2016年6月17日金曜日

湧水をうみだす・・大間々扇状地


アサザの花が咲きました      
近所のお宅の庭の隅におかれた鉢の中で、黄色い花が咲いていました。一昨年のことでした。アサザ?少しいただいてきました。
メダカの入れ物に入れたのですが、忘れているとアオミドロが絡みついて、かわいそうなほど。それでも今年、花が咲きました。一日で閉じる黄色い花。

汚れて生き物も住めなくなりそうで、再生不可能とまでいわれた霞ヶ浦で、そこに残るアサザをシンボルとして、湖の再生に取り組んだ人たちがいました。1995年、アサザプロジェクトと名付けられ、そこでアサザ名前を知りました。プロジェクトは事業化し、今も活動しています。長く続けるのは大変なことと思います。
 アサザは環境省の準絶滅危惧種(以前は絶滅危惧Ⅱ類でした。ランクが下がりました。
 よかったね)、なお群馬県では絶滅危惧Ⅰ類です。42の都府県で指定していますから、
  ほぼどこでも希少な植物となっているわけです。


株をいただいたお宅では、住んでいる方が体調を崩され、小さな入れ物は水が干上がっていました。いただいたものを枯らさぬようにせねば。

梅雨というのに、今年はカラカラの日が続き、すでに30℃を超える日もあるありさま。先日やっと雨が降りましたが。でも、今日、私の住む玉村町は34℃なんですよね~        まだ6月なのに
少し涼しそうな話にしましょう。湧き水の話です。山の湧き水ではなく、だだっ広い畑の広がる場所の湧き水です。

大間々扇状地

学校で、きっと”扇状地”というのを勉強したことがあると思います。
扇のような形をした地形・・・山から平野や盆地に川が流れだしたとき、土砂が扇形に堆積した地形。

扇状地の大きいのが群馬県にあるの、ご存知ですか?大間々扇状地といいます。

この扇形は大きいし、肉眼で土地を見てもわからないのですけど、地図上で等高線をたどると扇形が現れます。
左図です。
扇のかなめが大間々です(オレンジ色)。
黒く塗りつぶしているところは古い地層の分布しているところです。渡良瀬川と利根川も黒ですね。
数字が標高で、そこに走る線が等高線です。弧を描いていると思いませんか。

大間々から伊勢崎、太田の方まで・・・大きいなあ。


それと湧き水のどこが関係あるの?と聞かれそう

実はこの大間々扇状地、図の標高60m付近を水色に塗りましたが、この付近に湧き水がたくさんあるのです。
どうして?

まず扇状地についてちょっと説明。
 扇状地に積もるのは、山から川で運ばれたものですから、石ころや砂利が多いのは想像がつきます。こんなものが積もったら、すき間だらけでよく水を通しそう・・・確かに水はどんどん地下にしみこんでいってしまう。
この扇状地のスタートは大間々です。昔、「娘を大間々には嫁にやるな」と言われたとか、大間々で聞いたことがあります。なぜかって?
ここには厚く砂利層が堆積しているのでしょうね。水は砂利層の下層に流れ、水をくむための井戸は深く掘らねばならない・・・かつて水くみは女の仕事、大変な仕事を背負わせることになるかもしれない・・・・

同じような図が続いて恐縮ですが、右の図の標高60m付近の
地名をごらん下さい。

平井・東新井・金井・市野井・
小金井・寺井

共通点は何でしょう。
 みんな」がついている
ここには昔、井戸があった・・水があった・・湧き水があった
状地の緩やかな傾斜に沿って地下を流れていた水が、この付近でわき出しているのです。扇状地の末端(扇端)で再び姿を見せているのです。何と、地名だけからでもその場所がわかるというわけです。
ここでは深い井戸なんて必要なかった。泉が湧いているのだから。
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最初の図で、左部分にも井の付く地名がいくつかあります。青色で書きました。
田部井・向井・今井・武井    
ここにも湧き水があったりしたと思います。田部井にはあまが池という湧き水の池があります。段丘も関係しているかなあ。
明治時代の土地利用図では、この付近には水田が描かれてありました。やっぱり、水に恵まれた場所だったのでしょう。
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地形図で大間々扇状地周辺の地名を探してみたことがあります。
国土地理院の1/2.5万の地形図でこの範囲をカバーしようとすると、5枚も必要になりました。地図は「大間々・桐生・大胡・伊勢崎・上野境・」・・・やってられない・・そこで
1/5万地形図を利用すると、4枚つなぎ合わせで、その中ほどに収まってくれました。印刷すれば、紙1枚におさまります。
 地図は「桐生及足利・前橋・高崎・宇都宮」
南北約16km、幅約13kmの扇状地です。


さらにいえば、このすぐ南からは「田」のつく地名が見られます。わき出した水で、田んぼをつくることができたのでしょう。これも5万分の1の地形図で拾ってみました。

上田中・下田中・上江田・中江田・下江田・村田・上田・上田島・
世良田という地名は、かつて栄えた世良田一族の名前でしょうから、
語源はどうなるのかな?

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ついでなので、さらに南、利根川近くになると、今度は島のつく地名が広がります。
利根川が乱流して、周辺は島になっりしたこともあったのだろうなあ・・・・
  ここには世界遺産のある島村もあります。

尾島・前島・武蔵島・備前島・小島・上小島・下小島・
少し西の地域でも、  中島・西島・島村・飯島・八斗島(やったじま)

 他にも、長沼上蓮(かみはす)、下蓮といった地名も見られます。  
 なんだか、湿地帯が想像されます。

それぞれマーカーペンで色分けすると、扇状地の高いところからから低い所へ(北から南)、帯状にきれいに色分けされました。へえー・・と、感心してしまいました。

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 お勉強的になってきたので、実際の湧き水を見ましょう。

まずは国指定の史跡となっている矢太神水源(やだいじんすいげん)

     小規模とはいえ、水が砂を巻き上げているのが見えます。
       湧出量は安定していて、ほんのわずかの湧き水に見えるのに、
     利用する側にとっては、じつに頼りになる泉だったそうです。
 
この奥から水が湧き出しています




水がぷくぷくとわき出しています

いつ行っても
砂が舞って見えています。
水にはニホンカワモズクという紅藻類が見られるそうです。


この水は石田川となって、やがて利根川にそそぎます。




付近では縄文時代の遺跡も多くみつかっています。ここには4000年前の遺跡があります。水のあるところを選んで、人々が住みついたのだなあ。
付近は公園となっています。ホタルも飛び交うらしく、その看板があります。
水は小川となって流れ出します。



公園の続きにはちょっとした沼があります。妙参寺沼。
湧水でつくられた低地に矢太神からの水を溜め、利用したようです。江戸時代の開削との推測されています。






湧水の下流には江戸時代につくられた
水の利用のための池があります



アオサギなどみられます



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北海道大学では正門をはいってすぐの所に、湧き水があります(ありました・・・地下水位が下がってしまい、今は人工的に水を流していると思う)。これも実は扇状地の末端からわき出る泉で、近くからは竪穴式住居跡や、鮭を捕獲するための柵も見つかっています。豊平川をさかのぼり、さらに小さな小川をさかのぼり、鮭たちがここまでやってきて産卵していたわけです。
 ここでも、水の湧くところには昔から人々の暮らしがありました。アイヌの人たちは、こんな泉をメムと呼びました。札幌の町にはかつてこんなメムがたくさんあったといいます。どうやら札幌は豊平川がつくった扇状地の末端にできた町といえそうです。
 帯広の近くの芽室(メムロ)はメム・オロ・ペツ(泉からくる川)に由来し、女満別はメム・アン・ペツ(泉のある川)に由来すると言います(北海道の自然史・小野有吾 他)
地名に自然の様子が反映されています。

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場所の確認をします。       (ぐんまの大地・上毛新聞社 より)
矢太神水源のあるこの付近には115ヶ所もの湧水池があったそうです。 2002年では25ヶ所。
今でも見られる場所を案内しましょう。
湧き水の見られる場所がたくさん見られるのは、新田暁高校(にったあかつきこうこう)の周辺です。ここは新田湧水群と名付けられています。ハイキングできる距離に、いくつもの池があります。
上に描いた扇状地の地図でいえば、金井の近くになります。

自然にできた湧水は先に紹介した矢太神湧水です。水を求めて人々が掘ったものもたくさんありますので、自然のままの湧水かどうかは、調べてみないとわかりません。

段蔵坊(だんぞうぼう)


 それぞれ紹介しましょう。
矢太神湧水は紹介しました。


①まずは段蔵坊湧水地だんぞうぼう)

コンクリート真四角で、味も素っ気もなく、アオミドロで水はどろんとしていましたが、以前見たときには、ところどころで水の湧く様子が見られました。

コイが泳いでいました。




②次は風吹湧水池(かざふきゆうすいち) かな?地図で見ると、これだと思います。人工的に掘られたものだそうです。

水神様が奉られてありました。

流れ出す水の水路をたどります



ポンプでくみ上げるのですが、
今はそのままで、藻類が浮いていました。



開けた畑の広がる中に
水のたまる池があります。
コンクリートの四角い池で、周囲は草の絡まったフェンスに囲まれています。
暑くなった時期、水はちょっとどろりとして見え、アオミドロの塊のようなものが浮いていました。












みのがいと
水神様がまつられている。奥に鳥居がもうひとつある

③みのがいと湧水池 (美濃谷戸)

 大切な水には、神様が奉られていました

水神様
マコモも育つ
池は3つの部分からできている


④重殿湧水池  新田荘(にったのしょう)遺跡 重殿水源(じゅうどのすいげん)


このあたりでは、やたらと新田荘という言葉が出てきます。そういえば、「田」のつく地名・新田(にった)が、標高60mの湧水ラインより高い場所にあります。新しく開発した田だから・・・とも思いますが、中世の武士・新田氏の活躍した場所でもあるので、そこからきているのでしょうか。
 新田氏はこの地域に荘園を開き、新田荘は中世東国の荘園として知られているそうです。国指定の史跡があります。歴史には疎いのでにわか勉強で書けば、荘園は12世紀中頃から開かれ、足利尊氏とともに名前が思い出される新田義貞は、その8代目だとか。
とにかく、荘園経営にとって、水は重要、湧水は重要なものだったわけです。
ちょっと干上がり気味
この重殿水源は、人工的に掘られたものだそうです。これを大切に守るのは水田を増やすためには大切なことだったでしょう。
1322年には、これをめぐって争いが起こったという記録があるそうですから、ずいぶん古い歴史を持つもので、この水源も国指定の史跡です。
工場の建ちならぶ中にある、古くから利用されてきた湧水地です。干上がりそうな状態でした。国指定史跡といわれて、びっくりするような少々みすぼらしく見える姿・・・
利根川の支流、大川の水源になっています。

左下写真のように片隅には祠も奉られ、ちょっとは歴史を感じさせます。
この水は水路に流れるはずですが、今は干上がっています。下の写真に見るように、水路に向けて階段がついています。昔、近所の人は、この水を利用して、洗いものなどしていたのかな。




湧水といっても、多くはただのたまり水に見えるかもしれません。
でも、この水を頼りに人々は生き、荒れ地を開発してきたのも見えてきます。
蛇口をひねれば欲しいだけ水が出るのが当たり前という感覚の現代人は、その水を得るためにあらゆることをしてきています。大規模な土木工事を行う能力を手に入れ、川をせき止め、流れを変え・・水を制する者は国を制するといわれたほどの重要事項だったわけで、その水を制する能力はすばらしく向上したと言えるのではありますが・・・けれど、そのために失うものはなかったか、少し考えて見ることも必要では。
ダム建設で故郷を失う人だっています。公共のため、といって、何でも許されるわけではないことも、心にとめねば。
こんな簡単に誰もが水が使えるようになったのは、つい最近です。私でさえ、手押しポンプを押して、お風呂に水を張った記憶があるのですから。
新藤兼人監督の「裸の島」、あそこでは乙羽信子、殿山泰司演じる夫婦が、井戸のない島から、毎日舟を漕いで水をくみに行くようす、段々畑に天秤棒を担いで水を作物にかけるという生活が描かれていました。
水なんて当たり前に手に入ると思っているみなさん、ぜひ、先人の苦労の歴史を学んで下さいね。
そして、今でも清潔な水を手に入れられない人たちが世界にたくさんいることも。これは、ユニセフのHPなど見れば、すぐに知ることができます。

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東新井付近にも、沼がいくつかあります。名前は多少間違っているかもしれませんが・・
農業に利用することもなくなったのでしょうか、管理されずに草の生い茂る場所になってきていました。
東新井池3号 釣り堀になっていました
東新井池 ヨシなどが生い茂っています
もう一つの池、管理されていないらしく、
すっかりヨシ原になっていました
天沼
もともとは段丘上の凹地などにある自然湧水の沼らしい。
地図で見ると、小さな川から水がはいるようで、鯉がいっぱい泳いでいました。公園になっています。

(地図で見ると、風吹湧水池から水路でつながっている三角がかった沼がこの天沼のようですが・・)
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ところで、湧水より標高の高い扇状地のこと、何もふれてきませんでした。 
伊勢崎から大間々に向かう道を通ったとき、バス停の名前を見て、びっくりしたことがありました。「野」というのがその名前なのです。扇状地の西端付近の、標高120m付近です。
地図で見ると、さらにその先、145m付近にも「」があります。
120m付近が「伊勢崎市野町(のちょう)」、近くに草倉という地名もあります。
145m付近は「桐生市新里町野」(にいさとまちの)。

 びっくり。きっと草原が広がっていたんだろうな・・・などと想像。
水は地面に潜ってしまい、水がない場所だもの。田んぼはもちろん無理、草しかはえなかった??
明治初め頃の土地利用図には、雑木林が広がり、畑が点在する感じで描かれていました。

扇状地のはじまりの大間々・・・ママというのは古語で「崖」のことと聞きました。
大間々とは、「大きな崖」という意味になるということか・・・。

大間々の役場の裏は崖になっていて、崖の上には大間々高校があります。
その段差はなんと15m!!
古い段丘と新しい段丘の境のこの崖は、きれいに花壇がつくられ、花で飾られていました。
今度は段丘の崖を調べてまわって見るのもいいかな

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  書き忘れてました。
最初にあげた地図で、大間々に近いところに岩宿と書かれてあるの、お気づきでしょうか。旧石器時代の遺跡、岩宿遺跡のあるところです。日本で最初に発見された旧石器遺跡。これも、必ず教科書に載っている場所です。大間々扇状地よりもっとずっと有名な場所かと思います。琴平山というちょっとした丘陵、扇状地より古い時代の地層が顔を出した場所付近にあります。
  3万年も前の岩宿の人が利用していた水は、どんなだったのかなあ、などと、ふと思いました・・・旧石器時代だから農耕はしていないだろうし、ちゃんとした定住もしていない・・・でも、はて、どんな生活をしていたんだっけ・・・・3万年、2万年前といった長きにわたる遺跡があるのだから、人が集まった場所ではあるのだろうし・・・
現在は、岩宿の博物館のわきに池があたと思うけど、これは昔からあった?
 はるか昔のご先祖様の生活に、だんだん興味がわいてきます。

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NHKの番組ブラタモリで、タモリさん、学生時代、沼田のあの美しい段丘地形を見たくて、わざわざ訪れたとか。さすが!!

大間々は合併してみどり市となったわけですが、私にはどうもピンと来ない名前です。
失礼な言い方になりますが、つまらない名前・・・考えた方々には申し訳ありませんが・・。
地名には意味がある、歴史がある・・・そんなこと、感じました。
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ついでなので、地質図も載せましょう。(大間々町町史誌から)
図中の数字は無視してください。

ピンク色がかった桐原面というのと、水色の藪塚面というのが、扇状地をつくるおもな地層です。この2つに注目。
桐原面は古くて約5万年ほど前までに運ばれた礫が堆積し、、薮塚面は新しくて約2万年ほど前まで礫が堆積し、扇状地となりました。この2つの面の境が崖になっていて、大間々の役場付近の高い段差をつくりました。
(境目がどうして崖になる?説明が必要になりそうですが・・・・省きます)
礫を運んだのは渡良瀬川で、今は東側を流れている川ですが、昔は西側を流れていて、やがて東側へと流れをかえていったのだそうです。渡良瀬川の労作、大間々扇状地、ですね。
 すっかり教科書の勉強みたいになりました。でも、池があるのにも理由が
 あるんですね。
よくわかります。






3 件のコメント:

  1. 扇状地といえば大間々‼︎!地理で最初に習いました。石田川で思いだすのは石田川式土器です。弥生時代の昔、優れた土器の技術を持った人達がこの地に住み着いたのは、やはり豊富な水。頭の中で考古と地理が結びつきました。本当にありがとうございます。長生きして良かった。
    -地歴好きおばさん-

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  2. 大間々扇状地の扇の元の方に「岩宿」の地名が見られます。言わずとしれた岩宿遺跡のある場所です。日本で最初に発見された旧石器時代の遺跡です。ちょっとふれようと思っていて、忘れていました。ちょっとだけ書き加えました。
     それにしても、長い歴史を感じさせる場所ですね。

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  3. こちらの重殿水源の記事に関してのリンクを張らせて頂きました。
    宜しいでしょうか。          青いカモメ

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