2014年9月4日木曜日

古代の人々の足音・・3万年前から古墳の時代まで

古代人の足音・・・・・古代の人たちの息吹

 私のうまれ育った玉村町では、地面を掘ると必ず、昔の人の住んでいた痕跡が出てきます。
家をつくる、道路をつくる、○○の開発を・・・そんな時には、事前に必ず発掘があります。浅間山天明の噴火で埋まった畑の畝、もっと昔の平安時代の田んぼのあととか、時には戦国の頃の屋敷跡とか、埋もれた古墳とか・・・とにかく、あれこれ掘り出されます。
 

                                            
真夏の暑い中、真冬の寒い日、たくさんの人たちが発掘作業にはげむ風景は、馴染みの光景だったりしました。真夏の発掘作業現場近くを通るとき、いつも思っていました・・「私なら熱中症で倒れる・・」。
              
 発掘作業を周囲からのぞいて、「ちょっと見てもいいですかあ」などと図々しく聞くと、「どうぞ」などと言われて、お話を聞いたりしたことも、何度かあります。井戸があったり、1,500年以上前のあまり壊れていない壺が埋まっているのを見たりしたら、「どんな人が使っていたのかな」、などと親しみを感じ、「やあ、こんにちは」という気分になったものです。昔の人の毎日の生活が 見えるようで、過去の人と握手したい気分。                   
もしかして、私のはるか遠いご先祖様、いないかなあ・・・
時には一般公開の説明会が開かれたりもします。ここ数年でも、我が家から歩いて行けるような距離で2回ほど実施されていました。                        2011年の近所での発掘風景

 玉村町では道路・住宅造成などで、たくさんの発掘があったわけです
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 下仁田でも大規模な遺跡がみつかっています。高速道路建設では、多くの発掘が行われました。
馬山地区ではこのときみつかった下鎌田遺跡はじめいくつもの遺跡もあるようです。旧石器時代のものでは17,000年~15,000年前の黒曜石製のナイフ型石器と、チャート製の槍先型尖頭器が出土しています。黒曜石の産出場所は下仁田にはなく、産地の信州とのつながりも考察されてきます。
 下鎌田では、縄文時代の竪穴住居跡も221軒みつかっています。ずいぶん大規模です。磨製石斧をつくっていた場所らしく、その制作跡が多数見られたそうです。斧の製造工房というわけでしょうか。このように集中して制作していた例は少なく、注目されるものとのこと。周囲と交易していたのでしょうね。さらに弥生時代の遺跡もあり、そのあとの時代に出現した古墳も、いくつか見られます。馬山丘陵は遺跡街道などとよばれ、畑に縄文土器のかけらやら、もっと新しい時代の茶碗のかけらのようなものやらが、普通に転がっていたりするのです。

下仁田のずっと東の玉村町では多数の古墳がありましたが、そこから西に、西から東に流れている鏑川沿いにも大規模なものも含め、多数の古墳があります。そして鏑の谷の一番奥の下仁田まで古墳の建設が見られたことがわかります。これより西は山の地域で、古墳は見られなくなります。(以上、下仁田自然学校の連絡誌くりっぺにのせられた、麻生敏隆さんの資料を参考)
ところで、じつは、下仁田ではもっと古い時代の石器もみつかっています。
3万年ほど前のものです。                         金剛萱でみつかった石器

3万年・・・・玉村町では1,600年前ころの古墳とか、江戸時代1,783年の浅間天明の噴火で埋まったものとかが地面の下から出てきますが、これよりはるかに古い時代です。

この石器は下仁田自然学校の研究グループが見つけました。金剛萱(こんごうがや)という、下仁田自然史館から近い場所にある標高788mの山の、もう山頂に近い場所にありました。そこには40万年間にわたり降り積もった火山灰の大露頭があり、その意味でも貴重な場所となっています。
自然学校では、今、この火山灰と石器についての紹介の冊子を作成中です。今年中には完成の予定ですので、乞うご期待。「まだ誰も知らない、金剛萱の話」です。

 なお、金剛萱はこの地学講座でも取り上げたことがあります。
                                            
「降り積もった火山灰 1・2」                                                       
http://geoharumi.blogspot.jp/2014/03/blog-post_23.html

http://geoharumi.blogspot.jp/2014/03/blog-post_5965.html


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「縄文時代っていう言葉があったけど、どれくらい古いの?3万年前って、縄文時代と関係ある?」  こんなふうに聞かれたことがあります。
「弥生時代と縄文時代って、どっちが古いんだっけ?」などとも。
昔、学校で習ったことはあるはずですが、生活に関係ない話なので、みんなわからなくなってしまいます。歴史大好きの人は、本当によくご存知ですが・・・
それでも、どれも地面から掘り出されるもの、ロマンを感じさせるもの、ということで、多くの人が、見れば何となくうれしくなったりするわけです。

そんな疑問に、すっきり答える冊子を群馬県でつくっています。
美しい色調のフルカラー68ページで200円! きっと子どもたちの副読本に使えるようにしているのでしょう。
この本、今年4月発行ということで、最近知りました。県庁2階の書籍を扱っているコーナーで買えます。

この本で気に入ったことの一つは、年代と出来事が、群馬・日本・世界と比較対象してならんでいること。これを見れば、いつ古墳ができたのか、縄文時代っていつ頃かなどが、すっと頭に入ります。じつは私、以前から、こういう表を自分でつくろうと思いつつ、きちんとつくったことがありませんでした。        (表は、もっと新しい時代まで書かれてあります)

 


この表だけで、いろいろわかります。
「3万年前って、旧石器時代という時代で、群馬県内では人の登場のいちばん最初の時期らしい」とか、
「紀元前1万年ころ土器が作り始められた」(3万年前には土器はなかった)とか、
「古墳時代は西暦400年とかその少し前後までとか・・などと、すっと頭に入ってきます。
名前だけはよく聞く青森県の三内丸山遺跡は、こんな時代なのだなとかいったことも。

旧石器時代というと、岩宿遺跡がとても有名です。この遺跡は群馬県の遺跡です。表のいちばん左上にあります。
なぜ有名かというと、ここではじめて日本の旧石器がみつかったから。しかも見つけたのが、アマチュアの青年。1946年、敗戦直後の貧しい時代、納豆の行商をしながらコツコツ崖を見続け、それまで「日本には旧石器時代に人はいなかった」と言われていのに、その旧石器人が使っていた石器を見つけたから。その後、旧石器は全国でみつかっています。

岩宿は群馬の東部。西端の下仁田からずっと東方向です。岩宿も3万年ほど前の遺跡ですから、もしかして、金剛萱を訪れた人たちと交流があったかもしれない・・・

岩宿遺跡についての、本の記述をのせてみます。
    (県の「副読本」なので、ここに載せてもかまわないかと思いますので・・)







ところで、群馬県は古墳大国って、ご存知だったでしょうか。解説記事も載っています。おもな古墳の所在地は地図でのせられ、もちろん有名な古墳は解説されています。
                                                  




                                                 遺跡分布図の一部  

        

玉村町では、以前、たくさんの小さな古墳があり
ました。男の子などは、そんな古墳で遊んでいたものです。下の写真のイメージでしょうか。平らな土地でちょっとでも高いところがあると、上りたくなるものです。

穴を掘っていたら、何か出てきた・・などということもあったようです。兄がそんなことを言っていたことがあります。きっと「まずい!」と思ったことでしょう。 
学校には石器や土器のかけらが 箱の中に転がっていたりしました。きっとそんな物を見つけると、学校に持ってきた人がいたのでしょう。


私が中学生の時、これらの古墳を一斉に発掘し、平らにならして、水田の耕地整理が行われました。私の学年では、まる1日、その発掘風景を見て回りました。このとき、学校近くの小さな古墳から、三角縁神獣鏡が出ました。みつかったばかりで、まだ村の集会所に置いてあったのを、専門の方の解説を聞きながらおそるおそる眺めました。
その鏡の写真も、この冊子に載っていました。
大和朝廷との強い絆を示すもので、こんな小さな古墳から出て来るというのが信じられない・・
下の写真が、今はない古墳の姿と、発掘された鏡です。

(下の写真は玉村町発行の資料からです)

 その後、減反政策により、せっかくつくった田んぼにも休耕田がひろがり続け、耕地整理のための資金をはらった農家の人たちには、このお金は重荷となるはめになりました。
 玉村町に2つだけ残った少し大きめの古墳・・・バブルの頃、所有権のすき間を利用して、端を削ってなにやら利用しようとした人がいたりもしました。原状復帰させられましたけど。
 今になると、「小さな古墳を結んだ古墳公園なんてできたらよかったなあ」などと言っていた人もいました。考古学関係の人だったと思うけど・・
4世紀、5世紀につくられ、1500年・1600年間とかいった長きにわたり残っていた小さな高まりの古墳、
他が失われてしまった今、なんとしても残さね
ば・・

ちなみに玉村町関係は他にも載っています。
下は太刀の柄。朝鮮半島でつくられていた物らしい。冠もみつかっています。
芝根小学校建設当時、出土しました。小学校の隣の田んぼでは、冬に麦を育てると、ぼんやりと古墳の模様が浮き上がってくるのがみえるとか。屋上から見おろさないとよくわからないらしくて・・

他に、土器の写真も載っていました。

 これは東山道のコース。7世紀後半、中央と地方を結ぶ道路がつくられ、中央との命令・報告や緊急通信のために使われたといいます。これが玉村町通っていて、浅間山方向へまっすぐのびていました。浅間山を目印にしてつくっていたのではとか、聞いた記憶があります。両側に溝があり、幅が広い!!まるで現在の自動車のよう。広いところは4車線分もあるとか。
発掘していたときそれも見にいって、現代の道路のような姿にびっくりして、あれこれ質問したのですが、何を聞いたかなあ・・ちゃんと書いておくものですね。
草がはえたりするのは、どうしてたの?その他いろいろの管理はどうしたの?車輪のあるものは通ったの?泥でぬかってわだちができたりしないの?周りの溝は何のため?溝はすぐ崩れたりしなかったの?  こんなことは聞いたと思います。

下仁田から続く富岡層群からなる丘陵の東端には、7世紀から8世紀につくられた3つの碑があります。いちばん有名なのが多胡碑。牛伏砂岩でできています。こんな古い碑が3つもあるのもスゴイ。


だんだん話が新しくなってきたので、また下仁田近くにもどってみます。
高速道路建設では、たくさんの遺跡が出てきました。旧石器時代のものもあります。下の図で、みつかった旧石器時代の遺跡の位置をごらん下さい。
八風山(はっぷうさん)は石器の石材のとれる場所です。黒曜石ではないけれど、緻密な安山岩で、石器などにずいぶん使われたようです。黒曜石はもっと西の、長野県にあります。
  図 中村由克さん

下仁田の金剛萱って、旧石器時代の人にとって、どんな場所だったのでしょうか。
こんなことも想像しながら、下仁田に関わった古い時代の人たちのことも想像して見たくなります。
 まさに「古代人の足音」が聞こえてくるかもしれません。





 



  
 




 

2 件のコメント:

  1. 和田 晴美さん,ありがとうございます.愉しく拝見・拝読いたしました.「黒曜石の産出場所は下仁田にはなく、産地の信州とのつながり…」「玉村の古墳…太刀の柄。朝鮮半島でつくられていた物らしい。冠もみつかっています」等々 興味深い内容でした.今後も,体調ご留意くださり,ご活躍ください.

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  2. お読みいただいてありがとうございます。下仁田自然学校はじめ、多くの方々の調べられたことなど、皆さんにお伝えできればと思って書いているところです。お役に立てれば幸いです。
    実際の場所で実際のものを見たりふれたりなさると、とても楽しいものです。それぞれの場で、いろいろご参加ください。

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