国天然記念物 飛石(とびいし) 実は浅間山から
浅間山から流れ着く
今年3月、新聞紙面を上のような言葉が飾りました。飛石だから、浅間から飛んできた? まさか。あんな大きなものが飛んでくるわけがない。場所は前橋市ですよ。高さ9.65m、周囲60mの石で、さらに地下に数mは埋まっているでしょう。火山灰ならいくらでも飛んでくるけど、これは無理でしょう。
流れ着く?飛石は前橋市の利根川のすぐ近くです。北上して渋川に達した利根川は、そこから枝分かれした支流の吾妻川の流れ部分が、浅間山近くに至ります。
でも、川の水があんな大きな石を運べる?
飛ぶのも川を流れるのもどちらも難しそうに思えます。
実はこれ、泥流が運びました。泥や火山から噴出した砕屑物に大量の水が混じって流れ下るとき、相当大きなものも軽々と運んでしまうのです。
1938年、国の天然記念物に指定。前橋は赤城山の裾野にありますから、赤城山からやってきた石だろうといわれていました。ですが最近は、浅間山ではと言われてもいました。
今回、石の化学分析をして、浅間山と確定しました。なんだ、分析もしてなかったのか・・・調べてなかったんだなあ・・
石は赤みがかって縞のような模様も見える石。火山から噴出したものです。
岩神稲荷神社の境内にあり、そういえばおいなりさんのキツネが奉納されていました。
日本では大きな木・大きな石・山そのものなど、しばしばご神体とされます。おかげで、人が手をつけず残された自然もずいぶんあります。この飛石も、ノミを当てたら、血が流れ出したという言い伝えがあるそうです。
現代では、大きな建造物がたくさんあって飛石も大きく見えず、あがめる気持ちもあまり起きなくなってきそうです。
位置関係の地図を下に載せます。(群馬県植物誌1987年より)
左の浅間山、赤でマークした前橋、そして私の住んでいる玉村町、位置と距離、おわかりになりますか。
実はこんな岩、あちこちで見つかるそうです。
中之条のとうけえ岩、阪東橋の赤岩、長野県佐久の赤岩、高崎市の聖岩、伊勢崎竜宮の赤岩 などなど
誰も目にもとめないけれど、私の家のすぐ近く、利根川にもそんな岩がいくつかあります。写真でごらん下さい。
渇水の時には川底が広く見え、岩盤のような平らな面に、
こんな岩がゴツゴツと飛び出して見えていました。
昔、男の子達は夏、この付近で泳ぎました。今見ると、昔あったのが小さくなった、なくなったなどと言っていました。
岩は水鳥の休憩場所になっていますね。
「川でこんなもの見つけてきた」
川底の硬い岩に埋まっていたという丸太をもってきてくれた人がいました。 見てすぐ思い出しました。
メジャーは1m |
子供の頃、利根川の川辺で遊んでいて、同じような丸太を見たことがあります。水に洗われるようにして、ゴツゴツした石混じりの硬い崖土の中に突き刺さったように横たわり、顔をのぞかせていました。
生っぽい木に見え、さっきまでそこらにはえていたかのようでした・・・…不思議でした・・・角張った石混じりでゴツゴツと硬い崖の中に、どうしてこんな木が入っているのか・・
持ってきていただいた木は太さ15cmほど、幹の中は黄色みがかった普通の木の色をしていました。手でボロボロ崩せる堅さでした。
もしかして、天明3年(1783年)の浅間の大噴火の時埋まったのじゃないかと思った人、いませんか。あの時は、浅間山から噴出した火砕流に、水やまわりの岩石が大量に混じって、玉村にも流れ下っています。玉村にある古い石垣には、その時流れ下った石でつくったものもあると聞いて、ヘエー、と思ったものです。
わが家の周囲の畑にも石がゴロゴロしています。
でも、あんなに硬くしまった川沿いの崖が、その時できたとはちょっと思えない・・
前橋泥流
この埋もれ木、時々見つかり、ちゃんと調べられています。はえていたのは24000年ほど前、ずいぶん古い木なのです。木の種類は針葉樹が多いとか。でもこの木、玉村にはえていたわけではなのです。はえていたのは、もしかしたら浅間山だったかもーーーこの木がはえていたちょうどその時、高くそびえていた浅間山が大噴火を起こしました(山は2800m~2900mあったろうと言われます)。爆発が派手で、なんと山の上半分を吹き飛ばしてしまいました。吹き飛ばされ崩れた山は、まわりの岩石・土砂・森林を巻き込み、さらに水を加え、ものすごい流れとなってまわり中を埋めたのです。泥流といいます。
発生からわずか数時間で80km以上流れ下ったと推定されています。
浅間山からまわりじゅうへ、小諸方面、長野原方面、さらに下って渋川・前橋・高崎・伊勢崎そして玉村も埋めつくしました。ちょっと信じられない量。
玉村付近のものは前橋泥流とよばれます。県庁裏の崖も同じ前橋泥流です。積もった厚さは玉村でも17m~20mもあります。
分布を簡単に書いてみましたが、正確なものではないこと、ご容赦を。
吹き飛んだ山の痕跡は今でも残っています。このときの浅間山は、今の端正な姿の浅間山ではなく、そのわきにある黒斑山(くろふさん)です。登った方はおわかりでしょうが、黒斑山は半円形にえぐられた不思議な形をしています。これこそ吹き飛んだ傷跡。今見える浅間山は、この事件のあとできた部分なのです。
それにしても,こんな噴火、おきて欲しくないなあ。
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玉村でみられた岩で一番大きいのは斉田地区の大岩かな。赤岩と呼んでいました。前橋泥流でながれてきたものです。やっぱり赤いのですね。
以前、斉田には雑木林が続いていたそうです。その林を踏み分けて行った先、利根川べりにこの岩はありました。何人かが上にのれる大きさで、利根川の流れが迫力を持って見られます。流れを見おろすと、水ではなく、自分が動いているように錯覚します。だから、「この岩は川をさかのぼるんだよ」なんていわれたりしたそうです。
昔、小学生がこの岩の上で国語の教科書をひろげ、おおきな声で読みました。普段、蚊の鳴くような声しか出せない子も、ここに来ると不思議と大きな声で朗読できたそうです。
岩の上で気持ちよく声を張り上げた人たち、きっとたくさんいたのでしょうね。
今では赤岩は笹藪に埋もれて、人が立ち寄る雰囲気の場所ではなくなっています。私には、どこだかもわかりません。
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私の家のまわりでは、畑に石ころがゴロゴロ出てきます。じゃまな石ころですが、これは浅間山天明の大噴火の落とし物。
畑や田んぼで「拾っても拾っても出てくるんだよなあ」・・もともと泥流が積もった場所だからね、石ころ、なくならないんだよ・・・
たいていゴツゴツしていて,軽石をぎゅっと押し詰めたような、小さなすき間のある石です。
柿の畑にほうりだされた 泥流で運ばれた石 |
前回紹介した八ッ場ダム建設地域にも、2種類の泥流がしっかりと積もり、天明泥流の中からは、豊富な遺跡が見つかっています。
というわけで、地表近くのふるいわけの悪い、火山礫混じりの部分、厚さ1mほどありますが、これは天明3年のものといえます。
畑にころがる石を取り去るため集めました |
敷地のまわりをぐるり取り囲んだ塀 石は天明泥流にふくまれていたもの |
大きめの石を集めて石垣も作られました
江戸時代の話です。
玉村 五料の石垣 |
天明噴火の
証人のような石垣ですね。
かつて母がこの石垣についてこう話してくれました。
「仕事がなくて皆が困ったとき、大だいじんが、
石垣を作らせた。ただ お金を施してはよくない。仕事をしてお金を稼がねばいけないと。その石垣がこれ。敷地の中に何があったかって?・・・何もなくても石垣を作ったんだよ」・・・・・ほんと?不肖の娘は、調べてみようともしていませんでした。
ここはかつて、江戸から日光への街道、例幣使街道に面した、そんな土地柄の所でした。
浅間山からの、2つの泥流,そこからつくられたわが町でした。
近所を散歩していると、こんな石が庭石になっているのを見かけます。浅間山の噴火の時、流れて来たものだったのですね。石ひとつ にも歴史があるのだと思いました。玉村の石垣の話も面白く感じました。機会があれば見て見たいです。
返信削除興味を持っていただけて、うれしく思います。
削除もし何かの折、連絡することがありましたら、下仁田町自然史館に連絡していただければと思います。和田晴美でことづけていただけましたら、玉村の石垣の案内程くらいなら簡単にできます。