2019年9月26日木曜日

北海道の”香り””

 北海道から
        マツタケ   が届きました

毎年、今頃、トドマツの葉に包まれて、マツタケが届きます。
 北海道で大停電のあった地震の震源近く、鵡川町穂別に住む方が山で採ったものです。


北海道で?? 
そう、採れるんです。
アカマツの林でなく、どうやら北海道に育つトドマツの林の中のようです。探すの大変だろうな。

松茸ご飯、茶わん蒸し、吸い物・・・まだあります。感謝。





思い出を共有するって、なんだかうれしいですね

NHK朝ドラ、アニメ界草分けの女性が主人公。
 この中に十勝の風景が出てきます。

 バターを使ったお菓子屋さんのモデルは十勝が本拠地の六花亭、そのお菓子の包装紙に描かれた素敵な絵を描いたのは酪農家、実在の人物は坂本直之さん。こんなことがすぐに頭に浮かぶのも、なんだか楽しい。
 北海道に住んでいた時、本州に帰るときのお土産には、この包み紙の六花亭のお菓子を買ったものです。ホワイトチョコレートを日本で初めて作ったのがこの六花亭とのこと。「お土産はホワイトチョコレートお願いね」といわれて知りました。六花亭は千秋庵という大きな菓子屋から袂を分かって頑張っていると聞いたこともあります。

 札幌で私が住んでいた場所には、道路を隔ててすぐに、「雪印乳業発祥の地」(雪印バターだったかな?)という、公園のように出入り自由で美しく整備された場所がありました。雪印乳業はバター・チーズの乳製品の歴史あるブランドメーカー、かつて若者たちが寝泊まりしながらバターづくりに挑戦したりといった質実剛健の建物が記念館として保存され、周囲はバラ園などに整備、美しく落ち着いた雰囲気でした。雪印種苗園芸センターもあり、まさにプロの技で手入れされていたわけです。当時雪印乳業はアイスホッケーチームを持ち、その本拠地のスケートリンクがそこあり、一般開放の時間も設けられていました。
歴史ある宇都宮牧場という広々とした場所がすぐ近くにあり、冬になるとそこには明るい雪原が広がりました。人の足跡ひとつない雪の原を歩くと、小さな足跡が点々と続いたり、時折小さな穴がポツンとあったり・・野ネズミだったのでしょうか。当時そこは宅地開発されつつある時でした。
 ところが、雪印乳業は大規模な食中毒事件を起こし、会社存続もできない事態に。現在はメグミルクという社名になっています。あれだけの歴史とブランドを誇っていたものが・・・スケートリンクも廃止、バラ園もなくなりました。花木センターは今でもあるようですから、花壇等は今でもそれなりあるのかもしれません。

 私はその土地を離れていましたが、のちに行ってみると、その一角に、透明ガラスの大きな花瓶に花を飾り、センスのいい雰囲気の六花亭のお店が出来ていました。そのお店は今は、もっと条件の良い、野幌森林公園入口付近に移っているようですが。
 こうして、テレビドラマからいろいろな記憶が湧き出してきました。
たくさんの思い出、経験を積み重ねながら、人は生きている。それを共有する人がいる…これって、財産だよね、などと思ったり。
  そんなどうでもいい他人の経験、聞いたってしょうがない、といわれそうですが。
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 朝ドラに出てくるアニメ「大草原の少女ソラ」からは、すぐに「「大草原の小さな家」が頭に浮かびます。ローラ・インガルス・ワイルダーの本で、アメリカでドラマとして作成され、日本でも何度も再放送され、私も楽しみました。今また、吹替も新たに、放送されています。ローラの本はシリーズがあり、図書館にあるものはすべて読みました。
私のような人は、きっとたくさんいると思います。
 アニメの雰囲気は、かつて放送されたアニメ「アルプスの少女ハイジ」をも思い起こさせます。
「魔法使いサリーかな」というアニメもちらっとあったり、アクション系のアニメは何かな、あまりそういうのは見なかったし…などと。はて、こんな記憶を共有できる人は、どれくらいいるのかな、何歳以上なのかな・・

 主人公のモデルとなった方は、結婚退職や出産退職が当たり前の時代、会社で初めて子供を産み子育てしながら仕事をつづけた人とのこと。高畑勲さんや宮崎駿さんと同じ時代を過ごし、労働条件改善のためにも努力してきた人でもあったようです。
このドラマも、最終回を迎えますね。

 ドラマと自分の人生が重なる所があったりもするのも、同じ歴史を経験したのだと思い、面白いです。年取った証拠でもありますが。でも、そういった記憶の財産って、楽しいですね。
 ほんのちょっとした個人的なことだけれど、でも、そんなことも大切なものだと感じたこの頃です。
  皆さん、身近な場所、身近な人々、個人の体験・経験も、大切にしましょうね。
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ドラマのモデルについては、あちこちに情報があるでしょう。少しは目に留まっていましたが、ふと思いついて、あらためて探してみました。

 時代考証はアニメーターの小田部洋一氏。東映動画(現・東映アニメーション)に入社、主人公なつのモデルは、当時机を並べていて職場結婚した奥山玲子さん。
その後職場を移って作成したアニメ「アルプスの少女ハイジ」「母を訪ねて三千里」のキャラクターデザイン・作画監督。どおりで、”ハイジ”が思い浮かんだわけ。
 十勝の大地も描かれているわけですが、ドラマにでていた菓子箱の絵は、ゆるやかにうねる草原(牧場)、そこに小さく、赤い服の一人の女の子。美瑛の丘・富良野の写真を撮り続けた前田真三さんを思い起こさせました。
あらためて写真集を見てみようか、などと思いました。

日本のアニメが世界で認められてきて、こうしたドラマの構想が生まれたでしょうね。

 

2019年9月16日月曜日

催し物の紹介が、いつも終了の頃になっていて、お恥ずかしい限りですが

中之条ビエンナーレ  町全体が 芸術の町 になる日々・・・1か月の間
                       8月24日から9月23日  もうすぐ終了ですね

  旧太子おおし駅   
終戦末期の1944年、群馬鉄山からの鉄鉱石を運ぶために作られ、
  索道で運ばれた鉱石を、ここから鉄路で運び出しました。1970年、太子線廃線。
 ビエンナーレの作品のキラキラしたリボンが、かつての積み出しの施設を飾ります。











現代アートは私にはなかなかわかりませんが、雷雨の大雨の中若い人たちがカメラを向けていました。




この先に、鉄鉱石を採掘した群馬鉄山がありました。
閉山した今、強酸性の水の中に育つチャツボミゴケの緑一面の広がりが見られる場所として知られています(国指定の天然記念物)。


養蚕の里 赤岩集落

この家の中に アート作品が





1806年建てられたといいます。
蘭学者・高野長英をかくまったとされる部屋があるとか。







旧五反田学校

明治42年(1909年)建築。その後ほとんど改造されずに残されているという。
立派な建物ですね。 この中にアート作品があるというわけ。
 主要道からもはずれ、普通、外部の人は訪れないと思うが、この日、平日の水曜日にもかかわらず、若者、中年と、何組もの人の姿が見られました。
こうしたら、片すみにある宝物にも光が当たるなあ。


ミュゼ  ミュゼって何??
 普通なら、「中之条町民俗資料館」とか名付けそうなのに、
 何やらおしゃれなネーミング。
(観光総合案内所のようなところは、「つむじ」と名付けていました)

蚕農家の道具、その他農具などもたくさんあって、私には何だか懐かしい物でした。




何に使ったか、わかりますか?

母や祖父がこういったものを使っていたのを見ています。

お米、豆・・食べられるようにするには、こういったものを使った作業が必要でした。
本当に手間暇かかったのです。考えてみたら、ほんの少し前の話なんですね。
人の歴史から見たら。

お蚕の道具もあります。さすがに、糸取りや機織はしていませんでしたが、隣の家では
おばさんが機織りもしていました。


 アートからちょっと外れましたね。
中之条町一帯に、こうして47カ所がプロットされていて、土日にはパフォーマンスや参加型のワークショップや様々な体験もあるとのこと。2年に一度開催で7回目といいますから、エネルギーありますね。

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 一昨日、原発ゼロを求めて活動を続ける城南信用金庫(顧問)の吉原毅氏の講演を聞く機会がありました。福島の事故以来、店舗で使う電気を東京電力から買うことをやめ、自然エネルギーの電力会社に切り替えてきた推進を進めてきた信用金庫だ。気骨あるなあ。
その中心を担った人。
 元気の湧く話。「電力切り替えと言っても、どこで買ったらいいか判断がつかないんですが」との質問に、「どこでもいいんですよ。原発推進の東京電力を先ずやめればいいんです。簡単ですよ。紙1枚ですよ」と。
中之条電力の話が出てきて、そういえば、と頭の片隅にあったことを思い出しました。私も質問者と同じことを思っていた・・・
 中之条電力を立ち上げた人は、中之条のエネルギーいっぱいの人の一人なのでしょう。
頑張れ、という気持ちになりますね。




2019年9月15日日曜日

あらためて、日本は自然災害の多い国

ふっと気づくと9月も半ば・・・
 月日の過行くのは・・と、嘆くようになってきたのは、年を取ったということか・・
 昔の人も、光陰矢の如し と言っていましたが、そんな高級な感じではなく、
 日常のあわただしさに追われているだけなのが悲しいですね。
 
台風被害、大変ですね
 成田空港で一夜を明かした人が一万三千人!
 この中に、シンガポールからたまたま日本に来ていた夫の親戚関係の人がいた・・
   情報もわからず、何とかならないのかと電話が来たり・・・
 
停電の続く千葉、大変ですね。
 南房総市に住んでいた同級生だった人がいます。焼き物をやっていて家があったのですが、つい最近引っ越していて・・・あの家、どうなったか・・・聞いたら、まだ見に行ってないとか。でも、その地域では家の壊れた人もいるようです。
 
 昨年の北海道での地震でも、何人もの知人があれこれ大変な思いをしていました。
東北の地震でも、すぐ近くまで津波が来ていたという知人の話。
神戸の地震でも、家が壊れるかと思ったという、お世話になった方の体験・・
 話は古くなるが、私の父は終戦に近い1943年に多くの死者をだした鳥取地震にあったし、群馬では1931年の西埼玉地震での揺れも経験している。戦後のカスリン台風による利根川堤防決壊による水害も経験。
それほど多くの人を知っているわけでもない私でも、こんなにも多くの災害経験者がいるーー日本は自然災害の多い国という人がいましたが、本当に実感します。
  温暖化により気候は苛烈になり、台風も勢力を増している。地震は活動期に・・・
  ひしひしと感じるこの頃です。

ところで、日本の機能をマヒさせるのは簡単なんだ、と思った次第。
電気をとめてしまえばいい。
それには送電網を壊すだけで十分。張り巡らされた送電網はそれほど守りが固いわけでもないでしょうから、簡単に壊せるのでは。
 そういえば、福島原発が津波で壊れた後発表された小説「原発ホワイトアウト」では、吹雪く雪の中、高圧送電線の鉄塔をテロリストが破壊、原発は電源を失い、メルトダウン…といった設定がされていました。作者は霞が関の現職キャリア官僚、もちろん実名は伏せて。
 警備の薄い送電網で電気をダウンさせ、原発の1つでも攻撃されれば、日本は立ち行かなくなるのでは。威勢のいいことを言って日本を守れと言っている方々には、少し頭を冷やしていただきたいものです。

 私が幼いころは、こんなにも電気に頼ってはいない生活でした。
ご飯はかまどで、養蚕に使った桑の枝があるので、それが燃料。ですから薪割はしないですみました。お風呂は麦を刈り取った後に残った麦わらでたきました。風呂焚きは子供の仕事。水は井戸から。携帯やスマホどころか、電話なんて無し。ラジオはあったけれど、テレビは無し。クーラーも。それどころか、洗濯機も、冷蔵庫も。コンビニなんて、あるわけない。車もなし。
 若者からは、どうやって生活していたの、と言われそう。でも、戦中を生きた人たちは、間違いなく、こうした中で生活していました。私が幼いころから、こうしたものが次々と家の中に取り込まれてきました。
 炊飯器の出現は、誰よりも早く起きて働いていた主婦の負担を大きく減らしてくれました。洗濯機はたらいに座り込んでの重労働をなくしてくれ、清潔さを保つことに大きく貢献しました。冷蔵庫は食生活を飛躍的に変え、向上してくれました。
そしてどれも、電気がなければ動いてくれないものなのです。

 オール電化が宣伝されたとき、私にはこれはどうしてもいやでした。生活のすべてが電気に頼りすぎる、何かあった時、何もできなくなる、と。一つのものに頼りすぎるのは危険だと。今、その感覚が正しかったと思う。
 昨年の北海道の地震の時、震源の近くに住んでいる知人が言っていました。
「食料は農家だから何とかなる。燃料は木で間に合う。水は沢からとれる。あとは電気だけだな。自分の所で発電できれば、全部自前で生活できるさ。」

 今便利な生活を送れるのは、誰かがそのために働いてくれているから。そのシステムが壊れたら、あっという間に困ってしまう。ずいぶんもろい基盤の上にいることを、自覚せねばいけませんね。

千葉の方々、暑さ・雨と、本当に大変かと思います。
つくづく「命の綱」と思える電気、早く皆の所に届きますように・・

2019年8月31日土曜日

枕状溶岩・ここで簡単に見られます

枕状溶岩って、見たことありますか
下仁田町・南牧村周辺では、簡単に見られます。

この名前、岩石名ではなくて、岩石の産状についていう言葉です。
枕状溶岩を形づくる岩石は多くはもともと玄武岩質の溶岩でした。水の中に流れ出たため急に冷やされ、ソーセージのような形になって積み重なっていきます。

下仁田では茂垣の枕状溶岩というのが有名ですが、そこまで行くのは結構大変だし、ハンマーで割ってしまう不心得者もいて、行くのはあまりお勧めできません。

南牧村なんもくむらの枕状溶岩
 
下仁田から西へ南牧村へ向かってのメイン道路を行くと、道路右側に医療診療所の建物があります。
南牧村枕状溶岩の紹介と解説
場所は南牧村磐戸だったと思います。
駐車場の奥の角には看板がありました。枕状溶岩はずいぶん以前に町指定の天然記念物に指定されていたようです。

看板に従い道路を下って川まで行けば、
川にかかる橋から枕状溶岩を見下ろせます。川にも降りられます。

長野には南牧村と書いて,「みなみまきむら」と読む場所があります。うっかりすると、そこと間違えることがありますので、ご注意を。





 「なんだかわかりにくいなあ」と思いながら見ていたのですが、写真で見ると,枕というか、ソーセージのような形が、肉眼の時よりはっきり見えてきました。ちょっと、見る目がなかったなあ。




下は、断面のようすですね。

              




ほぼ道端ですから、南牧村を通りかかることがあったら、ちょっと立ち寄ってみませんか。











下仁田青岩公園の枕状溶岩

川原の転石に枕状溶岩が見えるよ、と紹介したことがあります。場所を書きませんでしたので、今回、紹介しましょう。
   以前紹介した写真は、こんなものです。
  

場所は、下仁田駅からすぐ近く。
 

赤丸の所が青岩公園です。



 アクセスマップ①にある小公園の写真と、そこから見た枕状溶岩の写真が下にあります。

あずまやの右、写真中央に看板
橋のわきから,あずまや、トイレのある小さな公園が見える


   


   看板付近から見下ろして  →
   赤の矢印のように見える岩に
   枕状溶岩が見える
   岩は川原に転がってきたものです。
   ずいぶん大きいものです。
                       


少し場所をずらしてみると、もっと見やすくなります。
公園から河原へ下る階段があり、岩まで行けます。
今年の夏は,刈っても刈っても、草があっという間に育ってしまったかもしれません。どこでも草退治で大変でしたから。

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岩石に詳しい人が、下仁田の別の場所で、「あっ、枕状溶岩がある」と。
道から見えたようで、それ程行きにくい場所でもなさそうな。
あとで場所を聞いてみよう。
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この付近の枕状溶岩は古い時代のもので、岩石は緑色がかった石になっていました。変成作用を受けて、緑色の鉱物・緑泥石などができているからです。玄武岩質ですから、もとは黒っぽい石だったはずですよね。

見る目があれば、いろいろ見えてくるものです。たくさんの人が見ていたはずの青岩公園でも、今まで気づかずにいたわけです。
  まだまだいろいろ発見できるかもしれません。



2019年8月27日火曜日

沖縄戦・震える少女は私です

 あらためて、沖縄戦の記憶

 8月ももうすぐ終わり、マスコミでの戦争特集も少なくなってきます。
そんな中、第二次大戦の沖縄戦映像の中でしばしば目にする少女、恐怖に震える少女が誰であったか判明したとのニュースがありました。
あらためて紹介しようかと、思い立ちました。

 きっかけは、歴史関連の雑誌を編集している方にお会いする機会があり、そこで、記録することの意味を語られるのをお聞きしたので。

  記録に残さねば忘れ去られてしまう・・庶民の記録などはなくなってしまう。
    さらに言えば、過ちを忘れれば、人はまた同じ過ちを繰り返す。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・
ふと、沖縄戦についての新しい発見のニュースが頭に浮かびました。

沖縄戦で思い浮かぶ3人の子供の姿、
 ☆ 白旗を持つ少女
 ☆ 焼き場に立つ少年 原爆の落とされた長崎で、息絶えた弟を背負い、血が出るまで
    唇をかみしめ 直立の姿勢で立ち、火葬を待つ少年。
 ☆ 恐怖に震える幼い少女

白旗の少女は、どなたかが判明していて、本にもなりテレビドラマも作られています。
 名乗り出るには長い時間と夫の支えが必要だったといいます。
焼き場に立つ少年は、アメリカから派遣されたカメラマンが自分のカメラで撮影した
 写真を長い間・43年間封印していて、その後公開したもの。
 核兵器反対の思いを込めて。
 ローマ法王がこの写真をカードにし、「戦争が生み出したもの」と書き添えて 
 配布しているという。 少年本人を見つけることはできていません。
震える少女はまだ誰だかわかっていなかったのですが、今年2019年6月23日の琉球新報に
 本人の証言が載ったといいます。生きていらしたのだ。よかった。
 当時7歳。8人の家族で生き残ったのは4人だったといいます。
 8月18日付けのしんぶん赤旗にも載っていましたので、それを紹介します。




2019年8月19日月曜日

博物館も夏にはいろいろな企画 

鳥の埴輪
写真がよくないですが、
実物はキリリとして素敵でした
夏休みも終わりに近づきました
今頃そんなこと言って、何やってるのといわれそうですが、夏休みには博物館も美術館も、その他の場所も、いろいろ企画を立てます。展示も特別展等、あれこれあるのです。
近所にあるものでも、案外知らなかったりしますよね。

私の家は、群馬の森(高崎市綿貫町)からそれほど遠くない場所。そこには県立歴史博物館と県立近代美術館があります。とはいえ、それほどでかけてはいないのですが。
 歴史博物館は、少し前、すっかり模様替えして、今は古墳や埴輪が大きく扱われています。群馬県としても、最近、古墳などを大きく宣伝しています。

今月で終わりになりますが、歴史博物館では
「集まれ!ぐんまのはにわたち 日本一の埴輪県」  
という展示を行っています。
そういえば,はにわの人気投票も行っていたなあ。
        
 

      右下の笑う表情の埴輪が、人気投票第1位。笑顔はみんな大好きなんですね。
                           




「群馬 」というのは、昔、馬がたくさんいたから??  誰もが思う疑問ですが、埴輪にも馬がたくさんいます。
かわいい表情のものも。下のように、破片から再現したものは、「よくまあ」、と思ってしまいます。恐竜など,歯1つからも復元するのですから、それを思えば、できるものなのですね。











ちなみに、上は私の住む町玉村町から出土の馬の埴輪。大きいことで知られています。

県内各市町村別に埴輪が紹介されているコーナーもあります。
自分の住む場所の近くに、こんなのがあったのかななどと知ると、なんだかうれしくなるものです。
東日本初公開、というものもありました。



常設展にも多くの埴輪が展示されています。
どんな人たちが住んでいて、どんな生活を送って、どんなことを考えていたのかと、ふっと思ってしまいます。
常設展示 埴輪がいっぱい

子どものころ、古墳は普通にどこにでもあるものと思っていました。
じつは古墳は近畿圏と北関東に多く、2つの大きな文化圏なのだと聞いて、びっくりしたものです。
耕地整理の折、撤去前に古墳を発掘していた時、三角縁神獣鏡が見つかり、大変貴重な鏡ということで、発掘現場も鏡も見に行ったこともありました。
小学校をあたらしく建てる時、予定地から大きな古墳がでてきて、朝鮮半島とのつながりをしめす刀の柄やら冠が出土したりと、考えててみれば、こうしたものが身近にありました。近畿圏と結ぶ、まるで現在の主要道のような広くまっすぐな道、東山道が出てきたり。浅間山方向に向けて、まっすぐ伸びていました。
 「東国文化」という言葉を、最近あちこちで目にするようになり、群馬の昔にもちょっと心を寄せたくなります。何しろ私たちのご先祖様の話ですから。

個人の思い出を書かれても、迷惑かもしれませんね。でも、地元のことを知るって、結構楽しいものです。
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富岡にある県立自然史博物館では、「同居いきもの図鑑」という企画展をやっています。
何のことかわかりますか?
私が子供のころ、養蚕農家だった藁ぶきの家の天井裏では、ネズミがゴソゴソしていて、時たま猫がとってきて、見せびらかしに来ました。
当時はまだほんの時折ですが時折ノミがでてきて、捕まえてつぶして退治したものです。年末の大掃除の折には、畳の下にDDTをまいたり。これは人にも良くない薬剤とわかって世界中で使用禁止に。その後も同じようなことが繰り返されています。農薬等の薬剤の使用で問題になるとき、DDTを思い出したりしています。
ハエもたくさんいました。今なら、ゴキブリが思い浮かぶでしょうか。
こんな身近なものも展示になるんですね。「へえ~」かもしれませんよ。

 チョウやカブトムシでも触れない子供がいるという昨今、子どもたちがどう思って見るのか、ちょっと想像がつきません。ペットのネコ・犬以外、他の生きものがいなくなった空間が心地よいとしか思わないのも問題でしょう。
  
  
こんなふうに、各場所で、様々な努力の結晶が見られるわけで、たまには訪ねてみるのもいいものと思います。
今回紹介したものは、既に終了間近なのですが。




2019年8月18日日曜日

伊勢崎空襲を語り継ぐ

戦争を戦争を語り継ぐ
 

猛暑の中、8月はテレビで戦争を伝える番組が放送されたり、新聞紙上に取り上げられたり、記録を語る催しが開かれたりもしています。何かご覧になられたでしょうか。

8月になると、思い出したりしたように取り上げる、と揶揄する人もいたりしますが、「忘れてはいけない・戦争はいけない」と、努力されている方々のことを忘れていると思います。
記憶の風化との戦い、とまで言われるのですから。何しろ、日本がアメリカと戦争していたことを知らない若者や、武力で領土を取りもどせなどという国会議員がいたりするのですから。

最後の本土空襲といわれるのが熊谷や伊勢崎などの空襲です。8月14日夜なのですから。一日早く終わっていたら、と語る人がいるのも無理のないわけです。
 伊勢崎の隣町・玉村町もこの日空襲を受け、死者も出ています。20名と聞いています。私の実家の隣家では玄関に焼夷弾が落ちたものの、不発弾で事なきを得たとのこと。
母はよく言っていたものです。「利根川・烏川沿いの町だから、もう戦争は終わる、と、川沿いに爆弾を捨てていったのだろう」。
 玉村での記録を丹念に記録を集めた人もいて、記録冊子を作り、またお墓を調べて、戦死者のリストを作成したりもしました。この方も、つい先日亡くなりました。
 黙っていたら、何もしなかったら、忘れ去られていくだけです。

伊勢崎で8月15日・16日に、戦争を伝える展示が行われていました。11回目。


伊勢崎の死者29名、1350発の焼夷弾が落とされ、火災が広がったといいます。
伊勢崎女子高(現在は男女共学になり、伊勢崎清明高校)の燃え上がる様子を絵に描いたものです。


↑ 大事な書類などの入った金庫を背負い、赤ちゃんを腕に抱いて逃げていた母親。金庫に焼夷弾にが当たり、背負っていた母親は死に、抱いていた赤ちゃんは生き延びました。
金庫はひしゃげているのがよくわかります。

こうした体験者の聞き取りを行い、その体験を紙芝居にして語ってくれます。
左写真は「星になった母」という聞き取りのお話です。
金庫を背負たお母さんのお話です。

この聞き取りをしたかたも、会場にいらしていました。


焼夷弾の実物


   



伊勢崎福祉プラザ1階の近くで、
気軽に立ち寄る雰囲気でした






こうした資料や写真を保存していた方がいて、こうしてそれを広めてくれる人たちがいるわけです。

B29が投下したビラ
















新聞にも体験や催しなどの紹介があります。
その中に伊勢崎にある素敵な形の塔の説明があり、
戦災で焼け焦げた跡がレンガに残っていると始めて知りました。立ち寄ってみました。伊勢崎駅にも近い場所です。
朝日新聞より

 素敵なデザインだな、といつも思っていました。用事のある場所が近くにあったので、何度も前の道を通ったものです。
 1915年に建てられ、レンガ造りに見えるけれど、実は群馬県最古の鉄筋コックリートづくり、レンガ張り。時報鐘楼塔。まだ時計もあまりない頃、皆に時刻を知らせていたのかもしれません。
レンガは確かに黒ずんでいます。これが戦火にさらされた傷跡。当然、上にある木造の部 分は消失。だいぶ後に再建され、取り壊しも言われていたものも、今は永久保存となっています。よかったな、と、つくづく思います。
 建物の後ろは小学校。
小学生たちに、この歴史を、末永く語り教えてほしいものです。

他にも2015年にできた「伊勢崎空襲を語り継ぐ会」主催の平和記念講演会の記事なども掲載されていました。「戦争の記憶、朽ちさせない」、と。市内の景観観光資源を調べてこられた方が、空襲が何らかのかかわりを持っているのを知り、立ち上げたといいます。

皆さんも、こうしたものに参加したり、調べてみたりしてみませんか。
暑い夏、さらに熱い火に焼かれた人々に思いを寄せて。