前回は、かつて、群馬に住んだ人たちのことにふれてみました。
今回はまず、石器の材料について紹介してみます。
<いちばん有名な黒曜石>
黒曜石はマグマが急に冷えてできた石です。石の中身は天然ガラス。ガラスが石になる?・・・
身のまわりにあるガラスはたいてい無色透明なのに、黒曜石は黒。薄くすればすけてみえるかもしれないけれど、これがどうしてガラス?と思う人だっていると思います。
マグマが冷えてできたガラスはもとがマグマなので、窓ガラスなどとは違って鉄分などをたくさん含み、それが冷えると無色透明ではなくて、着色ガラスになります。しっかり光を吸収して、黒く見えるというわけのようです。お酒の瓶で黒っぽいのは、何を混ぜているのかなあ?・・・とにかく、ガラスを多く含んだ石は黒っぽく見えます。
ガラスの切り口は鋭いし加工も簡単で、鋭利な刃のできる黒曜石は石器の材料として最高なのでしょう。北海道や長野県、箱根、九州などに大規模な黒曜石産地があります。
じつは、この石、どこにでもある石というわけではないのです。全国で「黒曜石産地」がどこにあるか、調べられているほどです。石に含まれる微量な成分の量の割合が産地ごとに違うのを利用して、産地をつきとめるのだそうです。
群馬県には長野県和田峠から黒曜石がたくさん持ち込まれています。伊勢崎市では和田峠産と栃木県高原山産の黒曜石が混じっているとか。西から来た人と東から来た人がここに一緒にいた、狩りをしていた・・・・言葉なんて、通じたのだろうか・・外国人と会うような気分だったりして・・・とにかく、交流があったのですね。
じつは、この石、どこにでもある石というわけではないのです。全国で「黒曜石産地」がどこにあるか、調べられているほどです。石に含まれる微量な成分の量の割合が産地ごとに違うのを利用して、産地をつきとめるのだそうです。
群馬県には長野県和田峠から黒曜石がたくさん持ち込まれています。伊勢崎市では和田峠産と栃木県高原山産の黒曜石が混じっているとか。西から来た人と東から来た人がここに一緒にいた、狩りをしていた・・・・言葉なんて、通じたのだろうか・・外国人と会うような気分だったりして・・・とにかく、交流があったのですね。
<黒色安山岩>
黒色安山岩??・・・岩石の勉強をしたことのある人は、「一体それ何?」と思ってしまいます。聞いたことのない岩石名なので。
安山岩は普通、灰色っぽい色をしています。黒ければ「玄武岩」と言いたいところです。ところがガラス質安山岩は黒く見えます。そこで、石器を調べる考古学の人たちは、「黒色安山岩」と名付けてよんでいるようです。
荒船山の山頂近くの石は「荒船溶岩」とよばれる、真っ黒緻密な石です。「玄武岩」と思ってしまいますが、成分を調べれば安山岩です(下仁田自然史館にも展示してあります)。これも黒色安山岩というわけです。右上の図にも、黒曜石と一緒に黒色安山岩の産地がのっていますね。黒曜石にはかないませんが、それでも割れば薄くはがれて、鋭利な刃ができます。
荒船山の「黒色安山岩」はそれほど石器むきではないらしく、八風山(はっぷうさん・上信越自動車道にこの名前のトンネルがありますね)のものが大量に使われているようです。
<そのほかの石材>
上の2つは高品質で特別な材料に思えます。きっと、大切に使っていたでしょう。
ふだん使っていた石器は、もっと身近な材料だったのでは。そんな材料をあげてみます。
(下仁田自然学校で実施している学習会「地学講座」での資料から)
<堆積岩の仲間> : 頁岩(けつがん、シェール) 砂岩 粘板岩 チャート
(つもって固まった石) 凝灰岩
<火成岩の仲間> : 流紋岩、蛇紋岩 花崗岩 (安山岩と黒曜石は書きました)
(マグマが冷えてできた石):
<変成岩の仲間> : ホルンフェルス 結晶片岩など
(岩石が熱や圧力で変化したもの):
< 鉱物 > : 水晶 ヒスイ メノウ
こうして書くと、「何でも使っている」感じです。硬くて加工しやすければ、何でも利用したのでしょう。普段使いの石器の材料は、地元産の材料だったでしょうから。
地質調査でよく歩いていらっしゃる方は、石器を見て、材料となった岩石がどこにあるか、推定できることもあるようです。下仁田自然学校の堀越さんは、長きにわたってこの地域を歩いていらして、石器にも関心をもたれ、「この石器の石は、あそこの石らしい」とか石器の材料になった石の産地の推定をされたりしていました。
高速道路工事の時、下仁田地域でみつかった石器の写真を少しのせます。
青岩のような青みがかった石や、白っぽい頁岩、安山岩など見られました。現地に行って採集したり、川原の石から集めたりしたことでしょう。
石器の詳しい説明はできませんが、小さな化石の入っていたのもありました。
なお、下仁田では、交易用の石オノもつくっていました。
これら石器類は 下仁田でも大量に保管されています。
地質調査でよく歩いていらっしゃる方は、石器を見て、材料となった岩石がどこにあるか、推定できることもあるようです。下仁田自然学校の堀越さんは、長きにわたってこの地域を歩いていらして、石器にも関心をもたれ、「この石器の石は、あそこの石らしい」とか石器の材料になった石の産地の推定をされたりしていました。
高速道路工事の時、下仁田地域でみつかった石器の写真を少しのせます。
青岩のような青みがかった石や、白っぽい頁岩、安山岩など見られました。現地に行って採集したり、川原の石から集めたりしたことでしょう。
石器の詳しい説明はできませんが、小さな化石の入っていたのもありました。
なお、下仁田では、交易用の石オノもつくっていました。
これら石器類は 下仁田でも大量に保管されています。
まだまだご先祖様の残した石器や土器が転がっている下仁田、そんなものにもちょっと目を向けてみるのも、意味があると思えます。
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20世紀後半からあと、大規模な開発がずいぶんありました。道路ができたり、工業団地が、住宅団地ができたり。そんな時にみつかった遺跡がたくさんあるわけです。
上信越高速道は、鏑川が刻んだ谷の河岸段丘上を通っています。そこでは旧石器時代からさらに後までの、さまざまな遺跡がみつかっています。その紹介の図の一部をのせます。よく見えないとは思いますが、雰囲気だけでも・・・緑の線が高速道路、赤い丸印が遺跡です。たくさんあります。
このあたりは、きっと、人にとっては住みやすい場所だったのでしょう。
利根川のような大きな川沿いの平らな土地は、洪水の危険も多く、現在なら「平らで水田がつくれて生産力が高い」と思えますが、はるか昔は「ヨシが茂り、びちゃびちゃとした場所、安定しない手のつけられない場所」だったのかも。利根川沿いの玉村町には、縄文・弥生といった古い時代の遺跡は、ほとんどありません。まだ人が住むには、不向きな場所だったのかもしれません。4世紀、古墳時代から後のものならたくさん見られます。技術・生産力が高まって水田開発ができるようになってから、人が住めるようになったのでは。
鏑川の周囲は、小さめの川と周囲のおだやかな丘陵があり、水を得るにも燃料の木を得るにも都合がよく、住みやすかったのではないのかな。
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地元学校に配られた学習資料かな、と思う表を載せてみます。
表はどうやら本郷塩川遺跡について語る資料のようです。
下の写真が本郷塩川遺跡、昨年の様子です。吉井町にあります。鏑川右岸での道路建設に伴う発掘でみつかった場所です。
石が円形に並べられていて、印象的!
川原石を並べていますね。鏑川から拾ってきたのでしょう。これがお墓か祭りの場なのか、まだわからないようです。床に敷石をびっしりとと敷いた住居もみつかっています。縄文時代のものとか。
奈良時代から平安時代の人々が日常に使っていた土器もたくさん出ているそうです。
ずいぶん長きにわたり、人々が生活していたんだなあ・・・・
それにしても、平等院鳳凰堂がつくられた頃、庶民はまだ竪穴住居に住んでいたのだ・・と表を見ていると気づきます・・・・・
この遺跡のあるのは、河岸段丘の上。
ここでは、堆積物は、下の硬めの岩石の上に薄くのっているだけでした。写真の白いのが富岡層群の岩石、その上の薄くのった土といった感じのものが段丘堆積物です。
場所がどこかわからないと思いますので、地図、それも、地質図をのせてみます。遺跡は鏑川に流れ込む大沢川右岸になります。白い地層は、富岡層群に挟まる凝灰岩かな?
下仁田はこの図にはのっていないのですが、図のすぐ左で、地層は続いています。
以上は、下仁田自然学校の金剛萱研究グループで見学会を行ったときの資料を参考にさせていただきました。
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稲穂が見える季節となりました。 でもまだ稲の花の咲いている田んぼもあります。9月9日のこと。
「みのるほど 頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」
先人の言葉を忘れずに振る舞えたらいいのだけれど・・・
当たり前に稲穂の美しい水田が見られると思うと、それは間違い。
田植えはしたけれど、手入れがあまりされていない水田は。左のようになります。ここはヒエがたくさんはえてしまっています。
今、稲作はほとんど収益の上がらない状態になっています。生活の基本の食料生産は、大切な仕事と思うのですが、これからどうなっていくのか・・
この場所は、1,000年以上、いえ、1,600年とかの長きにわたって稲がつくられてきた地域でしょう。そんな営みがこの先どうなっていくのか、気がかりでもあります。
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