2014年3月10日月曜日

大地の大きな構造 その3  下仁田構造帯

 中央構造線に接して  下仁田構造帯
             

鏑川に沿ったそれほど広くはない平坦地にひろがる下仁田町の中心街。その北の端、国道254号線わきにある町役場の北側からは、標高300m~400mの「低山」の地形がひろがります。

 人が生活を営む場所に接し,人が利用した山・「里山」。
   ・・・・・ おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に・・・・・・・・

 こんな昔話の語り口から感じられるのは、小さな川と低い山の接する場所は、本来、人の生活しやすい場所だったのでは、ということです。水も燃料も、身近に手に入りやすい場所ですから。
 ところで、家の北側にある山は、裏山とよばれることもあります。ただ、この言葉では、「里山」と違って、あまり顧みられない場所、あまり,価値のない場所という雰囲気も漂います。ですから,裏山は手入れもされず、ゴミも捨てられる・・・・

 町の北側にあるこの低い山の地域は、昔は利用価値があったかもしれませんが,今は顧みる人もない場所・・・そういえば下仁田町でも、ゴミ焼却場があり、火葬施設も建てられている。沢を見ると、不法投棄のゴミが見えたりする・・・           山は浅間山(せんげんやま)、中腹に白く見えるのが
                                      骨立山凝灰岩、山の手前の建物は病院,右手に役場、
               最前面は鏑川


まさに「裏山」になっていたわけです。かつては鏑川にある難所を避けて、下仁田の物資輸送に使われた街道が通った地域でもあったというのですが・・・
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下仁田町の「裏山」
 2002年、この場所、町の中心街から目と鼻の先に産廃処分場の建設の話が持ち上がり、大問題になりました。下仁田町の市街から1kmほどの場です。高速道路で首都圏のゴミが持ち込まれるのは確実で、町中で反対運動がおこりました。町の飲料水の汚染、ゴミを運ぶトラックの往来・・・ここはもともとはゴルフ場計画として1993年に業者が取得していた土地だったそうです。リゾート開発ブームで日本中が血眼になっていた頃です。その後,ゴルフ場計画は頓挫、転売され産廃計画に行き着いた・・・、結局は町が買い取ることで決着となりました。2007年のことです。もし、このとき、産廃処分場が建設されていたら、町の姿は変わり、ジオパーク設立にも多大な影響が及んでいたことでしょう。

 この反対運動の中で、下仁田自然学校では、地質・水質・植物分布の調査を行いました。後援会の方々だけでなく、他の町民の方々、小学生の参加も実現し、かなりの回数を実施。さらに、全国の後援会員の中には、産廃問題等に関わってこられた専門家、地質の専門家の方々もおられ、専門的立場からの助言、あるいは実際の現地調査への参加をいただくことができたのでした。(詳しくは、下仁田自然学校手作りパンフレット”下仁田町の「産廃問題」を考える本)。

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 町の「裏山」の「歴史」を長々と書いてきたのは、その時代の世の中の動きそのままを映したような出来事がふりかかった場所で、そこを町の人たちが乗り越えてきた場所だったということを紹介したかったからです。そして、地質的に見ると、,この場所、ちょっと変わって見える場所だということも,紹介したかったからです。
 この場所の岩石研究は1930年代からはじまり、1966年に「下仁田構造帯」と名付けられました。
1980~90年代からは多くの研究者の注目を集め、測定制精度が向上してきた岩石の放射年代測定も精力的におこなわれています。地域の人々がこの場所を忘れていたころ、地質研究では注目を集めていたというわけです。

 最近では、「構造帯という言い方はしない」という意見もあります。こういったことは専門家の方々に検討していただくことになりますが、いずれにしても、「まだまだ様々な意見が出てくるものなのだ」、というところがおもしろいです。
ここでは、今までに使われている、「下仁田構造帯」という言葉で,解説を書きます。

どんな場所?
  • 狭い範囲に多種類の岩石が分布   東西10㎞、南北3㎞ほどの地域に、でき方もできた時代もまるで違った,赤の他人のような岩石が、8種類も複雑に入り組んで分布
  • 中央構造線に接している 
上図の色の付いた部分が下仁田構造帯に当たります。図の真ん中下に下仁田駅があります。
ただし、黄色の富岡層群のうち、右の広い部分は,構造体の上をおおっているものです。





南蛇(井(なんじゃい)
下仁田構造帯に,いちばん広く分布します。この分布場所にかつて産廃処分場が計画されました。
古そうな顔つきで,何だかぐちゃぐちゃした泥の地層・・・

「古そう」ってなに?といわれそう。
     堅くしまって、けっこうつぶされたり割れたりしている感じ・・・かな・・
黒色泥岩が多く、砂岩もあります。砂岩は断層で切られ、引きちぎられて塊状に見えたりします。
      
圧力を受けたらしく、鏡肌のようにツルツルして光っていたり,波打ったような面がたくさん見られた
りします。はがれていきそうな感じです。






  ずいぶん破砕されていて、小さい断層もたくさんあります。砕けた後、再び硬く固まった感じです(下の写真2枚)。どうやら破砕作用は2回ありそうです。
    
    
古い時代の岩石は固まっていて,水がしみこまない、汚染水がしみこまないと思われやすいので
すが、この例から見ても、そうは単純にいえないでしょう。産廃処分場でいつも問題になる,汚染水
による水源の汚染・・・地層の顔つきを見ただけでも、すき間からのしみこみ・・そんなことも心配さ
れたのでした。
「古そう」と言ってもいつのものかわからなかった・・・・あるとき、顕微鏡で見るような小さな化石・
放散虫が見つかって、中生代ジュラ紀から白亜紀に海に堆積したものとわかりました。
   "古い層"で正解!でした。
































   

神農かのはら礫岩  
 割れ目がはいった「ずれ礫」が見られる地層。これも何か力を受けたのでしょう。
この礫も切れています

                                   
ずれ礫 縦方向にいくつか切れ目が入っていて
そこでずれています

ひび割れがたくさん入っています
いろいろな大きさの礫が混じっている礫岩です

神農原礫岩の崖・はねこし峡

礫は丸く、赤みがかった石英斑岩が多く、他には黒色の泥岩、凝灰岩などあります。
礫が赤っぽいのは,含まれる長石が赤みがかるから。石英斑岩は8500万年前にできたといいます。
   でも礫岩がいつ堆積したのかは不明。時代のわかる化石がでればいちばんいいのでしょうが、この礫岩から化石が見つかるというのは、ちょっと望み薄でしょうね・・・


立山(こつたてやま)凝灰岩    5500万~6000年前の火山灰の層、

    



赤津では川にごろごろと巨礫になってみえています。
ここでは赤っぽい色に見えます
          


                    


浅間山(せんげんやま)を見たときの白っぽい帯状の部分もこの石。ふるさとセンターの崖もこの岩石。
火山灰といっても、溶結した部分も見られ、溶結凝灰岩といえます。硬い岩石になっています。石英の
粒がたくさん入り、長石、黒雲母の粒も。
黒雲母は変質して緑泥石になっています。少しの場所に分布のみられる岩石です。


平滑(なめ))花崗岩 
 
下仁田から富岡に向かうと、道に沿うように低い山が続きます。神成山(かんなりやま)といって尾根
じは手近なハイキングコースになっています。周囲を見渡せる気持ちのよい道です。
この山、ほぼすべて平滑花崗岩でできているのです
ちょうど写真の前面、手前の農地から、100mの断崖絶壁の平滑花崗岩の崖が急にそそりたっていま
す。この崖をつくったのは鏑川。昔の鏑川がここを流れていて、平滑花こう岩の山を削ってできたの
だそうです。川の力、恐るべし。
  
神成山   山はまだまだ右手に続きます


平滑花こう岩は西牧川方面(色を塗った上の図の左部分)に、もっとも広く分布します。ここの南蛇
層に平滑花こう岩が貫入したことで中小坂鉄山ができたと考えられています。南蛇井層の分
地域を歩くと、時々、平滑花こう岩がちょこっと顔を出しているのに出会います。


6500万年前のかこう岩ですが、、一般の花崗岩とは趣が異なります見た目は花こう岩にみえないのです。黒雲母は見られないし、ただの白っぽい石の塊という感じで、チャートかな?と思ってしまいそうだったり・・・風化で少し赤みがかった色になっているところが多く見られます。
   
顕微鏡写真でも見てみましょう。
左が中小坂の平滑花こう岩、右が神成山付近の花こう岩。
    典型的な花こう岩がどう見えるかって?・・下の小さめの写真で見てください。
                    (渡良瀬川上流にある沢入(そうり)花こう岩です。黒い横線は1mm)

                           

    この3つの写真、まるっきり違って見えます・・・・
      どれにも○○花こう岩という名が付いているといわれると、
     「えーっ??・・・・」ですよね。これだから専門家の言うことは
     わからない。  
   普通の花こう岩は,左写真のようなものです。上の二つが特殊なのです。
    つまり、下仁田の花こう岩は変わっている!!

   どうやら下仁田の平滑花こう岩は,高い圧力を受けて変形、再結晶もしているようなのです。左上の中小坂のものは、ほとんどが                   ひどく細かい石英の粒になっています。神成山のものは、少し
                      花崗岩の構造が残っているようです。
岩石薄片作成・写真撮影 中島啓治さん   
    

大きな断層では,まわりの岩石に影響がでてきます。
  ● 粉々に砕けてさらに固まる・・・・こうしてできた岩石をカタクレーサイトとよんでいます
  ● もっと深い所で温度が高めだと,壊れることなく塑性変形。再結晶作用も・・・マイロナイト(圧砕岩)とよんでいます 
  聞き慣れない名前です。断層に関係しているということですから、”断層岩”とよびたくなりますあまり一般的でないけれど、大地の歴史を語ってくれる変わった石たちと言えそうです。
 
下仁田には中央構造線が通っています。 これに接したり近くにある岩石には、きっと影響は出るで
しょう。 平滑花こう岩はそんな岩石?顕微鏡の下で見た顔つきは、まさにそんな姿ではと、研究者
がいうわけです。1966年の論文でもマイロナイトと書かれてあります(論文には下仁田自然学校運
委員の細矢さんや高橋さんたちも参加されています)。2002年の論文でもこうかかれています。
「平滑花崗岩は、細粒化の進んだマイロナイトや破砕が著しいカタクレーサイトの組織が記載され
る」(小林・新井)。
   それにしても、この石を「花崗岩」と分類した方、どんな方かと思ってしまいます。

というわけで、ここも研究者が訪れる、下仁田の大地の不思議の一つになっています。

千平(せんだいら)花崗閃緑岩  6500万年前のもの 千平付近にみられます
 馬山まやま)花崗斑岩   5500万年前のもの  小岩体

     あちこちで年代測定がされていて、研究者たちが熱心に取り組んだ様子がうかがえます。    

 富岡層群    
   1500万年ほど前の海の地層。化石も産出。千平駅下の鏑川べりなどにみられます。
    下は只川橋からの光景。

只側橋付近で、子供たちと化石採集をしていたら、サメの歯が出てきました。
   富岡からさらに東へ、丘陵をつくっている富岡層群ではサメの化石なども多く見つかるとききます。その片鱗が下仁田でも見られるわけです。


 下仁田層    
2000万年前の海の地層。




千代橋付近では貝化石がたくさん見られます。白く丸っこく見えているのが貝の化石。2枚の殻がくっついているなら、貝がここで生活していた証拠になります。死んで流されて積もったものなら、貝殻がバラバラになってしまうはずですから。ここではくっついていそうですね。ここでは砂質の地層です。全体としては泥岩が多いそうです。
化石については,後ほどもう少し詳しく紹介の予定。

こんな様々な岩石が、隣りあって分布している場所、これはやっぱり、大断層があるためなのでしょうか。不思議な石がたくさんある場所です。
どこにでもありそうな裏山ですが、不思議はつきません。産廃関連の調査の時には絶滅危惧種に指定されている植物や群馬植物誌で「まれ」とされている植物が9種類見つかっています。きちんと見つめると、さまざまなことが見えてくるものです。


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今回は,やたらと石の説明になってしまって長くなりましたので,これで終わりにします。

先日、下仁田町で,下仁田自然学校に参加している研究グループの発表会がありました。11グループがあり、それぞれ、こんなことをやっています,と紹介。町民の皆さんにも呼びかけての発表会でした。調べてみたいテーマのつきない場所なのですね。
こんな調査には誰でも参加できます。
大学などの研究者も一般の人も、だれでも自然の不思議にふれるのは楽しいこと。
  一緒に自然学校に参加してみませんか。

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