2019年8月18日日曜日

伊勢崎空襲を語り継ぐ

戦争を戦争を語り継ぐ
 

猛暑の中、8月はテレビで戦争を伝える番組が放送されたり、新聞紙上に取り上げられたり、記録を語る催しが開かれたりもしています。何かご覧になられたでしょうか。

8月になると、思い出したりしたように取り上げる、と揶揄する人もいたりしますが、「忘れてはいけない・戦争はいけない」と、努力されている方々のことを忘れていると思います。
記憶の風化との戦い、とまで言われるのですから。何しろ、日本がアメリカと戦争していたことを知らない若者や、武力で領土を取りもどせなどという国会議員がいたりするのですから。

最後の本土空襲といわれるのが熊谷や伊勢崎などの空襲です。8月14日夜なのですから。一日早く終わっていたら、と語る人がいるのも無理のないわけです。
 伊勢崎の隣町・玉村町もこの日空襲を受け、死者も出ています。20名と聞いています。私の実家の隣家では玄関に焼夷弾が落ちたものの、不発弾で事なきを得たとのこと。
母はよく言っていたものです。「利根川・烏川沿いの町だから、もう戦争は終わる、と、川沿いに爆弾を捨てていったのだろう」。
 玉村での記録を丹念に記録を集めた人もいて、記録冊子を作り、またお墓を調べて、戦死者のリストを作成したりもしました。この方も、つい先日亡くなりました。
 黙っていたら、何もしなかったら、忘れ去られていくだけです。

伊勢崎で8月15日・16日に、戦争を伝える展示が行われていました。11回目。


伊勢崎の死者29名、1350発の焼夷弾が落とされ、火災が広がったといいます。
伊勢崎女子高(現在は男女共学になり、伊勢崎清明高校)の燃え上がる様子を絵に描いたものです。


↑ 大事な書類などの入った金庫を背負い、赤ちゃんを腕に抱いて逃げていた母親。金庫に焼夷弾にが当たり、背負っていた母親は死に、抱いていた赤ちゃんは生き延びました。
金庫はひしゃげているのがよくわかります。

こうした体験者の聞き取りを行い、その体験を紙芝居にして語ってくれます。
左写真は「星になった母」という聞き取りのお話です。
金庫を背負たお母さんのお話です。

この聞き取りをしたかたも、会場にいらしていました。


焼夷弾の実物


   



伊勢崎福祉プラザ1階の近くで、
気軽に立ち寄る雰囲気でした






こうした資料や写真を保存していた方がいて、こうしてそれを広めてくれる人たちがいるわけです。

B29が投下したビラ
















新聞にも体験や催しなどの紹介があります。
その中に伊勢崎にある素敵な形の塔の説明があり、
戦災で焼け焦げた跡がレンガに残っていると始めて知りました。立ち寄ってみました。伊勢崎駅にも近い場所です。
朝日新聞より

 素敵なデザインだな、といつも思っていました。用事のある場所が近くにあったので、何度も前の道を通ったものです。
 1915年に建てられ、レンガ造りに見えるけれど、実は群馬県最古の鉄筋コックリートづくり、レンガ張り。時報鐘楼塔。まだ時計もあまりない頃、皆に時刻を知らせていたのかもしれません。
レンガは確かに黒ずんでいます。これが戦火にさらされた傷跡。当然、上にある木造の部 分は消失。だいぶ後に再建され、取り壊しも言われていたものも、今は永久保存となっています。よかったな、と、つくづく思います。
 建物の後ろは小学校。
小学生たちに、この歴史を、末永く語り教えてほしいものです。

他にも2015年にできた「伊勢崎空襲を語り継ぐ会」主催の平和記念講演会の記事なども掲載されていました。「戦争の記憶、朽ちさせない」、と。市内の景観観光資源を調べてこられた方が、空襲が何らかのかかわりを持っているのを知り、立ち上げたといいます。

皆さんも、こうしたものに参加したり、調べてみたりしてみませんか。
暑い夏、さらに熱い火に焼かれた人々に思いを寄せて。









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