピカに磨かれ、石の組織や含まれる鉱物がよく見え、「岩石の学習をするのに役立ちそう」といつも思ってしまいます。

 一方、昨今は放置されたお墓が増え、その処分がニュースの話題に取り上げられたりしています。先祖代々の墓を守り継ぐといった話が、どこか時代にそぐわなくなってきている・・・・子どもたちがはるか離れた場所で生活をしているのは普通だし、名字を継ぐ子どもがいない例も普通だし・・・世界では夫婦別姓の国も多いわけで、そこでのお墓事情はどうなのかな。
 「田舎」と思っていた我が家の近所のお墓にも、「○○家」ではない文字の刻まれたものがいくつも見られて、少々驚いているところです。
(お墓の持ち主の方・・無断で写真のせて、すみません
他にも、絆・心・など、いろいろありました)

  最近は立派な石を使った立派な墓がたくさん見られます。子どもが怖がるお墓の雰囲気はほとんどなくて、肝試しに使う気分にもなれないかも。(もっとも、今はお墓で肝試しなんてやらないでしょうが)。
つくりは立派になったけれど、お墓はあまり心に留められなくなってきているのかも・・墓守で子どもに迷惑かけたくない、散骨がいい、樹木葬がいいという声も聞こえてくるこの頃です。たしかに、若い世代にとっては、「先祖代々の・・・」というのは窮屈で古色蒼然とした面倒くさいだけのものに映ったりもするかも。

 とはいえ、お墓という形にはこだわらなくても、前の時代を生きた人たちへの敬意・感謝の気持ちは忘れてはいけないしそのためにはお墓参りなどの何らかの形は意味があるかも。家族皆が集まる機会にもなりますし。手を合わせたり読経の響きを聞いたり、時代を超えて長く続いてきたことには、それなりの意味があったからでしょう。

 

ずいぶん昔、中学生の頃ですが、古墳の発掘見学をしていたときのこと。古墳の石室の天井部分に使われていた石について、発掘していた人が説明していた姿が記憶の奥にあります。遠くから運ばれた石で、こんな大きいものを・・・といった内容だったかな、と思っているのですが、ちょっとあやふや。そんなことを今でも覚えているのは、その少し後の記憶と重なるからでしょうか。高校の修学旅行で奈良の石舞台古墳を見ていたとき、その大きな石について、たまたま近くにいた地学の先生から「これ、かこう岩でできているんだよ」との話を聞き、無味乾燥だった「かこう岩」が、急に生き生きと浮かび上がった経験です。

はるか昔から、腐ることなく長く残る石はお墓や碑に使われてきました。権力、財力があれば、価値の高そうな石やら、大きくて扱うのが大変そうな石などが使われてきたような・・・・美しい鉱物・宝石類も同様です。
 石や鉱物は、今でも実際の産業・鉱工業などで重要な役割を果たしてきているわけですが、それは直接目に触れないためよくわからず、墓石やら飾り物のほうが、目にとまる、美しいので関心を引くことになるということでしょうか。


玉村町で、お墓や碑に刻まれた言葉を丹念に調べた方がいます。戦争で亡くなった方々の墓、その他、戦争に関わる文の刻まれたものなどを調べました。もちろん、町の資料としての記録はありますが、新たにわかることも出てきます。戦死者数も少し多くみつかったということです。
明治から昭和まで、玉村は地方の小さな町ですが、明治からの戦没者589~606名(正確にはわからない)、特に第2次大戦では581名の死者の名前を墓碑で確認しました。正確に言えば、玉村以外に葬られた方もいるかもしれませんので、正確な数字はわかりません。きちんとお墓をつくってもらえなかった人だっているかもしれませんし。なお、当時の玉村の人口は右のグラフでごらん下さい。人口15,000人もいない程度の町でした。

 澤地久枝さんが「蒼海よ眠れ ミッドウェー海戦の生と死」を書いた動機・・それは、死者数約○○名」という言葉だったといった話を聞いたことがあります。「約・・・」一人一人が生きていた生身の人間、喜んだり悲しんだりして生きていたはず、それを「約何人」で片付けることへの怒り・・アメリカにも渡り一人一人を訪ね歩き、全員の氏名を調べあげた・・


 ほんの数回ですが、玉村町戦没者の調査に同行させていただいたことがあります。
氏名、年齢、亡くなった場所。
調べた結果は、

 死亡年齢は21~25歳が48%、徴兵検査による現役兵と見てよいだろうとのこと。
 26~30歳が27%で、これは召集兵または技術保持者。
 こうしてみると30歳以下の戦没者がほぼ80%となっています。

亡くなった場所の名前を読んでいると、ため息が出てきます。どこかで聞いたような地名・・・ニューギニア、レイテ、ルソン、ボルネオ、硫黄島、パラオ、ラバウル・・・・満州等の中国大陸のものもあります。
群馬からの部隊・高崎15連隊はビルマ作戦からさらにインパール作戦に投入され、「白骨街道」「靖国街道」とよばれた戦地での犠牲者ともなりました。私の父の同級生はほぼ半数が戦死したと聞いていますが、いったいどこでどのような最後を迎えたのでしょうか。澤地久枝さんのようにはできなくても、せめて、記録に残しておくことは、後の者の責務とも思えてきます。
 地名に「ペリリュー島」という名前がありました。聞いたことのない地名でした・・つい最近、NHKの番組で、ペリリュー島の戦闘が放送されました。当時のフィルムがみつかったようです。互いに相手のせん滅をめざし、せい惨としか言いようのない、目をそむけたくなるような戦いを繰り広げていた様子が明らかにされていました・・・軍事作戦的にはもはやほとんど意味がなくなっていても、狂気のようにとにかく戦い続けていた・・・満州にいた高崎15連隊は、1944年2月、南方へ移動、パラオへ。その一部がペリリュー島へ派遣されています。ここではほぼ全滅しています。
お墓など見る気もしないものですが、こうしてみると、石に刻まれた文字は、記録の一つとなってきます。
玉村の人で「731部隊にいた」と、ある時知人にぽろっと言った人がいたそうです。そのとき「経験をみんなに話してくれないか」と言ったら、「とんでもない」と口をつぐみ、以後決してそのことは口にしなかったそうです。この方たちは、皆、今は鬼籍に入っています。記録というのは、なかなか残らないものなのです。(731部隊・・生きた中国人を実験材料に使った・・もちろん生体実験にされた人は、皆亡くなっています・・・・ほとんどの人が、戦争の記憶は口に出さぬまま自身の経験をそのまま墓まで持って行っいったのでしょう・・)    

墓石は誰でも見ることのできる記録。ただ、私の世代になると、あのわかりにくい難しい漢字の世界には、敷居が高くなります。

玉村には、墓地の一角に戦没者のお墓をまとめた場所が見られます。町内に13カ所見られます。写真は西光寺のもので、白いかこう岩で同じ形の墓石で、戦後1953年につくられています。ですから第2次大戦の戦死者の墓です。戦前には軍が管理した墓碑群があり、明治の頃からこういった型があるようす。その形を受け継いでいたのではないかということです。家族の墓へ移した人や、家族の墓にも二重にたてた方もいたりと、調べると、家族の思いが伝わってきそうです。西光寺の10基のうち、今年のお彼岸に花の手向けられていたのが6基ありました。この墓石は文字の彫りが浅く、簡単に削った程で、今ではひっかき傷のごとくで、努力しないとはっきり読み取れないほどになっているものもありました。写真のものはよく文字が見えていて、ラバウルの文字が読み取れます。



下の墓は個人で建てたものですが、墓石の右と左に兄弟と思われる名前が刻んであります。


人間、目の前から見えなくなったものは、すぐに忘れてしまう生き物のようです。特に、都合の悪いことや自分の利益にならないことは。忘れてはいけないもの、感謝を持つべきものには、少しの努力くらいは注いでいく必要があるとおもいます。
 
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すっかり玉村のお墓の話になってしまいました。
普通、よそのお宅のお墓など見て回りませんし、ましてや、下仁田のお墓など、まるっきり見たこともありません。
 地質見学で下仁田を歩いていたある時、みんながおもしろがるお墓がありました。
 「きっと、とんでもない”のんべえ”だったに違いない」とみんなで笑いました。おちょこをかぶっていたのか、とっくりの形だったのか、どんなだったのか今思い出せないのですが・・・場所はどこだったかなあ・・
 この人、家族に相当迷惑かけたのではないかな・・でも、こうして楽しいお墓を作ってもらえたのだから、いい家族に恵まれていていたんだろうなあ。幸せな人だったのだろうなあ・・・・みんなが、こうして幸せにお墓に入れるような世の中でありたいです。

丈夫で長く残る「石」は、ちょっとした庶民の歴史も知らせてくれるようです。
今回は、自然の歴史でなくて、人の歴史を語ってくれる石の話でした。









長文の書き添えられているものもありました。武勇をたたえる雰囲気のものから、その方を心からしのぶものまで・・・。そんな書き添えがあると、1度ならず2度とか、招集を受けて戦地へ赴いているのもわかったりします。
 

2014年9月14日日曜日

秋の訪れ 草花遊び

ゆきあいの空

 この言葉、ご存知だったでしょうか。はじめてこの言葉を聞いたとき、「なんとやさしく美しい言葉だろう」と思いました。夏と秋の行き交う空、夏から秋へ、次の季節に移り変わろうとする頃の空をこうよぶのだそうです。空も澄んできています。雲を無心の心で眺めていること、最近あったかなあ・・
  というわけで、季節の便りをいくつか。

  
 シュウカイドウの花が咲いています。
昔からあちこちの家の庭の隅などに咲いていた花。
さまざまな園芸品種が栽培される中にあっても、いまでも負けない美しさだと思っています。




学校へ通う道が舗装してないあぜ道の時代、夏休みの終わる頃、その道はすっかり草で覆われてしまいました。その草をきれいに刈りとってもらって、2学期がはじまりました。
 そんな道を歩くと、まわりにチカラシバがたくさんはえていました。素足に触れるとむずがゆく、ちょっといやでした。紫がかった大きな穂はまさに瓶を洗うブラシのよう。踏まれても平気、それどころか、固い土のところにはえ、引き抜こうったって引き抜けない。「力いっぱい」引いたってぬけないから「力芝」。人の踏むような道にはえるので、別名ミチシバ。写真がちょっと貧相でしたが・・
 このいかにも生命力のありそうな草が、繊細に見えるときがありました。細かな水滴が大きな穂をおおい、輝くとき。いくつもいくつも群れてはえるチカラシバに水滴がきらきら輝く姿は本当に美しく、稲に張られて水滴に輝くクモの巣とともに心に浮かびます。こんな場所を、素足をひんやりぬらしながら歩きました。
 あの水滴は雨のしずくだったのだろうかと思って、ふと気づきました。雨のこともあったでしょうが、でも、朝露だったのでは、と。
 季節の変化を、秋の日の朝の冷え込みを、その秋の訪れを、チカラシバがやさしく教えてくれていたのかもしれません。(近所で写真を撮ろうかと思ったら、チカラシバ、あまりみつからないのですよね。最近、いかに身の回りの自然を見ていなかったか・・)

  白露(はくろ)という言葉があります。今年は9月8日。秋の気配が露を結びはじめる時という意味でしょうか。夏から秋への交代の目印。 最近の日本の気象は、9月も亜熱帯のような日々だったりしますが、今年に限って言えば、まさに、秋の訪れです。

    「白露(しらつゆ)に 風の吹きしく 秋の野は
          つらぬき留めぬ たまぞ散りける」    小倉百人一首

露は秋のものと、古来、人々は感じてきたのでしょう。(白露の美しい写真がほしいところでした・・・)
 
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長くなりましたが、秋と言えば、月を無視するわけにはいかないでしょう。今年の「中秋の月」はやけに早く、もう過ぎてしまいましたが。
また思い出を。

 人は華やかな満月だけを愛でたわけではありません。
満月の日、月は太陽が西の空に沈むころ、東の空から登ってきます。満月が過ぎてから、月の出の時刻はだんだん遅くなります。昔の人は、それをいかにもふさわしい言葉で表していました。
ある国語の先生、それを黒板にこんなふうに書きました。

 ・ 望月、十五夜  (ほぼ満月)      
 ・ 十六夜      (いざよい月、満月の次の日の月)
 ・ 立ち待ちの月  (満月から2日目の月)
 ・ 居待ちの月   
 ・ 寝待ちの月 臥し待ちの月
 ・ 寝言の月
 ・ いびきの月
 ・ おねしょの月
 ・ おもらしの月

黒板の文字をせっせと写していた(と思うけど・・)中学生の生徒たち、このあたりで「ン?!」
「うそだア~」と大笑い。
どこまでが本当だと思いますか?表現が何となく上品なところまでです。
答えは "臥し待ちの月”。満月から4日目の月です。
これよりあとの月は、まとめて"有明の月ありあけのつき”。夜半に月の出を待つには遅く、むしろ明け方の空にかかる月を見ることになる・・・だんだん月の出が遅くなっていく様子が、本当に見事に美しく現されています。月の出を、立って待つ、座って待つ、横になって待つ・・・電気という夜の照明のない時代、人々はこうして夜とつきあっていたわけです。(現代人は宵っ張りなので、”有明の月”の時期の月も夜に眺めていそうですが)。

満月から後、東の空に姿を見せる時刻が遅くなるだけでなく、月はだんだんやせてゆきます。やがて月は、夜を越して、朝、太陽といっしょにのぼり、夕方、太陽といっしょに、西の空に沈みます。つまり、見えないということになります。新月です。
それから3日ほど後、夕方、西の空には細い月が見えます。この月は昼間、太陽を追いかけるようにのぼってきたものの、明るい太陽の光でみえなかったもので、お日様が沈んで、やっと見えるようになりました。そして日没のすぐ後、太陽を追いかけるように西の空に沈みます。どうぞ美しい三日月を眺めてください。
細かった月もだんだん太ってきて、やがて新月から15日(月齢では14)、再び満月。満月は新月から指折り数えて、だいたい15日目。なーんだ、十五夜ってそういう意味だったのか、というところです。満月の前の月も、十三夜といって、愛でていますね。

  ところで、月はふしぎな力を持つと、昔から人々は考えてきました。
 
 生物たちの産卵が満月と関係のある例はたくさんあります。満月と関わる大潮の日、
 海を波立たせて魚たちやカニたちの大群が1カ所に集まり、産卵をしたりするのです。
  古来、人は月の光を味わい、優れた文学や名曲を生み出しました。
  空を見上げたら、そんな人たちの爪のアカ程度でもあやかりたいものです。
 
地球と月は兄弟ではないかといわれます。火星くらいの大きな天体が高速で地球に衝突し、飛び散ったかけらから月ができたとか・・さまざまな説がありますが、こんな説が今、有力なようです。
大地を見る、地球を見る「ジオパーク」にかかわる私たち、時には空の月にも夢をはせ、大地の生い立ちを思い描くのもいいなあ・・・
 
 
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月の話なので、ススキの話も。
十五夜には、ススキを飾りましたか?  子供の頃から、ススキは「そこら」に行って調達、つまり、近所の川原でとってきたわけです。ずっと後になって、それがススキでなく、オギだと知りました。

オギとススキの違い

株立ちになっているか、いないか
といったところでしょうか。

フサフサと銀白色の穂を揺らすのはオギ。少し赤みや黄色みを帯びたのがススキ。
はえる場所も少し違います。オギは少し湿り気のある所、ススキは乾いたところ。水ぎわをヨシがおおい、オギが銀の穂を見せているかもしれません。

萩原さんはハギの花をご存知でしょうが、荻原さん、オギがどれだかご存知だったでしょうか。



                                        

最近は園芸用の斑入りススキをいけることが多くなって、川原に取りに行かなくなりました。今年あらためていって見たら、ヨシの穂はあるけれど、オギが見当たらない・・・
オオブタクサが背高く生いしげるのが目立っていました。右写真です。花粉を飛ばし花粉症の原因のにっくき草、外国からやってきた外来種ですが、大きな顔をしてはえています。  
                             



     草花遊び

夏から秋へ  草と遊んだ記憶を どうぞ。。。。。。。。。

サツマイモの 茎を互い違いに折って、ネックレスを。札幌で、小学校の男の先生が、とても喜んでいたのを思い出します。北国札幌ではサツマイモは育てませんが、教育用にビニールハウスの中で育てていました。



ヒガンバナで同じことをやる遊びが本に載っていました。見栄えもきれい。でも、ヒガンバナは毒草というイメージがあって、遊んだことはありませんでした。

そのほかいくつかの遊びを。

そこらに咲いていたオシロイバナです。


こちらもパラシュートです。

これは遊んだことある人、多いのではないかな。            
夏の花、朝顔は、まだ咲き残っています。
朝顔は、プチッと音を立てます。

 

ススキミミズク、じょうすにつくる人って、いますよね。

夏の風景の書き残し

 アマサギの写真を撮ったら、白いサギ・白鷺の区別をのせようかと思っていました。田んぼにいくらでも飛んできていた、と思っていました。たしかに、以前は・・・。でも、今年あらためてみようと思ったら、姿が見えない・・・このあたりには来なくなったのか、それとも、夏鳥なので減少しているのか(最近、夏に日本に渡ってくる鳥の数が減っていると聞いたことがあって、こんな連想が浮かびました)・・・常日頃、周りを見ていないのに、また気付いたところです。
 というわけで、シラサギの出番がありませんでした。白いサギはいつでもいますから、これからの参考に紹介を。チュウサギというのもいますが、よくわかりません・・・これも夏鳥として飛来しますから、これからの時期見られるのは、コサギとダイサギでしょうか。灰色っぽいサギもいて、こちらはアオサギ。水田の水がなくなりますから、これからは川辺で姿を見かけるかと思います。






地球も星ですから、空の星のことも思い浮かべながら大地を見ていくと、また格別の味わいがあるかも。 今回は”季節の便り”になりました。