2014年9月28日日曜日

石の利用 お彼岸にちなんで

  お彼岸

ヒガンバナはそろそろ終わりに近くなりました。キンモクセイの香がどこからともなく漂ってきます。
 秋、彼岸が思い起こされてきます。
  お彼岸にはお墓参りに行かれたでしょうか。


< 石 が語ること >

お墓に行くと新しい墓石はピカピカに磨かれ、石の組織や含まれる鉱物がよく見え、「岩石の学習をするのに役立ちそう」といつも思ってしまいます。

 一方、昨今は放置されたお墓が増え、その処分がニュースの話題に取り上げられたりしています。先祖代々の墓を守り継ぐといった話が、どこか時代にそぐわなくなってきている・・・・子どもたちがはるか離れた場所で生活をしているのは普通だし、名字を継ぐ子どもがいない例も普通だし・・・世界では夫婦別姓の国も多いわけで、そこでのお墓事情はどうなのかな。
 「田舎」と思っていた我が家の近所のお墓にも、「○○家」ではない文字の刻まれたものがいくつも見られて、少々驚いているところです。
(お墓の持ち主の方・・無断で写真のせて、すみません
他にも、絆・心・など、いろいろありました)

  最近は立派な石を使った立派な墓がたくさん見られます。子どもが怖がるお墓の雰囲気はほとんどなくて、肝試しに使う気分にもなれないかも。(もっとも、今はお墓で肝試しなんてやらないでしょうが)。
つくりは立派になったけれど、お墓はあまり心に留められなくなってきているのかも・・墓守で子どもに迷惑かけたくない、散骨がいい、樹木葬がいいという声も聞こえてくるこの頃です。たしかに、若い世代にとっては、「先祖代々の・・・」というのは窮屈で古色蒼然とした面倒くさいだけのものに映ったりもするかも。

 とはいえ、お墓という形にはこだわらなくても、前の時代を生きた人たちへの敬意・感謝の気持ちは忘れてはいけないしそのためにはお墓参りなどの何らかの形は意味があるかも。家族皆が集まる機会にもなりますし。手を合わせたり読経の響きを聞いたり、時代を超えて長く続いてきたことには、それなりの意味があったからでしょう。

 

ずいぶん昔、中学生の頃ですが、古墳の発掘見学をしていたときのこと。古墳の石室の天井部分に使われていた石について、発掘していた人が説明していた姿が記憶の奥にあります。遠くから運ばれた石で、こんな大きいものを・・・といった内容だったかな、と思っているのですが、ちょっとあやふや。そんなことを今でも覚えているのは、その少し後の記憶と重なるからでしょうか。高校の修学旅行で奈良の石舞台古墳を見ていたとき、その大きな石について、たまたま近くにいた地学の先生から「これ、かこう岩でできているんだよ」との話を聞き、無味乾燥だった「かこう岩」が、急に生き生きと浮かび上がった経験です。

はるか昔から、腐ることなく長く残る石はお墓や碑に使われてきました。権力、財力があれば、価値の高そうな石やら、大きくて扱うのが大変そうな石などが使われてきたような・・・・美しい鉱物・宝石類も同様です。
 石や鉱物は、今でも実際の産業・鉱工業などで重要な役割を果たしてきているわけですが、それは直接目に触れないためよくわからず、墓石やら飾り物のほうが、目にとまる、美しいので関心を引くことになるということでしょうか。


玉村町で、お墓や碑に刻まれた言葉を丹念に調べた方がいます。戦争で亡くなった方々の墓、その他、戦争に関わる文の刻まれたものなどを調べました。もちろん、町の資料としての記録はありますが、新たにわかることも出てきます。戦死者数も少し多くみつかったということです。
明治から昭和まで、玉村は地方の小さな町ですが、明治からの戦没者589~606名(正確にはわからない)、特に第2次大戦では581名の死者の名前を墓碑で確認しました。正確に言えば、玉村以外に葬られた方もいるかもしれませんので、正確な数字はわかりません。きちんとお墓をつくってもらえなかった人だっているかもしれませんし。なお、当時の玉村の人口は右のグラフでごらん下さい。人口15,000人もいない程度の町でした。

 澤地久枝さんが「蒼海よ眠れ ミッドウェー海戦の生と死」を書いた動機・・それは、死者数約○○名」という言葉だったといった話を聞いたことがあります。「約・・・」一人一人が生きていた生身の人間、喜んだり悲しんだりして生きていたはず、それを「約何人」で片付けることへの怒り・・アメリカにも渡り一人一人を訪ね歩き、全員の氏名を調べあげた・・


 ほんの数回ですが、玉村町戦没者の調査に同行させていただいたことがあります。
氏名、年齢、亡くなった場所。
調べた結果は、

 死亡年齢は21~25歳が48%、徴兵検査による現役兵と見てよいだろうとのこと。
 26~30歳が27%で、これは召集兵または技術保持者。
 こうしてみると30歳以下の戦没者がほぼ80%となっています。

亡くなった場所の名前を読んでいると、ため息が出てきます。どこかで聞いたような地名・・・ニューギニア、レイテ、ルソン、ボルネオ、硫黄島、パラオ、ラバウル・・・・満州等の中国大陸のものもあります。
群馬からの部隊・高崎15連隊はビルマ作戦からさらにインパール作戦に投入され、「白骨街道」「靖国街道」とよばれた戦地での犠牲者ともなりました。私の父の同級生はほぼ半数が戦死したと聞いていますが、いったいどこでどのような最後を迎えたのでしょうか。澤地久枝さんのようにはできなくても、せめて、記録に残しておくことは、後の者の責務とも思えてきます。
 地名に「ペリリュー島」という名前がありました。聞いたことのない地名でした・・つい最近、NHKの番組で、ペリリュー島の戦闘が放送されました。当時のフィルムがみつかったようです。互いに相手のせん滅をめざし、せい惨としか言いようのない、目をそむけたくなるような戦いを繰り広げていた様子が明らかにされていました・・・軍事作戦的にはもはやほとんど意味がなくなっていても、狂気のようにとにかく戦い続けていた・・・満州にいた高崎15連隊は、1944年2月、南方へ移動、パラオへ。その一部がペリリュー島へ派遣されています。ここではほぼ全滅しています。
お墓など見る気もしないものですが、こうしてみると、石に刻まれた文字は、記録の一つとなってきます。
玉村の人で「731部隊にいた」と、ある時知人にぽろっと言った人がいたそうです。そのとき「経験をみんなに話してくれないか」と言ったら、「とんでもない」と口をつぐみ、以後決してそのことは口にしなかったそうです。この方たちは、皆、今は鬼籍に入っています。記録というのは、なかなか残らないものなのです。(731部隊・・生きた中国人を実験材料に使った・・もちろん生体実験にされた人は、皆亡くなっています・・・・ほとんどの人が、戦争の記憶は口に出さぬまま自身の経験をそのまま墓まで持って行っいったのでしょう・・)    

墓石は誰でも見ることのできる記録。ただ、私の世代になると、あのわかりにくい難しい漢字の世界には、敷居が高くなります。

玉村には、墓地の一角に戦没者のお墓をまとめた場所が見られます。町内に13カ所見られます。写真は西光寺のもので、白いかこう岩で同じ形の墓石で、戦後1953年につくられています。ですから第2次大戦の戦死者の墓です。戦前には軍が管理した墓碑群があり、明治の頃からこういった型があるようす。その形を受け継いでいたのではないかということです。家族の墓へ移した人や、家族の墓にも二重にたてた方もいたりと、調べると、家族の思いが伝わってきそうです。西光寺の10基のうち、今年のお彼岸に花の手向けられていたのが6基ありました。この墓石は文字の彫りが浅く、簡単に削った程で、今ではひっかき傷のごとくで、努力しないとはっきり読み取れないほどになっているものもありました。写真のものはよく文字が見えていて、ラバウルの文字が読み取れます。



下の墓は個人で建てたものですが、墓石の右と左に兄弟と思われる名前が刻んであります。


人間、目の前から見えなくなったものは、すぐに忘れてしまう生き物のようです。特に、都合の悪いことや自分の利益にならないことは。忘れてはいけないもの、感謝を持つべきものには、少しの努力くらいは注いでいく必要があるとおもいます。
 
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すっかり玉村のお墓の話になってしまいました。
普通、よそのお宅のお墓など見て回りませんし、ましてや、下仁田のお墓など、まるっきり見たこともありません。
 地質見学で下仁田を歩いていたある時、みんながおもしろがるお墓がありました。
 「きっと、とんでもない”のんべえ”だったに違いない」とみんなで笑いました。おちょこをかぶっていたのか、とっくりの形だったのか、どんなだったのか今思い出せないのですが・・・場所はどこだったかなあ・・
 この人、家族に相当迷惑かけたのではないかな・・でも、こうして楽しいお墓を作ってもらえたのだから、いい家族に恵まれていていたんだろうなあ。幸せな人だったのだろうなあ・・・・みんなが、こうして幸せにお墓に入れるような世の中でありたいです。

丈夫で長く残る「石」は、ちょっとした庶民の歴史も知らせてくれるようです。
今回は、自然の歴史でなくて、人の歴史を語ってくれる石の話でした。









長文の書き添えられているものもありました。武勇をたたえる雰囲気のものから、その方を心からしのぶものまで・・・。そんな書き添えがあると、1度ならず2度とか、招集を受けて戦地へ赴いているのもわかったりします。
 

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