2018年11月29日木曜日

忘れない 無言館・俳句弾圧不忘の碑・山本宣記念碑

12月になるというのに、まだイチョウの葉はしっかり木に残っている。
例年なら霜にあたって見る影もないはずの花が、庭できれいに咲いている。

 11月もおわるということで、11月上旬に訪ねた「無言館」を紹介しようかと。
信州上田にある、戦没画学生の遺作を展示した美術館です。1997年開館。
一度行ってみたいと思っていたので、誘われてバス旅行に参加しました。
無言館 建物

紅葉と落ち葉の季節、小高い場所に
静かに立つ建物でした。

前庭には「記憶のパレット」として
これまでに判明した戦没画学生の名前が
石のプレートに刻まれていました。
石はパレットをかたどった形をしています。
刻まれた名前は、収蔵作品のあるなしにかかわらないということでした。


記憶のパレット
 「せめてこの絵の具を使い切ってから行きたい」。外では出征兵士を見送る万歳が聞こえる中、ある若者は両親にこう言ってなかなか絵筆を置こうとしなかった。
「彼らは戦地に旅立つギリギリまで、あと五分、十分、描きたいと願った。本当に絵筆の音が聞こえてきそうです」
  館長の窪島さんの言葉です。
「ほっとけば彼らの絵はこの世から消えてしまう」という言葉に突き動かされて、全国の遺族を訪ねる日々が始まったといいます。美術館を運営していた窪島さんは、「金に困っていましたし、ビジョンも何もなかった。・・中略・・本能的にどうしてもほっとけなかった。」

 館内には絵とともに遺品も展示されています。
私にとっては、学生たちのうまれた年が目にとまります。父は1922年生まれ。みんな、その年の周辺生れなのです。父も農学校を繰り上げ卒業で招集されていました。

 生きていれば、まったく違った時代を知り、友と語り合い、家族を持ち、おいしいものだって食べられたはずでしょう。




ところで窪島さんの実の父は、何と作家の水上勉。それを知ったのはずっと後のことだとか。家が貧しく、2歳の時に養父のもとにあずけられたそうです。空襲で焼け出され、高校卒業後、東京で開いた酒場が高度成長の波で大当たりしたという経歴をお持ちとか。
 それぞれの人生、精いっぱい生きてきたことも感じてしまいます。



バスが動き出してすぐ、道端にある碑が目に留まりました。   「兜太」の文字。
金子兜太揮毫の碑  2018年2月建立

貸し切りバス旅行だったのですが、運転手さんがバスをとめてくれました。

「俳句弾圧不忘の碑」 兜太

この文字が刻まれ、下には
弾圧された俳人の作品17句。
兜太は、もちろん今年98歳で亡くなった金子兜太。
朝日俳壇の選者としてご存知の方も多いでしょう。

 隣には 「檻の俳句館」 という建物があり、檻に入った俳句が展示されていました。
 左下の句は、時々目にする句です。

 戦時中、戦争に批判的な句を作ったことで、多くの人が弾圧されました。
ふと、最近の出来事が頭をよぎりました。
 「梅雨空に 九条守れの女性デモ」 
2014年、埼玉市の公民館で、この句を公民館だよりに載せることを拒否される事件が起きました。この町の俳句教室ではメンバー互選で句を選び、その句をいつも公民館だよりに載せていもらっていたのに。これを詠んだ女性は、裁判に訴えたという事件です。
兜太氏の怒りも伝わってきます。

もう1カ所 「山本宣治 タカクラ・テル 斉藤房雄記念碑」 を訪ねました。
安楽寺という、国宝の八角三重塔のあるお寺の参道脇にありました。


 山本宣治をご存知でしょうか。
戦前、帝国議会で治安維持法改悪反対を追求し、東奔西走の活動の中で、1929年、右翼暴漢によって殺された人です。
生物学を学び、この碑に刻まれた言葉は、ラテン語で「人生は短く科学は長し」という、彼の座右の銘だそうです。まだ40歳だったと知り、あらためて無念の思いを感じました。
人々に慕われ、山宣と呼びならわされてきました。

ここではこの碑を守る地元の方が説明をしてくださいました。
「この碑は世界にひとつしかない石に刻まれている」と言われ、「ん?」

 死後の翌年1930年、山宣追悼の碑建立。農民たちが苦労してお金を集め、土地を確保しての事だという。しかし1933年、取り壊し命令。碑の建設地の地主・斉藤房雄さんは決死の思いで自宅に運び、庭石に見せかけて碑を隠し、「一切砕いて捨てた」との顛末書を提出したという。
戦前に治安維持法に抗してして建設され、当時のまま現代まで残ったこうした碑は、全国でこれしかないそうです。だから、「一つしかない石」。
 この碑は1959年(昭和34年)掘り出され、1971年(昭和46年)再建。その後タカクラ・テル・斉藤房雄の顕彰碑も建てられたとのことです。
 ところで、タカクラ・テルってどんな人? 山宣を上田に呼び、講演会を開いた方です。戦前上田には上田自由大学という、地域の青年たちの起こした文化運動があり、多くの講師を呼んで講座を開いたりという活動も展開していました。開くのは農閑期。こうした農民運動に取り組んだ人で、戦後は国会議員となっています。
 上田にこうした多くの抵抗・追悼の記憶があるのは、こうした人々の遺志を継いでいるから、と思えます。今回説明をしてくださった地元の方にも、感謝です。ぎっしりいっぱいに文字で埋められた山宣の国会答弁会議録など、たくさんの資料も用意してくださっていました。

 碑から長い階段を上ると、山門をくぐり、寺と国宝の塔があります。


境内には開拓団慰霊の碑もありました。
そういえば信州は、満州開拓団に多くの人を送り出した県でもありました。
開拓団慰霊の碑
忘れやすい私たちは、こうした記念を守り続けることも大切でしょう。
歴史をきちんと継承して、歴史に学ばねば。

この旅を準備してくださったのは、駒形・木瀬九条の会でした。ありがとうございました。






1 件のコメント:

  1. 先日、参加しているグループの旅行で広島に行きました。平和記念公園でのガイドさんに説明で、原爆が落とされた後の広島駅に疎開児童が戻った時、家族や親の迎えの無いまま、沢山の子供(それも低学年)が餓死していったそうです。原爆で死に、黒い雨にあたって死に、孤児になった子も死に、戦争は、その全てが残酷で悲しいです。

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