2013年9月24日火曜日

河岸段丘

本文に入る前に、ひとこと

 下仁田にも田んぼがある,田んぼだったところがある,という話をうかがいました。
日本人は何とかして田んぼを,米を作ろうとしてきたのだなあ・・・
 玉村町は田んぼが広がり、その中に、ちょっとした盛り上がり程度の小さな古墳が点々と見られる場所でした。私が中学生の頃,大規模な耕地整理がおこなわれ、古墳は多少大きめの2つを残し,すべて消滅しました。発掘調査がおこなわれ、学校内での授業はやめにして、見学に行きました。そんな古墳から、三角縁神獣鏡が見つかり、出土したばかりの鏡を見せてもらいました。
 今の田んぼは休耕田があちこちに広がります。農家の方が言っていました。「耕地整理には分担金があって、相当額払ったのですよ。それがなければずいぶん楽なのに,と思ったものですよ」。
考古に関係している方は「古墳が残っていたら、それを巡る古墳の里公園なんてつくれたかも」
 あちこちから怨嗟の声が聞こえてきそうです。

では、今回は,教科書にも必ず出てくる 河岸段丘 についてです。


地形⑤

鏑川に沿って平らな場所が続いています。昔から人が利用し、家もたくさん見られます。この地形は河岸段丘とよばれ、川がつくった地形です。
鏑川周辺の段丘地形を長年調べてこられた高橋武夫さん(下仁田自然学校運営顧問)に、段丘について解説を書いていただきました。ちょっと写真を足して,お読みいただきたいと思います。

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   鏑川がつくった河岸段丘               高橋武夫

 
西牧川と南牧川が合流した鏑川が白山をすぎると、川の両岸は広がり、南の高台にも平坦な地形が展開してきます。ここは鏑川河岸段丘の最上部です。ここから、下流へ20数kmほどの地区に連続して、上二段の河岸段丘が見られます。
 
河岸段丘は川の両岸に発達するのが普通ですが、鏑川では川の南側の地域にその多くが広がり、さらに上位段丘は、全て南の地域にあります。めずらしい段丘地形で、このような段丘を非対称段丘とよびます。

        鏑川下流部の段丘    群馬の大地 より    
             この図の原図は高橋武夫さんです 
   


段丘面の地面の下にあるもの

河岸段丘地形は川が流れてできた川原の跡です。だから段丘面の下には必ず川原の砂礫が残っています(段丘面の下に隠されている砂礫層。厚さが2~3mほどある)。その石を調べるとそこを流れていた川がどこから流れてきたのかが分かります。石の種類は安山岩・チャート・結晶片岩がほとんどです。これは今の鏑川の礫の様子とそっくりです。

段丘面の上を,昔の鏑川が流れていたのはいつ頃?

上位段丘面では赤土が表土になっていますが、下位段丘面には赤土がありません。赤土はおよそ15,000年ほど前に噴火した浅間山の火山灰ですが、下位段丘面に赤土がないということは、下位段丘が浅間山の噴火の後にできたことを教えてくれます。
 


上の写真は下仁田の下位段丘
なんということもない,平らで家が建っている、普通の町の光景です。国道254号線が通っている、家がたくさんある場所です。

下は上位段丘。
斜面を登っていくと、平らな土地に着きます。この高台の平らな土地に、ネギとコンニャクの畑が広がっています。馬山(まやま)丘陵とよばれています。
遠方に家並みが広がっています。標高は低く、これが下位段丘ということになります。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
下仁田付近の段丘の区分図を高橋さんに描いていただきました。

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 ・上位段丘面は火山灰(やがて赤土になる)の降り積もるより前、15,000年より前にはできていたことがわかります。

・下位段丘には赤土がありません。昔の鏑川が火山灰を流してしまったからです。下位段丘は15,000年より後にできたことがわかります。

どうして川の南側にばかり段丘が発達するの?
  

鏑川は東に向けて流れ下っていますが、同時に、川全体が北に移動していて、
北側の川岸は少しずつ削られているから。これは今でも進行中のようです。

「関東山地の北側に、上下二段の河岸段丘をつくりながら北へ移動してきた鏑川は,現在もゆっくりとその流れを北へ移しているようです」(”ぐんまの大地”より  高橋武夫)
   (この内容は”かぶら川の石図鑑”に詳しく書かれてあります)
どうして移動するのか・・それは鏑川の南の地域が常に上昇しているからと考えられます。南にある山々も少しずつ上昇しているのかもしれない,などと考えると、ワクワクしてきます。

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