2020年10月28日水曜日

最近、地図を見ましたか?


 最近、地図を見ましたか?
  地図が主役の展示~~ 前橋・高崎地区をメインにして

以前にも、「地図見ましたか」と聞いたような気がする。
 地図?スマホで見ているよーーー そうそう、スマートフォンが広まってから、きっと昔よりたくさんの人が地図を見ているのでは。手もとにあるスマホであれこれのお店情報を見たりしたり。

「宇宙から10mの大きさのものがわかるんだって」とすごいなあと思ったのはいったい、いつだっただろうか。技術の進歩は著しく、カーナビで迷うこともなく出かけられて家に帰れ、そのナビもスマホでまにあうと、変化もめまぐるしい。(老眼になると、スマホのあの小さい画面では、運転中見るのはちょっと無理と思ったり)

 一方で、紙の地図を見ることは減っているでしょう。ましてや、国土地理院発行の地形図など、地図記号を学校で習ってから後、等高線の書いてある地図なんて見たこともない、読み方を知らないという感じでしょうか。

 ですが、今ではちょっとクリックすれば得られる情報が、先人たちの大変な努力と苦労のおかげで獲得されてきた、そんな地図の歴史を、地図を作るのがどんなに大変なことだったか、そんな苦労しても作る価値のあるものだということを、知っていただきたいとも思うのです。


群馬県庁1階ロビーで、地図の展示会が開かれていました。前橋・高崎地域の地図です。

まずは、1/2500の縮尺の写真が床に敷き詰められていて、そこを歩きます。1km が40㎝です。

ついつい、自分の家のあるあたりを探しますね。




川の流れを目安に、場所の見当がつきます。

空を飛ぶ鳥でなくても、上から見下ろした
大地の姿を見られるのですから、うれしいです。



 日本で地図と言えば、伊能忠敬。
その出来栄えの見事さといい、家督を息子に譲って隠居の身になってから新たに天文学を学び、その知識をもって日本中歩いたという生き様は、賞賛以外の何物でもないです。しかも、地図作りの目的は、もともと地図作成ではなく、地球の大きさを知りたい、そのために子午線1度の長さを求めたいという、純粋に学問的、スケールの大きなものだったのですから、驚きです。

 伊能忠敬は海岸を歩いて測量し、日本列島の形を描いたのは知られていますが、内陸にも入っていて、群馬の図もあります。その図と測量日記のコピーなどがありましたが、私がついつい見たのは、毎日の歩いた距離が表になった資料。何と、毎日20㎞前後の距離を歩いている!!記録をとりながらですよ・・夜には天体観測をしながら・・・何人もの人間が参加しながらとはいえ、相当な体力もいるだろう。私なら、1日20㎞歩いたら、次の日はゆっくり休みたい・・・41.1㎞という日もあったけれど、これはいったい、足で歩いたものなのだろうか・・・

 最近の伊能忠敬を取り上げたテレビ番組で、あの時代の歩き方は今と違って、体のねじれがなく負担が少ない・・とのこと。そういったこともこれだけ歩けることに関係しているとか言っていたけれど、それにしてもすごい。


 下図は明治18年(1885年)の2万5千分の1の迅速測量図前橋と高崎です。
迅速って何かと言えば、三角点に基づかない測量で作成したというもの。まだ三角点がきちんと整備できていない時だったけれど、正確さを競うより、とにかく早く地図が欲しかった。明治政府(山形有朋ら)が西南戦争で地図の重要性を痛感したということから作成を急いだとのこと。
 地図はいつも重要な軍事的意味を持ってきたわけです。伊能忠敬作成の地図も、シーボルトが帰国に際しそれを持っていたことからシーボルト事件が起こり、多くの関係者が処罰がされました。

 

 話が飛びますが、ここで思いだすのは、下仁田に残されている原三角点のこと。
じつは下仁田には、明治15年という、とても初期につくられた三角点の原形ともいえるものが残っているのです。

下仁田の原三角点とは、明治15年(1882年)に作られているもの。内務省が全国各地に約50カ所設置したものの一つで、群馬では赤城山頂と下仁田白髪岩山頂に設置されたといわれる。多くはその後1等三角点となり、標識も変わったり動いたりしていて、残っていない。原三角点として発見されていたのは雲取山と米山で、下仁田のものは2000年に発見された。白髪岩は一等三角点には使用されず、忘れ去られていたため、元のままの姿で残っていたというわけ。


使われた石は、下仁田の隣の南牧村産のくぬぎ石です。道もない中これを担ぎ上げたわけです。

<三角点設置の歴史>
   *下仁田の原三角点は明治15年(1882年)内務省の仕事でした

明治16年(1883年)陸軍参謀本部により1等三角点の設置
明治25年(1892年)東京都港区麻布台・当時の東京天文台の三角点を「三角点原点」と定める(明治16年と25年の方位角観測により原点方位角が決定され、これによって全国に整備された三角点の位置が順次決定されていった・・・原点方位角?なんだかわからないけれど、とにかく大変な努力が必要だったことはわかります)

 ちなみに,経度の基準となっているグリニッジ子午線が経度0度と万国測地会議で認められたのが明治17年(1884年)とのこと。世界中で、地図を正確に作るのも、まだまだ曙の時代だったことを感じます。そんな中で日本では三角点(位置の基準)、水準点(標高の基準)といったものが、早くから整備されてきたと、当時こうして三角点や水準点の設置に努力された方々に、あらためて敬意の気持ちを感じます。

他にもいくつもの地図が。1894年、1907年など・・・。1916年(大正5年)のものは陸軍士官学校作成。

目立った市街地があるのが前橋と高崎。鉄道がいかに重要だったかも感じられます。

 1944年アメリカ陸軍地図局作成の前橋市街地マップがあり、1945年の前橋空襲につながっています。1946年から48年の米軍による空中写真も展示。
1964(昭和39年)年から1997年(平成9年)にわたっての2万5千分の一の地形図なども、展示され、都市部の変遷など興味深いものでした。古い地図では地名の変遷も興味の湧くものとなります。

 地図には様々なものがありました。町村編入変遷、バス路線図、治水地形分類図、農地の変化、なかには、伊香保案内図、草津案内などの、温泉地の宣伝図もありました。

 私の育った家はお蚕を飼っていたので、農地の変化に目がとまりました。
変遷が一目で見て取れます。
   緑:水田  うす紫:桑園  黄色:畑  赤:果樹園 




 今ではいろいろなウェブ地図閲覧サービスがあるのに、それを利用するだけでも、どんなにたくさんのことを知ることができるかと思うのに、まるで利用していないなあ・・・
どんなものがあるのか、どうやって閲覧するのかも、定かでない有様。

 でも、もしかしたら、誰かと一緒に見たりしたら、楽に情報にコンタクトできて、楽しんだりできるかもしれないな、などと、虫のいいことを思ったりして。
 さまざまな地図は役に立つ情報の宝庫でしょうが、見て知るだけでも楽しい知識・情報が、あちこちにあるような気がしてきました。


2 件のコメント:

  1. 新しく2万5千分の1の地形図を買ったのはいつだったのか。もうずいぶん前になります。それでも自分史的小説を書いていた時には、調査に使った地形図やフィールドノートに描かれたルートマップを見直したりしてました。学生時代だけなのに5分冊にもなってしまいました。書き終えるのに7年ほどもかかって、それを読んで校正してくれた数人の方には『終わって寂しい』という言葉をもらいました。なかには『出てくる女性に会えなくなるのが寂しい』なんていう感想もありました。なので自分で糸綴じの自分だけの本を自作しました。子供に残す私の本です。書いているときに2万5千分の1の地形図を1万分の1に拡大して使ったなぁとか、着色された地形図が販売されたときには見ずらくなったなぁとか、思い出します。そういえば1週間ばかり前に岩木山とか白神山の周辺を回ってきたときも特に地形図は持っていきませんでしたね。登山のときにもいつも新しく買っていた地形図を買わなくなってしまいました。自動車の走行距離が2500㎞くらいでしたけれど。これって退化でしょうか。便利さは考えることが少なくなって大きなリスクを伴います。ナウマンの調査の時には伊能忠敬の地図しかなかったそうですよ。

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  2. 素敵なコメント、ありがとうござました。だいぶ時間のたった今頃読んでいます。地図の世界も奥深いなあ、と思いつつ、詳しいことはよくわからない私です。身の周りを見るだけでも、楽しいこと、わからないことがあれこれあって、どれもちゃんと詳しくは見てこなかった、ちゃんと知らないということが、今になって少々残念です。ネットの世界の情報のすごさには、もうそれを使うことにもついていけないのですが、生の自然に触れたりする楽しさは、経験しないとわからないですよね。それを伝えることの大切さは思いますね。時間は1日24時間に限られているわけで、その中で少しでも中の自然に触れたいものです。

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